...HITORIGOTO archi ver...2004...
#1134 ○建学院面接と入学
 しつこいようですが、トイレと携帯の関係は密接であった。TOTOの調査によると、飲食店でのトイレの使用目的のひとつに、携帯へのメールをチェックし、電話をかける場所としても使われているという結果があるとのこと。トイレの使われ方が変わってきているのだ。
 そもそも、トイレに電話を持っていったのは、○建学院への面接の約束があって、それでも仕事(打ち合わせの場)が長引きそうで、トイレに行った隙にでも連絡する必要もあるのかな…と思っていたから。それでも案外順調に終わり、ほっとしてトイレに行ったときのことだった。
 面接の時間まで少しあったので、ショップに駆け込み、代わりの携帯をもらえて本当にヨカッタ。
 さてと、○建学院に行ったのは、来年こそは1級建築士!ということで、「設計製図」とそのオプションとしてついている「合格重点講座」に申し込んだのでした。もともと学科は独学で、製図だけ受講しようと思っていたのですが、独学用の教材を廉価で!というのが「合格重点講座」です。しばらくは教材で勉強しておいて、来年春からは講習にも通います。
 一応、テストと面接をして、入学が決まるのですが、テストなんて聞いてないから、久しぶり?に解く構造の問題に四苦八苦(笑)。もしかして、入学させてもらえないかも…と、心に汗しました(ま、そんなことないでしょ!)
 面接で、毎日2時間勉強してくださいね…といわれ、2時間って長いような短いような…。それでも勉強できない日もあろうし…気持ちを新たにしました。
 ちょうどボーナスも出て、同僚と、何に使うの〜?と話していたのですが、よく考えたら、この学費で消えました(笑)…ということで、私は例年?になくホンキです。(20041212)

#1117 都市のツボ
 続けて、また週末の出来事の続編。Dちゃんが大学のときに知った「都市のツボ」のことを教えてくれた。金沢21世紀美術館を訪れたDちゃんが、ふと思い出したのだという。都市、まちにおけて「ツボ」のような場所の存在。刺激を与えると「効く」場所…今の金沢にとって、21世紀美術館は、そんな存在なのかもしれない。
 お寿司を食べて、兼六園までの移動に、21世紀美術館を通った。その庭で、私たちは、不思議なかたちの椅子に一直線にならんで記念撮影したり、糸電話を応用したような、スピーカーのようなもので、「おーい」「聞こえる」「…(子供の声に対して)ママですよ〜」からだんだんエスカレートして、「好きです」「…聞こえない」「好きです」「…聞こえない」(←聞こえてるのに!)「なんで〜」「こっちは聞こえてるよ〜」(だまされたと気づく)とふざけてみたり…。
 ほんのわずかな時間だったけれど、それはたしかに「ツボ」だなぁと思った。実はまだ21世紀美術館をちゃんと体験していないのだけれど、それは、たしかに、これまでのひとりでも楽しめる美術館とはひと味もふた味も違うのかもしれない。
 今度も、「仲間」で行くぞぉ〜。(メンバー募集中)(20041116)

#1099 暮らすということ
 ここしばらくのうちに、2回も同じ質問を投げかけられた。それは、新聞記者を辞めたことについて。辞めて何年もたって、そして今全く別の仕事(建築)で生計をたてていることも考えると、確実にいえるのは、「それ(新聞)は、私が本当にやりたいことではなかった…」という表現がいちばんふさわしい。お金を得ようが得まいが、社会に関わるという意味で仕事というの存在はなくてはならない存在で、人間の本質的に必要としているものとしての「暮らし」に関することで関わっていきたいなぁと思っていた。すなわち衣食住…。食べることも着ることも住まうことも、それぞれに興味がある。そして、人間の本能として、それらを作るということがどんなに大切なことか…ということを伝えたい…そんな気持ちで確かマスコミを選んだつもりだった。でも、それはあくまで、誰かがやったことを伝える媒体に過ぎず、その仕事への興味は薄れ、伝えたいことが何も見つからないまま、私はその仕事を離れることを決めた…。かっこよくいえばこんな感じだ。その仕事をしながら、私は自分自身の暮らしが何一つできないことも悲しかった。もっと人間らしく暮らす人生を送りたい。
 あれから8年の月日が流れた。私は今、自分の暮らしに多少手間をかけられるようになり、あの時よりは「暮らし」に近い建築の仕事で食っている。
 そして、今、私の暮らし方は、かなりの理想論を地で行くような部分もあり、久しぶりに大学時代の友人が、うちに来て、「なんかシンプルやなぁ。ナチュラルやなぁ」と連呼するのには、これってそんなに普通?の暮らし方と違うのか?とこっちがびっくりしてしまった。私からすれば、大学時代は、彼女のほうが、ずっとシンプルでナチュラルで、今もそうだと思っていた…のだ。
 もともと大学時代から「住まい」を専攻していた友人なので、仕事にまつわる話とか、地元ではこんなことがあって、こんなことをしているとか、そういった話を聞く。私の仕事のほうは、もともとこの道に進むときに考えていた意匠とか設計といった部分からかなり遠のいて、どちらかといえば、今は企画5%に雑務95%といった内容。そのわずかな企画の話とか(笑)、それでも趣味の建築よろしく、面白そうな作品に興味を持ち、建築にまつわるネタであーでもないこーでもないと盛り上がったのは、不思議だけれど、なぜかとても自然な流れのことのように思えた。この分野以外の人からみたら、オタクとかマニアの話に近いが…同じような方向を向いて生きているものの放つ心地よい会話といったらいいのだろうか。(最近は建築バカよろしく、そういった話をしていれば、人間関係が成り立つ、ゆるーい環境に甘んじているのです)
 帰り際だったか、彼女が、私もナチュナルな感じに暮らしを変えていこう…みたいなことを口にした。十分ナチュラルだと思っていた彼女の暮らしですが、何か触発されるものがあったのでしょうか。その後から、じわりじわりと考えていたのですが、今、私がここでこうやって暮らしていることが、誰かの何かを変えうることになるのだなぁと思いました。もし実行できなくても、ここでこうやって一人の人間が暮らしているということを伝えられたこと…、それはもしかして、私の本当の「仕事」すなわち社会と関わっていくという意味での仕事なのかも…と思って嬉しくなりました。
 1人分いえ、彼女にまつわる一家族分、世の中が明るくなったような気がしました。
 今まで心の中でウンウンと唸っていたのですが、私が本当にやりたいこと「仕事」が少し見えてきて、私も「感謝」の気持ちです。(20040926)
 

