三浦 襄


私の手元にある、産経新聞の切り抜き....
平成17年2月、
9回のシリーズで掲載されたもの。
「バリ島の父」としての
三浦襄(写真)の物語である。

三浦は、戦前からバリに住み、バリを愛し、
バリ人を愛した人である。

第二次世界大戦中,
日本軍がバリに侵攻したとき、

彼はバリ人への慰撫役として
軍に同行した。


当初彼は、軍の侵攻目的をインドネシアの独立のため、
と思い込んでいた、というか、思い込まされていた。
が、徐々に日本の本当の目的は、そうでないこと知る。

日本の目的はインドネシアの資源を自由にせんが為の
侵略であることを思い知らされるのである。

が、彼は、悩みながらもそうなってはならぬと、
バリ人側に立ちバリ人の味方になって行動をとる。

しかし大戦は日本の無条件降伏で幕を閉じる。

終戦後数ヶ月、彼は、
戦時中の日本軍の横暴さを謝罪する為バリ全土を行脚する。

謝罪を終えた彼は、インドネシアの独立を願う、その心に偽りはない、
ということを証明するがために自決する。



日本人は、うそをつかない、ということを
身をもって示したのだった。

このほど、この三浦襄についての本が発刊された。
長洋弘の著による、右の本である。

副題として、
「バリ島を訪れる日本人のための物語」とある。
読んで見たが、まさにそのとおりの本である。

この本の「あとがき」には、
次のことが書かれている。

インドネシアの元副大統領、アダム、マリク曰く、
オランダの植民地支配は尊大で冷酷、であった。

が、日本軍のインドネシア支配は、
戦慄すべき策略であった。
と、日本の本心をあばいている。


さらに、「あとがき」には、インドネシアの高校の教科書には、
日本はインドネシアを支配したことのある国でもっとも残酷だった。
と記されていることも述べている。

そうなのだ。
第二次世界大戦中、
インドネシアを含めアジア人にとった日本の行動は、
どんな風に非難されても言い訳のできるものではなかったものと想像するのだ。
そう想像する理由を 三浦襄(その3)に書きたい。



オレは想う.....
多くの日本人は、
アジア人に優越感を持っている。
この「多くの」という意味。
オレは「ある時代の」と、
形容詞を読み替えている。
この「ある時代」の範囲、
「日露戦争〜バブル経済の崩壊」
と思っている。


第二次大戦中は、
その真っ只中だったってことだ。

日本は農耕民族であって、国境を隔離された島国だ。

その環境は、集団での行動に長ける気質を産み、
外国にとって異質であることに気づかない、という特殊性を産んだ。

集団での行動に長けるということは、
集団思想(建て前)が個人思想(本音)より尊重されるってことだ。

個人がいくら立派な人間であっても、
集団になると非人間的な行動をとることもあるのだ。
赤信号、みんなで渡れば怖くない...ってことだ。

優越感を持つ民族がこのような無責任下で
他国に侵攻したらどうなると想いますか?

私は船長時代、
日本人が他国籍人を使用する組織の統括をしてきた経験がある。

その時、何が大変だったかというと、
「乗組員の仕事のやり方が日本人的でない」
という日本人からの苦情に応えることであった。

で、その苦情は仕事の成就にそれほど影響のあるものではなく、
日本人がアジア人に尊大になるがゆえのものであることが多かった。

さて「ある時代」の考察に話を戻す。
このような他国に対する尊大さの感情だが、
オレは日露戦争の勝利で始まったように想うのだ。

ロシアから賠償金を取れないことに怒った民衆の抗議ストがそれを物語る。
その感情は、第二次大戦での敗北で消えるはずが、
朝鮮戦争での特需があり、
その後の所得倍増政策、高度経済成長を経て再燃した。

そしてバブルがはじけた以降に就職した若者の時代で
終わったように想うのだ。

随分と余談をした。

んで、三浦襄のことであるが、
インドネシア人の日本人に対する感情は、時々熾烈なものが交ざる。

上記のことがあり、それはあたりまえのことに想う。
が、ことバリ人に限ってみると、親日的な人が多い。

三浦襄の葬儀には、それを聞きつけたバリ人が一人二人と参集し、
最後には一万人が参列したと言う。

ほんに「バパ、バリ」として、バリ人から親しまれた証左であろう。

今、現在のオレは、親日的なバリ人に接しバリで安住できている。
悪をも許すバリヒンズーという宗教観のおかげもあろうが、
三浦襄のおかげもあると想っている。

写真は、
三浦が養育した
バリの貧しい子供たち。
内地の日本人と
同じ格好をさせる、
として服や運動靴まで
気を配ったという。
この子供達、すでに70余才、
三浦から怒られたことが
一度もないと証言する。
三浦襄のお墓
三浦襄のお墓は、
デンパサール市にある。
イマンボンジョール通りを北に走ると、
通りの名前がサマリン通りに変わる。 
そのサマリン通りに入る150m手前の小路を
左側に折れるとある。
上の写真は、お墓の全景である。
お墓の手前には、
三浦襄の遺書が掲げられている。
明治生まれの気骨ある文章には、
尊厳が感じられ胸が打たれる。
次は、それを平易な文章に直したものである。

