#60 個人的嗜好論
「スキキライで物事を判断しちゃいかん」と、建築系の恩師からアドバイスを受けたことがある。とある友人説によれば、私は理性的動物だそうなのだが、美学を語るとなると本能的にスキキライで判断してしまうところがある。しかし、この世に楽しみがたった一つ残せるなら、それはスキキライの感情があることと断言してもいいというクチの人間である。キライっていうネガティブな気持ちこそ、あまり意識しないけど、スキっていうモノに対しては人一倍思い入れが強い。こんな私がむかーしから、ココロ吸い寄せられる人(♂も♀も!)の定義がいくつかあるので、ちょっと並べてみようと思う。(ナニサマのつもりなんだろう??)
●「旅」をしてきた人。とくに「ひとり旅」。やってみたい人も同じく…
●シンプルに生きられる人。自分のこだわりとか、何がふさわしいか、ムリをしない「分相応」を知っていて、なおかつ生き方や目標にストレートな人。
●弱みを見せられる人。素直に助けを求められる柔軟性があるってこと。
これ(●のとこ!)4年前の冬に書いた日記の中から引用!つまりは私自身がこういう人になりたいってことなんだろうなぁ。(1999.12.22)
#53 ぐるぐる
ここ1、2日『環境共生』という概念が頭の中を空回りしている。環境共生って、直訳すれば、環境とともに生きること…だけど、その奥にはとてもとても深いものがあるような気がする。と思って資料をぺらぺらめくっていたら、こんな懐かしい?!言葉に再会したので、ここで彷彿させます!「しあわせって、裸足で土や草をふむこと」「しあわせって、お日さまからバイキンに至るまでみんながつながって生きること」「しあわせって、枯れ葉の中に身をひそめること」「しあわせって、住み仲間にめぐまれること」「しあわせっておもやい」(おもやい=おもいやり)…ご存じかもしれませんが、T大学のE教授がよく引用される言葉です。原典は、チャールズ・シュワルツの『しあわせって子犬をだくこと』っていう絵本だそうです。大きな大きな概念ではつかみどころがないけど、生活の本質は小さな小さなことの積み重ねなんだな〜。さてさて、なにはともあれ『環境共生』。「そこに住んでいる人が環境を『意識』してくれれば幸い…」かと。その『意識』づけには仕掛け人の力量が問われるのかな?(1999.12.10)
#34 よりかからず…
1999年最初で最後のヒット?!グッズを作ってしまった。360度どこからでも座れる椅子である。(そんな椅子結構あるよって言わない下さいな)これには、いつも机に向かって作業などしているときに愛用している椅子(オフィスチェア風)の背持たれが壊れたことに発端がある。普通ならここでポイしておしまいなのだろう。でも、偶然、座面の底のネジを回していたら、背持たれが、その支柱ごと外れた。座るだけなら何の不便もない。もともと背持たれによりかかる習慣もない。頭の平たいキノコのような形もかえって愛敬があるってもんだ。と、勝手に納得して、ヒットグッズの誕生である。この椅子がこうなる前にも、そろそろ潮時かな〜って、代わりの椅子を家具屋さんで探していた。それこそ思いきって名作と呼ばれる椅子でもゲットしようかと思っていたのであるが、「これっ」というものに出会えなかった。そもそもこの椅子こそあいまいな気持ちで買ったものだったから、次買うときは、絶対お気に入りになりえるものしか入手すまいと固く心に誓っていたのだ。自分でこさえるか、オーダーメイドでもいいと思っていたくらいである。実際、自分でこさえようと、近くの海から流木を拾ってきてもいる。しかし、それを作る前に肝心の椅子が壊れちゃった(涙)ピンチヒッターのつもりで、元あった椅子を間抜けな姿で使っているのだが、これが案外悪くないのである。「住めば都」でもないが、「座れば椅子」(←そのものだ〜)って感じなんだな〜。ところで、近ごろ「倚りかからず」(茨木のり子作)という詩集が静かな反響を呼んでいるらしい。何だか気になるのは、この椅子のせいだろうか。(1999.11.5)
#33 遅まき