#1097 町並みと食と光
 年とともに自分のやっていることへの迷いの生じる数が少なくなった。それは、自分がやっていることに迷いがなくなったのではなくって、迷いの生じる物理的時間とか精神的余裕が乏しくなっただけなのかもしれない。
 基本的、土日祝日が休みで、バリへ行く事も認めてもらったし、確かに労働環境としては、この上なしで、不満があるといったら、やっぱり「刺される」範疇なのだろう。
 でも、このところ、仕事というよりも、建築に行き詰まってしまった感が心の底に潜んでいる。私は一体何をしたいのだろう…という根本的なこと。本当にやりたいことをやっているのかという迷い。
 そんな迷いを払拭するかのように、私は休みを為すべき事で埋め尽くす。
 建築やまちづくり、美術関係で面白そうなことに首を突っ込み、そうでないときはないときで、本を読んだり、オベンキョウ?しようと決心した。
 そんな今日この頃、「全国町並みゼミ大聖寺大会」に参加。会場で知人に出くわし、「アレ?オカモトさんって、こういうの(町並み)好きだったの?」と聞かれ、テレまじりに「意外と…(笑)」と。(結構興味あったりする) 基調講演の後、各会場に分かれて分科会。私の選んだテーマは「町並みは食にあり」。今回の町並みゼミそのものが、五官をテーマにしたとのこと。それにしても、町並みと「食」との関係とは…ということで、なかば私の中では答えができつつある、このテーマに、他の人はどう感じているかということが興味対象でもあった。
 会場は、木造校舎を宿泊体験施設とした「竹の浦館」。会場に着いたら。まずはごはん!「こっさめし」(枯れ松をかまどで炊いたごはん)、「へしこ」(サバのぬか漬け)、「そうめんかぼちゃ」や漬け物、お味噌汁を頂く。それから、全国のまちづくりにたずさわっている方のお話を聞くというスタイル。福井の熊川宿、新潟の村上、長野の妻籠、それから竹の浦館。
 村上の吉川さんのお話がスゴかった。村上のまちといえば、おひなさまを公開するなど、少しずつ知られてきているが、それは、この吉川さんが中心となって生まれてきたことを知った。
 本で読むのと、その人から話を聞くのは、なんというか、迫力が違う。部屋で音楽を聴くのと、ライブハウスで聴くのが全く別物であるかのごとく温度差があるのだ。
 この話を聞けただけで、来てよかったなぁと。頑張っている人をみると、よし頑張んなきゃなと思うような気持ち。けっして、まちづくりをやってみようと思って参加したゼミではなかったけれど、この人たちのやったことに触れたことで、クリアな気持ちとなった。
 「クレンズ」という言葉を思い出した。誰かがやった仕事が、その人の仕事に接するとクレンズされるということ。イイ仕事は、人の心を浄化するということ。今回、たまたま、イイ仕事というか、まちづくりの話を聞いて、私自身も心洗われた気分。
 クレンズは、田口ランディさんのエッセーに書かれていたのだが、「魅力的な人は、あらゆることを自分の味方につけてしまう」ということも書いてあったなぁとも。
 吉川さんは、顔が違った。その光が違うと思った。何かひとつのことを一生懸命やっている人のイイ顔だった。
 私は私で一進一退を繰り返しているけれど、何か少しずつ光を見いだしていきたいと思う。(20040919)

#1093 暮らしと遊び
 遊び心は健在だが、世の中一般的にいう「遊ぶ」という行為からすっかり遠ざかる。現在の日本において、圧倒的大多数が定義する「遊び」と、私が勝手に「遊び」と位置づけている行為が少し違っているだけ。私にとっての遊びとは、暮らしの中に存在する。パンをこねることだったり、石けんを作ることだったり、パンの酵母を仕込むことだったり、ちょっと手の込んだごはんをつくることだったり、布を切って服を縫うことだったり…。お花を飾ったり、お香をたいたり、お茶を飲んだり…というのも、ごく「遊び」。すべて暮らしの中のことだ。
 ずーっと昔、人生は、「暮らし」で成り立っていた。それが、だんだん、暮らしと仕事が区別されるようになり、暮らしと仕事と遊びが区別されるようになり、今では、暮らしと仕事と遊びと趣味…が別と、それぞれを別のことのように扱うようになってしまった。多少寿命がのびたとはいえ、昔も今も人間の生きる時間は、そうそう変わらない。現在に生きる私たちは、いろんなカテゴリーの時間を必要とするがゆえに、あくせくしているような気すらするのだ。
 すべては暮らしの中にある。暮らしの中から生み出したものが、「仕事」になれば、人生そのものが「暮らし」とシンプルに生きられる。これは、理想であって、現実論として、暮らしに近い…ことを「仕事」とすることで、人生の時間が「暮らしとそれに重なる仕事…」で満たすということは、割とその理想に近いのではないかということだ。
 とはいえ、世の中には現代人を楽しませるために作られたものがあるけれど、暮らしの中での「遊び」に取りつかれてしまった私には、どこか空しかったりするんだなぁ。

