...HITORIGOTO archi ver...2001...
#585 旅と建築
 しばらく本というものを読んでいなかった。正確に言うなら読めなかった。読む気になれなかった。心に活字が入ってこなかった。丸2週間こういう状態が続いたのはかなり珍しいことである。おそらくもっと早くにして禁断症状が出てくるはずなのだが、今回にかぎっていえば、症状が出る隙がなかった。そんな中、久しぶりに本というものを開いた。安藤忠雄「連戦連敗」。第4講「昨日を超えて, なお」にある"旅する精神"では、こう締められている。「結局、力となるのは身体で感じ取った、肉体化された空間の記憶だけなのです。頭だけで理解できるほど、建築とは甘いものではありません。(略)建築に関わって生きていこうということは、いってみれば永遠に旅を続けるようなものなのですから。」個々にある空間体験から派生したものが、世の中の幾多にも及ぶ建築というものをつくっているとしたら、その個々に内在するものがどれだけの力を持っているかで、建築の質に関わってくるのだと思う。そういう言い訳?ともなるべきコトバを探しつつ、自らの本能として「旅」に出ずにはいられないことへの理由を正当化している。理由なんてあとから考えればいいことであって、私が出会うべきして会うべきものに対して、自らの身体を以て、会いに行くのだ。ただそれだけのことだ。やはり私の中で、旅と建築は密接につながっていて、旅があったから、建築に進んだ私がいるのだろう。建築人の多くは、建築があって、旅にも行く…。あるいは、建築を志すことを決めてから、旅に出ているのだろう。私とは、プロセスが全く逆だ(笑)。もしかすると、建築の世界にすんなりと入っていけたのは、旅の中で潜在的に空間・時間といった四次元的な何かを身につけていたからかもしれない。(20011223)

#577 窓のある贅沢
 貧乏旅行で幕開けした私の旅歴も10年。あの頃と変わっていないスタイルで旅を続けてはいるものの、先日訪れたラオスでのことを振り返るに、小さな変化が起こっているのかも…と感じずにはいられない。
 昼過ぎにビエンチャンに到着して、同じ飛行機に乗っていた、感じのよいご夫婦と、町中までタクシーをシェア。おふたかたは、いくつか星のついているホテルを予定していたのだが、私ときたら、まるで当てもなくて、その近くにあるホテルをタクシーの運転手さんに紹介してもらう始末。メコン川に歩いていけるくらい近い場所で…という条件だけつけて。ホテルに着いて、いくつか部屋をみせてもらったのだが、不思議なことにどの部屋にも窓がなかった。願わくば風通しのよい場所で眠りたいなぁと思っていたので、窓のある建物棟の妻側の部屋は空いているの?と訊ねると、あの部屋はよくないという。TVがないという理由で。もともとTVを見たいという発想がなかったので、その部屋も見せて!と願い出て、結局その部屋に決めた。嬉しいことにTVのある部屋よりも若干お安いという。その部屋の窓からは、ラオスのなんでもない通りの景色が広がっていた。熱帯特有の緑がまぶしく、小さな家々から「暮らし」がかいま見えてきそうなところもよかった。売り子が歩いていたり、オートバイが走っていたり、…といっても子供がはしゃいでいてもよさそうな位の細い路地ではある。これまで切りつめて旅を続けてきた中で、窓のない部屋にたくさんたくさん寝泊まりしたが、今回は願わずとも思い通りの結果となった。その時ふと思った。窓のある部屋に暮らすことの贅沢を。今、私が暮らしている部屋は、この家の中でいちばん素晴らしい景色が広がる部屋を分けてもらっている。この家を出ることがあっても、あるいは旅の中で部屋を選ぶ贅沢が許されるなら、窓のある部屋に居るという贅沢は忘れずにいたいと思う。20代の旅と30代の旅の中で何が違うかと言われたら、そういう贅沢をも選べる旅ができるようになった…位のささやかな変化あたりがちょうどよい。そう思う今日この頃である。(20011211)

#555 ハートのバリアフリー
 同じ目線の高さで見つめたり、考えたりする。目に見える段差よりも、目に見えない心の段差のほうがややこしい。ココロはフラットであること。誰かと分かち合うための第一歩は、ハートのバリアフリー。。。
(20011108)

#548 赤トンボ
 実は高所恐怖症だ。職業柄、かなり致命傷である。現場の確認として、ちょっとした足場へ上がるのも「シゴト…シゴト…」とプロ意識を全面に押し出して、騙しだましやっている状態。幸いなことに、これまで担当した物件は、4層が最高だったので、せいぜい10mちょいということで助かっている。かといって、いくら低くても、足場がぐらついていては、やっぱり高所恐怖症を刺激する原因にもなる。こんな私ではあるが、先日、一層の足場へのぼって、屋上の防水を確認する機会があった。これくらいの高さならひとまず安心ではある。少し高い所は見晴らしもよく、余裕があって、そういうことを感じることができればなかなか仕事冥利?に尽きる。その現場は、小高い場所にあり、近くには沼?もあるというロケーション。上に立って、景色を眺めつつ、深呼吸しつつも、仁王立ち(?)していると、肩に赤とんぼが止まった。じぃーっとしていると、赤とんぼはいつまでも私をヤドリギだと思って安心しているようだった(笑)そんな赤とんぼを見て、なんというか、こういう仕事でよかったなぁ…と思った。働いている最中に、肩に赤とんぼがとまることって、オフィスの中だけだと、まずないよね。偶然とはいえ、これも仕事している中で起こった出来事といえるならば、こういう可能性をも含んでいる仕事でよかった…!現場の密かな魅力は、こういうところなんじゃないかな…と。(20011029)

