...HITORIGOTO archi ver...2003...
#968 いのちの時間
 人生の中の時間は、「生活、仕事の時間」と「いのちの時間」のふたつがあると読んだ。本来、生活と仕事の時間は同じだったんだろう。でも、「稼ぎ」に出ている私とすれば、「仕事」「暮らし」「いのち」の3つの時間があるのだと実感している。
 いのちの時間とは…、生きていることを実感する時間のこと。それは道ばたの花を愛でたり、太陽の光を浴びたり、食べたり、眠ったり、洗濯したり、掃除したり…といった暮らしの時間の合間にあるような「いのち」を感じる時間だ。それは、自分の命であったり、誰かのいのちであったり、地球のいのちであったり、こうやって生きていることを感謝できるような時間のことだ。もちろん、ただぼんやりしているのも「いのち」の時間。ごはんを作ること…、一見「暮らし」の時間かと思いきや、私自身の実感とすれば、「いのち」の時間といいたい。季節の野菜や魚、玉子を、私たちの命の一部として頂くための行為なのだから。もしかして、本を読んだり、音楽を聴いたり…も、いのちの時間かもしれない。それらは命の洗濯をしてくれる。大好きな言葉を見つけたり、かっこいい考え方を見出したり、生きる勇気を与えてくれたり、人が誰かのいのちのためにつくったものを受け取る時間ともいえるから。1日のうちの、いのちの時間を大切にしたいと思う。(20031225)

#959 いっぱいいっぱい。
 私の仕事はいくつかがレイヤを重ねるように輻輳している。時間や頃合(〆切)をみながら、優先度を決めてとりかかっているつもりではいるが、そこに突如予定外のことが入り込むことも多い。元々のなさねばならない、いわゆる「定番」もののに加えて、突発的なことが立て込むと、それはそれはもうねどこまで限界に挑戦できるか…みたいなレベルになってしまう。
 そんな時、私の経験値としての支えになっているのは、卒業制作をした時の集中力と耐久力だ。今でも信じられないが、2ヶ月ほど毎晩3〜4時まで模型作ったり図面描いたりしてた。もちろん卒業制作ばかりやっていたのではなく、卒業試験やら、バイトやら、その他日常的になさねばならないことも多かったけれど、一日の終わり?には自分の許す限り、卒業制作に取り組んでいた。睡眠時間3時間が続いていたけれど、不思議と疲れは感じてなかったかな。
 だから、今でも1週間やそこらそんな生活が続いても、精神的には「あの時に比べたら…」と思えるだけのものはある。
 今週、週が明けたら、突如、突発的なことが多々発生して、時間的にも精神的にもそちらにとられてしまって、思うように動けない…。それでも、まぁ私が努力?してなんとかなるかな…と思えることをやって…、結構夜なべ仕事を続けること2日…。時々…なんで私(の担当の仕事)だけ…?と思うこともあるけれど、為せば為る…為さねば為らぬ何ごとも…と。
 貧乏でもいいから、時間が欲しい…ほうの私ですが、どうあがいてもそんなふうにはさせてもらえない。仕事変わっても、部署変わっても、なれの果ては結局仕事ばかりがくっついてくる体質らしい。感謝すべきか…。(20031210)

#957 その空間をみたすもの
 家でせっせか掃除をしながらラジオを流していると、DJがこんなことを言ってた。「人は、理想のリビングを手に入れるために働いているのではないか…」と。一人ひとりの心の中にある理想のリビングは、どれひとつ同じものはないけれど、その理想と現実を行きつ戻りつして、今自分が住んでいる場所のリビングが存在する。
 うちのリビング…というより茶の間(…と私は呼んでいる)では、ごはんを食べたり、お茶したり、本を読んだり、手紙を書いたり、音楽を聴いたり、落書きしたり、居眠りしたり…といった場として存在している。何かする時はもちろんだが、何もしない時…ぼんやりと居る場所…それが茶の間…だったりする。
 寝食分離という言葉があるが、眠ったり着替えたり洗濯物たたんだりアイロンかけたり…といったことは隣の和室…です。書棚もこっちにあります。割とごちゃごちゃしそうなものは和室にあるので、茶の間には、ほとんどモノがない。大きくて古い木の座卓が真ん中にあって、座椅子と座布団に、白熱灯のスタンド、桐ダンス…その上にコンポ。季節柄、ホットカーペットとコンパクトヒーター…くらい。
 一人暮らしを始めて、自分のリビングをつくりあげる喜びみたいなものがあることに気付いた。つくりあげるというと語弊がある。リビングを調えるといったらいいのかな…。
 そして、最近思うのは、その空間の質を決めるのは、光であり、音であり、香りではないかと。美しいと感じる空間はこれらのバランスがとれている。
 朝の光があふれた空間に、ごはんの香ばしさがみたされ、高貴な音楽が響くその時、生きる希望みたいなものをもらう。
 夕暮れには、しばし香を焚く。失われていく光の強さと入れ替わるかのように、香がたちこめる。かすかに聞こえる暮らしの音。平和な一日を送れたことを感謝する。そして、周囲が闇に変わると、焚火程度の明るさに…電球をともす。
 その空間をみたすものを考える…それは理想のリビングを手に入れるための通過儀礼でもある。しいては、生きることの意味を考えることにとても近いのではないかと思える。(20031206)