(三浦襄の遺書)

この戦争で、我が祖国に本の勝利を念ずるためとは言え、私は愛するバリ島の皆様に心ならずも真実を歪めて伝え、日本の国策を押し付け、無理な協力をさせたことをお詫びします。 今まで大きな顔をして威張りかえっていた日本人も明日からは捕虜として皆様の前に惨めな姿を見せるでしょう。 彼らが死なずに屈辱するのは、新しい日本、祖国の再建に尽くそうと思っているからです。 死ぬのは一人で良いと思います。私が日本人の責任を負って死にます。

三浦襄の葬儀



越野 菊雄著 「独立と革命ー若きインドネシアー」
            昭和33年10月30日発行 
           発行所インドネシア経済研究所

より抜粋して掲載します。




同司会本部から、三浦さんの姿が消えた。数日後民政部長官官邸にあらわれた三浦さんの面ざしには、苦悩と憔悴が痛々しいほど刻みこまれていた。
三浦さんは、長官の口からじゅんじゅんと語られる、終戦にいたるまでの顛末を、首を垂れて聴いていた。最後の御前会議で「たとえ自分の身がどうなろうと、国民の苦難をこれ以上見るにしのびない」と仰せられて聖断が降るや、全閣僚みな泣きぬれて面をあげえなかったという情景には、三浦さんの感動もひとしおふかかったもようである。

三浦さんが、島内39郡を日に夜をついで、駆けめぐり出したのはそれから数日後だった。行く先々で郡長、村長その他の有力者を集めて、終戦のやむなきに至った事情、日本としてはいまや独立を援助できない立場にたちいたったが、しかし精神的にはあくまでインドネシア独立を支持してかわらねいこと、インドネシアの進むべき道は、唯々祖国愛に燃える全インドネシアの団結と一路前進あるのみなこと、そして、自分はあくまでもインドネシアを愛しバリを愛するがゆえに甘んじて全日本人に代わって骨をこの地に埋めて独立を見届ける決心であることを、熱情を傾けて説いて、住民の理解と納得を求めた。
そして9月6日の夕方には、多年住居の地デンパッサルの映画館で、現地人および華僑ら約600人を前に、声涙共にくだる大演説を行い、最後に、明9月7日の未明に、自分は自決して骨をバリに埋めインドネシア独立の人柱となって、諸君の独立達成を守るつもりであると結んで壇を降った。
これよりさき、三浦さんの決心を知ったプジャ君ら現地人有志は、自殺を悪徳とするヒンズー教の教えを説いて、三浦さんに思い止まるよう進言し、哀願もした。日本人有志も極力自重を要請しつづけた。しかし三浦さんを翻意さすことは、何人にもできえなかった。

映画館での最後の演説をおえた三浦さんは、同夜バリ・ホテルで催されたデンパッサル民政部主催のサヨナラ晩餐会にも請われるままに列席し、並み居る司政官たちとなんの屈託もなしに歓談を交わし宅に帰っていった。
そこには、三浦さんを案じてシンガラジャからかけつけたプジャ君をはじめ同氏に私淑する現地人有志が待ちかまえていた。語らいが夜更けまでつづいたが、いつまでも傍から去ろうとしない人々に、三浦さんはしまいに色をなして怒り出し、言葉を荒げて立ち去れと命じた。仕方なくみんなは、いとまを乞うて去らざるを得なかった。
みんながいなくなると、三浦さんは書斎に入って、大急ぎで何通かの遺書をしたためた。仙台の夫人や特別懇意な友人にあてたのもであった。「インドネシアに遺す言葉」として、各地で行った演説の原稿がのこされたし、愛用の時計、万年筆、印形などにそれぞれ贈り先が示された。また使い残りの養育していた子供たちにわらち与えるよう、名前まで書き残された。
死んだ後の処置をすませてから、マンデイ(水浴び)をし、すっかり真新しい衣類に着替えたうえ中庭の隅にしつらえさしたアタップ(椰子葉)の小屋囲いの中に入り、端座し右のコメカミに拳銃をあてがい、轟然一発とともに見事な最後を遂げた。「昭和20年9月7日、インドネシア独立が許容されるはずだった日」のあけがた(午前4時すぎ)であった。