#540 ハタラクコト・アゲイン
 生きていく中で、私は何でもないところで動けなくなってしまうことがある。ハタからみれば順調なことが突如怖くなってしまったり、誰もが悩みもしないところで立ち止まってしまうのだ。そんな悩みの中でいちばん多いのは、私の場合「働くこと・仕事」…だったりします。
 「働くことって何なんでしょう?」「仕事ってどんな存在ですか?」これはかなり難しい質問なのかもしれない。一度仕事場の若者?が集まった時にもテーマになりかけ、失せていった。多分私たちには、それが分かるだけの経験や思想がないのかもしれない。似たような状況でウダウダ言ってる中からは、私のココロをハッとさせるものはなく、どちらかといえば愚痴になってしまうのは否めない。いろいろ迷いながらも真面目に一生懸命だからこそ、たくさん言いたいことが出てくるのだと思う。個々にまつわるネガティブな発想を並べてみたところで、未来は暗くなるばかりなので、ここで、ちょいと先を歩いている?人生の先輩方から頂いた「ナルホド」というオコトバをふたつ。
●そういう感じの悩みというか考えてみることはよくありますよ。悩むんではなくて、第3者として自分を見つめて世界のどの位置にあるかとか、宇宙のどの位置にあるかとかいうことをね。答えなんてないけど考えるのも楽しみの一つ。
●自分自身であること。
自分自身で生きてココにいること。
働くことは、その延長線上にあります。

もう、働くことについて、悩むまい…。生きることについて、迷うまい…と思いたい。

ちなみに、今週の私はこんなカンジだった。
Mon. AM イロウチアワセ@某事務所
        PM イロ・シアゲ報告*休憩所>>ゲンバ下見@某学校
        >>> 改修案考える
Tue. AM  …@シゴトバ 
        PM オオソウジ@倉庫(オバケヤシキ)
        >>> 20:00帰路 >>> キオクナシ
Wed. AM  …@シゴトバ
        PM 工事ゲンバ@WC+休憩所
        >>> 踊る…フラメンコ
Thu. AM セッケイウチアワセ*A住宅
        PM ケンガク+オベンキョウ@O住宅+某
        >>>工事内容チェック*WC+休憩所 
Fri. AM ウチアワセ*WC+休憩所
      PM ゲンバ調査@T公園
        >>>見積り*T公園

p.s.Kさん…ココロがピンとなるような質問ありがとう。答えになっていない部分もあるけど、大切な部分については、ここに書いて「共有」することにしました。(20011019)

#536 楽しさという果汁
 近ごろの私ときたら、生きることと仕事することを直結させてしまいすぎているような気がする。だから、仕事が大変だと、生きるのもなかなかしんどいもんよのぉ〜とのたまってしまう。どこもこれも中途半端にしっくりいってなくって、考え出したら眠れなくなる(実際にはグーグー寝てるけど!)。残業しながら「あ〜、もっと楽なトコないかいな」ってこぼしてたら、後ろに座っているYさんが「ここがいちばん楽やのに〜」って笑いとばされてしまった。ふむ。根性が足りないんだろうか?それとも修行か?私は、人がやすやすと口にしないようなことを嬉しそうに言ってしまって、真面目な人間をギョっとさせているところがある(笑)この仕事を選んだ段階で、あるいは「建築」を選んだときから、どちらかといえば、大変なことを買って出る貧乏苦労症的選択肢だったのかもしれない。私の人生の辞書の中に「楽」して生きるという選択肢はなかった。私の中の楽しさとは、自分をしぼり出した中から出てくる果汁みたいなものとして定義されていて、棚からぼたもち的な楽しさを知らないせいかもしれない。檸檬でもオレンジでもパパイヤでもマンゴーでも林檎さえも、果汁というものは、そう簡単に、ほとばしってこない。果実を真っ二つに割るという潔い行為があってこそ、果汁と出合えるのである。潔さこそなくても、皮をむく、絞るといった謙虚な行為でも勿論得られる。はたして、私は「果汁」を賞味するに至っているのか?そもそも、私の言う、楽なとこっていうのは、何なんだ?そもそも初めから答えなどなくて、口に出すことで、気分を軽くしている類のコトバの一種だったんだなぁ…きっと。真面目に読んで下さってる方、心配かけてすみません。…という訳で、私は今日もノーテンキな感じで生きてるんだな…これが。(20011015)

#529 生活力
 気になりつつも読めない本がある。本やさんで何度も視界に入ってきつつ、結局買わずにかえってしまったり、買って帰っても縁がないというか、なかなか読む気になれなかったり、もっと気の毒なのは忙しくなってしまってその存在を忘れ去られてしまう本である。「何もなくて豊かな島」(崎山克彦著・新潮文庫)も、そういう本の一冊だった。定年後、南の島に住んだヒトのエッセー…である。今の自分から少し遠い存在のヒトが書いたという認識があって、率先して読めなかった。なのに、何の風の吹き回しか、読み出したら、すーっと自分の中に入ってくることが多くて、我ながら驚いた。…決して遠からずのヒトだと感じる。中でもいちばん共感したのが、「男は、人間は、自分と自分の家族の生活に必要なあらゆることを、一人でできるということが、一番なのではないかと」という部分。まさに、そういうのが、私の理想の人間像。極論ではあるが、ゴルフやスキーがうまいヒトには感動しないけど、料理を楽しんだり、ちょっとした大工仕事ができたり、掃除や洗濯をしたりすることが自然と身についているヒトには感動を通り越えてニコニコしてしまうことがある。ヒトコトでいえば「生活力」っていうのかなぁ…。私が誰かのことをカッコイイって思うのは、そういう力をバランスよく持っていることが判明した時である。カナシイカナ<近ごろはなかなかそういったヒトには遭遇しなくなった。特に日本の若者には稀少である。それでも、生活力の有無を見分ける力の衰えていない私である…(笑)願わくば、生活力のあるヒトと共に生きていこう…私の密やかな希望である。(20011005)