#951 ズンドーさん
 ふと本屋で手にとった「casa ブルータス」で、あのズンドーさんが…。ズンドーさんとは、知る人ぞ知るスイスの建築家ピーター・ズンドーさんのことです。あまりマスコミには登場しないせいか、ズンドーさんのインタビュー記事は初めて見かけた!…と、突如ミーハーになってしまう。この雑誌、スローアーキテクチャーとして、ズンドーさんを取り上げていて、ほかにガウディなんかも紹介されています。彼の作った、ヴァルスの温泉…行きたい!…人が意図して作りあげたもののうちで、いちばん体験してみたい建築物としてはダントツ一位!で行きたいところだったりします。
 これまで作品やアトリエの写真を拝見していて、想像はしていたのですが、その暮らし…が圧倒的にインパクトに残りました。ここまで偉大になりつつも、スイスの田舎の村で創作しつづけ、アトリエの中庭でとれた野菜でごはんをこさえたりしています。それは「生活の質の問題」だそうで、この暮らしを変えるつもりはない…と言います。
 そして、仕事も、美術館、ホテル、ワインナリー、住宅など、暮らしの質に深く関係するものを手掛けています。(車のショールーム・ギャラリーや、軍のための施設を作る仕事は、信条から断った…とも)
 いい暮らしをし、いい仕事をしているなぁ。
 20代の頃からずっと考えていました。いい暮らしをすること。いい仕事をすること。いい暮らしとは何か、いい仕事とは…?。
 そして今、思うのは、少しずつ自分なりにイイ暮らしができるようになってきたのでは?と。何がイイということは明確には伝えがたいですが、確かに暮らしている感触があるのです。
 まずは「暮らし」ありき…です。いい「暮らし」を送れないようなら、どんなに「いい仕事」をしていても、いい人生とはいえないのでは…とも思っています。そんなことを、ピーターさんの仕事や暮らしをかいま見て、改めて認識したのでした。
 さてと、こうなると当面の課題は「いい仕事」をするってことかな。これは前途多難だ…。(20031127)

#946 オトコマエ(男前)であること
 仕事となると人格が変わる。仕事が仕事だけに打ち合わせとか会議とか「紅一点」であることもしばしば。それが全然気にならないのは私自身がオトコマエだからだ。外見とかそんなことではなくて、決断とか段取りとか発想とか、そういうのも含めての雰囲気がオトコマエなんだと思う。そこらへんの男性よりも男前…という妙なコメントを貰った時、密かに嬉しかった(笑)オトコマエというのは、一つの人格を指すのだろう。時々、姉御肌?と言われることもあるけれど、それはちょっと違う。「ついてこい!」というタイプの人間ではないからだ。自分が楽しいことに対しては純真だけれど、それを誰かに無理強いすることなく、とにかくひとりでも多数でもとにかく愉しむからだ。それでも、時々どうでもいいようなところで、決断を迫られると、どっちでもいい…と優柔不断になるところもある。何かを買うとき、10分位立ちつくしてしまうことしばし。オトコマエなのは、どうやら仕事に限ってのことらしい。(20031120)

#941 ハレの仕事、ケの仕事
 この3日間ほど、大きな会議もイベントもなく、こつこつと仕事をしている。(それでものんびりとしている訳にもいかず…)いわゆる「ケ」の仕事。
 最近ふと思った。どんなに華やかな仕事でも、舞台裏は必ずある。ハレの仕事…といえるようなこと…例えば、プレゼンテーションとか人の注目を浴びるような仕事もあるけれど、世の中の大抵のことは「ケ」の仕事だ。地味にこつこつと積み重ねるような仕事があってこそ、華やかな部分も引き立つのだ。
 そういえば、昔の日本人は、「ハレ」と「ケ」の使い分けがうまかった。今の私たちは、毎日が「ハレ」にもなるうるような暮らしぶりだ。それでも、「ハレ」になれてしまうと、それが「ケ」との区別が付かなくなってしまうような気がしてならない。闇の部分や影の部分があってはじめて、光の部分が一層明るく輝くように感じられるのだ。
 闇や影も畏れずに「ケ」である日常を過ごしていきたいと思う。(20031111)

