堀内豊秋

日本軍が如何にインドネシアに迎えられたか、
例として、その一つを書きたい。

真珠湾攻撃から一ヵ月後の1942111日に、
日本軍のインドネシア侵攻が始まった。
最初は落下傘部隊によるものであった。

場所はスラウェシ島のミナハサ。
部隊長は堀内豊秋(写真)であった。

この話は、
軍医としてミナハサに任務していた、
福岡良男(後に東北大学名誉教授)が、
書き残しているものである。



福岡良男は、現地住民の巡回診療をする中、
対日感情が頗る良いことを経験した。
そして、その理由は、
堀内中佐(後に大佐)の善政がゆえと知り、
そのことを後々に伝えたいと書き残したものである。
書かれたそのままを転載する。

セレベス島北部のミナハサは、
オランダがもっともオランダ化に力を入れ、
植民地政府の下級役人、教師、雇兵を育成したところで、
インドネシアの他の地域の人びとから「オランダの犬」
と呼ばれていた地域であった。

このミナハサ地区に降下し、オランダ人を数日で駆逐したのは、
海軍の堀内落下傘部隊であった。

部隊長の堀内豊秋海軍中佐が、
原住民を非常に大切にし平等に取り扱い善政をひいたために、
住民の対日感情が非常によいということがあとでわかった。

また、オランダのインドネシア傭兵捕虜を、
直ちに釈放したことも現地住民の対日感情を一層良いものにした。

どこの部落に行っても「ニッポン、インドネシア、サマサマ(平等)」とか、
「ホリウチタイチョウ、ジョウトウ、ニッポン、ジョウトウ」と言って、
親指を上に向けて歓迎してくれた。

堀内豊秋海軍中佐におくれて現地の守備の任務に着いた陸軍は、
堀内海軍中佐の善政の恩恵に浴した。

堀内豊秋海軍中佐とその部隊がバリ島に移動するとき、
落下傘降下地区のカラビアンとラングアン地区の
住民数百人が、別れを惜しみ60キロの道を歩いて、
メナドまで堀内部隊を見送りに行った。


堀内豊秋海軍中佐は、終戦後、部下の責任をかばい、
その結果、戦犯としてオランダ軍に逮捕され、
現地住民の嘆願があったにもかかわらず、
戦犯としてメナドにて銃殺された。

報復裁判による銃殺と言われている。



福岡良男の記述は、ここで終わっているが、
その後の堀内豊秋のことを付記しておきたい。

終戦後、堀内は部下ら12人が戦犯として囚われていることを知り、
自分の証言で救えるならと考え、自ら巣鴨刑務所に出頭した。

その後インドネシアに送還された堀内は、
オランダ兵を公衆の面前で侮辱したという理由で処刑された。

享年47歳、刑場では目隠しを断って潔く散ったという。

この堀内の処刑に対し、
地元民はそういう事実は無いと嘆願したが叶わなかった。

このままでは堀内本人に申し訳ないとの運動が盛り上がり、
1994
年、インドネシア独立50周年を期に、
地元民の尽力でメナドの地に、堀内豊秋の慰霊碑が建てられた。
堀内がメナドにいたのは、たったの3ヶ月だけ。
その3ヶ月で、これほどまでに慕われる仁政を尽くした堀内豊秋、
日本人として、誇りに思う。