#1088 火の力
 最近では「火」を使わずして調理する台所もかなり普及している。たしかに電化すれば、火事の心配はほとんどなくなる。人間は火をおそれつつ、火を使って「人間」となった動物だ。数ある動物の中でも火を使えるのは、人間だけなのだ。
 一人暮らしのアパートを決める時、いくつか条件があった。東向きの窓、畳の部屋そして、条件づけるまでもないけれど、ガスで調理できる台所だ。最近の単身者向け物件は、とってつけたような台所が多くて、頼りない電気コンロがひとつだけというところがほとんど…。ごはんを作る場が十分になくって、暮らす場にはなりえないという主義の私は、これらの条件をみたす築20年近い木造アパートの2DKを選んだのでした。
 ここでの最高の娯楽は、やっぱり「ごはんをこさえること」。毎日毎日のことで、基本的にはひとりぶんのごはんだから、お店屋さんの力を借りればなんとかなるのかもしれないけれど、ごはんをこさえることは、なかば趣味なのだ。週に一度買い出した食材をいかに使いきるか、なんていうのもパズルみたいで面白いし、なんてったって食べたものは私自身なのだということが実感できるのも実験みたいで興味がつきない。
 最近では、ごはんも土鍋で火を使って炊いている。電気に任せて炊いたごはんと、火を使って土鍋で炊いたごはんは違う食べ物だということも実感。それが、本当に美味しいのです。玄米も炊くのですが、これまで食べていた玄米と同じものとは思えない食感。玄米がこんなに美味しいのだから、白いごはんや、雑穀を混ぜたご飯がおいしいのは言うまでもありません。
 ごはんが美味しいということは、このうえない幸せです。旅の中で味わった充足感とはまた違った暮らしの充実感があります。
 最近、キレる子供のみならず、心が不安定な大人もたくさん居ますが、こんな美味しいごはんを食べて、ちゃんと「美味しい」と思えるようになったら、そんなのなくなるかもしれないのになぁって思います。私自身も、仕事で行き詰まったり、為すべきことがたくさんありすぎてパニック状態になったこともありますが、「ごはん」を食べて何度救われたことでしょう。それから、土鍋でごはんを炊くようになって、気持ちが安定してきたように思います。ごはんが、何の特別でもない普通のごはんなのに「美味しい」ものであればあるほど、なんというか「これでいいんだ」という気持ちになります。少し前は、実家に帰って、母におにぎりを握ってもらって食べてたこともあります。今は、それにかわるものが、火を使って土鍋でご飯を炊く事です。
 これは、火の力を信じて、人間が人間でありうることを知る、ひとつの方法なのです。(20040828)
 今日はお昼めがけて、環境勉強会で小松の「生活アート工房」さん見学。(実家のすぐ近くなのに行ったことがありませんでした…)ナラやクルミ、ニレななど国産広葉樹の無垢材を使った家具のお店です。工房も見学させていただきました! 緯度が同じところでとれる樹木を使うというオハナシもあって、私が最近、緯度が同じところでとれる野菜を食べるよう、心がけていることと、なんだか似てるなぁと思ったりしました。私は、最近少しずつ気づくようになったことなのですが、木を通して、食べ物を通して、何かが私たちに伝えようとしていることはあるのですね。そして、お店のキッチンで、伊賀焼の土鍋を使っての炊き込みごはんもごちそうになりました。玄米を使っていたのに、炊き込み時間が短くて…一瞬焦りましたが、再度炊き込んでイケました! 私は、玄米慣れしているから、よかったのですが、みんなはどうだったかな? お鍋も立派なホンモノだったし、もっとふっくら炊けるのになぁ…と。ふむ。やはりホンモノはよいですよ。

CM:石川県建設業協会報2004年7月号「随筆」に、懐かし?のドイツ環境建築研修のことを書いたものが掲載されています。オカタイ内容ですが、読んでみたい方、送ります。(pdfファイルで756KBもあるので恐縮ですが…)

#1074 部屋、空間とのつき合い方
 仕事を終えて部屋に帰ると、昼間の熱気を帯びた空気がそこに在る。ありったけの窓を開いて、風を通して、普通の空気に戻す努力をする。それでも暑いようなら「ドライ28度」のスイッチを入れる。その風がいちばんよく当たるところに木の柱がある。そこによりかかって、本を読んだり、ぼんやりしていると、小さい時、母も家の木の柱によりかかって、洗濯畳んだりしてたなぁと思い出す。木の柱は、家の構造上あるものだけれど、それだけではない。居場所を作ることもある。好きな場所があることは「愛着」につながっている。
 今の部屋の中で不満なのは、茶の間の床がいわゆる長尺ビニールシート敷ということ。でも、2階だし、木の床だと、もっと下の階の人に迷惑だろうなぁということも分かるので、この床の上に、この季節なら、コットンのラグを敷いているから、気にならないといえば、気にならないということか。
 空間は、そこに居る人によって、変わっていく。居場所を作って、愛着がわいたり、不満な部分もそうではなくなる可能性があるように。(20040730)

#1072 一枚の写真から
 「住宅読本」(中村好文著・新潮社)を手に入れた。「よい住宅ってなんだろう?」と、居心地、火、遊び心、台所&食卓、子供、手ざわり…など12の条件が並ぶ。そうなんだよなぁ…と分かっているような、それでいて心得ていないような…その本を買った決めては、たった一枚の写真。イタリアのアルベルベッロの早朝、老婦人が、緩やかな坂道となった石畳を雑巾がけしているものだ。その老婦人にとっては、おそらく習慣としてなされているその行為を、美しいなぁと思うと同時に、いとおしいなぁと思った。住宅うんぬんというよりも、この写真をいつもそばにおいておきたいと思ったのが、この本を買うという行為にいたった本当の理由だ…。
 そういえば、ラオスのルアンパバーンの早朝に目にした、玄関前を掃き清めている姿も美しいなぁと思ったけれど、いつの時代も、どの場所でも、自分の暮らしている場所をきれいにしようとしている姿は、美しい。その結果、美しくなった「通り」や場所、空間も、美しい。結局は、ヒトの気持ちがどうあるかあということなんだろうな。(20040726)