#940 安藤さんの言葉
「生活のなかで心から感動したり、本当に考えたりする力を日本人は取り戻さないとあかんな」
「自由な精神で、本当に豊かな人生をそれぞれが歩む。そうしないと日本は沈没しますよ」
今年、文化功労賞を受賞した建築家・安藤忠雄さん。10月29日付け朝日新聞に掲載された喜びの声から抜いたものだ。いわゆる「安藤節」である。賞を受けたことよりも、むしろ、こういう時でも、世の中へのメッセージを伝えるのが、他の建築家にはない部分かもしれない。
 世の中で誰かが言わねばならないことを言う。それだけのことを言えるだけの道のりを歩き、歩こうとしている方だからこそ、説得力がある。
 建築家として、安藤さんの建物はどうか?と聞かれたら、私はいつもうまく答えられない。ただ、いつも思うのは、安藤さんは、誰もが思っていて、声に出していない部分をうまく社会にのせている。それは、建築であったり、そういった時の言葉であったり…。日本人の足りない部分、失ってしまった部分…そういうことをいつも念頭においているのだろう。建築家というよりは、建築社会活動家に近いかもしれないねぇ…なんて、誰かが言ってたっけ。(20031110)

#937 暮らしの中の3つ
 ミースの住まいは、シカゴの古ぼけたアパートだったそうだ。バハナの葉巻とマティーニと仕立てのいいスーツ3着があればいいといった信条は、その建築にも現れているように思う。私にとって、ミースの葉巻とマティーニとスーツにあたるものは何だろう?ディンブラの紅茶に香ばしいパン、オリーブオイルの石鹸、ざぶざぶ洗えるコットンの服かな。そこらへんから「違う」訳ですが、そういう自分を結構気に入ってます。「暮らし」になくてはならないもの…を少なくあげれば、あげるほど、その人自身が照らし出されます。おもしろいなぁと思う。暮らしの中の3つ…いろんな人に聞いてみると、もっと面白いだろうなぁ。(20031105)

#935 「衛門館」御披露目 オペラコンサート
 小さい時、何度か遊びに行った祖母の生家…。築後120年とも言われるその家を改修した記念に、御披露目オペラコンサートが開かれました。歌は、黒澤明子さん(びわこホール所属)。生まれ変わった空間に、響わたる音が心地よい時間を過ごしました。私は、一族ということで招待されたわけですが、3代目当主?の多岐にわたる知人が多く、終始和やかな雰囲気でした。そもそもこの家が再生されたのも、3代目さんが、神戸で勤めあげ、定年を迎え、こちらで暮らすため調えられたものでした。そもそも「衛門館」の名前の由来となった初代、太郎左衛門さんは、村長さんだったそう。そのせいか、その直系である3代目さんも、なかなかの方で、長年新聞社で記者をしておりました。私とは、年もかなり離れているのに、懇意にさせてもらってます。そして、その4代目さんが、音楽の仕事(指揮)をしている関係で、このコンサートに至ったとか。コンサートを聴きながら、いろんなことを考えました。私にも流れている一族の血のこと、家族…、仕事や生きがいみたいなものについて、そして、何より、暮らしの品位みたいなもののことを! 日々、闇雲に生きているけれど、そういったものは大切にしてきたつもりだし、これからもそうしていきたいと再確認したのでした。(20031031)