#526 ふーっ。。。
 9月初め、部屋に溢れかえるモノを前にしばし呆然とした。旅から帰った後だったことと、家に滞在する時間が短くて居場所を整える意識が低かったことなどが折り重なっていた。原因ナンバー1は、なんてったって本である。恐らく床面積にして30%(容積率にして25%)を占めるのだ。今年の決心として、繰り返し読む価値のある本以外はなんとかしようと意を決したにも関わらず…一向に減る気配がない。幾度か古本やさんに持ち込んだのに、このありさまとは。。。(それに比べたら、2番手、3番手となる、服やオーディオ(カセット・CD・ビデオ…)の類は可愛いものである)こうなったら、根源的に収納スペースなるものを考え直すしかない。…ということで、ホームセンターなる処でラワン合板を910*455の大きさに切ってもらって、垂直方向に立てかける板と併せて購入し、本棚としようと目論んだ。材料調達までは順調だった。ところが、その後、どうしても組み立てる時間が捻出できずにいた。正確に言うなら、時間があっても体が動かなくて、それどころではなかったり、色々別のことをしているうちに、時間が…という具合である。そして、9月最後の日曜日、午後3時頃から思い立って、本を一旦別の場所に移し、棚?というか板を組み立てた。作り終えて、大体の場所へ本を仕舞って…また溜息。やっぱりまだ本が多いのだ。建築関係の本は雑誌すら捨てられない体質というのは、末恐ろしいものである。もし、この調子で生きていったら、モノは増える一方ではないか。もう少し潔さが必要だなぁと思いつつ、平積みになった文庫本については、また今度にしようと、とりあえずのオシマイ!にした午後9時半。この間、飲まず食わず…。凝り性というか、夢中になると寝食を忘れてしまう。…小さな建築を組み立てているという実感であろうか?もう少し机やチェストの配置をも含めて吟味したいなぁ。最終的にはスッキリするであろう…という青写真を描きつつ、休日の夜は更けゆく。(20010930)

#525 光と影、そして闇
 理系な方のエッセーに魅かれるようになったのは、いつからだろう。ノーベル賞受賞者の湯川秀樹「旅人」は、高校の読書感想の課題で、まえがきとあとがきだけ読んで感想をかいてしまったクチだから、その頃にはまだ良さが分かっていなかったことになる。社会人になって、寺田寅彦、中谷宇吉郎…それぞれの随筆集を読んだあたりからかもしれない。理系な方は、本業が本業だけに、その視点や題材は、うーんと唸らせてくれること、しばし。そんな私が、今密かに楽しみにしているのが、Y新聞日曜版の「夢見る科学」(佐治晴夫)である。9/23からの引用です。
 …光ばかり直視していると、まぶしくて目がくらんでしまって、光そのものを見失ってしまうことにもなります。つまり、ものごとの実相は光の中にあるとしても、光を直視することは、眩惑されることであり、したがって、私たちには、光によって映し出される影の中から実相のかけらをひろい集め、それらを構築して実相にせまるという心がけも必要です。…(略)…私たちのまわりは、見えないもの、聞こえないものであふれています。人の悲しみや痛みなど、人の感情はその典型でしょう。しかし、人の感情という光が映し出す"影"は、その人のふとした言葉や行動の中に見え隠れしています。…(略)…望遠鏡で遠くの銀河のような暗い天体を見るとき、視野の中心にいれて直視しても見えません。視野のへりの部分の闇を見つめていると、中心部分に銀河の姿をふわっと見えてきます。…(略)…暗い天体を見るには、そのもの自身ではなく周辺の闇を見る…(略)…
 感服です。このことがココロのどこかに刻印されたまま、1週間過ごしてきたような気もしました。ちょうど金曜日の昨日、金沢市民芸術村での建築家安藤忠雄氏の講演にて、直島にあるジェームズ・タレル氏の闇と光の作品に触れたこともあって、自分のココロの中で「光と影、そして闇」についての思いが増幅していくのを感じずには居られませんでした。目の前にある光や影についてのみならず、眩しくて見えなかったりする光や、見えないとされているはずの闇の存在について、少し考えてみることで、実在するしないにかかわらず、space(空間)やplace(場所)の意味そのものが変わってくるのではないか。ふと、これまでの「旅」でのsceneを思い浮かべるにあたって、眩しいばかりの光の中に居たことは確かなのに、その中でココロが見つめてきたのは、どこか闇の部分。こういうことを思い巡らすにつれ、「光と影、そして闇」といったコンセプトらしきものは形成されているような気もする。ふと、それをどう表現するか…という課題のみ残され、しばし呆然となる私なのでした。(20010929)