#1066 消えるコード
 我がアパートには天井に照明をつけていない。大家さんがつけてくれていたものは、引っ越ししてしばらくして目障りになって外した。その代わり、60wの白熱電球が3つついたフロアスタンドでまかなっている。小松の家に暮らしていたときも白熱灯のペンダント(Home&Styleのミニマルライトで詳しくは書いてます)を使っていました。こっちに持ってきて使おうとも思っていたのですが、コードの長さが合わなかったので、そっちの家においてきました。で、この3つ電球がつくフロアスタンドですが、光を当てる角度をそれぞれ調節できたり、それぞれon…offできるので、これはこれで酷使しています。これを買ったときから、ずっと気になっていたことがひとつ。それは、コードの色が黒ということ。淡い色の床や畳の上にはっている黒いひも…それが、私には気になって気になってしょうがなかったのです。布を巻こうかも思いましたが、一応電化製品なので、熱を持って火がついたら怖いなぁと。色を塗るか…コード&コンセントをかえられたらなぁ…と思っていました。これぞ!というフロアスタンドがあれば、乗り換えることも考えたのですが、そこまでしなくても…という思いもあって、中途半端感が残ったまま、月日がたってしまいました。
 そんな思いが潜伏していて、先日電気店に行ったときに、半透明でできた「配線を束ねるコード」を見つけました。これで、あの黒いコードに巻き付けたらどうなるかなぁと思いついて、1mのを一つ購入してみました。早速巻き付けてみたところ、なかなかイイ感じです。グレーに見えて、床や畳の上での存在感は、驚くほど薄れました。消えた…。気になっていた色も、私の中の胸のつっかえみたいなものも。そして、唖然…コードのほうが長くて、半分しか巻けなかったので、もう一つ買いに走りました(笑)
 全然気にならないヒトもいるかもしれませんが、私は、何かモノの発する調子(オーラ)で、おかしいなぁというところは、なんとかして、心地よくしたいと思うほうの人間です。値段が高い安いではなく、自分にとって心地よく感じるか、波長が合っているかということに重きを置くことのほうがずっと上質の暮らしへの近道だと思っているのです。(20040711)

#1064 人・空間を育てる
 人は人によって「育つ」。3回目となった衛門館でのコンサートで、いちばん強く感じたことだ。自分が表現したものに対して、誰かが「感じている」ことを、自分の感触として掴んだ時、そういったものが「表現する喜び」になるということを、コンサート後の雑談で知り得た。
 そして、空間も人によって「育つ」。同じ場所で同じ位の人数でやっているはずのコンサートも、回を重ねるごとに「場」が育っていく。続けていくなかで、一人ひとりの中に育ってきた何かが「雰囲気」に伝わってくる。 
 今回、印象深かったのは、久保比呂誌さんの津軽三味線とブルース(ピアノ)のセッション。お昼にスタッフと演奏者みんなで(恒例の特製)カレーを食べながら、ジャズマンのピアノ調律師宮本さんとセッションしたの聴いてみたい!面白そう…!!ってスタッフで盛り上がったら、本当に実現してしまった!
 目には見えない美しいものは、確実に人によって育っていく。音楽しかり。建築…まちづくり…しかり。(20040705)

#1061 気分転換
 気分転換で生きているような人間である。何かをずっーとやり続けるということが苦手なので、気分転換と称して、あれこれやっている。おそらく服を縫ったりするのも気分転換、ごはん作ったり、パンを仕込んだりするものも気分転換。掃除も気分転換。雑記帳に切り貼りしたり、あれこれ書いてみたりするのも気分転換。HITORIGOTO書くのも気分転換。もう気分転換だらけです(笑)で、そんなに気分転換して…その主体はどこにあるかというと、やはり「建築」なのかも。ただ最近では、その主体そのものがかなりあやふやになってしまっているようで、 もしかしたら、人生も気分転換で終わってしまうんじゃないか…と不安になってしまったり。
 この頃になって気づいたのですが、そのかたちがなんであれ、記録というものは、大切なものであるということ。体験することが一番大切だとすれば、その次くらいに大事なのかも。その記録次第では、体験そのものの鮮明度が全く違うということも最近気づいたことです。
 もの忘れの激しい近頃では、極力メモ。何かとメモ。の毎日です。
 せめて自分の中の大切にしているものくらいメモなしで、覚えておきたいものですが、そうはいきません。本を読んだら大切な部分はメモ…するくらいの気合いでないと、その本を読んだことすら忘れてしまっているのです。
 ということで忘備録@建築…ということで、 HPに「Architecture Log 」というページを追加しました。三部構成で、これまでちょっかいを出してきた「趣味の建築」の箇条書き…と、最近見学したところの記録(メモ)と、これまでHITORIGOTOで建築について触れたものを抜粋したものです。抜粋する作業の中で思ったのは、毎日の中に「真実」があるということです。毎日、思いついたままのことを並べたHITGORIGOTOですら、読み返してみると、うなる部分も少しはあるということです。自分の中にあった気持ちを書いたものなのに、今となってはすっかり忘れ去ってしまっている部分があることも気づかされました。そして、1日1日の中で気づいたこと、感じたことが、ひとつの人生につながっていて、それが私なのかなぁということも分かりました。
 ほんとうに忘れん坊なので、どうして、もう少し記録しておかなかったのかなぁということもいっぱいあります。(そういえば、フランクロイドライトの落水荘のフィルムみたのいつだったっけ?とか…!)今頃になって、きちんと感想を持って何かに記しておけばよかったなぁということになるわけです。そうはいっても、流れては消える思いもたくさんあって、ヒトはヒトで幸せな部分がたくさんありますね。(20040629)
今週読んでいる本:京の町家 丁寧な暮らし (大和出版)+暮らしをデザインする 宮脇檀(丸善)+眼を養い、手を練れ 宮脇檀設計塾(彰国社)