#931 佇(たたず)まい
 作家・宮本輝さんが高校時代に出会った「千巻の書」という言葉。「たくさんの優れた書物を読めば、それに値する優れた文章や言葉などが自然に身につくのだ、という解釈だった。逆に考えれば、その人の文章や言葉遣いで、その人がこれまでにいかなる書物をどれほど多く読んできたのかが分かるというふうにも受け取った…」という。
 ふだん私が話している言葉にせよ、今書いているHITORIGOTOにせよ、知らず知らずのうちに醸し出している「佇まい」でさえ、読んだ言葉や受けた印象、体験があって、私という存在からアウトプットしていくということになる。
 だから、本は読んだ方がいい。体験はあった方がいい。そんな信条から、私自身、20代のなかばから、意識して書に触れ、旅にも出てきたのだなぁと思う。そして、「忘我」の意識も分かり掛けてきた今日この頃、心がけていることといえば、できるだけ美しいものに触れるようにしたいということだ。美しいものの定義は難しいけれど、自分が判断して、感じる、美しいもの…だ。
 私の知る限り、美しいということを大切にできる人は、凛とした品格があり、高貴だと思う。下世話な話をしていても感じがよい。存在感のある佇まいは、こういったことから生まれてくる。
 そして、それは人だけではない。空間も同じことだ。先日、知人宅を訪れて感じた。
 職業柄…というよりは本能的に、誰かの日常的な空間に入る、非日常的な自分…といった浮遊感が好きだ。これだけ旅にはまれるのも、あるいは旅に出ていなくても退屈しないのも、もっともっと根本的に客観的に分析するに、こういうことなんだろうな…と最近気づいた。そして、どういった空間に「居る」かということは、自分が感じているよりもずっと人間の本質的な部分と関わっている。人間から発する「佇まい」を受け止めるものは空間。もっともっと大きな意味での地球という空間ということもある。
 目には見えない「佇まい」。そういうものを感じる暮らしを送っていきたいと思う。(20031023)

#921 民家再生
 昨日はハウジングスクールに参加して、県内の「民家再生」の事例を見て回りました。古い建物を自分たちのライフスタイルに合わせて「再生」させることは、最近、カフェ等の店舗でも少しずつ世の中に出てきてますが、それが「住宅」であることに、私は深い意味があると思えてならないのです。住宅の中には「暮らし」があります。「家族」があります。それらをつなぎ、後世へと伝えていくものの入れ物としての「家」がある。その家を大事に住み継いでいくこと…について、深く考えさせられました。これまでもちろん「民家再生」にはかなり興味がありました。しかし、どこか興味本位だった部分もあるかもしれません。でも、少しずつ、自分なりの暮らしのつむぎ方も分かるようになって、改めてこういったことに触れた時に、このことは、もっともっと大切なことなんだと思えてきたのです。日本人が豊か…と自覚できないのは「暮らし方が豊かではない」からだと思うのです。足下がしっかりしていないと倒れやすいというか、いくら表面的に着飾ったり、誰かの作った美味しいものを食べたりしても、その部分は本質的な暮らしの豊かさにはなりえないのだということです。自分たちが主体となっていない…とでもいうのでしょうか。その人なりの暮らしのビジョンが見えてはじめて豊かさに気づくのです。それでも、一部の人が気づいているように、もっと自分の暮らしや家族を大切にするためにできることは確かに存在するのです。そのひとつの手法として「民家再生」はあるのだなぁと思いました。(20031008)
今日は本当にどたばた劇でした。忙しくなると自分でもヒステリーおばさんになってる…と自覚しつつ。

#920 秋の味覚…と家事と建築?
 「建築」という仕事では、暮らしの行為の経験値が思わぬ所で発揮する。勿論仕事のために「暮らし」をしているのではなくって、「暮らし」の傍らに仕事がある…という認識。おぼろげながらこうは思っていても、目の前のものを闇雲にやっつけるように生きている。時々ふと思う。私は「建築」という仕事をしているのだろうか?純粋に考えれば考えるほど、私はどんどん建築の本質から遠のいているのかもしれないという思いが頭をよぎる。
 そうはいうものの、週末は完全に休業という恵まれた環境にいる私。そういう時にここぞといわんばかりに、家事に精を出す。そして、この週末は、まさに秋の休日と思わせるお天気に恵まれました。
 そんな秋の休日…。そもそも、妹からもらった立派な栗をどうしようか…と思いあぐねていた。普段の私なら茹でて食べてしまうか、お菓子に入れ込んでしまう…はずだった。それが、秋の空を見ていたら、去年、ドイツへの研修の中で御世話になった家族(日本人)が、お弁当を持たせてくれて、おにぎりと漬け物と栗の甘露煮!が入っていたことをぽっかりと思い出してしまって、どーしても、栗の甘露煮を作りたくなってしまった。そして、追い打ちをかけるように…新聞にも、栗の渋皮煮のことが書いてあって…、甘露煮もいいけど、渋皮煮に挑戦してみよう…と思ったのです。週末の夕暮れ、何か意味もなく台所にたちたくなるような、そんな時間のことです。まず茹でて鬼皮をむいて、それからまた重曹で煮て、厚い渋皮を剥がして…それからまた茶を入れて煮て、重曹の苦みを抜いて…、最後に砂糖と醤油で煮て…ずいぶん煮詰まったところで、「俵屋のあめ」を入れて、カラメル寸前まで…にしました。思ったよりもまともな栗が少なくて、できあがったのは、10粒足らずでしたが…、初挑戦にしては上出来です(笑)
 それに調子を乗って、この週末は台所に立ちっぱなし?でした。いつものパンは大失敗して、…もうひとつ、ライ麦入りのパンを焼きました!これは成功! それから、雑誌「天然生活」に掲載されていたはちみつ入りのパン。それから普通のおひるごはんも作り…。冷蔵庫でしなびる寸前の白菜を救済するために、キュウリやにんじん、しょうがのみじん切りを入れた浅漬けも仕込みました。そして、フィナーレは、おでん…です。しかーし、ぐつぐつと煮て味もしみて美味しくなる頃には、なんと精魂尽き果ててしまい、大根とこんにゃくと厚揚げとちくわをひとつずつ食べて、眠りに落ちてしまいました。電気もラジオもつけっぱなしで…。サンマも焼く予定だったのに…。
 そして、今日のお弁当は、おにぎりとおでんです。なんか秋だなぁ。(20031006)

