1996年7月
『金沢東別院テレホン法話』
いのちのともしび(その2)
四年前初めて
入院生活を体験いたしました。
それまでは、
入院した人を見舞いにゆき、
ゆっくりと休養ができて
羨ましい身分だと
感じたことも
たびたびありました。
が、
いざ自分が
入院してみますと、
なんと情けないことを
思っていたのか、
よおくわかったものです。
八月という月は
壮年の壮の字を付けて
壮月ともいうそうですが、
壮年の壮の字は
方角では南方をあらわし、
壮の字のこころは
「盛り、強い、大きい」を
あらわすそうです。
また
壮年のことを
年齢の齢の字を用いて
壮齢とも、
壮歳とも、
また部屋を意味する字を付けて
壮室とも云うそうですが、
壮室に入るとは
三十歳代になることだそうです。
中国では
壮老という言葉は、
壮は三十歳を、
老は七十歳を
あらわすそうですが、
そんなことから考えますと、
壮年期というのは
どうも
「三十歳から七十歳までの
元気溌剌
エネルギーに満ちあふれる
働き盛りの期間」
と
解釈できそうですね。
そんな壮年期の真っ只中にあって、
病気になる。
順風満帆、
肉体が
どこにも調子の悪いところがない時は、
そんなことなぞ
思ってもみない。
しかし、
お釈迦様はおっしゃいました。
人生には
四つの苦しみ、
八つの苦しみというものが
つきものだ。
四つの苦しみとは、
生れる、
老いる、
病になる、
死ぬ
の
四つ。
八つの苦しみとは、
さらに、
好きな人と別れなければならない苦しみ、
嫌なやつと一緒にいなければならない苦しみ、
欲しいものが手にはいらない苦しみ、
人間の身体をもっているために
起こる苦しみ、
以上四つの苦しみをあわせて、
合計八つの苦しみをおっしゃいました。
病気は
そのうちの
基本的な四つの苦しみの中に
入るのですが、
生きているかぎり
絶対にのがれられない、
必ず
ぶつからなければならない
苦しみなのですね。
あたりまえのようでありながら
なかなか気の付かない
真理です。
頭では
わかっているのですが、
ふだんの実際の生活の中においては、
それが思いもかけない
真実であるために、
私には
かえって
心に深くつき刺さったのです。
お釈迦様が
誰にも質問されないのに
自らぽつぽつ話しだされたことが、
ときどきあったそうです。
そんな
お釈迦様のお言葉を集めたものに
『無問自説経』
という御経があります。
その中に
「世の中のすてきなものそのものが
欲望なのではない。
欲望というのは
人間の思いの中から
生じてくるものなのです。
世の中のすてきなものは
それ自身
ただいつもそこにあるだけに
すぎないのです。」
という
お釈迦様がふと話された言葉が、
現在のわたしたちのために
二五〇〇年の時を経て
残ってくれております。
これは
わたしたちの実際の生活の中での
あらゆる対象について
お話しされたのだと思います。
たとえば、
上戸にとっては
お酒は
誰がなんといっても
すばらしいものです。
友と楽しく語らいながら
杯を重ねる。
なんと
すてきなことでしょうか。
しかし傍からみると
お酒が欲望と結びつけられて
見られています。
人間の欲望という
汚いものを
おおいかぶせてみられるが、
お酒そのものは
人間の欲望とは関係なく
ただそこにあるだけなのですね。
人間の心の中で
発生する欲望を
人間がお酒にくっつけて
飲んでいるのです。
したがって
お酒が悪くとられる場合は
その飲み手である人間側に
責任があるということになるのですね。
医者であるお釈迦様は
お酒を疲労回復などの薬として
使っておられるくらい、
その効用は認めておられます。
毒にしているのは、
飲み手の欲望なのですね。
あたりまえのようでありながら
日常の生活の中に
どっぷりと埋没してしまうと、
こういったことが
なかなか気がつかないのです。
(内灘町・真宗大谷派蓮徳寺住職、藤島学陵)
前メニューへ戻ります。