私は「遅まき」の人間である。何せ自分のしたいことに出会うのが遅かった。人生には岐路と呼ばれる時期がいくつかある。高校卒業時…進学するか、就職するか。進学を選ぶにせよ、ここで将来歩む道の方向はほぼ決まってくる。ただ、漠然としたテーマを持った進学をして、モラトリアムに走るという方法もある。私の場合は明らかに後者のそれであった。しかし、またそこを卒業する頃、どう生きるかをデザインしなければならない時期が来る。私には、どうしても◯◯というお仕事でなければなりませんというこだわりがなかった。手当たり次第に就職活動を繰り広げ、最終的には情報産業の一端を担うことになった。実際、そういった仕事にをしているうちに、自分が摩耗されているのに気付かずにはいられなかった。旅をして築いてきた価値観がポロポロと剥離していく感覚を止めることはできなかった。どうもがいても…。自分と仕事との密接な関係を考えるにつれ、どうせやるなら自分の生活にくっついていることに多くの時間を費やしたいと思った。たとえ食べていくのにぎりぎりの線になるとしても…。で、生まれて四半世紀を振り返ってみた。私の今後を決めるキーワードがあるって…。その中で最も大きかったのは、やっぱり「旅」でした。旅の中で私の見つめていた視線というのは、たえずその土地に住む人の生活に注がれていたのです。どんな所に住み、何を食べ、何を感じ、考えているかということ。そこで培われたのか、今でも「生活のかたち」を見ると、心が弾むような気がします。「生活のかたち」というのは、それこそ盛り付けられたごはんであったり、収穫した野菜をのせたかごであったり、ゲストを迎えいれる扉であったり…。トータルでいえば、家そのものでした。と、考えたとき、幼い頃、大工だった祖父が鉋(かんな)で柱を削っていた光景が思い出されたのです。私の中で眠っていたDNAがむくむくと起き上がってきたといったら、いいんでしょうか?私は「建築」スルことを決心したのです。それから、4年。「建築」ってことを考えているとき、旅をしていたときに出会ったのと同じように心の弾む感覚になる私が今ここにいます。ここにたどりつけてよかった。そして、これからも、この道をしっかり歩いていこう。それこそ、死ぬまで…という思いである。遅まきでも、きっと芽は生えてくる。そして、いつか、葉を繁らせ、実をも結ぶんだろうな。(1999.11.3)
#31 「間」
私の大切にしているものは、3つの『間』である。「時間・空間・仲間」(似たようなタイトルの書名があるが…パクリではないのだ!!)すなわち、どんなところで誰と何をして過ごすか?そういうのの積み重ねが、人生をつくっていると思えるからだ。時間…それは、どんな人間にも同じだけ与えられた「今」という時間を生きる感覚、充実感。空間…自分のやりたいことのある環境。あるいは、心地よさを感じる場所。仲間…人は一人で生きるにあらず。ともに生きる喜びの共有ってとこでしょうか?!かっこよく書きすぎましたが、もっと具体的にいうならば、大切にしているのは、時間でいえば、ONならもちろん建築としう仕事をしている時間、OFFなら、パンをこねたり、靴みがいたり、草花をいとおしんだり、海で風に吹かれたりする、ありきたりの生活の中のささやかな行為を楽しむ時間。空間は、それに付随することが多いかな。そりゃ、ココロの中には、これまで訪れた世界じゅうの心地とく過ごせた空間が思い出とともに生きてます。あと仲間!!青春時代を共に過ごした仲間や、旅で出会った同志らは言う間ではありません!!それに最近では電脳空間を通じた方々との出会いも!!なかなか面と向かって言う機会もないけど、皆さんありがとー。感謝しています!どれもこれも目には見えないものではありますが、かけがえのない私の宝物なのです!!(1999.10.31)
#30 ◯◯礼賛??!
『どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるか言いあててみせよう』フランスの食通、ブリア=サヴァランの言葉である。これを、私流にアレンジするならば、『どんなところに住んでいるか言ってみたまえ。君がどんな人であるか言いあててみせよう』となるかな。私は建築を生業としているが、「紺屋の白袴」というか、自分の住んでいるところは、お世辞にも、インテリア雑誌で特集されているような空間ではないということを広く告知しておきます(笑)そもそも、私の住んでいる家というのは、1955年生まれ(45歳にもなろうかという!)木造2階建ての民家なのである。これは、明治生まれの頑固者大工だった祖父の手によるもの。当時にしては洒落ていたと思われ、2階にあがってすぐのところが12畳くらいの床張りになっていて、小さいころは、そこにステレオやソファが置かれ、さながらサロンといった雰囲気だった。今はそこは半分に仕切られていて、奥の方の空間が、私の部屋と言われる部分なのである。その6畳あまりの空間に、机、壁一面の本棚、パソコン一式、タンス、CDコンポ、テレビにビデオ、スーツケースに、寝るためのマットレスと、あらゆるものが存在している。ほかにも旅の思い出などが、ところどころ散乱している状態である。どちらかといえば、中性的な部屋だと思う。ほんの狭い空間だが、不思議と飽きずに、ココに居るのが好きなのである。少しは、私がどんな人であるか、お分かりになりましたか?(1999.10.29)