神々しいまでにいさぎよい最期であった。
中庭の小屋囲いをえらんだのも、ミスター・プジャ所有の家の内部を、血でよごすまいとの心つかいからだった。それ以上に人々を驚かせたのは、いつのまに作らせたのか、等身大の棺が、ちゃんと中庭ぞいのヒサシ下に置かれてあったし、さらに驚かされたことは、テンパッサル市のはずれの住民墓地のなかに、ひときわ目じるしにもなる老木のかたわらに、棺の入るだけの墓穴が掘らしてあったことである。

その日の午後、その中庭で、葬儀がとり行われた。色とりどりの花で飾られた棺の前には、どこから持ち寄ったか香炉やリンがならべられ、南方特産の果物類がうず高く供えられた。
百坪くらいの中庭、身動きもならぬほど人で埋まった。焼けつくような太陽のもとで、僧職出の警備隊員がひとり、軍装のままケサガケをして導師になって読経をした。民政部長官、警備隊司令、邦人代表らが、つぎつぎに焼香し拝礼した。

バリ島は、8つの自治領にわかれ8人のラジャたちは、領民の生殺与奪の絶対権力を持ち、住民はラジャの前では「膝行」しなければならなかった。その8人のラジャが、一人のこらず従者をつれて参列した。彼らは略装の喪服姿をし、黒の上衣に黒のサロン(スカート)をまとい、カバラカイン(頭をまく布)を巻き、クリス(短剣)を背にさしていた。
むせかえる暑さのなかに、すべてが静かに、しかしおごそこにとりはこばれた。日本人の心も現地人の心も、まったく一つだった。
日本側による葬儀がおわると、個人の遺志にもとづき、バリの風習による葬送が、現地人たちの手で行われることになった。
棺には、これまた花で美しく飾られた天蓋をかぶせ、青竹の台座に据えられて、プジャ君はじめ側近者たちによってかつがれた。棺の前方には、白木綿の細布が長々とくりひろげられ、妙齢のバリ娘たち(多くはテンパッサルの看護婦学校の生徒らしかった)が一列にならんで、片手で布のハシを持って、銘々の頭上にさしあげ、も一つの手には花の枝を持っていた。白布を頭上にささえる娘たちの長い列の先には、市内の小学校、中学校、工業学校の生徒たちが、手に手に花の小枝を持ったり、小さな鏡や鈴のような楽器を持ったりしてならんだ。

行列が動き出すと、棺のすぐあとに、8人のラジャ、16人のプダンダが続き、多数の郡長、村長はじめ役人、警察官、華僑有力者など数百人がそのあとからつづいた。
棺は、日本人の黙祷に送られて発進し、家の前の道路から右に折れて本街道に出、警備隊前を通って一直線に、中央大通りの華僑街を北進した。西側の店にも家にも、紅白のインドネシア国旗が低く垂れていた。実をいえば、この9月7日からはじめて紅白旗が「単独」にかかげることが認められたのであったが、奇しくもそれはバパ・バリの死を悼むインドネシア住民の弔旗とかわったのである。

やけつくような炎熱の街を、戸毎に紅白旗の低く垂れる大通りを、えんえん数町におよぶ列は、粛々と進んでいった。かってこれほど、盛大な、しかも厳粛な葬送を、いかなる大官がバリ島でうけたことがあろうか。そして将来においても、これに比敵する待遇をバリ人から受ける者があるだろうか。

やがて進駐してきたオランダの命令で、バリ島から日本人がのこらず立去ったのは、翌昭和21年5月末であった。
独立戦争を丸4年戦い続けたのち、オランダがとうとう棒を折って、主権譲渡をし、インドネシアの独立が実現したのは昭和24年12月(1949年)で、三浦さんが自決してから4年4ヶ月後だった。

往年の世界の観光地バリ島も、今は訪れる観光客も稀れのようである。むろん日本人はそれっきりひとりもいなくなっている。しかし、真実をいうなら、バリ島には、いまもなお「日本人がいる」のである。それは、テンパッサルの住民墓地にねむっている三浦さんであり、いな三浦さんは「眠っている」のではなくて、130万バリ人の心のなかに、「いまも生きている」のである。

 (昭和32年5月)
 (日本インドネシア協会発行月刊インドネシア所蔵)