#524 雑草の発想
 この夏、ドイツの環境先進都市として知られるフライブルグ市のエコ・ステーションを運営しているBUND(ドイツ環境自然保護同盟=ドイツ最大のNGO=)のフーフナーゲルさんの講演を拝聴する機会に恵まれた。講演の後に、質疑が設けられ、「駐車場をアスファルト舗装しない場合、『雑草』はどうしたらよいか?」という質問があった。これに対する彼の答えは、痛快だった。「『雑草』というのは、人間の都合で決められたことであって、自分たちには、そういう発想がない」という意味のことをおっしゃった。確かに…。地球上の植物は、人間の都合で「雑草」となったり、「雑木林」と呼ばれたりする。そういった偏った発想は、地球という星そのものに、かなりの負担を与えたり、歪みを作る原因となっている。この星の上で、人間というたった一種類の生物が生きていくために、あるいはエゴを持っているがために、どれだけ他の生命に危機を与えてきたことだろう。そして、今、その同じ人間同士でさえも、共存していけないようなことになっている。人間のみならず、ほかの生物とも共存していく謙虚な姿勢がなければ、自ら滅亡していくのは、自然の摂理かもしれない。恐ろしいことを発想してしまったが、もう少し危機感を持たねばならない…という自分自身への戒めのような気がする。決してエコロジストぶりたいのではない。大好きな地球の上で、いつまでも遊んでいたいから…。たま〜にこういうことを考えるのである。(20010928)

#511 原風景
 建築家「藤木忠善+北川原温」講演&対談を拝聴した。北川原さんは、建築のみならず、舞台のコラボレーションをしたりと、気にはなっていたヒトである。(最近出来た岐阜の森林文化アカデミーがちょいとばかり脚光を浴びているように思う…)その北川原さんが、長野にある実家…それも、築300年の民家が、自身が学生だったときに解体された時のスライドを写して、そういうのが自分の建築の原風景になっていると話していた。北川原さんの恩師でもある藤木氏は、モダニズムな方で、たぶん、原風景はル・コルビュジェ…なのではないか…そんなふうなことをおっしゃっていた。その後、TKさんと話していたのだが、「オカモトの原風景は?」と聞くものだから、思わず「『旅』です………あ、キザすぎますかねぇ(笑)」と。旅の中で出会ったもののうち、具体的に何と限定はできないのだが、いずこの土地で出会った、それぞれの空間、路地、暮らし…そういったものが、自分の中に積層したものが、私の原風景だと信じている。ココロの中にある、たくさんのスライドやムービーが、レイヤーを重ねるうちに、普遍的なものや、固有性から成り立つものが、色濃く浮き彫りになり、自分の中ににじんできたもの。建築家のみならず、誰もが原風景を持って生きている。生涯枯れることのないココロの泉に、そういった風景は、映されているのだろう。(20010911)

#480 夏のイデタチ…
 女のヒトのお仕事には、「ストッキング」をはかないと成り立たない仕事と、そうでもない仕事がある。男性の「ネクタイ」の概念にあたるものが、女性では「ストッキング」ではないかと私は思っている。ストッキングなんてのは、誰が発明したのか、実はとても不思議な存在で、ナイロンの網状のものを皮膚に覆う…物体なのである。にょきっと素足をみせるにはマナー違反…なんて時に使うと、私の頭の中では定義されてる。ちょっと前に、建築やってる社会人1年生さん(女性)と話してて、話題がそのことになった。彼女曰く「ストッキングはかなきゃいけない仕事につくなんて考えられなかった…」と言う。「たしかに〜」と笑ってしまった。彼女も私も、ストッキングをはかない...(色気なくってすみません) 最近私は、現場が一段落したので、内勤が多く、ストッキングを必要とする服装で仕事をしていてもいいのだが、靴下にサンダルとか、相手に失礼にならない程度の裸足?にこれまたサンダル(念のため、ミュールといったおしゃれな類ではないことを補足しておきます!)…といった感じである。ま、足元から全体の雰囲気が決まるように、衣服そのものも、想像するにたやすく……。暑いことをダシにして、こんなに毎日が楽しくっていいんだろうか?夏はつくづく罪作りな季節だなぁ。はは。(20010728)

#456 再・東京カテドラル
 5月に生まれて初めて「東京カテドラル」へ行った時、私は少し目眩を覚えるくらいの気持ちになった。このことを「HITORIGOTO」に書いたのだが、それを読んだ方が実際に「東京カテドラル」に足を運び、その時その場所で感じたことの感想を頂いた。その人らしい、まっすぐでやさしい表現に、またしても、私は感動した。その空間の存在が、誰かのココロの中に咲いたということが、何よりも嬉しかった。その翌々日、仕事帰りにHさんと廊下で一緒になった。明日から東京へ初出張…とのこと。「妹島(和世)さんのhhstyleとかも観てこようと思うんですよ…」という。さすが…イイ勘してるというか、オベンキョ〜?熱心というか。。。「イイねぇ!…そうそう、東京といえば、私、この前『東京カテドラル』ですっごい感動した…。時間ないといけないかもしれないけど…。ま、気を付けて〜」と、時間が時間だけに急ぎ足でお互い闇の中へ去っていった。そして、その出張の翌日、倉庫での作業の帰り、Hさんが「東京カテドラル…観てきましたよ。僕、なんていうか……、あんまり大空間には感動しないんですけど、あれは……もう……」嬉しそうに、感動したというか、ヤラレタ〜という感想を話してくれた。時こそ違えど、誰かと、同じモノからココロを揺さぶるようなキモチを共有してる…そんな気がした。それぞれの「旅」がありつつも、ひとつ同じ場所で立ち止まって、何かを受け止め、お互いの感じ方を尊重しながら、自らもまた発見するような気持ちとでも言おうか。私が誰かに、あるいは世の中に伝えたいのは、こういった「共有感」なのかもしれない。自分が気付いた大切なことについて発し、それを受け止めた方は、どのように感じ、考え、動いていくのか?私だけではなく、少しずつ何かが動いている、考えている、感じている…そういう単純なことがこの上もなく嬉しかったりする。「旅」や人生そのものは孤独なものだけれど、ふと孤独と孤独が交わる接点……がある。あるいは、接点から拡がっていく「輪」もある。この世に生を受けて30年にして、少しずつ分かってきたことのひとつ。(20010701)