#21 住宅論序章
今朝、起き抜けの頭に家人の言葉が飛び込んだ。「家って風呂と台所とトイレがあればいいんだよね〜」 新聞を眺めながらだったから、きっと不動産情報なんか見てたに違いないのだが、あまりにデキタ台詞にいささか胸を抜かれた思いがした。意識していないと、モノが氾濫してしまうこの世の中で、住まいそのものの定義も危うくなっているような気がする。あれもほしい、これもあったら便利かも…なんて言ってたら、本当に必要なものすら見えてこなくなってしまう。一生の買い物だからこそ、ついつい欲張ってしまう気持ちも分からなくもないが、自分の生活に本当に必要な空間、設備があればこそ「住まい」になるのである。家人の台詞はいささか無欲ではあるが、そういう生活を望んでいることの現われだろう。その家人とは、やれやれ人生半世紀を過ぎた私の母である。そろそろ隠居生活に対する思いがイメージ化されてきたのだろうか。彼女とは、老後を迎えるにあたって、どういう生活を送ってほしいと、日頃から討論をしている訳ではない。ましてや住宅に関してもズブの素人である。なのに、こういう言葉を自然に発するのは、DNAの成せるワザか、はたまた私のサブリミナル効果なのか、興味深いところである。(1999.10.10)
#20 色
「インテリアカラー」講座というのを見つけた。今月末から、全8回で週一回、平日の夕方に開催されるという。心の中で「行こう」って決めた途端、お仕事とか、いろいろすべきことが立て込んできて「どうしようかな」なんて考えあぐねている。そもそも、何か新しい風でも吹き込めたらいいなぁなんていうのが最たる動機になる。職業柄、色について徹底的に学ぶ機会を探していたっていうのも動機にはなろう。でも、ふと考えた。私の個人的偏見からいけば、本当に美しい色とは「天然色」を指し、美しい配色のヒントも「自然界」の中に存在する。これは、インテリアだけに限らず、生活の中のデザイン等全般にいえること。自然から生まれてきたものの中には私たちの考えも及ばないくらい「はっ」とさせる色がある。そういった色は一色で存在するものではなく、何かしら複数の色と共存している。その中から究極の配色を見つけ出すのである。そんなことをうだうだ考えていたら、講座に通うよりも、花の一本でもスケッチしてた方がいいのかもしれないと思えてきた。なんともうまいイイノガレつくっちゃったな。それでも、色のプロから教わるインテリアとの関係は『一聞』の価値ありなんだろうな〜(1999.10.8)
#16 光
今日、新しく届いた住宅の写真&設計集をペラペラとめくっていて、おやっと目にとまった頁があった。なんの変哲もないコンクリートでできた集合住宅の中庭の写真である。直観的にここには自然があふれている、と思った。いわゆる「自然」の代表格?!ともいうべき樹木が生い繁っている訳でもない。不思議なことにその写真には木の葉も一枚たりと写っていなかった。しかし、そこには、まばゆいばかりの太陽の光が注いでいた。光…なかなか意識上にはのぼってこないが、これも立派な自然の要素である。私たちが生きていくうえで自然は欠かすことのできない存在。燦々と降り注ぐ光を見て、自然があふれてるなんていうのは、一般的発想ではないかもしれない。だけど、砂と風と太陽と空しかない砂漠の真ん中に立っていても「自然」を感じるのは確かでしょう。それに、光があるということは、生物が育つ環境にあるってこと。その可能性を秘めた場所っていうのは、本能的に好ましい場所に違いない。このあと、他の頁も眺め、そこには「自然」を意識した『環境共生住宅』とかいろいろあったけど、私にとっての自然あふれる空間というのは、あの中庭であるような気がした。(1999.9.30)
#7 モノサシ
建築ならではの道具に「三角スケール」というのがある。三角柱になっていて、それぞれの角に縮尺の違う目盛をついたもの。1/100から1/600まで6種類測れるのが、よく見かけるものである。それを駆使すれば、それ以外の縮尺でも応用はきく。そもそも1/7なんて図面はあまり見かけないけど、1/50の図面なら1/500の目盛の10掛けなんて思っていればいい訳だ。そんなモノサシをみていて、近ごろ思うのは、モノサシなんかで数値的に処理されない最後の聖域が、人のココロなんだろうなってこと。ココロの中にモノサシなんかないほうがいい。どうしても比べたくなったら、あえて縮尺の違う部分をあててみる。そうすると、大概スケールアウトになって「比べてもしょうがないヤ」ってなってしまうもん。必殺!交わしの術!!あー、なんで三角スケールなのかって!?思い出した。今日はこれから測量の打ち合わせなのだ。三角スケール忘れないように持っていかなきゃ。(1999.9.6)