#1046 かっちょいいオトナ
 建築、同い年、学生時代関西だった…そんな共通項のある方と、楽しくお酒を飲んだ。あんなにたくさんイイこと話していたように思うのに、覚えているのは、断片的なことで、ほんともったいないなぁと思う。お年頃のせいか、最近の若者に対して思うこともあるし、建築について思うこともたくさんある。いちばん覚えているのは、建築を変えていくことについての手法?についてのことだ。彼曰く、世の中…(特に建築)を変える手法には、革命かゲリラ…だそうで、彼は今、個々の住宅に携わって、ゲリラ的に変えていくことによって、そういった思いを世に伝え、世の中に対してメッセージを送らんとしている。もっと世の中の事象について意識を持つことについて思った。どうして家を選ぶ時、既製品のような家で満足できる人が圧倒的大多数なのかということ。コスト?時間がない?…それに建築関係に知り合いもいないし…なんてこともあるのかな。私は常々、一人ひとりの中にあるものが変わっていかないと、世の中が変わらないのだと思っていて、彼が為そうとしていることにエールを送りたい気持ちでいっぱいになった。こんなアツイ?会話ができるのも、前述の共通項に加えて、お酒が好きという最大の共通項があることだ(笑)
 ふらっと入った居酒屋さんで、閉店まで飲み続け、今度は別のバーで日付変更線をこえる頃までまた飲む。
 ふと思う。深くて強い人だなぁ。でも全然自然体で、かっちょいいオトナだなぁとも思う。
 世の中に対して考えるべきことをちゃんと考え、自分に何ができるかということを考え、何らかのかたちで行動している。こういう人を、内心「かっちょいい」と思っている。かっこいいなんていうと、つい美男美女?のイメージがあるので、もっともっと深くて強いものは、やっぱり「かっちょいい」…なのです。もちろん建築に限らず、野菜を作っている農家の方だって、パンを焼いてるパン屋さんだって、かっちょいい人はかっちょいいです。
 かっちょいいオトナに出会えると、嬉しくなります。人生の醍醐味だねぇ。(20040529)

#1044  進んできた8年 
 昨日は、以前勤めていた会社の同期ニッシーの結婚披露パーティーでした。ホントおめでとう☆!!!勤めていたのは2年間だけなのに、その後も元同期とかなんとか言ってつながっているのは、本当にありがたいことだし、不思議な縁です。その後8年近い年月を経ています。あの時も、一応オトナだったけれど、時に磨かれてさらにオトナ?になった私たち。あまり気負わずに参加したのですが、懐かしい面々に、人生ってホントそれぞれだなぁ…と思ったのでした。
 さてと、会場となったのが、富山・砺波のニチマ倶楽部
http://www.nichimaclub.com/
ということで、ちょっとした異空間体験ができることも楽しみにしていました。
 あの会社を卒業してから8年ということは、まっさらな状態から建築の世界に入って8年たったということです。それが仕事となり、多忙になってくると、分かってはいても、なかなか「建築」を勉強しようという認識が薄れてきます。建築のいちばんの勉強は、実際にその空間を体験することです。よいものをたくさん感じることは、建築のみならず心がけたいことです。自分が何か表現をしようと思った時、やはりそれは自分の中にある体験をもとにしているのです。
 若い時、特に20代は、できるだけたくさんのものに触れ、感じ、自分が何か好きでどんな方向に進んでいくのかということを模索していきます。
 30代になったら、その方向性をもとに自分のスタイルを確立していくんじゃないかなぁなんて思っていますが、それでも、やはり空間体験の経験値は必要なのです。時間が限られている分、少しでも経験値をあげる工夫は必要なのではないかとも思っています。
 当たり前のことかもしれませんが、このような機会で足を運んだときも、自分の中で空間体験意識を持っていくこと。そして、気づいたことや感想をメモしていくこと。そういうことを蓄積していくことが、学校と名のつくところに属さない場合における「勉強」ともいえます。
 たしかに波はありますが、どこかへ足を運ぶとき、自分の価値と近しい人たちに、おすすめ建築(美味しいどこも?!)を聞いてみて、自分の価値観やプライオリティーに合わせて、できるだけ足を運んでみることは、これまでも、これからも続けていきたいと思っていました。
 空間体験意識の持ち方や、感想にメモとして残すこと、誰かにおすすめを聞いて実際に行ってみること…これらはみんな「旅」でやっていたようなことです。こう考えると、今、ただ日常に暮らしているかのように見える毎日でさえ、旅の延長線上にあるのです。
 同じ場所へ行っても、その人の背景によって、見えてくるものが違うのは、当たり前のことでしょう。最近は、たいてい建築関係者と行動することが多いせいか、何かそういった場所へ行くと、その外観や空間の印象や、使われている素材のあり方などについて話してしまうことが多いのですが、今回は、ジャンルが違う方が多かったせいか、そういう話題にならないことが、拍子抜けしたような意外な感じでした。…もちろん、あくまで幸せな二人を祝福するために行っているのですから、そう感じる私が相当ずれているのかもしれません。でも、結構おもろいですよ…建築関係者と出歩くと…! 「この素材は?」と聞くと、知ってる誰かが解説してくれるし(便利でしょ)、壁とか無意識のうちに触感を試してます(お、お客様困ります…?!)いつの間にかそういう環境に慣れてしまっていたんですねぇ…私も。
 もちろん、人間としてお互いを思いやるような普通の会話ができることは大切ですが、プラスアルファで、自分の常々興味のあることを話せる友人・知人、仕事場の人たちが居ることに、かけがえのない場所へ進んできたんだなぁと、これまた感慨深いです。
 最近は、旅のことよりも、建築のことのほうが饒舌になってきたんじゃないかと思えたりなんかして…。(20040523)