#918 好きな雑誌…
 ひとり暮らしを始めて、圧倒的に「寄る」回数が減ったと思うのは、本屋さん。電車を使っている頃は、待ち時間で雑誌を斜め読みするのが特技でした。速読法を身につけている訳でもないのに、私が活字をざーっと読む時間は早い…人と比べっこしたことないけれど。そんな特技を身につけているせいか、紙面の大半を写真が占めている雑誌を読むのは驚くほど、早い…みたいだ。興味対象が限られているせいもあるかな(笑)そんなこともあって、どうしても持って帰りたい雑誌以外は買わない…のですが、最近はなぜか雑誌を買うことが多くなりつつあります。発端は「ku:nel」が創刊されたこと(これまで何かの拍子に発刊されていた…と記憶されていたのですが、とうとう定期刊行されることになった…みたいで、それを読んでいたら、雑誌熱?が芽生えてしまいました。好きな感じのものは単行本であろうと、雑誌であろうと、近くに置いておきたい…という。そして、以前から気になっていた大橋歩さんの「Arne」もぜーんぶ(笑)注文してしまいました。柳さんの特集があったり、堀井和子さんのパンのことを書いてあったり…。気になってしまっていたのです。そして、総仕上げ?は、10/1これまた創刊の「天然生活」。新聞の広告で知り…読まねば…という気持ちでいっぱいです。このように、近頃、私の好きな雑誌は、こんな感じです。私が好きなものがぎっしりつまったもの…それが、これらの雑誌なのです。もちろん本として存在してもいいくらいの内容なのではないかと思っているのですが、それが雑誌となって、いろんな味が少しずつ楽しめるところに雑誌のよいところがあるのだと思っています。「ku:nel」「Arne」「天然生活」…どんな雑誌?かまだ知らない方…今度本屋さんへ行った時にでも、手にとってみて下さいねあがりま。す。「Arne」はあまりないかもしれませんが、「ku:nel」は女性誌のところにあるところもあれば、料理・グルメ系の雑誌のところに並んでいる書店もありました。天然生活はどこに並んでいるんだろう?このほかにも毎度よく読んでいるのは、「新建築」「日経アーキテクチャー」はほぼ義務感で(笑)、それから、「住む。」っていう雑誌も季刊ですが、なかなかです。「チルチンびと」も読むかな。今はもうないですが、「太陽」も好きでした。洋モノでいちばん好きなのは、「マリークレール・メゾン」。「マリークレール・イデア」も見ることもありますが、圧倒的にメゾンに軍配があがります。雑誌は何かの層をターゲットとして、販売されているようですが、私はこれらの雑誌のターゲットにひっかかるような人物なんでしょうね。こうやって改めて書いてみると…私の真ん中にあるものが少しずつ見え隠れしているようで面白いです。皆さんはどんな雑誌がお好みなんでしょうか?(20031002)
最近、また「民家再生」が自分の中では再燃しています。そんなセミナーを受けたり、見学に行く機会が巡ってきたり…。人間の興味って輪廻転生しつつ、パワーアップしてますね。