#450 扇風機
 ウチの仕事場は、夏場でも28度設定。「地球にやさしい」という理由?だが、なまじ日本で甘やかされて育った体には厳しい。快適に温度設定されたオフィスビルで働いてたという転職組の新人さんは4月には根をあげていた。現場事務所のほうが冷房ガンガン効いて涼しいよぉって、言ったら顔が引きつってた(笑)それで、対策として小型扇風機なんぞをカラカラと回している。暑くなった空気を掻き乱しているだけだとの指摘もあるが、体感温度でも下げるしかない。いつぞやは「心頭滅却すれば火もまた涼し」と書いた紙を張っておいたが、これもまたむさ苦しいだけだった。。。暑いのは気温もさることながら、シゴトしなきゃいけないからだ…ということも何となく分かっている。それでも、扇風機が首を振ってるのを見ていると、私は個人的にアジアの安宿というか、そういう場所を思い出してしまい、皆とは別の意味でいてもたってもいられなくなる。なんというか、アジアが恋しいというか、そんな気持ちになる。同じ扇風機の風に吹かれるなら、あのねっとりとした熱帯の空気で…と思ってしまうのである。そりゃ〜仕事にならんわなぁ。(20010625)

#448 John Pawson
 …の桧風呂みたいなバスタブをポンと置いたバスルームはいかにも印象的。なんというか「無」であったり、そういうところがかえってスパイシーだったりする。NYのカルバンクラインのショップや、香港国際空港(古い方は啓徳…と行ったが…新しい方は何というのだろう?)にあるキャセイ・パシフィックのラウンジをデザインした…と言えば、分かりやすいかもしれない。その存在は知ってはいたのだが、その禁欲的なまでの表現は「禅」と関係あるのではないか…と思っていたところ、すこしアンテナ張ってみるとやはり彼は日本関係者でした。。。放浪中に名古屋で英語を教えていたり、倉俣史朗さんのところで修業してたりとか…。思えば、日本というのは、世界的に観ても、とても魅力にあふれている国だったりするんですよね。本当の日本らしさとは何ぞや?と求めるに、外国人ならずとも、とても実態がつかみにくく、それでいて奥の深い国であるような気がする。実際に住んでいる人が分からなくて、どうするんだぁという気もしないでもないのですが(笑)本来、日本人の精神は、自然に寄り添う四季折々の事象の中から全て生み出されて来た。そう多くはないモノの中から、本当に大切なモノだけをきちんとふるい分け、自分たちのモノにしてきた。今、世界じゅうで「MINIMUM」とか「Simple」がもてはやされている現象は、実は、温故知新であり、自然回帰であり、どこか警笛めいているような気すらする。もともと私たちの祖先が当り前にしていたことを見つめているのである。どうか、これがブームとかそういった言葉で片付けられてほしくない…と思う。仮に世間的な流れで脚光を浴びたとしても、一人ひとりが真の意味を理解するまでは、その波を持続させなければならないような気すらする。ただ、哀しいことに、この意味を理解するには、知識というよりは、知恵が必要なのではないか…と思える。意識が低いと挫けそうになる。人間そのものの強さがないと、理解はできても実践できないような気がする。冒頭のJohn Pawsonが何故このような表現を打ち出し、世の中に受け入れられているのか?世の中の現象には、しっかりと理由があるものなのである。(20010623)
John Pawson=「Minumum」「Barn」などといった著書がある。以前「ELLE DECO」でも取り上げられてたから、かなり浸透している方かもしれない。

#444 スダレな壁面
 浴室を出てのいわゆる脱衣場という場所が、わが家は異様に狭い。その脱衣場の壁というのが、腰までのタイル張りにその上が天井まで砂壁ときたもんだ。ミテクレもさることながら、裸になった体がその狭さゆえに、その壁に触れると何とも気持ちの悪い思いをして、春夏秋冬過ごしてきた。なんとかならんもんかいな…私はそう思っていた。だけど、改装するには大げさだし…などど、職業柄全然小回りの効かない日常を送っていた(笑)そんな時、近所のなんでも屋で、簾(スダレ)を発見した。「!」…。これを、アノ脱衣場の壁に掛けよう…と。これなら簡単に100%天然素材の壁が瞬時に作れる!浴室の出入口枠の上と、据え付けた棚の上に引っ掛けて、スダレな壁面ができ上がった。母もやり場もなく不愉快な思いをしていたらしく、好評。一方、父はふーんといった反応だった。改装すれば、100%満足かもしれないけど、そうできるまでの時間をも快適に過ごしたいと思う。へんな話だが、これまで空間に対する欲望として、触覚を優先させたことはあまりなかったように思う。それは、どちらかと言えば視覚優先で、触覚に対する不満から知恵を絞ったことはほどんどなかったような気がする。それでも、近頃は、何かを選ぶ時に知らず知らずのうちに、その触覚なんぞを確かめている私がいる。そう言えば、某さんが「男は視覚的動物で、女は触覚的動物」…とのたまいていたのを思い出した。スダレな壁面と関係あるようなないような…。(20010618)

