第Y章   人間の身体と交通事故


 本来、機械と言うものは、これを使う人間の立場に立って造られなければならない。
 機械の信頼性、機械の使い易さとか、更には親しみの持てる人間臭い機械でなければならない。
 処が機械がどんどん進歩して先に行き人間の手の届かないところまで行ってしまうと人間が非常に惨めになってくる。
 人間が機械の患者になっているような感じがする。
 そういう意味では今日の高性能自動車はある面ではややもすると、機械の為の機械(自動車の為の自動車)という気がしないでもない。
 従って、今日の自動車交通事故の増加要因の一部には人間の立場を忘れた自動車の在り方が関わっているのではないかと思うのである。


                 近代化・スピードアップ・いらいら:  

 意識・無意識を問わず、現代は時間との競争を強いられているようだ。  
 すでに今世紀始めにフランスの社会心理学者タルドは、「歩行速度と会話速度とは相関し、そのいずれもが、社会の文明化(近代化)に応じて、スピ−ドアップしてくる」との仮設を立てている。  
 ある時計メ−カ−が数年前に、日常生活でどの程度待つことに耐えられるかを調べたことがある。    
 それによると、遅れた電車を待つ場合には、10分で半数の人が、15分で八割りがイライラしてくる。  
 またエレベ−タ−や信号待ちでは半数が30秒を耐え切れず、同様にス−パ−のレジの前では1分が忍耐の限度だという。  

 人の歩行について別の研究では、通勤時に見られるように人に追い付き追い抜く際追い付いてから暫くは前の人に追従するが数秒後には速度を上げ追い越していく。  
 追い越された人も これが刺激となって歩行速度を上げ、2人の間の速度差が毎秒20cm以上になった時は、同調も反発も起こらない、と云うことである。  

 「自動車ドライバ−の追い越しの心理状態に何か似たものを感ずる。」  

                 要注意の「タイプA」型人間:

  いわゆる「タイプA」(血液型のA型とは全く無関係)の人が冠動脈閉塞を起こし易いことをM・フリードマンとR・M・ローゼンが1957年に発表した。
 ある大会社で、心臓発作を起こした人を調べてみると、共通した性格特徴を持っていることが分かったので、それをタイプA性格と名付け、それ以外の人達の性格特徴をタイプBと呼んだのである。

 「タイプA」の人が心臓発作を起こしやすいことを見つけたのは、実はフリードマンではなく、フリードマンの処へ来た椅子張り職人であった。心臓病外来診察室に置いてある患者用の腰掛けを見ると、いずれも腰掛けの前縁、つまり膝の後ろあたりが擦り切れていたのである。この患者達は、ゆったりと深く腰掛けることをしなかったのだ。
 「先生の患者さんは、どうしてみんなせっかちなんでしょうねえ」と訊いた職人の一言がヒントになったのである。
  この自製ストレスとは、分かりやすく云えば「急ぎ病」なのである。
 Aタイプの人はいつもセカセカとし、いつも焦っている。
 
 例えば、千から17ずつ数を引く計算を5分間繰り返させると、スピードはタイプA・B変わらないが、Aの人では、副腎のホルモン(コーチゾン)が40倍、筋肉の血流量が3倍、血中アドレナリン量が4倍に増えている。つまり、大変なストレス反応が引き起こされているのだ。

 此処でタイプAの人の特徴を見ると、
 @ 急げ病
   適応性や創造性を無視して、能率だけに拘り、無闇に締め切り時間を設ける。 その頑なな、柔軟性の無さは新しい問題を解決する   さいに不利となる。
 A 点数至上主義
   学業、スポーツ、仕事、ガールフレンドの数など、何でも高得点ばかり狙っている。
 B 一流指向
    何でも一番にならないと気が済まない。
 C 上昇指向
    同僚よりも上役に気に入られようとする。スーパースターになりたがる。
 D 敵愾心と攻撃性
   競争心が強く、例え冗談を云うにしても、自分を嘲ったりしないで、他人を傷つけるような形になってしまう。    


             自分がタイプAであるかどうかを見分けるポイント:  
  
   1. 話し方がとげとげしく攻撃的で、文が短い。  
   2. 直ぐに退屈になり、会話を聞いているふりをするだけで実はうんざりしている。  
   3. 他人の話しをじっと聞いて居れず、間に口をはさみ、酷い場合には、他人の結論を代わりに先走って喋ってしまう。  
   4. 早めし、早口、早歩き。  
   5. 同時多動作、食事しながら髭を剃って、同時に新聞を読む  
   6. 自己中心性、自分に関する話題にしか興味が無い。  
   7. のんびりするのを罪悪だと思っている。  
   8. 観察していられない。部屋の模様や相手のドレスなどを覚えていない。メガネや万年筆、鍵などを始終無くする。  
   9. 存在することよりも所有することに熱心である。    
  10.他人のタイプAの人に対して競争心を燃やす。  
  11.断定的、緊張が強く、前かがみ、背や背中が椅子の背もたれに寄りかかる事が少ない。  
  12.早くやれば成功すると信じている。
  13.点数信仰、スポーツでもゲームでも仕事でも、高得点を取ることに拘る。
  このうち、あなたは幾つ当てはまる項目を持っていただろうか。半分もあれば、あなたはタイプAなのだ。    


                反応が早いこと、遅いこと:    

 (少し学問的になるが、何となく分かって貰えればそれで結構)  
 たとえば、自動車の運転中、目の前に人が歩いているのを見つけ、それを除けようとして、手でハンドルルをまわす。  
 この時特定の光刺激(この場合は人)が網膜に映ってから手の筋肉を働かすわけだから、この運動は随意運動であって反射程早くおこなわれない。  
 刺激があって随意運動の開始までに要する時間が反射時間であるが、どれ位の時間がかかるものだろうか、ここでは反射時間について考察する。  
 普通の大人では光刺激があって手を動かすまで0.2−0.3秒かかる。  
 この反応時間はある程度練習すると短くなるが、0.18秒よりはいくら練習しても短くはならない。
 網膜から大脳視覚野まで神経パルスが送られ、運動野の手の錘体路ニュ−ロンが働いて手の筋の収縮になるのであるが、網膜から視覚野まで0.01秒、運動野から手の運動まで0.08秒かかるので、残りの0.09秒が、視覚野から運動野までに費やされていることになる。  この間には50個以上のニュ−ロンを経由している。  
 
 この反応時間はいろんな要因で変動する。刺激が一種類の場合は、単純反応時間の課題と呼ばれ、二種類以上の刺激があり、反応も二種以上ある時は選択反応時間の課題と呼ばれる。刺激が二つになると、反応時間は0.3秒ぐらいになり、単純反応時間の課題より長くなる。  
 どちらの刺激かを判断し運動を選択するために、高次視覚系、前頭前野で費やされる時間が余計にかかる。横断道路にある信号の赤で止まり、青で進むのは選択反応である。 選択すべき刺激の数が増える程、反応時間が長くなるが長くなるのは選択数が5個ぐらいまでで、それ以上増えても長くならないで一定になる。  
 光刺激が単純な物体ではなく、複雑な図形、例えば人間の顔や左とか右とかの文字であると、反応時間は長くなる傾向があり、0.6−1秒にもなる。  
 読んで理解するための時間がかかるからである。  
 反応時間を早くするためには、交通標識は文字より具体的な図形(例えば矢印)に変える方がよいということになる。
  (このことは第U章においても説明した)  
 
 同じ光刺激でも、刺激の物理的な強さが強い程反応時間は短くなる。  
 明るい光刺激程早く反応出来る。  
 また網膜の何処に光刺激が当たるかでも違っており、視野の中心に刺激が来るときが一番短く、中心から光点が遠ざかるにつれ、反応時間は長くなる。
  また光が視野の上方にくる方が、下方にくるときよりも少し早いし、視野の鼻側部にくる方が側頭部にくるときよりも少し早い。  
 また反応時間は厳密に測ると左手と右手で少し(0.01秒)違うが、普通の単純な反応では左右差は無視出来るぐらいにわずかである。  
 光刺激の強さだけではなく、刺激の面積を広くしても反応時間は短くなる。また片眼で見るより両眼で見た方が反応時間は短くなる。  

 感覚の種類によっても反応時間が違っている。  
 光刺激の最短の反応時間は0.18秒であるが、音や触覚ではそれよりも0.04秒も短くなる。  電気刺激を手か顔の皮膚に与えると反応時間は短く0.13秒である。  
 音の刺激の方が光刺激よりも反応が早いので、陸上競技では音刺激が使われるのである。  
 感覚の種類によって反応時間の違うのは、神経パルスの伝導路が違っているからである。  
 光、音、触の刺激が主観的にやっと感じる程度の閾値刺激であると、反応時間は長く0.33秒であって、刺激の種類によって違わない。痛みを刺激にすると反応時間は0.8−0.9秒になり、より時間がかかる。  
 嗅は0.25−0.4秒で中程度の時間がかかる。  
 
 反応時間には、運動の準備状態が大きく影響している。  
 準備期間を一定にすると0.5−2.0あたりで反応時間が極小になってくる。  
 「用意」があって「ドン」が鳴ってスタ−トすると反応時間が短くなるということである。  
 この用意のときに、運動出力系は準備状態に入っており、このことが発生する力にも影響してくる。  
 反応時間は、年齢によっても違っている。  
 出生から19才頃までは、だんだんと直線的に短くなっていく。20−30才で最短状態となり、以後年をとるにつれてだんだんと長くなっていく。      
 10才で0.27秒、20才で0.2秒、20−30才で0.18秒、40−50才で0.2秒、60才0.3秒、80才で0.36秒となる。  
 女性は男性よりも10−15%程長くなる。  
 老化とともに延長するのは、一般的な神経系の老化のためである。  
 運動のスピ−ドと年齢の関係も反応時間の関係と似ており、20才頃にスピ−ドが一番早くなる。  
 現代人の手が不器用になり、手の力が弱くなっているのは、手が作り出した機械のせいである。    
 (パチンコでも手を使わない機械になった。)    

                      脳と心の関係:   