#909 キッチンレクチャー
 土曜日に金沢市民芸術村の里山の家で開かれたキッチンレクチャー(金沢美術工芸大学と金沢21世紀美術館との合同企画)とやらに参加してきた。リクリット・ティラヴァーニャさんによるものである。要はタイ料理を作って食べて…といったことなのだが、がちがちの頭で臨むと、これのどこがアート?なの?と言いたくなるだろう。彼はベネチアビエンナーレのキュレーターもつとめているほどのアーチストだが、彼の作品はほとんど残っていない。会場からの質疑には「作品を残してほしいと画廊から言われないか…」という愚問もあったが、彼の作品は、その時その場に居合わせた人たちの心の中に残っているということだ。彼はタイ人の家庭に生まれ育ったから、タイカレーを作る。彼の視線はいつも自分の身の回りのものにあり、芸術然としたものを媒体としない。あくまでその行為であり、その行為から人の心に派生されうることが、非常に評価を得ている。日常…暮らしの中で流れゆくフローがアートになる。
 私が最近感じているのは、私にとってキッチンはアトリエだということ。foodのみならず、石鹸なんかも私はキッチンで作っている。誰もが作れるそういったものを、私は私のやり方で作っている。そして、人と人が違って面白いなぁと思うのは、そういうところなんじゃないかと思うのです。感じ方が違うように暮らし方も違う。その違いを認められることは「アート」を解することと非常に近いと思うのです。キッチンレクチャーからとりとめもない話になってしまいました。(20030916)

#897 布の分別解体
 建築物もリサイクル法によって分別解体となっていますが、私の場合いくらか着られなくなった服を処分するにあたっても分別解体としてます。ひものたぐいはきちんと抜いて、ファスナーやボタンもリッパーで糸をほどいて、とっておきます。痛んだ部分などの布でも小さめのものなら、掃除用の雑巾とし、大きな面がとれる布は、何か小物を作る時のためにとっておきます。さしあたっては、12センチ角に切り、コースターを作ろうかとは思って、いくつかキープしています。できあがったら、使える楽しみがあるけれど、作る楽しみが待っているのも大好きです。(20030826)

#896 スケッチしてものづくり
 何かモノをつくろうと思う時は、必ずそのもののイメージをスケッチしてから、製作にとりかかる。食べ物はさすがにそんなことしないけれど、お菓子を作る時は、メモをとってから…。それはできあがるもののイメージを描きつつ、つくる…という、建築から生まれた癖である。建築はかならず、できあがるものに対して図面がある。図面にかかる前にもエスキスがある。製図の時間、エスキスがよくないと、製図させてもらえなかった…それほど、エスキスは大事だし、エスキス以上にイメージやアイデアがものづくりの命なのだろうと思う。そして、最近、鞄やら服やらなんやらを作るとき、必ずスケッチを描いてから作りはじめている。作るかどうかは別としてスケッチしていることもあるし、まず材料ありきでスケッチしていることもある。そして、この前、そのスケッチをいろいろと見てみるに、私にしてはスケッチどおりだったり、スケッチに近いものがどんどんできていることもあって、面白いなぁと思った。スケッチに限らず、やるべきこと、興味のあることも具体的にかけばかくほど、実現率も高くなっている。おそるべしスケッチ。最近はスケッチのネタに尽きてきて、すこしアンテナをはりめぐらせているところではあります。(20030825)

#892 働くということ
 この仕事場で働いて6年になる。私にしてはよく続いたなぁと感心する。最近はあまり迷わなくなったように思う。働くということに。この仕事をしているということに。あまりの忙しさにネを上げたくなったこともあるけれど、まぁまぁ私が誰かのためにできるというものの中でいちばん大きいものが仕事なんだという位置づけだ。お金をもうける手段と割り切るほど、お金に執着していないし、仕事が生きがいというほど仕事熱心でもない。こんな中途半端な私にとって、働くということは、日常行為…以外の何ものでもない。ボランティアで日常行為を成り立たせるほど裕福でもないし、生きがいとか趣味というにはおこがましい仕事ぶりなので。こういうことにしておこう。(20030819)

#875 女性パワー
 週末、神戸への会議。全国から200余名の建築に携わる女性が集まった。会場を見渡して、ヒトが集まるということは、パワーが集まることだなぁと思った。30代の私なんて、まだまだひよっこだ。いつもは仕事に追われてて、人生のあとさきを考えることはめっきり少なくなったけれど、こういう時にはが「まだまだ頑張れる」と思えるから不思議だ。まだ私はスタートラインにすら立っていないかもしれない。生きることの少しだけ先を「希望」にあふれたものにしたい。素晴らしい人達との研鑽が気づかせてくれたこと。(20030715)