#440 手と色気
 建築を設計する人の手は、不思議な位、その骨格が似ている。すーっと一本通っていて、余分なモノがついていない。例えば、打ち合わせをする時などは「手」が視界の中に入ってくる。あるいは有名な建築家などの写真などでも上半身の写真があると、手の部分もそれとなく記憶として入っている。いつの頃からか、その手のかたちが似ているなぁと思った。たまに他の仕事でも同じ様なかたちをした手に出くわすこともあるが、最近は世の中が狭いのか分からないが、似たような手ばかり見ているような気がする。もちろん現場の方の手は、節も指もずんぐりしていて、設計する人の手とはやっぱり違うなぁと思う。まさに、人の手には人生が刻まれているのである。先日、建築家・安藤忠雄氏のテレビをやっていて、スケッチしている時にその手がアップされて写った。元ボクサーだから手も…と思っていたのだが、その手はあきらかに設計する人に属するような骨格を有していた。ちょうどその後、ジャン・コクトー展で、彼の手の模型があって、手に関する決定打を得たような気がする。コクトーのは恐ろしいまでに繊細で優雅な手だった。この手で、数々の芸術を生み出し、多くの人を魅了したのだなぁと思うと、うっとり見つめるしかなかった。(それほどまでに美しかった…ということだ)かなり個人的見解に偏ってしまうけど、男の人の色気って、手にあるんじゃないか…。自分自身への憧れも含めて、私は、すーっと繊細な指を持つ手に弱いもようです(笑)(20010614)

#438  move
 シゴトバの若手?で話していて、ふと将来について「ヒトのココロをmove…動かす仕事がしたい」というコトバが口から出てきて、今さらながら私が社会と関わっている原点を確認したような気になった。実はそれはハコモノと呼ばれる建築のみに限られてはいないと思ったりもする。それでも「move」への手段やプロセスは、むしろ非常に大切なものとして位置付けている。こういったものが、世の中あるいは社会とどう関わっているかということだからだ。それでも思う。笑わせようとしてつくった話が結局つまらないように、「move」を目的としてつくられたものは、決して誰のココロをも「move」させることがない。無心あるのみ。(20010612)

#428 東京カテドラル
 東京での週末、以前マツオカさんから『東京カテドラル』がいいよって教えてもらっていたことをふと思い出した。ほかにもたくさんたくさんススメテ頂いたのだけれど、私の中には「…カテドラル」しか記憶に刷り込まれてませんでした…!しかし、その場所が分からない。申し訳なく電話で、マツオカさんに場所を聞いて、地下鉄「護国寺」と「江戸川橋」の間にある…ということが分かった。休日の朝、人通りの少ない大通りをお散歩がてら、カテドラル(大聖堂)を目指した。私には、丹下作品のひとつというくらいの認識でしかなかった。どんなカテゴリーに属するとか、極端な話どんな形をしているのか…という知識すら持たずに、ぶらりと出かけてみたのだ。かの建物くらいなら、すぐに見つかるだろう…とタカをくくっていたのだが、小高い丘の上にそびえるそれに近づくアクセスが見つからない。時間も時間だけに人影すらなく、藁にもすがる思いで、警察の警備員に道を尋ねた(笑)急勾配の細い坂道を登り詰めると、白い鉄格子の門が見つかり、ホントはいけないのかもしれないけど、そちらの入口からおじゃました。幾何学的にうねった形態を持つ、まばゆいばかり光の屋根に目を奪われた。あまりの無機質さに排他的な印象すら与えるのだが、形態的にみれば、たしかにバランスの良い「かっこよさ」を意識した造形物である。(私は、それだけでは納得というか満足しない、カワイクない人種ではある)入口に誘われて、中へ。その大きな空間を見上げた瞬間、正直「参った…」と思った。細めの板材で打ち放されたコンクリートが、高くゆるやかなカーヴを描いていた。それは賛美歌のように、荘厳かつ華麗な緊張感を持っていた。強く正しいとは何か?ということをを考えたくなる表現である。それは、その空間として求められた目的が、宗教という、人間の精神活動に関わっていることもさることながら、やはり、その空間をつくった人間に込められていた魂が、かたちとなって現れてきたのだろう。丹下作品といえば、かの有名な代々木国立競技場とインプットされていたのだが、それは一気に塗り替えられた。光の崇高性とか、ディティールについても様々なインスピレーションが込められており、解読するに自らの未熟さを問われていることすら感じさせた。ふと、丹下さんは教徒なのだろうかという愚問が湧いてきた。それはあくまで愚問であって、そうであろうがあるまいが、建築をつくる者というのは、その空間の必要性を的確にかたちに置き換える表現を持たねばならないのだと、結論に到った。そういう意味では、旅先で、私が絶えずエトランゼだったように、建築人はエトランゼとも、その必要性をあるいはそこから生まれる表現を「かたち」にしなければならない。エトランゼだから、その気持ちは分かりません…表現できません…では、旅人としても建築人としても、片手落ちなのだろう。その根源にあるのは、相手を思いやり、想像することであり、そういったことから、真の「創造」が表現されるのではないか…。ひとつの建物との出会いから、私はまた一つの旅をしていた。私の本当の意味での「旅」は始まったばかりなのかもしれない。(20010528)