 神経心理学  
 病気が脳を冒す、と云うことは心臓や肝臓等他の臓器とは決定的に違う症状を表すことになる。  
 つまり、心臓や肝臓の病気では身体的な症状が出現するだけだが、脳の病気では身体的な症状の他に、心の働きにもある一定の変化(心理症状)を生じる。  
 脳は身体的な意味で、他の臓器と同じ器官であるとともに、心の座でもあるため、身体と心理という二つの性質の異なる症状を合わせ持つことになるわけである。  
 脳損傷時に表れる心理症状は決して画一的なものではない。破壊される部位が違うと症状は大きく違ってくる。又破壊される脳実質の量によっても症状は違ってくる。  
 さらに厄介なことに、同じ部位が同じ量だけ破壊されていても、必ずしも同じ症状が出現するとは限らない。個人差があるのである。   このような、脳損傷が引きおこす多様な心理症状を脳損傷の部位や量と対応させて心と脳の関係を探って行こうとする研究領域を神経心理学と呼んでいる。             

                     人は複数の心を持つ:  

 心は我々が知覚する外界の対象、例えば石や木のように手に持ったり、手で触ったり出来るものではない。厳然と存在する現象であり乍ら、決して掴まえて「これが心です」と展示出来るものではない。自分が体験する以外に確認のしようがないものである。 「我思う。故に我あり」である。その意味で心の世界は通常の科学的な方法が通用しない独特な世界である。  
 しかし、意識によって自分の存在を知っている。  

 複数の心の同時並列的な関係  
 常識的には「意識されている」心と、「意識されていない」心とは互いに階層的な関係にあると考えられる。  
 つまり、「意識されていないもの」は「意識されているもの」より低いレベルにある、と云うことである。  
 表層である意識されているものの下層に意識されていない膨大な活動が隠されている、と考えられるのである。   
 精神分析で云う「無意識」と言う概念はこのような考え方である。  

 多重人格と云う現象が古くから知られている。  

 意識が心の一つを選びとる。  
 心は複数活動し、「意識」はその心のどれか一つを選びとって、肉体と連絡するのであろうと云うことである。  
 意識と心は必ずしも常に一体のものとして理解する必要はないのである。  
 ナチスの殺人者が同時に高尚な音楽や絵画の愛好家であったり、恐るべき虐殺者が、一方では極めて人間的な顔を持っていたりする、人間行動の不可解さ。  
 全く違う別の心が意識を媒介に姿を現し、肉体を駆り立てるのかも知れないのである。         

                気付かないうちに知っている?              

 閾値下知覚   

 毎日の生活を営む上で、私たちは、いろいろな情報を必要としている。  
 本を探したり、人に話を聞いたりして、その情報を得ようとしている。  
 しかし、いつも、必要と考える情報に基づいてのみ行動しているとは云えない。ある場合には、私たちは、自分自身では気付かずに情報を取り入れており、しかも私たちの行動は、その情報に影響されているということもあり得る。  
 バーン(心理学者)は、映画を上映中、その画面に、二百分の一秒という短い時間、「牛肉」という文字を7秒毎に重ねて提示した。    映画を見ていた被験者は、それに気付かなかった(被験者の気付かないような強さの刺激を閾値下刺激といい、そのような刺激を受け取ることを閾値下知覚という)。   
 上映後、被験者は、空腹の程度を自己評価してから、各種のサンドイッチの中からどれかを選ぶように云われた。その結果、「牛肉」という文字を重ね合わせて映画を見た被験者達の空腹の自己評価は、重ね合わせて見なかった被験者達よりも高かった。  
 外に電気的刺激に関する実験においても閾値下知覚のあることが証明された。  
 私たちの、気付かないような刺激であっても、私たちの脳は、それを受け取って、反応することを示唆している。  
 この閾値下知覚というテーマは、フロイト(精神病理学者)の云う無意識の存在に関わるものであり、多くの関心を集めてきた。  
 私たちは、多くの信号・歩行者・対向車などと共に無意識的に数々の光刺激を受けて自動車を運転している。  
 気がつかない中に閾値下知覚を受けているのだ。もし夢の中で見たことのない光景、見たことのない人が出てきたらそれは閾値下知覚かも知れない。

              心は選択的で、かつ恣意的である:  

 吉川幸次郎氏(中国文学者・京大名誉教授)は外国の知人を案内して京都の町を歩いていた。その時その外国人が京都の町は電柱が多くて景観を害している、と述べた。それに対して吉川氏は「いや電柱は見ていませんから、構わないのです」と返事をしたと云うことである。     
 我々の心は不都合なことは省略出来ると云うのである。  
 現実に、そこに見えている筈のもので、心の中では省いてしまっていることは結構多いと云う。  
 電柱に注意を取られるから、電柱が気になるので、電柱があるのが当然となってしまえば、電柱は心の風景から省かれてしまう。  
 心は鏡のように周囲を写すものではなくて、自分の間尺に合わせて周囲を切り取っているのである。ときには空間の一方への注意が完全に省略されたりすることすら起こりうるのである。               


                注意と範囲 
                   
               知覚の範囲とも云われる。
               多くの対象を視覚的に同時に提示した場合、一目見て把握
               (知覚)出きる対象の数の事を云う。
               不規則に点を配列した刺激図形を瞬間視させる条件で8個
               前後が注意の範囲であるが、対象配列の仕方や刺激提示
               条件などにより異なるといわれる。





          見える・見えない:   意識することである(判断する)  

 知覚の世界  
 知覚の背景−−−「注意」ということ  
 我々はいつも何気なく様々なものを見たり、聞いたり、触ったり、味わったりして生きている。そしてそのことに何の不思議も感じない。しかし、一歩立ち止まって何故そのようなことが可能なのかを考え始めると、たちまちその不思議さに圧倒されてしまう。 このような知覚を可能にしている背景の神経活動は、言葉の場合もそうであるが、まことに複雑である。  

 正確な知覚には注意機能が必要  
 注意機能にはいくつかの構成要素が認められる。まず、「選択性」と「持続性」である。  
 数多い外界の刺激の中から、その時々に主体にとって最も大切な刺激を拾い上げ(選択性)、その刺激に注意を固定し、その刺激の性状を分析して意味が明らかになるまでは注意を持続し、集中する(持続性)。
 見えると云うことは、対象物を選択し、注意が持続することである。 選択と注意の持続がないと網膜に映っているが見ていないということである。 見通しの良い道路での事故はこのことを意味している。  

            運動視差 

             同じような対象が同じような速度で動いていれば、遠くにある対象
             の方が網膜上で動く速度はのろくなるはずである。
             こうした動きから距離感を知る事ができる。
             自分が動きながら遠方に目を向けている場合には、遠くにあるもの
             は同じ方向に動く。
             中間の距離に目を向けながら動いた場合は、その距離より近くに
             あるものは、私たちの動きと逆方向に動き、遠方のものは同じ方向
             に動く。



                        注意の範囲:                    

 見誤り:   
 一体いかなる場合に見誤りが多くなるであろうか。
 例えば、見られるものが余りにも小さかったり、遠方にあったり、霞んでいたりする場合には、見誤りが多くなることは、我々の良く知っているところである。
 すなわち、見誤りは外界から来る刺激の弱いときに起こるといえる。
 しかし、知覚を単に外界の刺激だけから考えることは正しくない、内部刺激も深く関わってくる。。
 すなわち、知覚は認識し易い簡潔な形や認識し易い鮮明な色彩をであることである。
 例えば、十分明るい照明の下に一定の図形を見るならば、たとえ、その刺激図形が不規則で複雑な形をしていても、そのような形として十分はっきり知覚される。しかし、外部照明が充分でなければ、複雑な形状の刺激は知覚され難い。
 また、外部照明が多少弱くても、図形が簡潔なもので色彩も鮮明なものであれば可成りの程度に知覚できる。
  従って、見誤りは決して偶然にでたらめに現れるものではなく、つねに外部力と簡潔化の方向において現れるのである。  

 行動と環境    
 人の行動は環境によって決まる。路傍に美しい花を見て立ち止まり、飛行機の爆音を聞いて空を仰ぎ見る。このように、環境は常に一定の行動を招く。だから、環境が同じければ誰もが同じ行動をとると思われていた。  
 ところが、行動は体験と学習で異なる、環境が同じでも行動は必ずしも同じではないと云うことが分かった。  
 交通事故に合い難い人と合い易い人とがある。通り過ぎる車を見る目は人によって異なる。何気なく車を見ている目と、疑い深く見ている目がある。その目は経験と学習によって変わる。  
 その目はドライバーであるし、歩行者でもある。  
 今日のこの交通煩雑な社会においては、今や自ら自分を守らなければならない羽目になっている。。人が守ってくれると思っていては遅いのである。  
 ドライバーも歩行者も、通り過ぎる車を常に疑い深く見て、その車がどんな行動をとろうとしているのかを推し量って、自己防衛しなければならない。  体験と学習によって得られる賢いドライバー・賢い歩行者でなければ生き延びられない時代になってきた。  
 このことについて、ある心理学者の実験が参考になる。  
 天井からバナナを下げた檻の中に木箱が隅に置いてある。ここにチンパンジーを入れた。一匹のチンパンジーは直ぐに木箱をバナナの下に運び、それを台にしてバナナを取った。もう一匹のサルは何回も飛び上がってもバナナに届かないのでとうとう疲れて箱に腰を掛けて休んでしまった。  
 同じ環境でも違った目で見て、違った行動をとることが分かった。  賢いチンパンジーは体験と学習によって育てられた。    

           運動残像 
           
           一定方向に移動する縞模様、あるいは回転渦巻き模様を暫く
           見詰めた後で、静止対象に目を向けると、逆向きに動く残像
           を見ることが出きる。
           滝を見つめた後に付近の岩を見ると、運動残像が観察される
           ので滝の錯覚と呼ぶ事がある。
           この効果は、単眼で移動体を観察後に他眼で認める事ができ、
           両眼別個に相反する方向に進む移動体を観察する時には残像
           の闘争が起こる。
           移動体凝視時間の増加に比例して残像持続時間も増す。
           長時間運転で目が疲れ、残像の闘争が起こったらどう云うことに
           になるか。