#849 新しい暮らしと光
 どうしようかなぁ…これまで躊躇していたことがあまりにもあっけなく「実行」の運びとなった。5月の終わり頃から金沢で暮らすことになった。今日、ようやく住む部屋が決まった。東向きに大きな窓がある2階の部屋。台所、居間、和室に洗濯を干せるサンルーム(雪国の必需空間!)。窓の向こうは田圃で、その向こうは児童公園…というのどかな場所。アパートは築15年を迎え、まさに中堅どころ新築のピカピカのマンションに住むことはどうしても想像できなくて、「古くても構いません。東向きか南向きで…」と伝えて部屋を探しました。日当りがよい場所…と紹介されても、南向きでも建物の影になっていたり、すぐ前が駐車場で窓を開けるのもためらわれるような部屋もありました。決めた部屋は4月末までどなたかが住んでいるので、実際にみることはできなかったのですが、建物の周りを1周ぐるりと回ってみて、間取りで想像するに「住むべき」部屋と直感的に分かりました。内装がどんな具合かは全然気にならないのですが、どんな光が入ってくるかは、どうしても譲れないものがありました。決めたところは、となりの田圃に何か建たないかぎり、太陽の明るさがいつもそばにあります。窓から土が見える生活もいいな…と思いました。アパートの敷地には少し土の部分があって、どなたかが樹木を植えたり、小さな花壇をしつらえたところもあったことも印象に残りました。雨もぱらつく曇りの日に一度みて、晴天の今日もみて、やっぱりここだと決めました。1カ月前には、まさか金沢で暮らし始めるなんて思ってもいなかっただけに、本当にほんとうなの?と自分でも驚いているところです。(20030406)

#845 三連休2003
 1年に幾度となくある三連休。以前はフルに活用して遠出をしたり、少なくともそのうちの一日を何か特別なことをしていたようにも思うが、近頃の私ときたら、その初日の朝、やんわり起きて「あれ?」連休に突入してる!となってることばかり。無計画なだけに、いつものお休みと大差ないのです。それでも、いつものお休みで、アラカルトでやっているようなことを三連休だからフルコースでやるだけの余裕があるかなぁと淡い期待を寄せつつ。
 さて、今回は…
初日…昨日仕事でのプレゼン?を終えたので、心ゆくまで休もうと思いつつ、8時に目が覚める。たまった洗濯をし、パンをこね、靴をみがき、さらにサツマイモが残っていることを思い出して、スイートポテトブレッドを作る。洗濯を干し、パンを焼き、カフェオーレなんぞを飲み、オリーブオイルでせっけん作り。それから、午後に先日録画したVTR「国宝探訪『待庵』『如庵』」それに染織家志村ふくみさんの「美と出会う」を観て…と。うつらうつら。夕方からは、半袖のプルオーバーのための布裁断。(今回は型紙も当てず、手持ちの服を合わせて適当にジョキジョキ!)
2日目…9時すぎ出発。まずは県立美術館での「日本海造形展」。(出展者でもある鈴木治男氏からお知らせが届いていたのです)造形や写真、絵画、工芸?などなど、ユニークな発想に刺激ビシバシ。
お昼は、本多町の旧中村邸1階で建築士会女性委のお茶会&お茶室見学会でした。懐石から頂くお茶会は初めてでドギマギ。皆さんの美しい所作に見とれてしまったり、あるいはN先生のお話に日々の心がけから志高くありたいと再確認したりしました。その後、旅行会社で、来月上京するチケット&ホテルを手配し、仕事場へ GO!。こっそりオシゴトです。現場から月曜日までに…と締切のあった仕事を済ませる。直帰するも、家にたどりついたのは、22時。まるで平日の残業モードと変わらない(笑)
3日目…シーツ類を洗濯機で回しつつ、冬物を手洗いし、ブラウニーを焼く。部屋の中も徹底的に掃いて、窓際で布団を干す。ラベンダーの苗をプランターに移し替え。午後からは半袖のプルオーバーの続編として、ミシンでカタカタ仕上げる。最後に水洗いし、ほどよくシワ加工して干す。そして、今朝届いたお菓子を開封するに春がポロリ。(オーイシ…ありがとさん)「三島ざくら」という静岡の銘菓です。桜の塩づけが入っていて、それはそれは美味でした。最近、自分で作ったお菓子ばかり食べていたので、久しぶりにプロの作ったお菓子に「!」と。さてさて、日も傾いてきます。もうヒトシゴトできそうかな。
 オヤスミにやりたいことは、手帳やスケッチ帳にちょこまかとメモしてあるのですが、なかなか実行に移す余裕がありませんでした。今回のオヤスミは、2/3家に居られたことで、ずいぶんとスッキリ感がありました。(20030323)ひと足早く「桜」が届きました!