#421 みること、つくること
 先日の「フレンチトースト」の話ではないが、今日も「つくる」ことの話について。雑誌に載っていた建築家妹島和世さんと西沢立衛さんとの対談を読んで「!」と思った。西沢さんは妹島さんの事務所から出た方で、おふたりはよきライバルでありつつも、よき仲間(師弟というよりも!)といった趣。西沢さん談「妹島はね、建築に興味がないんですよ(笑)見に行かないんです。妹島は見るより、作るのに興味があるんです」この言葉で、正直救われた…と思った。実は、私は薄々感じていたのだが、建築を見るためだけに行動を起こすことがあまりない。それは、この職業をやっていく中で致命傷なのではないか…と思っていた。それだけは自分を変えられなかった。ケンチクに関していえば、私は邪道な入り方をしているので、本来ならば人一倍真面目にオベンキョウすべきなのだ。だけど、本・雑誌で取り上げられている作品をわざわざ見に行くほど、私は熱心ではなかった。たまたま通りがかりにあると、「あ〜そうなんだぁ〜」と感動というか、感心してみるけれど(笑)どうして私はこんなふうになっちゃったんだろう?って思ってた。最近そのことについて、少しずつ分かってきた。ものをつくる人間というのは、他の人のつくったものをどうのこうの言ってる時間があったら、自らつくることに時間を費やすべきなのだということに。勿論自らつくる過程の中でのインスピレーションとして、誰かのインスピレーションと交わることがあってもいい。だけど、ほかの人のばっかり見ていても、オリジナリティーは育ってこない。二番煎じになってしまう。エラそうなことを並べてしまったけど、これは全て自分に対する叱咤激励のコトバだったりするんです。まだオリジナリティーと出会えていない私に対する…(20010516)

#420 フレンチトースト
 天然酵母…に釣られて食パンを一斤買った。それは私にとってはとてもとても食べ切れる量ではなかったので、自然と冷凍庫行きとなった。お休みの日に、ちょっと「おやつ」しようと閃き、「あの食パンはどうかな…」と思い浮かんだ。だが、食パンというのは「おやつ」としては素っ気ない。一手間加えて、フレンチトーストにすることにした。卵と牛乳と蜂蜜を混ぜた中に軽く解凍した食パンを浸して、フライパンでじゅっと焼く。お皿に盛ってシナモンをさっと振って「いただきます」!フレンチトーストっていうけど、あんまりフランスっぽくない(笑)誰が名付けたんだろう?フレンチトーストってあんまり外で見かけない。オウチで作って食べるのがいちばん美味しい食べ物って気がする。こういうのって、おやつ系だと、ホットケーキしかり、スコーンしかり。外でも勿論美味しく食べさせてくれることはある。そういった時、私は「どうやったら、こんなに美味しく作れるんだろう」って研究熱心なキモチ…みたいな邪心が働いて、どこか緊張している部分がある。私は食べるのが好き…というよりも「つくる」のが好きなのかもしれない。何事においても…。(20010514)

#410 シナベニヤ
 GW初日、金沢での会合を一発済ませ、帰りにホームセンターで910mm*300mm*5.5mmのシナベニアを2枚購入。自宅のテレビ、コンポ、ビデオの上に載せて、その真っ黒で大きな機械たちを麻の布で覆うためである。一枚を直接オーディオ類の上に水平に載せ、布をちょうどよい加減にし、もう一枚の板で布を挟み込むようにして置く。部屋の中から、やや異質の物体が視界に入らなくなっただけで、居心地度アップ…と自己満足。もともとその一式はビデオを鑑賞するためだけに存在していたものではある。私の場合、その利用度たるや侘しいもの。だとしたら、それ以外のことをしている何十倍もの時間に、違和感なく居心地よく過ごせることの方がずっと大切なのだ…と気付いたのは、お恥ずかしながら、つい最近になってだった。気付いてはいたのだが、どうしていいのか分からなかった…という方が正しい。シナベニアに麻のざっくりした布を挟み込んで全体を覆うというアイデアが浮かんだのは、自分の好きな素材のことを考えていた時に閃いたのでした。たまたま仕事場のデスクの前に、不要になったシナベニアの端材を立てたら、感じがよかったこともリンクしている。「どうにかしたい」という意識さえあれば、何かの節にアイデアは湧いてくる。逆に意識にないものはアイデアにすらなりえない。さてと、小さなアイデアはいっくらでも湧いてくるのに、その幹たるや、ふらふらしていると感じるのは気のせいか。(2001.5.1)

#407 とある記憶
 東京都庭園美術館の入口にあるカフェで、紅茶を飲んでいた。ここに大きな木のテーブルがあったらいいなぁと思いつつ。ふと、気持ちいい窓だなぁと思った。大きな窓枠は、さながら額縁で、それに縁どられた緑たちは一枚の絵のようだった。その緑が生き生きと光っている。その様子から、これは北面の窓だと察した。南の窓から光をたっぷり入れる信仰の強い日本では、北面の窓を意識して大きくとることはあまりない。北側に庭…という発想も…だ。教科書的に言えば、北側の採光は、光量が安定していて、アトリエや書斎に向く。それでも、この窓は教えてくれる。北面の窓は「一枚の絵」になりうることを。その窓は、光を燦々と浴びる緑や風景を切り取ってくれる。どんなに素晴しい名作にも劣らないどころか…四季折々の変化を感じさせる素敵な絵画としての窓があれば、その空間には余計な装飾など要らないとも思う。(2001.4.27)