  心は知覚対象を変換しようとする強い傾向をもつ
 
 心は対象の形をありのままの形として捉えず、対象を換えようとする傾向があるという。
 云い換えれば形を形そのままと見ず、何か別のものの現れと見ようとする。
 そこに何かの象徴を読みとろうとすると云うのだ。
 荒れる海に龍を見、昇る太陽に神を見る。
 現象の中に何らかの人間的意味を読みとろうとするのである。
 このような傾向は原始人の心性であって現代人のものではない、と考える方があるかも知れないが、森羅万象に人間的な解釈を適用しようとする心の動きは原始人も現代人も変るものではない。
  いろいろな現象に別の現象の徴候を見るのは人間の変ることのない本姓である。
 人を見るときもそうである。相手を等身大のそのままの存在として見ることは我々のもっとも苦手なことである。
 逆に相手を分類し、ラベルを貼るのは我々の得意なことの一つである。
  つまり、自分の尺度に合わせて、相手を解釈し、記号化してしまう。
 相手を怖いと思えば大きく見る。弱いと思えば小さく見る。

 自動車に関しては、
  対向車を大きく見たり、小さく見たり、また速く見たり、遅く見たりする。
  歩行者についても同じである。
 自分のその時その時の心の状態によって変るのである。
 幽霊が、UFOが、どのように見えようとその時々の人間の心の尺度による。  


            自動運動 

            暗室内で静止光点を凝視していると、光点が様々な方向へ
            動き出して見える。
            この運動について、発生までの潜時・センプク時間(5−30秒)、
            移動範囲(視覚20―30°)、速度(2°―20°/秒))で
            報告されている。
            この値は、刺激条件、個人差によって大きく変動する。
            目をいずれかの方向に向けておいてから光点を凝視すると、
            逆方向への自動運動が生じる。(錯視)




 
 
ヴィジランス(覚醒)(Vigilance)

  いわゆる「寝ぼけ」は別に起床時のみに生ずるのではなく、長時間無反応を強制されたり、単調な作業をさせられたりすると、良品同様に眼前を流れてゆく不良品や、信号機の異常を見逃してしまいやすい。
 これは感覚系(目や耳など)が機能しているにもかかわらず、脳髄が半睡眠状態(静止)に陥ったためである。
 工場の自動化が進むと、滅多に生ずることのない異常を検出する業務(計器監視など)が増加するが、このような場面で注意を維持し続けることをヴィジランスという。
 (注射薬のアンプルの異物を検査する作業、ハイウエー上における長時間運転もこれに似ている。)
 最近その遂行の良否(本当の信号は検出し、紛らわしくても本当でないものは見逃す)を左右する条件の実験的解析が盛んに行われている。
 皮肉なことに、滅多に出現しないもの(たとえば、ニセ札や替玉受験)、不規則的(ランダム)に出るものほど、見逃されやすい。
 交通量の少ない深夜の死亡事故が多い理由には、ヴィジランスの理論が関係あるかも知れない。
 (原子力発電所の計器監視の作業もしかり。)
 講義を聞いていて、面白くない話だと目が開いているが脳の中が半分眠っている。 諸君達の中に、いまヴィジランス状態にあるものが少なからずある。
 この時間にヴィジランス状態であっても、せいぜい試験に落第するだけだが、運転中にヴィジランス状態では、そのままあの世に直行と云う訳だ。    


         事故多発者 (accident prone person)
              
         技術的に未熟な場合。
         性格的に問題がある場合。
         情緒が不安定な場合。

         事故の原因は完全に確率的でなく、少数の特定者が回数を稼ぐ
         という考え方があり、そのような人物を検出する特性検査も企て
         られている。
         典型的な特性は、目前の快楽を求め、衝動的な行動をし、冒険
         を好む。
         また、家庭のしつけが厳格で権威に反感を持つようになり、その
         ことに罪悪感を感じ、事故を起こし、自ら傷付くことによってその罪
         の償いをすると云う無意識的葛藤の処理もある。





 暗順応 

  明るさの変化に対する視覚の順応機制の一つである。
 周囲の明るさが変化すると、最初はものが見え難いが、時間が経つにつれて見え易くなってゆく。  
 明るい所から暗い所へ移行したときのこの働きを暗順応、暗い所から明るい所へ移行したときの働きを明順応という。
 通常、昼間の明るさから暗闇に入ったとき、最終の順応段階に達する時間は30ー40分かかり、明るさの変化が大きいほど順応に要する時間は長い。
 トンネルに出入りして走る道路の走行には、ドライバーの目の暗順応、明順応が関わってくる。
 高速道路のトンネルでは、入り口を入ってから直ぐのところは、照明が沢山並んでいるが、しだいに間隔が空いていって、出口付近ではまばらになる。
 我々の目の暗順応の性質をを考えに入れた照明をしているのである。     


 人間をどう見るかで、世の中は変る
 人は自分をどんな存在と考えるかによって、その行いが変ってくるし、他の者についても、それをどんな存在と見るかによって、求めるところが違ってくる。
 これは殆ど自明のことといって良いだろう。
 そしてこのことは、人間の社会や政治の歴史の中にも、はっきり見て取ることが出来る。 人間を「神の子」と見るか、「生産の道具」と見るか、「運動する動物」と見るか、   
 あるいは「霊長類の一種」と見るかによって、社会や政治のあり方は著しく変ってくるのである。  
 このことは昨今のオウムの事件に良く見ることが出来る。自分の考える存在によって、社会が理解できない行為を取っている。   
 自分は運転が上手いのだと思いこんでいるのと、未熟だと思いこんでいるのでは運転は変わってくる。 
 出来ることならば、常に自分はまだまだ未熟なのだと戒めながら運転をしていた方が安全運転に繋がると思う。


          見かけの速さ  

         見かけの速さは、運動の起こる場面および運動する物体の大きさや、
        形や方向によって決まる。
         すなわち、実験によると、客観的な速さが等しい場合小さいものは
        大きなものより速く見え、明るい場面においては、暗い場面における
        よりも運動が遅く見える。
         又線が運動の方向に向けられてゐるものは、運動の方向に対して
        直角になっている線より速く見える。
         その他に、太い線は細い線よりは遅く、図形性が顕著なほど運動
        性が小となることなどが実験的に証明されている。




 心は欠損を補完する傾向を持つ
 心はないものをないと認めることには弱く、むしろないところを勝手に補ってしまう傾向を持っている。
 イギリスの心理学者ワリントンらは、視野の一側に限って視力障害を持つ患者(同名性半盲と呼ぶ)の健常視野に半円を見せると、半円と見ず、完全な円に見てしまう現象を報告している。 語の字のごとく意味のあるものでさえ、その半分だけを見せて残りの半分を勝手に補い、まとまった単語として読んでしまうこともある。
 大脳半球離断の患者でも、半分を見てそれを全体と見てしまうことが知られている。
 作話(作り話)という症状も類似の現象である。自分の経験にないことをないと認識できず、行き当たりばったりの言葉で欠損部分を補ってしまうのである。
 客観的にはどう検査しても視覚は皆無であるのに、見えている、と頑固に主張する場合もある。
 下肢を切断してしまったのに、いつまでも足があるかのような体験が続くこともある。 物としての足はなくなっているが、心にはなお足が存在している。
 心がないものを補ってしまうのである。
 我々にとって、知らないものを知らないと認め、分らないものを分らないと自覚するのは中々に困難なのである。

 自動車の運転能力や自分の体力を正直に自覚するのは中々困難なようである。 そこのところが交通事故に繋がることになる。    



                    脳傷害後遺症:

 病的脳傷害と共に交通事故による脳傷害の後遺症に悩む患者の増加が顕著であると云われる。   

 脳損傷に共通に見られる特異的な症状   

  注意障害      
     ◎ 注意障害の臨床像は次のような特徴を持つ。     
        首尾一貫性, 記憶錯誤, エラ−の追加, 周辺刺激への無関心  書字障害   

  精神反応遅延   機能変動   保続 

  作話反応   
      1.記憶障害時の作話   
      2.限定した領域に生じる作話
                            など。  


                  視覚保続・視覚反復:  


 今見た対象のイメ−ジがその対象が眼前から無くなった後も、なお生き生き出現して来るのである。つまり、視覚刺激を取り去った後もなお、その視覚刺激が引きおこした視覚像が出現して来る。視覚保続と云われる。  

 対象が消えても眼前にありありと再現する  

 アメリカ、ピッツバ−グのミッシエルらが報告している文献による。  
 71才の女性  
 「人を見ると、どの顔もさっき見た顔に見えた」「バナナの皮をむいた。暫くして壁を見たら、壁の上にその皮をむいたバナナがいくつもいくつも見えた」  

 68才の女性  
 「朝食の後で、さっき食べた食器や料理が宙に浮いているのが見えた。像は鮮明で手を伸ばせば掴めそうだった」  

 60才の女性  
 「何か見た後で、眼を転ずると、そのイメ−ジが多数、視線の方向に配列して見えた。例えば、駐車場の車に眼をやった後、自分のベッドに眼を移すと、駐車場から枕元まで、自動車が続いているのが見えた。  

 すなわち、実際の視覚刺激は無くなってしまっているのに、その視覚イメ−ジだけがありありと眼前に再現して来るのである。しかも、ただ再現して来るのではなく、一つだったイメ−ジが二つ以上に複製されて再現して来ることが多い。

           
           

             図ー46 視覚反復            図ー47 視覚反復           


               神経活動の過程を「見て」いる:  

 我々はものを見るとき、全く無条件に対象そのものをありのままに見ていると信じている。見ているものは現時点で見えているそのもの一つだと信じている。  
 しかし、決してそうではない、我々は対象そのものを見ているのではなく、我々の大脳の神経活動の過程を「見て」いるのである。  
 それは丁度映画のフィルムを見ているようなものである。  
 だから、病的状態に陥って神経過程が異状に興奮したり、興奮過程を反復するような事態が発生すると、たちまちわれわれは一つのものだけではなくいろいろのものを「見る」はめになる。  
 つまり、いったん見た筈のものが又見えたり、一つだった筈のものが多数見えて来たりすることになるのである。      

      

            図ー48 描写テスト             図ー49 線分抹消テスト      

                        図ー50 主観的輪郭           


            

                      図ー51 ヘリングの錯視



              カーブは心臓と利き手に左右される:

 自動車を運転していて、左にカーブするのと右にカーブするのとでは気持ちの上で確かに相違があると云われている。。  
 それは、左にカーブするのに比べて、右にカーブする時はいくらかの不安感を覚える、と云うのである。  
 そしてその原因は身体の中の心臓にあるという。  
 それは、左カーブの時は心臓を守るように内側にして回るので安心感が持たれる。  
 ところが、右カーブでは心臓は外側に位置し、更にカーブの時の遠心力で心臓が外に放り出されるような不安感を覚えると云うのである。
 人間は本能的に、いつでも先ず心臓を守りたいという意識が先に立つのである。
 処で、このことは遊園地に於ける遊技機の中に見ることが出来ると云う。
 即ち小さな子供達の乗るメリーゴーランドは、ゆっくりと安心して楽しめるように作られている。そのためメリーゴーランドは多くは左回りであると云う。
  一方、不安とスリルを味わって楽しみたいと云うジェットコースターは多くは右回りに作られていると云うのである。その方が左回りよりも一層スリルを覚えさすと云うのである。  

 もう一つ、カーブは利き手のいかんに左右されるかも知れない。
 左カーブの場合、左手は身体に接して動作するが、右手は身体を離れて動作する。
 逆に右カーブの場合は、右手は身体に接して動作するが、左手は身体を離れて動作することになる。
 身体を離れて動作するには力のある利き手の方が安心感を持てるが、利き手でない方が身体を離れて動作しようとする時はどうしても力が入り難く、しかも幾らか不安感がある。
 従って、どうしても多くの右利きの人には左カーブには安心感を持ち、右カーブには幾らか不安感を持つことになる訳である。
  してみると、左利きの人ではこの逆のことが云える訳である。。
 では、大概の左心臓の人の中の左利き手の人は、いったい心臓と手のどちらに強く左右されるか、興味あることである。
 (このことが交通事故のデーターに現れているかどうか分からない。)
 又こんな話しもある。人間は子供の時から親に手を引かれるには多くの子は利き手である右手で繋がりたがる。 その方が左手で繋がるよりも安心感を持てるからである。
 従って、親の方は左手で子供を握った方が子供に安心感を与えることになるのである。 左利きの子供ではその逆になると云える。


                 左右の「利き」の違い:

 人間の身体のいろいろの働きの中にはハッキリと左右の差があることが解っている。
 それは身体の能力の左右差、すなわち「利き」である。
 その中のかなりの左右差については大概の人に理解されているが、その他に意外なところにも左右の差があることを多くの人はまだ知らない。
 そこでその左右の差にはどういうものがあるかを考えてみよう。
 更にその左右の差が、人間の暮らしの中でどのように影響を及ぼすか・及ぼす可能性があるかをも考えて見よう。
 なお人間の働きの中のそのような左右の差は一体どうして起こるのか、あるものはそのメカニズムがかなり解っているがあるものはまだ殆ど解っていない。
 この人間の左右差は大概が人間の脳の働きによるものであるとされている。  
 その脳には右の脳と左の脳の二つがあり、この二つの脳の働きの違いによって起こるものであると考えられている。
 なおその他に脳以外の他の臓器のせいで起こるのではないかと考えられているものもあるらしい。


  「利き手」について

 −−年齢によって利き手も変化する−−
 利き手の程度を現わすために側性係数(LQ)を用いる。
 利き手は、右又は左と二分されるものではなく、右に近い両手利き、左に近い両手利きなど、さまざまな程度の両手利きが存在する。  そのため利き手の程度を数値で現わす必要があり、ここでは側性係数(LQ)を用いて表現する。
    LQ=100×(右−左)÷(右+左+両手)
 この計算式に従うと、全ての動作を右手で行う人はLQ=プラス100、逆に全ての動作に左手を使う人はマイナス100となりますが、右手利きから左手利きまでを20段階に評価することが出来る。
 LQ100が8−9才では39%であったが、50−59才では87%で右利きが年齢とともに上昇していることが分かる。
 10才から25才まで利き手の変化が続いて行くと見られている。
 利き手の変化が脳の重さと関係があるかどうかを見るために脳の重さを計ってみた。 脳の重量は出生時に約500グラム、成人では1.400グラムに増加する。
 10才頃にはほぼ成人の脳の重さに達する。
  従って脳の重さが成人の域に達するのを待って利き手が発達を始めるようである。
 左手利きの頻度、左利きは常に少数派であるが、日本人の成人では男性では3−5%、女性で2−3%と云うことになっている。
 諸外国の数値も大きな違いはないと見られている。
  左利きの原因は 遺伝的要因や後天的病因や出産時の外傷などを挙げる人があるが、詳しいことはまだ殆ど分かってはいないのが実状である。


              ――― 人間には左回りが、自然な回りだ ―――― 

           右利き左利きは手足に限ったことではなく、身体をひねる動作や回転
          させる運動にも認められる。
           フィギア・スケートの華麗な回転は殆ど左回転(反時計回り)である。
           また演技の流れ全体を見ると、リンクは左に回るように構成されている。
           円盤投げやハンマー投げの回転は勿論、陸上競技のトラック、競輪・
          オートレース、競艇にいたるまで、殆どの競技が左回りとなっている。
           左回りが人間にとって自然であり、本来の運動であることを言い表わし
          ているようである。
           社交ダンスも左回りはナチュラル・ターン、右回りをリバース・ターンと
          云っている。
            何故左回りが自然なのかはいろいろの事から考えられるが、決定的
          なことは何も分っていない。




  「利き足」について:

 −−日本人の60−70%は右足利き−−
 成人男性の61%、成人女性71%が右足利きである。
 利き足の分布度は利き手ほどハッキリしていない
 右足利き、左足利き、両足利きはどのくらいの割合かを、ボールを蹴る足、幅跳びの踏み切りの足、小さいものを摘まむ足の3つの質問で調べた。
 18−19才時の利き足の分布では、全ての動作を右足と答えたもの(LQが67以上)が40−50%と最も多い。右手利きの割合(80%)と比較するとずっと低い。 その分だけ両足利きの割合が多くなっている。

 −−利き足と利き手と関連性があるか?
 右足利きと右手利きとが何の関係もないと仮定した場合、両者が偶然に一致する割合を計算し、実際の値と比較してみた。その結果が次のとおりである。
 カッコ内が、実際に右手利きで、かつ右足利きである人の割合。
   男性 35.8% (40.7%)
   女性 40.0% (47.9%)
 男女とも仮定した値よりも実際に一致する割合が上回り、有意な差を示している。 このことは手と足とには何らかの関連があり、右手利きの人は右足利きになりやすいと云うことを示している。                                                 

  「利き眼」について:

 人間は二つの眼で物を見ているが、眼の幅だけ離れた視点から見るので、網膜に映る映像は同一ではない。映像は脳で統一されて立体映像視される。
 しかし、両目で見ることが何時も都合が良いとは限らない、どちらか片方の映像を選択して片方を消した方が良い場合もある。
 身の回りにある花瓶か何かに、指で狙いをつけて下さい。片方の眼を閉じると、目標と指と眼が直線上に並んでいるが、もう片方の眼で見ると直線から外れているのが分かる。
 皆さんの心理的シャッターは、どちらの眼から来る映像を抑圧したのだろうか。
 どちらの眼に注意を向けたのだろうか。右眼でだろうか、左眼だろうか。
  この選択は無意識のうちに行われている。どちらを選ぶかは、その人の癖又は習慣であり、これが利き眼の本質である。
 右眼の映像を優先する人が右眼利き、左眼の映像を優先する人が左眼利きである。
 
 −ウインクで利き眼を決める−
 ウインクはどちらの眼も変り無いように思うが、しやすい眼と、しにくい眼とがはっきりとしていると云う。
 し難い眼でしようとすると、両眼とも閉じたり、顔をしかめめたりしないと出来ない。殆どの人が利き眼でのウインクは苦手で、そうでない眼(多くは左眼)でウインクをしていることが分かった。

 右眼利き・左眼利きの割合−
 「ビンの中を覗く」「手の指で造った隙間から遠くを見る」と云う二つの質問に対して、右、左、どちらとも決まっていないの三種類で答えを求めた。
 右眼又は左眼を使うと答えたものを右眼利き又は左眼利きとした。
 右眼利きの割合が最も多く、男性で63%、女性で57%で左眼利きは10%前後と僅かであった。

 −利き眼と利き手の間に関係があるか?
 利き眼と利き手の間に全く無関係と仮定した場合、利き手と利き眼が一致する値を計算したところ双方に明らかに関係を示すことが認められた。
 右手利きの人は右利き眼になりやすいことを示している。
  ロスアンゼルス・オリンピックの射撃選手を調べた成績では、全ての選手が利き手と利き眼が一致した。
 タキストスコープ(瞬間露出法)による検査:
 タキストスコープは、左右の視野に別々の映像を写し出し、左右の大脳半球に異なる映像を送り込む仕組みの装置である。
 映像時間は十分の一秒以下とし、眼が動く前に映像が消えるようになっている。
 この装置による検査の結果では、文字は左よりも右視野に投影され、左半球に送り込まれた方が正しく処理される。
 一方、非言語性の図形などは、左視野から右半球に送り込まれた方が、正しく認識されると云うことが分かった。            「


 利き耳」について:

 利き耳の研究は非常に少ない。
 「傾聴する」「耳を傾ける」と云う表現は、まさに片方の耳に注意を向けて、他方を抑制する心理作用である。
 傾ける耳は個人によって決まっていて、ある時は右である時は左と、その場その場で変わるということは無いといわれている。
 音楽を聞く時は右で、言葉を聞く時は左というように、対象によって変わることもないのが、利き耳の特徴であるといわれている。

 −日本人の利き耳は左が多い−
 聞きながらメモを取る、ダイヤルを回す、ボタンを押すなどは、利き手の仕事であり、このような場合では、受話器は左手で持たなければならない。
  さらに受話器のコードは電話機に向かって左側についており、公衆電話では受話器は左側に掛かっている。
 つまり電話機の構造がすでに左手で受話器を持つように出来ている。
 そこでKDDの協力でプロのオペレーターを対象に受話器の影響を考慮してヘッドホーンを使って、利き耳の調査をした。
 質問は「どちらの耳にヘッドホーンを当てますか」。答えは右耳、左耳、どちらとも決まっていない。
 その結果では、右利き耳16%、左利き耳58%、両利き耳26%となった。
 さて、音と脳の関係では左脳は言語を、右脳は非言語を担当するが、自然界では言語性とも非言語性とも決めかねる音があり、秋の夜長に鳴く虫の音などが、その典型といわれる。
 虫の声をと云う表現からも分かるように、日本人は虫の音を鑑賞の対象にするが、外国人にはこのことは理解できないらしい。
 外国人は虫の音を右脳で処理するが、日本人は虫の音を左脳で聞いているという訳である。
 つまり、外国人は虫の音を非言語として処理し、日本人は言語として聞いていることが分かったのである。           


