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石川行政相談委員協議会機関紙『けん六』第12号(1997.7)に載せたものです。
ある吟遊詩人
内灘町 藤島学陵
数年前、ある女優が自分の生前葬をやって話題になったことがある。わが内灘町にも、それよりずっと以前に、当時としては極めて画期的ともいえる自分の生前葬をした女性がいた。岡部はる(1890-1972)。内灘町室に生まれ、芸者になったり、三味線を抱えて放浪の旅芸人になったり、またエンタツやアチャコと一緒に吉本興行の舞台にも立ったことのある女性。松任の暁烏敏氏が一目置いた女性。通称「三味線ばあちゃん」という。漫画にもなっている(『マンガ三味線ばあちゃん』藤木てるみ著、1991、東本願寺出版部)。彼女が歌って歩いた数え歌を、昭和45年に録音したテープがあるそうだ。
【三味線ばあちゃん数え歌抜粋】
一つともせ。
人と生まれたうれしさを、
忘れて暮らすも欲のため、
取ろう掴もうで日を送る。
聞いた、おぼえた、信じたと、
和上様より高上がり、
自慢たらたらくらせども、
百までたもたぬこの命、
死んで未来はどこなれば、
一百三十六地獄、
めぐりめぐって今は早や、
八万地獄の釜底で、
時を争うて責められる。
そんなお方はおまへんかいな。
ほら、ザクザクじゃい。
二つともせ。
再び出られぬこの娑婆を、
知っていながら野放図に、
人の前では善人らしい顔をして、
その内心は、
人がこけよが倒れよが、
われさえよければそれでよし、
田地田畑買い集め、
土蔵庫建て家を建て、
達者自慢で働き自慢で暮らせども、
百までたもたぬこの命、
死んで未来はどこなれば、
塗炭地獄に落ちるなり。
<中略>/<中略>
六つともせ。
無理なことして金ためて、
地位や名誉や財産や、
この世ばかりに執着し、
それでも百まで生きられぬ。
<中略>弥陀の浄土の極楽は、
西にあるとはいうけれど、
行って見て来た人もない。
まこと地獄極楽は、
西にもなければ東にもない。
というて北にはなお更ない。
みんなわが身の身にござる。
皆身(南)にあるわいなーーー。
<以下略>
人間として生まれることの可能性は極めてゼロに近い確率であるという。めったにであえることではない。有ることの難しいことである。その有り難いこの命を互いに喜び合う。相手を思いやる心、感謝する心。そんな心が次第に失われつつある。あらためて、この吟遊詩人の歌をしみじみと読ませていただいた。
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