#824 大工仕事のススメ
 父親が家で「存在感」を示すには、家に手を加えること…。父親に限ったことではない。巣作りに興味がない動物(人間)になってはいけないなぁと思うのです。国産材住宅推進協会の北山康子さんの講演を拝聴して、改めてこういうことを感じました。そして、ここからは私的感情で恐縮ですが、一緒に暮らすヒトは、こういうことが自然とできるヒトがいいなぁと思います。普段からノコギリとかカナヅチを振り回す必要はないのですが、慣れ親しんでいることが何かの拍子にちらっとでも分かると、乙女ゴコロは揺さぶられます。料理上手な女性に男性が「!」となるような気持ちと同じでしょうか。そういえば先日、いつもは図面を描いたり指示したりしてる現場担当が、人出が足りなかったのか型枠を直していて「やるじゃん!」って思いました。いつだったか、誰かが「結婚するなら生命力のあるヒト」がいいと言ってたのですが、それをもっと私なりのものに引き寄せるならば、「鋸やトンカチと友達であるヒト」といえるかもしれません。簡単な大工仕事ができる!と言って、本能的に好感を抱かない女性はいないと思うのです。もし、現在、無趣味の方、何かを始めようかなぁと思っている方、あるいはモテたい!方、是非是非、簡単な大工仕事をなさって「巣作り」に関わっていってはいかがでしょうか?(20030210)

#818 インテリアとしてのバッグ
 いつの頃からか鞄を買うとき、あるいは作る時、インテリアとしてこの鞄は調和しているか…ということを意識するようになった。ヒトサマにあまり聞いたことはないけれど、鞄といえばファッションの一部として服装との調和を考える人が圧倒的大多数だろう。だけど、意外と部屋の一部にぽんと置かれている時間が長く、インテリアの一部となってしまうことが多い。それにモノグサな私は、毎回鞄を片付けるどころか、部屋に放置している。…となるとどうしてもそれはインテリアの一部としての存在感の方が大きくなる。鞄を持ち歩くのは、通勤のせいぜい2時間くらいだが、インテリアの一部としての時間は残りの22時間近くになる。そのうちの半分の時間を占める仕事場でも、だらしなく鞄をそこらへんに放置しているが、この場合、話の中心は家でのインテリア…ということです。それで、築50年近い木造家屋に住んでいる私は、どうしてもクタッとした鞄を好んでしまうもよう。新品だと違和感があるから、使いこなしてくたくたな感じの鞄が似合っていると思ってそんな感じです。(20030128)

#817 「美しくなる」秘訣
 旅に出ていろんな国の女性を見る度に思う。女性が生き生きと働いている国には「希望」がある…と。そして、ふと思う。日本の女性は果たして生き生きしているのか?素敵な女性はいっぱいいるけれど、どこかくすんで見えるヒトが多いような気がしていた。そして、ワコールが行った「世界のこころとからだ」の調査結果を読んで納得した。この調査では、世界12都市の20〜40代の女性に「自分の体型の満足度」として、「身長、体重、バスト、ウエスト、…プロポーションなど12項目について尋ねている。パリ、ジャカルタ、マニラの女性は11項目で満足派が不満足派を上回ったのに対して、東京の女性は11項目について「不満足」とし、総合的な満足度が最下位だったという。そう!日本の女性の美しさに足りないのは「満足感」。理想が高いともいえる。日本の女性の「くすみ」はここらへんに根源がありそうだ。…とすると、てっとり早く「美しくなる」秘訣は「満足」してしまうことかもしれない。いかんせん、美しくなったら、生き生きとして、日本という国に希望を与えたいものです。(20030127)
 建築士会の環境研究会で「癒し」テーマに『祥楽の湯』http://www.iwashita-net.com(石川県津幡町)へ。この前までやっていた現場への通り道にあったので、一度行きたい!と気にはなっていたのですが、思いがけず機会がめぐってきました。この中でも私が感動したのは「北投石サウナ」。蒸気の中、静かに水の滴る音を聴きながらのサウナは、まるで瞑想空間。小さな光のみある薄暗さ…は、人間という生物が持つ感覚を呼び覚まします。またぼんやりと、ひと風呂浴びたいものです。温泉の後のつるつるお肌はほんとに気持ちいい。「美しい」と「気持ちいい」は、とても近いところにある形容詞だと思います。

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