                     「アイドマ」  (AIDMA)  

          atention(注目)、interest(興味)、desire(欲望)、memory(記憶)、
          action(行動)の頭文字を組み合わせたものである。
          客がある商品を購入するに至るまでの心理的過程を表したものである。
          「注意させ、興味を抱かせ、欲しがらせ、心に刻みつかせ、買わせる」
          マーケッティング活動あるいは広告の基本原則である。



 −老化は右脳から始まる−
 高令になるにしたがって右手利きの割合が高まって行く傾向が分かっている。
  現在の老人が育った時代の環境は、左手利きに対して今日よりも根強い圧力があったためだとも考えられるが、むしろ左手の運動能力が先に低下して、左右の器用さの差異が広まったためだと考えた方が妥当である。
 つまり右脳半球が先に老化することを示している。
 それでは、右脳が早く年を取る原因はと云うと、次のことが考えられる。
  第一に、遺伝的に決まっている。第二に、脳の血圧は左半球の方が高く、脳溢血の頻度が高い。第三に、灰白質と白質の比は左半球の方が大きい。つまり左半球の方が神経細胞を沢山持っているということであり、同じ割合で神経細胞が脱落したとすれば、右半球が先に破綻を来すということである。しかしいずれもまだ決め手は無いのが現実である。              


                    暮らしの中の「利き」:


 人間の暮らしの中でこれらの「利き」がどのように有利に又は不利に働き、人のために有為にまた障害になっているかを考えてみよう。  「利き」がスポーツにおいては見逃すことの出来ない絶対的な要素であることは云うまでもないことであるが、スポーツの領域を別として、日常生活で「利き」が高い要素となりそうなのはやはり自動車の運転能力であるかも知れない。
 まして自動車は今や殆ど全ての家庭に電器洗濯機やテレビと同じように日常深く関与している耐久消費財なのである。


 左右差は自動車の運転にどのような影響を及ぼす可能性が有るか:
 では自動車の運転に「利き」がどのように関与するかを考えてみよう。
 云うまでもなく、自動車の運転には手や足や眼やそして耳も又深く関わっていて、それらの働きが正常な状態でなければ正しい運転が出来ないはずである。
 その手や足や眼や耳などの働きに左右の間に差異が有るとなれば自動車の運転に当然に影響を及ぼすと考えられる。

 手の「利き」では−
 ハンドルの操作では手の「利き」が影響を現わすと考えられる、特に咄嗟の場合の急ハンドルでは「利き」の差異は顕著に現れる。
 ハンドルの左右別も手の「利き」と関わってくるはずだ。

  足の「利き」では−  
 ブレーキ・クラッチ・アクセルなどの足の操作ではやはり足の「利き」が少なからず影響するだろう。  

 左回りが自然だと言うことではー
 回転では左回りが自然で、右回りは不自然だということになると、自動車の右折左折に微妙な影響が有ることになる。
  左折が自然な回り方で、右折が不自然な回り方である。不自然な回り方の右折には要注意であるということである。
 統計によると右折左折時の自動車事故は右折時が多いが、その原因は全て左側通行に有ると云えるだろうか。  

 「利き」眼ではー  
 運転中には絶えずサイドミラーを見ている。左のミラーは主として左の眼で、右のミラーは主として右の眼で見ている。
 右ハンドル車では右眼は近くの右サイドミラーを見ており、左眼は遠くの左サイドミラーを見ている。左ハンドル車ではその逆である。   利き眼は利き手利き足と関連しているということであれば、利き手利き足の場合と同じように、右ハンドル車と左ハンドル車におけるサイドミラーから見る眼の働きに微妙な影響があるといえる。
 一般的に多い右目利きの人の場合、右ハンドル車では前視野の左端は右端よりは見難いのである。
 それが左折事故の原因の一つとなりやすいと云えるのではないか。
 左ハンドル車の場合はその逆になる訳である。

  「利き耳」ではー
 利き耳については、手や足や眼ほどに運転に及ぼす影響が大きいとは云えないかも知れない。そのデーたーも少ないらしい。
 手や足や眼は口ほどに物を云うが耳はそうでもないと云うことである。
 しかし、運転中には自分の車の回りに近い音には絶えず注意を払って居らなければならないことは当然である。
 ルームミラーやサイドミラーだけではなく、後ろから車が近付いてきたことが音で確認されることが少なくない。
 その場合、右側の後ろか真後ろか又は左側の後ろかは音で判断できる。
 そういう場合に「利き耳」が大きく役立つはずである。  

 老化ではー
 手も足も眼も耳も全ての機能が老化する訳であるが、一般に耳の機能が比較的早く老化するのではないだろうか。
 そういう意味で、高齢者ドライバーは先ず耳の働きに注意した方が良い。  

 最後に
 利き手・利き足・利き眼・利き耳が自動車運転に有為の違いを現わすことが分かったが、条件の良い日中に長年慣れた車を運転しているときには、殆どこのようなことを考えないかも知れない。
  しかし、条件の悪い夜間や降雨時の運転、慣れない車の運転では「利き」の働きが見逃せない。 人間の生活の中で、「利き」は等閑視出来ないと云うことである。      


                    バイオリズムの感どころ 

             「バイオリズム」とは何か?
             生物学的周期にしろ、バイオリズムにしろ、要するにバランスと
             タイミングの科学である。
             だから、マイナスが悪くてプラスが良いと云う単純な単細胞的
             な思考に当てはまらないのである。
             分りやすく云えば、マイナスとプラスにはそれぞれ正しい使い道
             があるということである。
             それは鬚を剃る刃とペーパーナイフとの差、或いは昼と寄るとの差
             であるということである。



              バイオリズム生物時計: biorhythm (生物周期)

 
 生命には、リズムがある。
 地球はひたすら24時間の自転を反復し続ける。
 この24時間の昼夜リズムこそ、地球上の全ての生命を進化させる原動力となっている。
  ゴキブリやネズミのような動物は、地球上の自転から生じる昼夜のリズムを人類とは逆に受止め、夜行動物として進化し続けた。
  この悠久な生物の歴史を通じて自然に獲得した24時間のリズムを乱すと、生物は必ず、大なり小なりの異常を起こすことがはっきりしている。
  ドイツのシェーリング製薬研究所のW.イエフルDr.によれば、連続照明は雌ネズミの乳ガン発生を促進する。
 連続照明をすると、ガンの発生は平均50日、つまり人間の寿命に換算して4年も早くなり、死亡は3年早くなると云う。
 イギリスの動物学者ハーカー博士の研究によって、昼夜リズムの逆転で、夜行族の代表であるゴキブリの腸にガンが発生することが証明されている。
 即ち、まず、一群のゴキブリの昼夜リズムを逆転して、日中を暗く、夜間を照明した上で飼育し、その人工リズムにすっかり慣らす。
 このゴキブリの食道下にある神経細胞の塊を切り取って、正常リズムを持ったゴキブリに移植した。そうすると、4日間移植しただけで、正常リズムを持ったゴキブリの腸に100%の正確さでガンが発生したと云うことである。
 昼夜のリズム逆転でストレスを感じ、ホルモン分泌が狂ってくる事実が分かった。
 バイオリズムを失うと、動物(人間も)も植物も具合が悪くなる。
 ドイツでは「夜勤病」と云うのがある。
 ドイツの統計では、3交替労働者の胃潰瘍は、日勤労働者の8倍も多いことが分かった。(バイオリズムのPSI学説 参照)            

                『脳が疲れてくると手が動かなくなる』



              自動化装置と人間心理の弱み:   

 頻発する事件・事故のニュ−スを注意を持って見ていると、相互にまるで関係がなさそうに見えていても、時には、本質的なところで驚く程共通点を持った事故例に出合うことが少なくないと云う。  
 そう云うものの中で、自動操縦装置がある。自動操縦装置に任せておけば、うまくやって呉れる筈だと言う過信がある。  
 多くの機械や装置は、かねて自動化の道をたどって来た。(飛行機、船舶、そして自動車においても)  
 最近はICやコンピュ−タ技術の発達に伴い、自動化の波は加速されている観がある。  
 それは、1.便利さ、2.効率の良さ 3.コスト低減 4.安定性向上等の点で極めて大きく貢献している。  
 しかし、自動化と云っても、多くの場合、完全な自動化ではなく、半自動化であって、大事なところでは人間の判断と操作が必要となってくる。  
 つまり自動化装置には、それを使うことの出来る範囲と条件があるのである。  
 ところが、自動化装置を使っているうちに、その便利さ故に、範囲と条件を忘れがちになる。  
 そして、マニュアルでの対応が鈍くなるのである。
 増加する最近の船舶の事故の多くは自動操縦装置が関わってきている、大韓航空機の事故も又自動化装置が関わっていると云われている。  
 人間の心理と云うものは、意識するとしないとにかかわらず、スキあらば、ずるけようとする傾向を持っている。
 ニューアンスが多少異なるかも知れないが、自動車にトルクコンバーター(自動変速機)が普及してから事故が多くなったと云う。
  ある面で便利だと云うことになると、何もかも便利だと過剰な信頼感に陥る。  
 自動化装置を使い誤ると、″ものぐさ機械″になってしまうのである。  
 この問題は、装置を設計する側、導入する側、操作する側のすべてが、じっくりと取り組んでいかなければならない、終わることない課題である。


                          手の器用さ 

             器用さとは何か?
            『近頃の小学生は手が不器用になって、鉛筆も満足に削れない』
            と嘆く大人が多くなっている。
            今の大人は子供の頃、手を使って遊ぶ玩具がいろいろあったが近頃
            は見かけない。
            おはじき、お手玉、こま、けん玉など、戦前は竹蜻蛉や竹馬は小刀
            を使って作って遊んだものであった。
            手を使わなければ運動パタンの学習が行われないので、手が器用に
            使えるようにはならない。
            どうしたら手が器用になるか。「手を器用にするには、先ず手を使う
            ことである」と云う、ごく常識な考え、それが答えである。
                 