#1041 冬ソナ建築語録?!
 第二次「冬のソナタブーム」到来?DVDをまとめて借りたのをいいことに見始めたら止まらない。2週間でみるように言われたけれど、この調子だと3日でみれるなぁ…なんて(笑)
 主人公の女性ユジンさんがインテリアデザイナーになった「10年後」あたりから、傑作語録が飛び出すんですよ〜。
「この世でいちばんすばらしいのは、好きな人のココロに建てる家」(ミニョンさん=ユジンさんの死んだ初恋の人にそっくり)
「好きな人のココロがいちばん素敵な家」(ユジン)
まるで、設計の課題になりそう(笑)
そういえば、建築家・石山修武さんは、国際的なワークショップでの課題の設定を、「最愛の人があと3年の余命です。その住宅を設計しなさい」とするというようなことを何かの冊子に書いていた。
 好きな人のココロに建てる家というのも、想像力がひろがりますよね。
 石山さんの課題も、冬ソナの課題?もとても近いところを突いてくるように感じますが、いかがなものでしょう?
 クサイような台詞をふむふむとメモをとるあたりから、すでに邪道な鑑賞となりつつあります。実はストーリーは最後まで知っているもので…。マフラーの巻き方も参考になりますね(笑)(20040512)

#1038 筆記用具
とある雑誌を立ち読みしていたら、建築家・隈研吾氏のスケッチは「木炭」だと知る。パソコンはメールくらいですかねとのコメントも。木炭のスケッチから生まれた建築。昔の作品には「??!??」と思うようなものもあるけれど(妙なオブジェ?がくっついてたのとかあったような…)、最近石やガラスの落ち着いた雰囲気のものは、やはり「木炭」効果かなぁとも思う。
 いちばんよく使う筆記用具は絶えず変わっていくけれど、今使っている筆記用具から生まれたものが、世の中をはっとさせたり、ほっこりさせたり、いろんな可能性があるなぁ。
 ちなみに私の最近の筆記用具は、断然鉛筆です。(20040507)

#1022 暮らしの「意味」
 「自然の暮らしがわかる本」(山と渓谷社)の28ページ。「定住という旅」という見開き2ページのコラムを読んだ。サブタイトルは「旅人たちが大地に根をおろすとき」とある。
 「今は旅人として風景を眺めることよりも、苗を植え草を刈り、手足を動かして小さいながらもひとつの風景をつくることのほうに興味がある。それはまた僕にとって、お金を出して手に入れるものを第一とせず、お天道様に助けられ自らの手で収穫するものを良しとする、そういう精神を求める日常という旅でもある」この文章はこう締められている。
 このたった2ページの文章を読んで、最近の私そのものだなぁと思った。実は、今の私は必ずしも旅を必要としていなくて、それよりももっと「暮らし」に興味がある。そして、日本人をはじめとした大多数の人達が営んでいる暮らしに、少し疑問を持ちつつ、それでも、空想論を並べるでもなく、自分にできることを、淡々として暮らしている。疑問に持っていることは、私たちがいかに「既製品に囲まれて暮らしているかということ」。ごはんにしたって、既製品の味に慣れてしまっているし、服だって何だって、結局は、それを作る喜びや苦労を知ることなしに、既製品に囲まれているのが当たり前だと思っている。
 私がモノのことを愛おしいと思うようになったのは、食べ物でも服でも暮らしの中のものを作ろうと思って、実際に作ってみてはじめて、そのことの「大切さ」を知るようになったのです。こういった暮らしていくなかでの「意味」を掘り下げていくこと…それが生きていく意味かもしれません。(20040406)

#1016 建築・再認識
 家出して金沢に住み始めて10ヶ月。住んでいないと気づかないことで、実家の床が傾いたという。それで一応建築の仕事をしている私に泣きつかれた。とはいうものの、私にだって知識はあっても経験がない。妹の家の工事をしたところが、そういう工事に強かったので、両親が相談の段取りをつけたにも関わらず、いざ打ち合わせをしてみると、私が中心になって打ち合わせせざるを得ない。
 床のレベルを戻すことが第一。必要な部分だけを施工することして、打ち合わせを重ねる。
 我が実家は1955年建築の田の字型プラン。もういい加減ボロいのだが、私も含めて父も母もこの家を壊そうというものはいない。それは大工だった祖父が建てた家ということもあるし、使っている材料を含めて、今ではお金を出しても、こんな家は建たないと思っているからだ。
 土曜日に見積書が提示され、漸く契約のはこびとなった。工事は4月から。
 大工の息子である父だから、私なしでも打ち合わせできるんじゃないかと思ったけれど、フタを開けてみると、説明の随所や意志決定に、一応建築やである人間の必要性は感じる。普段から、何かの拍子に、この家をどうしていくべきかを話していたことも、いざとなれば役に立った。何も知識がなかったら、もう壊すしかないよなぁと建替の検討をしていたことと思う。
 私たち家族が今回選んだ結果は「復元」。それでも、床を手直しすることで、畳だった部分を一部板張りにし、木製の建具を磨く。せっかく足場をかけるから…と、下屋の瓦を葺き直し、一部波板で塞いであった部分を下見板張りにする。今となれば、板の塗装をリボス(ドイツの自然系塗料)にするか柿渋にするかは、実は大した問題ではなかったかもしれません。
 そして、今回の工事はある目論見があって、今後必ず訪れる次の改修のことも配慮し、大黒柱よりも北側の仏間を含めた「奥」と呼ばれる4部屋中心に手を加えています。
 お金をかけた割には、両親の生活は変わらないかもしれない。いや、1階の一部を板張りにしたのは、この際、両親の寝室を1階に!という思惑もある。
 素晴らしい自邸を設計した建築家はたくさん居るけれど、私はいつも自分の家や住まいのことについては「紺屋の白袴」かなと思っていた。ただ今回、この家をこのようにしたことが、私の建築に対する基本的な姿勢なのだと気づいた。あるものを活かし、大切に使い続けることが好きで、それは家に対しても、モノに対してもそういうふうに接していきたいということ。それは、相手が建築であってもそういうことなんだという再認識です。(20040322)

