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過去に、行政相談機関紙『兼六』に載せたものです。

 

「馬の耳に念仏」

内灘町 藤島学陵

昨年の暮れに茶の間を通りかかったら、家人の見ているテレビが興味深いことを実験していた。人の言うことに耳をかさぬことを、「馬の耳に念仏」というが本当に馬はお経に耳をかさないのでしょうか。一つ実験をしてみました。というのだ。あれ、あれ、こいつは面白いと、小生、テレビの前に座り込んだ。北海道か東北か忘れたが、牧場の隣にある寺の僧侶に牧場の馬たちにお経を聞かせてやってもらいたいと放送局が依頼。柵の前に僧が法衣を着て合掌しながら読経。たしか般若心経だったように思う。その横にアナウンサーがマイク片手に立つ。柵の中には5・6頭の馬がいた。一頭がお腹が大きかった。そのお腹がお経にあわせるかのように動くのだ。アナウンサーは興奮気味に、お腹の中の子馬がお経に反応していますと言う。それまでのことはビデオであり、その後子馬が生まれてから、もう一度同じ実験をしたそうだ。柵から離れて内側には、その生まれた子馬と数頭の馬がいた。読経が始まると、胎内でお経を聞いたその子馬がするすると僧の前へやって来て、じっと顔を向けて立ち止まっていた。まるでお経に耳を傾けているかのように。もちろんアナウンサーはマイク片手に興奮していた。

面白い実験だった。驚いた。馬にはもちろんお経の内容は分らぬだろうが、少なくても、事実としてその響きに耳を傾けたのだ。「馬の耳に念仏」では馬に失礼かもしれぬ。「馬の耳にも念仏」と言わなければならないのでは、とも思った。すると、「命は尊いものだ」「人生は大事に生きよう」「有り難うの気持ちをもとう」との言葉に耳を傾けない人間は、はたしてその馬以上の存在なのだろうか。馬は動物である。動物は畜生ともいう。その畜生以下の存在になりはしないか。仏教には六道といって、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人の六つの世界を、われわれは巡っているのだという考え方がある。このことをよく肝に銘じて、自分の腹の中を眺めるべし。不平・不満・苦情の出所は、割合、この心が失われたところにあるようにも思える。

 

1999年1月14日

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