      人間の指先は1ミクロンの0.02の震動が分かる

 マージャンの通が云うには、盲パイの確率は100パーセントであると嘯く。
 触覚の感覚は、使う回数が多くなれば鋭さを増すのが普通である。
 盲人が点字による読書法を身に付ける過程を見ればそのことが良く分かる。
 指先による触覚の極限は、1ミクロンの0.02の運動によって引き起こされる震動を知覚出来ると云うことである。
 ハンドルを持つ手の感覚は如何に鋭いものかが理解できるはずである。
  タイヤが小石を飛ばしても直ぐに分かる筈だ。
 大型乗用車を運転していて人を轢いて、その車の下に人間を引きずったまま3キロメートル以上も走り、捕まったとき気がつかなかったと云い張る男がいた。
  いい訳にならないいい訳を云って逃げていたが、その男がマージャンをするかどうかは聞いていない。               



                     手 と 脳:  

 手と脳の繋がり  
 手で触れる外部環境の変化を生体内に取り込んで、手を働かせる時、脳が必ず働いている。このときニュ−ロン(神経細胞)がお互いに網の目のように接しあっていて、ニュ−ロン間で神経パルス(波動)の受け渡しが行なわれているのである。  

 手は外部の脳である  
 手でものを掴んだり、つまんだりする時は、手の筋肉が働いているので、手は運動器官だと思われがちである。  
 たしかにそうであるが、これは手の機能の一側面を見ているに過ぎない。手でものを掴むときには、手でものに触れると、それが何であるかを知ると云う感覚の働きもしている。(触っただけで、堅いものか柔らかいものか、暖かいものか冷たいものか、角があるものか丸いものか、植物であるとか動物であるとか或いは金属であるか岩石であるとか。)  
 積極的に手を働かして外界を探索することもある。見落とされがちであるが、手は外部環境に直接触れて外部環境の情報を集める感覚器官である。  
 実際私たちが手を使うときは、この二つの側面がうまく働いて、統合されている。  
 手で感覚情報を掴もうとする時にも手の筋肉を使い、手の運動をする時にも手の感覚器を使い、二者の機能が別々に使い分けられることは殆んどないのである。  
 私たちが「手を自由に操れる」のは、神経が手と脳の間の仲立ちをしていて、脳が外部環境情報を受け入れ、指令を出して筋肉を収縮させるからである。  
 手が上手に使えるのは脳を上手に使えるからである。  
 脳にはそのための構造がある。  
 「手が外部の脳」と云う言葉はこの関係をうまく表現している。                        


                   神経の中を走る信号  

             信号は正式にはインパルスと云うが、いつも同じ大きさの単純な
            波形のものである。
             神経繊維によって伝わる速度は違い、人間では秒速120メートル
            から約50センチの違いがある。
             その信号の正体は、神経繊維の細胞膜のイオンの透過性が変化
            するという現象が素早く伝わって行くというものである。
             このような現象を目に見える形で捉えるためには微弱な電気変化
            (活動電位)を調べればよい。



 手と脳の退化  
 科学と技術の進歩が人間の手の営みに替わる機械を数多く作った結果、生活が便利となり、我々は手を使わなくてよくなった。  
 近頃のパチンコ店に見る風景は非常に象徴的なものである。  
 電動式自動パチンコの機械のまえで、ハンドルにコインを差し込んで、玉が自動的に出るように細工して、腕組みをして機械を監視しているのである。  
 手はパチンコの機械に触れないで、眼が玉の動きを追っている。  
 コンピュ−タコントロ−ル下にある自動化工場でも人間は計器を監視しているだけで、パチンコの風景に似ている。  
 機械が手のかわりに働いてくれる分けである。  
 現代人の手が不器用になり、手の力が弱くなっているのは、手が作り出した機械のせいであると思う。  
 今後手を使わない傾向が一層増すようであれば、手に関係した神経系は働く必要が無くなるから、手と脳の進化が止まることになる。  これは手や足と脳の連係を最高に必要とする自動車の運転に危険信号である。  

 手と足の関係  
 手がうまく働くには、姿勢を維持し、身体を移動させてくれる足が正常に働いてくれなければ駄目で、そうなって手が始めて足の機能から解放されるのである。  
 手を創造的に使うには、足とそれを支配する神経系が正常に働くことが前提で、そのためには全身の健康が大切である。  
 健康とは人によっていろんな意見があるが、ここでは単に病気に罹っていないという消極的なことではなく、外からの刺激に積極的に働きかける体力がある状態のことで、主観的には生きている喜びが感じられる状態のことである。


             ドライバーの動態視力・歩行者の動態視力:

 普通一般に視力を測定するというのは静止視力である。止まっているものを見る視力である。
 これに対して、動いているものを見るときの視力を動態視力という。
 動態視力は静止視力の大体60−65%だと云われている。
 動態視力は眼球の運動能力にも左右される。
 動態視力はトレーニングによっても高めることが出来る。
 ある種の運動選手は一般に動態視力が高いと云われている。野球とかバスケットその他各種の球技では動態視力の程度によって成績が左右される。
 例えば、プロ野球の巨人軍の川上選手はピッチャーの投げるボールが止まって見えたと云っている。又王選手は、ボールが止まっていると云うことはなかったが、調子の良いときにはボールが緩く飛んでくるように見えてバットにボールを当て易かったが、調子の悪いときには素早く通り過ぎていって空振りになることが多かったと云っている。
 動態視力は瞬間視の能力によって左右される。
 又同じくプロ野球阪神のピッチャーの江夏選手は左目でキャッチャーのサインを見、右目でバッターの瞬間の動きを見ていて、直前に投げる玉を変えていたといっている。
 バスケットボールの選手は、眼球の動きを早くして、絶えず周辺視野に気を配る訓練をしていると云う。
 アイスホッケーのゴールキーパーには極めて高い動態視力・周辺視野の確認が求められるといわれている。
 このように動くもの相手のスポーツ選手にとっては動態視力の向上や周辺視野の速やかな確認がいかに重要であるかと云うことである。
 自動車のドライバーにとっても、動態視力や周辺視野の確認のいかんが極めて重要な問題なのである。
 ドライバーは自分が動きながらしかも動いているものを見ている訳である。
 野球のボールやアイスホッケーのパックのように1つの動態を見ている訳ではない、幾つもの動態を見て、全ての周辺視野を確認して、速やかに自分の行動を判断しなければならない訳である。
 雨が降っているとき、夜間は動態視力・周辺視野確認度も更に一段と低下するに違いない。
 対向車のナンバーを確認する訓練が動態視力を高めるのに役立つと云われる。
 ビギナー・ドライバーは勿論のこと、ベテラン・ドライバーであっても例え視力(静止視力)に自信があろうとも、動態視力がそれよりもずっと低いと云うことを自覚しなければならない。
 この動態視力の問題は自動車運転の領域で漸く高まりつつある。
 交通事故の問題においては、ドライバーの動態視力だけではなく勿論歩行者の動態視力が問題になる訳である。
  歩行者も自らを守る姿勢がなくては交通事故は少なくならない訳である。     


                    耐寒性:

 人が寒さに耐えうる極限というのは、結局体温が下がって死亡するまでの時間で判定されることになる。
  5度Cの水に浸たされたとき、直腸温度が下降する速度は1時間に大体6度Cといわれているが、人によってかなり違うようで、6度Cの水の中で1時間に1.3−1.6度C、あるいは10度Cの水の中で1時間に3.0度Cという報告があるし、また4才の子供で1時間に12度C下降したという報告もある。
  いろいろの文献を総合すると、冷たい水の中に全身をひたした人が死亡するまでの時間は、15Cの場合は6時間、5度Cの場合1時間、零度Cの場合30分となっている。 例外もあるが、
 どうして耐寒性を増強することが出来るかと云う問題について、いろいろの研究があるが、栄養の面ではビタミンCを沢山に摂る、脂肪を沢山に摂取するということである。 しかし、最も基本的なことは寒さに鍛えることである。  
 何といっても小さいときどれだけ寒さに耐えられて育ったかによって、成人になっても寒さに強いかが決まる。
 現代人は寒さに耐える力をなくしつつあるといってよい。

 寒さへの適応

 人間は始め熱帯地に住んでいた。(人類は熱帯で誕生した。)
 火と被服と住居で寒さをしのぐ技術を開発し、しだいに北半球の寒い地域に広がり、北極圏の厳しい寒さの中でも生活するようになった。
 極地民族として知られるイヌイット(エスキモー)が想像を絶する極寒に耐えるのは、実は防寒のための衣服と住まいがうまく工夫されているからである。
 イヌイットの服はカリブーの毛皮で作った理想的な防寒服で、上着、ズボン、ストッキングなど、みな二重になっていて、毛皮の毛は内側の肌と外側の外気に向こうようにしてある。
 この服の下には殆ど何も着なくても十分に暖かく、零下10度のツンドラでこのままで仮眠をとることもある。
 空気が衣服内を通り抜けるようになっている。激しい労働でも中は過熱しないし、汗をかいでも中に溜まらないで、直ぐに蒸発する。


 環境への適応
 
 すべての生物は、その生物が発生した環境にうまく適合した形態と機能をそなえている。
 寒さへの適応に関連して、人間にも生物学的適応がある程度認められる。
 人類学で云うベルグソン法則とアレンの法則である。
 ベルグソンの法則というのは、極になるにしたがって、身体が大きくなるということである。
 体重が身長の三乗に比例して増加するのに対し、体表面積は身長の二乗に比例するから、身長が増すと体重に対する体表面積の比率が小さくなり、したがって体表面からの熱の放散が比較的少なくなるということである。
 例えば、北欧のスウエーデンやノールウエーの人が、南欧のイタリアやスペイン人より大きいのがそれである。
 又極地の動物は、クジラ、セイウチ、カリブーなど、みな大型のものばかりである。 例外もあるが、
 アレンの法則では、寒い地方の動物は体表面の付属物や突出部が後退するとI云うのである。 突出部は熱の放散が多く、凍傷にかかりやすいから、低い方が有利である。
 この法則に従うと、寒地の人は鼻が低く、顔は平面的で手足も短い。
 モンゴロイドの特徴の多くはアレンの法則にしたがって、寒冷地に適応した生物学的であるといわれている。
 イヌイットがずんぐりして背が低いのに対し、インド人やマレー人は背がひょろ長くほっそりしている。
 ネズミを小さいときから寒いところで飼育すると、身体の熱を放散を助ける尾が短くなり、逆に暑いところでは尾が長くなる。
 暑いところの豚は、足が長くて、背が高く、痩せて尾が長いという。例外もあるが。