#397 内部空間
 ステキな人に出会うと、このヒトはどんな内部空間を持っているのだろう?とワクワクしてしまう。会話のカケラから、それは見え隠れすることもあるし、その雰囲気からおのずと伺えるものでもある。内部空間というのは、暮らしの場やカバンの中身なんていう目に見えるモノ…も表面的な意味合いも勿論あるが、私が想像してしまうのは、ココロの内部空間とでもいおうか、目に見えない部分をどれだけ大切にし、そういったことを実践すべく何かしている、しようとしているということだったりする。そんな中から、目に見えないことを大切にする姿勢が、その内部空間にたくさん存在していると分かると何だか嬉しかったりするのです。(2001.4.15)

#357 仕事と趣味
 私にとって建築ってのは、仕事でもあり、趣味でもある。それでも、仕事の建築はあくまで仕事であって、その二つは一応、線引きされている。茶室の本をうっとり眺めたりするような行為は、どう考えても趣味。20世紀の巨匠たちの手がけた住宅の本を買うという行為すら趣味である。どこか理想を求めるような気持ちでなされている行為は、趣味…かも…なんて思っている。現実の仕事では、雑務の合間に「建築」をやっているといった方がいいかもしれない。会議資料として、座席図をつくるのにCADを使う…これは能力を生かしているのか、何なのか一体よく分からないが、そういうことを含めて、仕事は仕事で楽しむことにしている。ここで、原点を振り返ってみるに「人間が生きるために必要なものをつくっていたい」…出来る限り生きる本質に近いものでありたいと思って選んだのが「建築」だった。今の時点で私がやっていることは、理想には程遠く、決して本質に近いといえない。だけど、この延長線上に何かあるかなという気もする。人間なんてのは、好きなことをして生きるのが一番幸せな動物なのである。そして、不満を言い出せばキリがない動物ともいえる。だから、今はこうしているのかなぁ…とも思えるのです。(2001.2.22)

#356 結果と目的
「いい報酬がほしい>>>仕事する」スタイルの人と同じ空気にいると、私はツラクなる。なぜなら、私自身、願わくば「イイ仕事をする>>>報酬がある」と考えているから。今はまだ「仕事をする>>>報酬がある」という程度ですが、理想はそうなのです。報酬、すなわちお金は結果であって、目的にはなり得ない。大切なことの根本は、お金のみならず、結果は後からついてくるってこと。そう考えると、目的…については深い考察は不要ってこと?ただひたすら為すことが、強いては目的になるのかなと。(2001.2.21)

#337 贅沢な悩み
 不思議と静かな週末。土曜日に打ち合わせと称するモノを一つした。そうは言うものの、仕事ではない。ほかは約束もなく、全部自分時間。はて、一年前の今頃は何してたっけ?って思い出すに、仕事していた。そういや、過労警報発令中なくらい仕事していた。毎日終電。布団に入るのは午前1、2時前後。そして3〜4時間寝て、また仕事に向かった。休みの日もほとんど仕事場に出向いてたっけ。仕事=自分時間っていうヒトはほんま幸せなんでしょうね。残念ながら、私の場合、当時も含めて現時点では、仕事=自分時間と100%重ねられてはいない。時々、今やってる仕事の展望や、自分がやっていきたいことは何なのか…と、考えあぐねてしまうことがある。ずいぶん近いところにまで来ている気はしていても「ぴったしかんかん」ではないような。そんな迷いや悩みを、自分の夢や理想そのものへの思考力に転化できたら…とも思う。幼い頃、21世紀になる頃には、ナニカシラやりたいことやってるオトナになってると思ってた。蓋を開けてみれば、まだまだ執行猶予中の私。昨日読んだ本には、お釈迦様やイエス・キリストは、33歳で自分の道を見極めたとあった。それで、執行猶予はあと3年くらいあってもいいかなという気持ちが芽生え、悠長に構えることにした。「自分の道」かぁ…。分かってるんだけど、分からないんだよぅ。(2001.1.28)

#319 ハツしごと。
 朝メールをあけたら、私がシゴトバで「おとーさん」と呼ぶSさんから年賀メールが届いてた。おとーさんとは、昨年、同じ部屋にいたよしみで、私と同い年くらいの息子さんが二人いらっしゃることから、ついついそう呼ばせてもらってます。その名の通り、いろいろ親身になって仕事のことを教えて頂いたりしています。昨年、キンム地が変わったため、近頃ではなかなか顔を合わせる機会が少なくなってしまいました。それでも、時折、叱咤激励を頂ける貴重な存在です。そのおとーさんからの新世紀のコトバ…
いよいよ21世紀です。だから何なんでしょう?何か変わることがあるのでしょうか?
「・・・・・?」
自分が変わらなければならないのです。
常に変化を求めて前進、失敗は肥やしです。挑戦は道を開きます。
フト守りの姿勢に入ろうとしていた自分に気付きました。まだまだ道はこれからです。おとーさんがホントに言いたかったこと…漠然とですが、分かるような…。もしかしたら、それはおとーさんのやり残したことかもしれません。それでも、おとーさんは偉いよ!!!だって他人が変化することは、自分にとってみれば一番手に負えないことかもしれないのだから。いかんせん、おとーさんのような存在に感謝、感謝。さぁ、今年もイイ始まり〜!(2001.1.4)
 

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