#1014 スモールライフ
 ここ数日間、寝付け薬ならぬ、寝付け本は「風来好日」(久保田昭三著・WAVE出版)。サブタイトルが、「スモールライフ・何もなくて豊かな暮らし」とあるから、なかなか私好み(笑)。さて著者である「ビリおじさん」(のんびりのビリだそう)の暮らしを、エッセイからかいま見るに、私にとっては、なかなか理想の暮らしだ。テレビなしのラジオ生活とか、パンは焼く!とことか、私の暮らしとの共通点もあるけれど、スモールライフの徹底ぶりにうなる。
 なかでも「小さく暮らして大きく生きるという、そのほんとうの大きさをイメージできたら、サバイバルをあきらめないですむ」というくだりが印象的だった。最近の私のくらしや生き方がまさに自然とそんな方向へ向かっているのだ。最近、不思議なことに、こうやって暮らしていることが、まさに旅というか、サバイバルだなぁと強く感じるのです。
 そういえば、別のくだりで「Good travels at a snail pace」という言葉もあった。よい旅はカタツムリのはやさ…あるいは、カタツムリのはやさで、良き旅を!の意味合いか。
 そう、カタツムリのはやさで、サバイバルするように暮らす。これが私の生き方なのだと改めて気づかせてくれた。よき書、言葉との出会い。自分の意志で選んだ一冊の書は、自分の道しるべとなるものなのだ。(20040317)

#1008  まちづくり
 先日のワークショップで同じ班だった方からのお疲れさまメールにこんなことが書いてありました。
『「まちづくり」って何だかよく分からない言葉ですが、「身近な事を少しでも良くして行こうとすること」だと言う方がいて、それがつながり、大きくなり、 最終的には、大きなハード的な事にまで意識が及んで行く事なんだと、僕は思ってます。』
 そうだよね…と思っているうちに、1週間がたち…。
 この週末には、古民家再生コンサート第2弾です。今回は、「80分間世界一周」と題して、バイオリニストの平松加奈さんを迎えての催しです。前回はお客様でしたけれど、今回は椅子並べなども含めた裏方のお手伝いもさせて頂きました。あの場所で聴くだけでも十分魅力的なものですが、今回前後の流れを少し体験して、もっともっと深い何かを感じ得ました。
 ふと振りかえってみると、冒頭の言葉が頭に浮かびます。このコンサートはまさに「まちづくり」なんだろうなぁと。身近なことを少しでもよくしていこうとすることにほかならないもの。
 極論を言えば、美味しいもの食べて、素敵な着物を着て、心地よい住まいに住むことで、個々人の欲求はみたされてしまいます。でも、さらに一歩、深めると「よいまち」に住みたいとなる。あるいは自分の属している共同体をよくしたい…ということになる。そういう意識がある人が少しでも多いと、その共同体はとても心地よいものになると思っています。それが国であろうと、ムラであろうと、会社であろうと、なんらかの集まりであろうと。自分さえよければよいといったエゴの意識が強いところは、「まちづくり」と遠い位置関係にあるような気がします。
 まちづくりって、難しいなぁって思いがちだけれど、自分ではそうは思ってないところにこそ、「まちづくり」があるのだと気づきました。何かをよくしたい。あるいは、単に誰かと愉しみを共有したい…それだけで立派なまちづくりです。
 冒頭の言葉には、実は続きがありまして…『そのちょっとした事にどうやって気付くのか?それが旅だったりするんですかねえ?』。
 旅のそのひとつ。コンサートもそのひとつ。個々人の中にある気持ちをそんな気持ちに引き出してくれるもの、人に出会うことかな。
(20040308)

#1006 理想の仕事
 20代なかばすぎでたどり着いた建築への道。いざ就職しようとした時、得意分野からして、設計の仕事につくのだろうなぁ…と思っていた。しかし、フタをあけてみると、少し違う。はじめはとまどった。本当にやりたかった仕事ではないということに。それでも、仕事場そのものには思ったより馴染んでしまって、自分のポジションをいつの間にか築きつつあることに最近気づいた。生かされているとでもいうのだろうか。
 たぶんどんな分野の仕事でも嫌な部分はあるだろうし、勿論好きで好きでたまらない仕事の中にも嫌な部分はある。要は、全く嫌な部分のない、思い描いたような理想の仕事はないのだ。
 あとは、自分がその仕事を通して、どう生かされたいか…という考え方なのだと思う。それは、これが嫌、あれが嫌という、消去法では見えてこない。こんなこともあるけれど、○○をするという肯定の発想から、理想が見つかってくるのだと思う。
 もっと自由な発想で、やわらかに物事を見据えることができれば、理想はもっともっと近くなるような気がする。人生も、仕事も、恋も、暮らしも。(20040304)

#1004 人が磨く…人の心
 この週末に建築士会東海北陸ブロック会議で岐阜へ。ワークショップや見学会、懇親会などなどを通して、久しぶりに忘れかけていたことを思い出すとともに、建築という共通項を通してできる仲間の存在から、今回もいろんなことを思いめぐらせた。
 仕事というフィルター抜きに、何らかのかたちで建築に携わる人として接することのできる、ほどよい関係…。建築の話ばかりしているかというと、そうではなく、結局として、1人の人間として会話しているにすぎないのだ。だけど、どこかつながっているような程良い関係が、今はなんかすごいことだなぁと思う。
 今回、前期の大会の打ち上げぶりにお話した、次期青年委員長となるnさんとは、またしても旅(それもバックパッカー!)の話です。(nさんはバックパッカーの旅をやってみたいそうです)行きのバスの中で、私を見つけると「今度沢木耕太郎が金沢で講演会するって知ってる?」「ほんとですかーっ?」ってな感じの会話になってしまう(笑)酔っぱらいついでに「青年委で旅のお話し会やろっか」とか、「海外研修旅行に行くとしたら…」とか、ありもしない企画で盛り上がる。そういう旅にまつわる話に興味があり、真剣に聞いてくれる人って、ありがたい存在!今回も、二十歳ぐらいから始まった旅の話から始まり、ベトナム・カンボジアの話までは到底たどり着かず…。(あ、このHPのこと教えてあげればいいのか…)
 最近、思う。新しい人と出会うこと、そして、知人の知らない一面に出会うこと。どれも心をはっとさせることからいえば、それぞれ1つの出会い。そして、出会いも大切だし、その出会いをどんなふうに、自分の中に育んでいくか…っていうことが、これからの課題。
 そして、出会う人は、自分の鏡であることも多い。気持ちいい人のところには、自然と気持ちいい人が集まり、気持ちいい風が吹いているように感じる。
 会議の発表の時に、わが県の青年委員長Mさんと、富山の青年委員長さんが、自然と仲良く話しているのを見て、とても清々しくいい感じだなぁと思った。そして、ここ数年で、人間としての迷いはなくなったけれど、まだまだ磨く部分はたくさんあるなぁと思った次第です。
 人は人で磨かれる部分がとても大きいのだと思う。おそらく、今の私に足りないところは、人によって磨かれる部分かもしれません。これからが楽しみです。(20040301)