 人の寒冷適応能
  
 人の寒さへの適応能についてはいろいろ有名な研究がある。
 オーストラリアの原住民・アフリカのカラハリ砂漠のブッシュマン・フィンランドのラップ人・カナダのイヌイットなどいわゆる極限の民族について調べている。
  裸で薄い寝袋に入って、夜8時から朝4時までの8時間にわたって、酸素の消費量、直腸内温度、皮膚の温度、ふるえが起こるかどうか、よく眠れるかを調べた。
 夜の温度が氷点下に下がっているが、オーストラリアの原住民はふるえが起きず、よく眠ることが出来た。
 足の皮膚温が下がり、直腸の温度も下がった。
 一方白人で寒さによく馴れているものでは、睡眠はとれたが皮膚の温度は下がらず、それだけ熱の放出量が多く体温を保つために酸素の消費が増加した。
 寒さにさらされて皮膚面から放散される熱量が増えると、体温を維持するために代謝を盛んにして、産熱量を多くしなければならない。  この反応には甲状腺ホルモンが重要である。

 皮膚血管の収縮

 寒さにさらされると皮膚の血管が収縮することは手や顔が蒼白になるから分かる。
 血管の収縮によって、皮膚からの熱の放散を防ぐためである。
  (副腎髄質から分泌されるノルアドレナリンの末梢血管収縮作用による)
 皮膚の表面の末梢血管が収縮すると皮膚の温度が下がり凍傷にかかる原因になる。

 寒冷血管拡張反応  
 
 皮膚表面下に細い動脈から毛細血管を通らずに直接細い静脈へ繋がる血管がある。その血管を動静脈吻合という。  
 寒冷地に育った人は動静脈吻合が発達している。
 動静脈吻合の作用によって皮膚の温度を上げ、凍傷を防ぐ。このことを寒冷血管拡張反応といっている。

 水作業の人は冬の運転に強い
 手足が厳しい寒さにさらされて、皮膚の温度が零度C以下になると凍傷をおこすが、寒い地方に育った人や冷たい水作業に慣れた人たちは動静脈吻合が割合に発達していて、冷たくても血液の循環が良くて凍傷になるのを防いでいる。
 又、耐寒訓練効果のあることが分かっている。
 京都の加茂川で冬に染め物の水洗をする友禅業者では、足の指の寒冷血管反応が著しく高い(早い)、またオホーツク海に面した紋別でカニの缶詰作業をして、冷水の中に絶えず手を漬けている人達では反応が著しく早い。
 このように平生から冷たさに訓練されている人は、厳寒の寒さにもよく耐えて、気温が低くても指先の温度が高く、凍傷にならず、作業に不自由を感じないということである。
 自動車の運転には、手足の運動の如何が直ちに事故に繋がるわけである。
 冷たい水作業に訓練された人は、冬の運転に強いということである。
  暖房を効かした車内に入ったからといって、急に血管拡張が早くなるものではない。
  厳寒時の運転は、雪や氷のことばかりではない、寒冷血管拡張反応を頭に入れよう。
 最近は暖かいところに住んでいて、いきなり厳寒のスキー場に車で出掛ける人が少なくない。  
 冬の車には慣れているのだというかも知れないが、身体まで慣れているわけではない。
  凍傷になって、運転を誤ってしまうことがある。
 冬山に登る人は、登山技術だけではなく耐寒訓練をしている。            


                   人間社会における錯覚:   

 「錯覚」illusion、それは誠に不思議な現象である。  
 錯覚という言葉は、ラテン語の「からかう」と云う意味から来ているのである。あなたの目や耳や或いはその他の知覚などがあなた自身をペテンにかけていると云うことかも知れない。  
 錯覚という現象は多分人間以外の動物にもあるかも知れない。しかし、人間の錯覚が本当に面白いというのは人間が他の動物とは違って非常に知的な動物であるからだ。  
 人間が知的動物であるが故に、錯覚という現象と極めて関わりが深いという訳なのである。それはある時は大変に面白かったり、又ある時はとても悲しかったりする。  
 錯覚は我々人間の社会生活においてあるときは大変なトラブルの原因になったり、又あるときは全く害のないもので、むしろ役に立って、人間に楽しみを与えてくれるものになったりする不思議なものなのである。  
 我々の周りには絶えずいろいろの錯覚が常に存在している。しかし多くの場合には我々はそれに全く気が付かないでいるのである。  ところがそれに気が付いてみると、あーそうかと、始めて錯覚がそこにあるあることを認識する。そしてある時には錯覚の大きさとか奥深さに改めて驚いたりするのである。  
 私たちは錯覚というものの知識をもっともっと持って、錯覚に対する理解を深めなければならない。  
 私は交通医学の講義の中で人間の様々の特質について話をしているが、その中で錯覚という現象にも付いて触れている。  
 錯覚は全ての人間に現れる、従ってどんなに注意深い人であっても錯覚という生理現象から逃れることは出来ない。  
 そしてそこに大小様々の事故や過失が発生するのである。  
 交通事故には様々の錯覚が関与しているのである。殆どの交通事故の原因には錯覚が大きな役割りを演じているはずである。  
 交通法規や交通施設などを作るに当たって、当然様々の問題を検討しているはずであるが、この人間の錯覚の問題も十分に検討して貰わなければならない。  
 そんなトラブルの問題から離れると、錯覚は又人々を楽しませてくれる楽しい現象でもあるのである。  
 マジック、クイズ、パズルそして手品、映画、これらは皆錯覚を利用して行われる愉快な行為である。  
 もしそこに錯覚がなければ、全てが全く面白くも何もない詰まらないものなのである。絵画は平面の上に立体感を、遠近感を、明暗を描き出している。様々の光景から緊迫感や安堵感や恐怖感を見る人に与えている。  
 これらは皆全てが錯覚の芸術である。人間に錯覚がなければ何の感動も湧かないものである。  
 人間における錯覚は実に様々であって、人間から切り放されることが出来ない奥深いものなのである。  
 我々の最大の錯覚はすべてのものが正しいと信ずることかも知れない。そうだとすると、一体何が真実なのだろうか。  
 なお、錯覚の良く知られている例として量的錯視としての幾何学的錯視がある。  錯覚はあって良し、あって悪し、人間社会における錯覚はまさに悲喜こもごもである。                   
          

 錯覚例            
 図ー52 (中央の棒は一体何処にとりつけれれているのだろうか)   

      

         図ー53 Muller-Lyerの例       図ー54 Zollerの例              

 図ー55 ネッカーの錯視      図ー56 垂直・水平の錯視   図ー57 ヴントの図形  


 左上記の図をシルクハットとすると、鍔の直径よりも高さが高いと見えるだろうか。もしそうであれば、あなたの錯覚である。  
 我々は同じ長さであっても高さの方を横巾よりも大きく感じることがある。 これを垂直・水平錯覚と呼んでいる。立っている樹木は、それが地上に横たわっている場合よりも長いと見える。  
 又、右上のヴントの図形を見てどちらが大きいだろうか。この二つは同じ大きさである。その位置が上の図形を大きく見せるのである。                       
     
     (添付写真挿入)                      

         

      

       図ー58ー63、道路に見られる錯覚            


                        
               危険なツケを負う若者:

 
 この講義の最後に、若者の為の願いを述べたい。
 先の太平洋戦争の末期に、ベニヤ板で造られた飛行機に大量の爆薬を積んで日本の南の端の鹿児島の飛行場から次々に飛び立っていった。
 どの飛行機にも帰りの燃料は積んでいない、敵の飛行機と出会っても空中戦もすることが出来ない飛行機はひたすらアメリカの軍艦を探して突入していった。
 それらの飛行機の殆どはアメリカの艦船に出会うこともなく、途中の海に墜落していった。
 云われるままに来世の幸せと日本の勝利を信じて逝った著者と同じ年代のあの多くの若者達は哀れであった。
 犠牲者となった未来多き若者達の自爆の歴史は半世紀を経た今も消えることはない。
  戦争であろうが、平和であろうが若者達の純粋で単純で一筋で短絡的な性格を欺くのがいつの世でもその時の社会であり大人達であった。

 さて、第2次交通戦争と言われるように再び交通事故死が急増している中で、若者の事故死が特に目立って増加している。
 その若者の交通事故死には今までの一般の交通事故死とは異なった大きな特徴があると云うことが分かった。
 それは高性能高馬力のスポーツタイプ自動車による事故死が一際目立って増加していることである。
  この目新しい現象に付いてこの程NHKのテレビで特別番組として放送されたのが「若者達よなぜ死に急ぐか」というものである。  
 それによると、その傾向が日本だけでなくアメリカやヨーロッパのフランス・イギリス・オランダなどでも見られるということである。
  しかしそれに対する国や社会の取り組み方は日本とは際だって異なっているということである。
 私は日栄学園での交通医学の講義の中で、かねてから”性能が良いことは危険が増すことである”と云うことを繰り返し話しをしてきた。
 最近のスポーツタイプの自動車では250HPー300HPから、更に300HPを越えるような、今まで無かった車がどんどん市場に出てきている。
  メーカー各社がこぞって市場性の高いそのような高性能・高馬力スポーツタイプの危険な車を造り初めて、若者達の心を煽るように売り付けているということである。
 そしてその結果、それらの高性能高馬力の車による事故死が急増しているのである。
  私の今まで話してきたことをまさに地で行く現象である。