#988 骨董に囲まれて眠る
 冬場に入って、寝るのもご飯食べるのも同じ部屋になった。眠るのにわざわざ隣の部屋を暖めるよりも、暖かい部屋に布団を移して眠るほうが手っ取り早いからだ。寝食分離に逆行しつつ、茶の間で眠るのだ。その茶の間にある家具は、生活雑貨一式を入れている桐箪笥と座卓。座卓はダイニングテーブルでもあるし、書き物机でもある。この部屋には新しい家具はない。タンスは祖母がお嫁に持ってきたものだから、60年以上前のものをこの度一皮むいて?使えるようにしたものだし、座卓も年代不詳な位、昔から家にあったものだ。だから、私が生きているよりもずっと前から在るものだ。
 こういったものと一緒に居ると落ち着く感覚は、「居場所の在る」心地よさだ。私は、ただ古いものが好きなのではない。新しいものでも、自分の価値観や美意識と合うものが好きなのだ。タンスの上に載っているオーディオシステムは、3年前に買ったものだけれど、これ以上気に入ったものには出会えないだろう…と思って、未来の骨董となるべきものとして手に入れた。それでもやはり古いものに比較的好きなものが多い。それは、そのモノがたどってきた時間が、大切にされてきたことが分かるものだからだ。いや、モノが、直感的に人間としてこれは大切にすべきものだということを教えてくれる。
 「骨董」は流行といちばん遠いところにある。ヒトによって違うソレは、自分の価値観や美意識そのものです。
 骨董やさんを案内した本を眺めながら、布団に入った。そして、思った。どんな骨董やさんだって、どんなカフェだって、自分んちより好きな場所はない。
 近頃、あまり出歩かなくなったのは、自分んちをこざっぱりと気分よくしつらえることは、他の誰かが作った空間よりも、もっと価値があるということに気づいたからだ。他の誰かが作った空間は、もちろん「勉強」や「ヒント」にはなる。しかし、自分自身の「知恵」となるのは、自分でやって、何かしらの愛着を感じることから生まれるのだと思うのです。
 私は、建築を囓っていて、より強くそういう意識があるのかもしれないけれど、これは、どんなヒトでも大切にできるし、感じられることです。私は、ヒトに対して自分の作ったもので満足できるとは思っていません。強いていうなら、自分で作ることの大切さに気づかせたり、もっと暮らしに主体性を持って生きることやそのための知恵みたいなものを与えることはできるかもしれません。 最近になって気づきました。私はとても大切に思っていることを、案外大切にしている人は少ないということに。ヒトの暮らしは、それぞれですが、それぞれが自分なりの良い暮らしをできるといいなと思っているのです。(20040203)

#973 個性
 個性的であろうとすればするほど、どこか嫌みを感じさせてしまうものだ。これを逆説的にとれば、なぜか好感を抱いてしまうのは、隠しているつもりでもにじみ出てしまっている個性を感じさせるもの、ことだといえるだろう。
 年末年始…床に伏せていたこともあって、いつもより心持ち多く活字を拾った。活字とは「活きる字」という言葉のとおり、その言葉が自分の中に入ることで本当に活きてくる言葉になりうる。活字でたくさんの言葉が連なっているが、その中で自分が必要としていることのみ、自分の中で活きてくるのである。
 年末に読んだ本のひとつに「自分の仕事をつくる」(晶文社)がある。柳宗理さん、ヨーガンレールさん、天然酵母でパンをつくる「ル・ヴァン」の甲田さんなどなど、最近私が気になってしょうがないヒトたちの仕事についてのエトセトラについて、本人に取材したものをまとめたものだ。その仕事に対する姿勢、あるいはそれぞれの共通項が見えてくるかと思って、何度も繰り返して読み、しまいには気になった部分をメモしてみた。
 その中で直接書かれてはいないけれど、私が読みとったことが、冒頭に書いたこと。
 どこも最終的には、そのヒトでなければなしえない個性的な仕事となっているけれど、それは、意図してなされているとは感じられない。個性的ではありながら、むしろ自意識を感じさせず、そのヒトそのものが為すべきこと…として存在していることが「仕事」になったといえるのだ。本来、仕事というのは、そうあるべきなんだろうなぁと思う。誰かが必要としているかどうかはいちばん大切ではなくて、自分自身が「頼まれなくてもやっていること」が原点としてあり、それを誰が必要とする…という順番になっていること…それが、理想の仕事のあり方だ。
 最終的には、それが生活の糧の一部となっていくことが、仕事の条件でもあります。例えば、このHPだって、頼まれなくてもやっていることですが、仕事とはいえない…でしょう。
 あと、印象に残ったのは、いい仕事をしているヒトは、「絶対にやりたくないこと(仕事)」が明確…というか、意外にもそういう意味で「消去法」だったりします。「こういうことはやりたくない…」とか、「こういうものはつくっちゃいけない」とか。こういうことをしたい!というよりも、そういう表現が割とあって、いささか驚きました。案外、そんなものかもしれませんね。仕事をよい方向に導くのって。(20040106)
ふーむ、自分でいうのもナンだが、年が明けてから、あまりイイ仕事をしていないよーな…。 


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