 若者達のこの異常なまでの事故死増の傾向が今も日々に高まっている。何とか速やかにこの傾向に歯止めを掛けなければならない。それにはどうしたら良いかということが番組の狙いであったようだ。   
 放送によれば、警察における交通事故の調査書には、事故当初の模様が詳しく記入されている。その中には運転者が靴を掃いていたとか下駄を掃いていたとかに至る細かいことまでも記載されている。
 ところが、一方事故を起した車に付いては、単に普通乗用車・ライトバン・軽自動車・大型貨物車などという程度に記載されているに過ぎない。
 何処のメーカーの何型の何馬力の何トンの重量の車であると言うようなことは全く記載されていないのである。
 それは何故か。そのことに付いて警察の係りはこう云う、交通事故の因果関係と車の種類との間に関わりがあることは今のところ明かではないので書かない、と云う答えである。
 この若者による高性能高馬力のスポーツタイプ自動車による事故死が、どのメーカーのどのタイプの自動車ではどれだけの事故数値を示しているか、ということを調査する意味が本当にないのか。
 運輸省や自動車関係の団体の担当者でも、やはりその調査は今のところ根拠が明かでないから必要はないと、言葉を真似たように全く歯切れの悪い云い分に終始している。
 このような云い分を聞くと、考え過ぎかも知れないが、どうも業界と役所の不明朗な関係の歯切れの悪い云い逃れの何者でもないように受けとれて仕方がない。
 我が国の関係者らのそのような言葉にもかかわらず、この種の調査が是非必要なものであることが諸外国の例に明かになっている。
 アメリカにおいては、既にかなり以前から若者達の自動車事故に関して、事故死と自動車の種類との関係を調査し、その成績を詳しく発表している。
  そして、それによって各メーカーの改善の資料として成果を上げているのである。
 ヨーロッパの諸国でも、イギリス・フランス・オランダでは同じように調査して発表していると云うのである。
 何故日本だけが必要がないと云い張るのか、全く理解に苦しむのである。
 今日の若者達によるこの現象を、ひとり若者達だけの問題のように受けとって、若者を教育すれば事が解決するように思っているものがあるとすると、それは大きな誤りである。
 先の第2次大戦中に、アメリカで戦闘機のパイロットの過激な勤務に対する一時的な賦活薬として開発されたのが覚醒剤だ。
 それが害の多い薬であることは分かっていたが、戦争という止むに止まれぬ手段から考え出されたものだ。
 その危険な薬が戦後日本に入って来て、日本の若者達に大きな害悪をもたらす覚せい剤というものになったのである。
 若者達の覚せい剤による被害は戦争の落とし子であるということを忘れてはいけない。
 大人や社会は自分達の都合によって造り出されたものが、予想しなかった副作用を発揮した時に、その責めを躊躇なく取らなければならない。
 
 薬(医薬品)を造った者は、自分が造った薬が社会に出て医療の場でどのような効果を発揮しどのような副作用を現しているかということに対し、常に深い関心と強い責任を持たなければならない、と云うことを私は講義の中で述べてきた。
 覚せい剤を造った者は、覚せい剤の思わぬ社会的犯罪に対しても、責任を感じなければならないのである。
 薬の副作用も効果の一つである。予期せぬ効果を副作用というのである。
 原爆が戦争の目的を達成したときは有効な効果であるが、予期せぬ事故で爆発したときはそれは原爆の副作用である。
 原爆を造った者はそのどちらにも責任を感じなければならない。
 また、私は交通事故の講義の中で、車を造った者・車を販売した者・車を整備した者は、自分が造った・自分が販売した・自分が整備した車が、社会に出てどのような自動車事故や自動車犯罪に関わっているか、と云うことに強い関心と責任を持たなければならないと述べてきた。
  自分の手から離れた車には、関係がないと云う分けには行かない。
  今、若者達の高性能高馬力スポーツタイプ自動車による交通事故死が急増しているのは、まさしく予想しなかった副作用なのだ。   したがって、メーカーはもとよりデーラーも更にはそれを認めている行政も、当然強い関心と責任を持たなければならないのである。
  この度のNHKのテレビ放送の中で見る限りでは、日本の関係者の反応が極めて無責任なように受け止められた事は実に残念である。
  交通戦争を起しているのは社会であり、大人なのだ。いま車で自爆している若者達は覚せい剤のような危険な車のツケを負っている犠牲者なのだ。
 大人達が・社会が強い責任を感じて、急いで若者達を救わなければならない。


                         
                     あ と が き

 事故になる前に医学の立場から交通事故を眺めて見た、様々な問題点が今まで予想もしなかった領域にも存在し、それが極めて大きな意味を持っていることが分かった。
 法律操作や運転技術・車の性能などで交通事故は解決できないことを理解することが出来た。
 さて、それではその対策として如何にすべきか、と云う回答を求められると今のところ何も答えられないのである。
  病人や障害者や高齢者の車運転に対して、或いは薬の副作用に対してどのような名案があるかと聞かれると、そんな処方箋はまだ出来ていない。
  医学的にドライバーの適性を決めたり、全ての医薬品の副作用を自動車運転の適否に当て填めるなど大変に難しいことでとても出来ることではない。行政面における対策は全く難しい問題である。。
 錯覚のように人間の性質そのものに交通事故を起こす原因があるのだ、だから交通事故は仕方がないのだというわけには行かない。  様々の要因を良く認識した上で、日頃の生活の中で細心の注意を注いで事故防止に努めなければならない。  
 最近ガンの治療にモノクロナール抗体と言うものが発見されて、ガン細胞だけをミサイル攻撃するという新しい医療手段が話題を呼んでいる。
 それがガンの治療に大変に効果があるということで、将来のガン撲滅に明るい希望が持たれるとその道の専門家は云っている。
 自動車交通公害においても、交通事故をミサイル攻撃するような名案が発明され、自動車文明の未来に一層明るい日が射すようになれば良いと思うが。

    平成 五年 五月


  
  参考文献 (順不同)

 1. 「交通の未来展望」 角本良平 白桃書房 2. 「交通の風土性と歴史性」 角本良平 白桃書房 3. 「神経心理学入門」 山鳥 重 医学書院 4. 「交通安全白書」 総務庁 5. 「心は脳を超える」ジョン・C・エックルス 紀伊国屋書店 6. 「色と形の深層心理」 岩井 寛 NHKブック 7. 「脳から見た心」 山鳥 重 NHKブック 8. 「車は弱者のもの」 上田 篤 中央公論社 9. 「自動車の社会的費用」 宇沢弘文 岩波書店 10. 「都市と交通」 岡 並木 岩波書店 11. 「安全の考え方」 武谷三男 岩波書店 12. 「裁かれる自動車」 西村 肇 中央公論社 13. 「航空事故」 柳田邦男 中央公論社 14. 「続・旧稿雑纂」 石川光昭 三容堂 15. 「新法医学」 井上 剛 勁草書房 16. 「現代の法医学」 四方一郎・永野耐造 金原出版 17. 「厚生省統計要覧」 (昭和63)厚生省 18. 「交通災害の抑止と保償」 加藤一郎ほか ぎょうせい 19. 「交通安全へのみちしるべ」 行政監察業務研究所 ぎょうせい 20. 「心は無意識の世界で何をしているか」千葉康則 PHP研究所 21. 「錯覚のワンダーランド」鈴木光太郎ほか 関東出版社 22. 「読書こぼればなし」 淮 陰生 岩波書店 23. 「法医学入門」 八十島信之介 中央公論社 24. 「心理学小辞典」大山 正ほか 有斐閣 25. 「実用新法医学」 井上 剛 日本医書出版 26. 「都市の政治学」 多木浩二 岩波新書 27. 「車が変る、交通が変る」 越 正毅 日刊工業新聞 28. 「死角」 柳田邦男 新潮社 29. 「アレルギーの話」 池見酉次郎ほか NHK 30. [手と脳」 久保田 競 紀伊国屋書店 31. 「一国の首都」 幸田露伴 岩波書店 32. 「バイオリズムとは何か」田多井吉之介 講談社 33. 「救急医療ーその仕組みと問題点」 篠田 恒ほか 教育社 34. 「薬効のうらずけ」 佐久間 昭 東京大学出版会 35. 「自動車社会のすすめ」 島田荘司 講談社 36. 「自動車の危機」 岡崎宏司 ちくま新書 37. 「狩野享吉の生涯」 青江舜二郎 中央公論社 38. 「脳と心のトピック100」 堀 忠雄 誠信書店 39. 「錯覚のはなし」 コブほか 東京図書 40. 「交通統計」財団法人 交通事故総合分析センター 、 41.図説医学の歴史 日本ベーリンガーインゲルハイム社、                               他           


     参考写真(添付写真)

 交通事故死体の損傷   
 
 例1.  ♀17 頚椎後頭関節骨折   被害者は道路脇に停車中の車の間から車道に出て、走行してきたトラックに衝き当てられ、掬い上げられボンネットに頭部を叩き付けられ、その後道路に降り落とされた。   

 例2. ♀59才      頭蓋内出血   歩行中に走行してきたオートバイに跳ねられた。   

 例3. ♂37才      上腕骨骨折   被害者はオートバイで走行中、大型トラックに激突する。死因は脳挫傷。   

 例4. ♂40才      心臓破裂   被害者はバイクで走行中、道路脇の標識に激突する。(自損事故)   

 例5. ♂20才      頭蓋骨骨折   二輪車で走行中、大型トラックに追突。死因脳挫傷   

 例6. ♂53才      大腿骨骨折   走行中の大型トラックに轢過。 死因脳挫傷                                   

 坂道の錯覚   

 坂道 
 No.1, No.2 No.1は、手前の急な下り坂から、先方のやや急な下り坂に変わっている。  この道路は全て急な下り坂である。  しかし、先方が緩やかな下り坂のように見える。  No.2の写真はNo.1の写真と同じ場所であるが、先方に影が出来て、その位置に段差があるように見える。  同じ道路でも、環境の違いによって異なった道路のように見える。                                                                   (国道157号線、石川県吉野谷村地内)   

 道路 
 No.3 手前の急な下り坂から先方の緩やかな下り坂になっている道路である。  しかし、先方が緩やかな上り坂であるかのように見える。                                 (国道157号線、石川県河内村地内)   

 道路 
 No.4 道路は手前からかなり急な下り坂続きで、その先は緩く右に曲がって、更に急な下り坂になっている。先は見えない。  この急な下り坂の中程が心持ち緩やかになっている。  しかし、その場所辺りが平坦になっているように見える。                                                      (石川県鶴来町地内、県道)