稗方典彦主計大尉の証言


何の抵抗も無く上陸を完了した。時に24時。三浦さんの誘導で前進したが、敵兵は一人もいなく、住民も逃げたらしく影も形も見えない。あっちこっちと懐中電灯を照らしながら前進していくと、逃げ遅れたらしい老婆が一人いたので、尋問したがサッパリ要領を得ない。一路テンパサルへすすんだが、篠突く雨が降り出した。椰子林の中、カンポンの中を通り、何の抵抗もなくにテンパサル入り、3時頃、敵兵舎に入った。警備のため一部兵員を残して、主力はクタ半島にある唯一の航空基地に向った。市内の兵舎、警察官宿舎の中には、緑色の制服が山となって脱ぎ捨ててあった。人影はまったくない。 

住民のうちオランダ人、アンポン人、メナド人はクタ飛行場へ、バリ人やバリ兵は皆山岳地帯に逃げたという。警備隊長として残った中島少尉と本部の一部は、バリ・ホテルを本部としてテンパサル市の警備にあたった。豪華なバリ・ホテルにいたオランダ人も日本軍来るの報に、全員が自動車を走らせてジャワへ逃げ去っていた。 「白髪のおじさん」来るの噂を聞いて、テンパサルの住民が続々と帰ってきて、三浦さんを見るなり "Yah! Tuan Miura datang"と旧知の三浦さんを目の前に見た喜びで喧々囂々たる有様。30分も過ぎると、果物を入れた籠を頭の上に載せ、腰に極彩色のサロンを巻き、上半身は裸で、お椀を伏せた様な乳房をあらわにした姿の女房や娘が堂々と大道を闊歩しだした。荷物は重くとも、頭の上に載せて運ぶ関係で背筋は通り、胸を張るという見事な体格の女性が多く、占領第一日に、この様な光景に接するとは夢にも思わなかった。 

軍政監部も民生部もいない。この上陸部隊は航空部隊と陸軍部隊だけであり、上陸した以上は統治せねばならない。臨時の軍政部を編成し、直ちに軍政布告を告示し、そのポスターをホテルをはじめ、主要箇所に張り出した。「我々日本軍は、アジア解放にきたのである。アジア人のためのアジアを建設するためである。どうか、安心して生活し、日本軍への協力を希望する。インドネシア独立に邁進してください」 バリ側、代表プジャー、スランガンと色々協議、8人のラジャーの領土、統一に日本側も軍政要員決定と共に直ちに邁進した。 

親指を上げて「ジュンポール!」「、ジュンポール!」とあちこちのカンプン(村々)で大歓迎を受けた。1942年ジャワ作戦時、上陸の各地での風景であった。私の所属した部隊は昭和17年2月19日バリ島に上陸したが、この島も同じであった。あまりにも賑やかな歓迎に気持ちよかったが、少し不思議に感じたので、ある学校の先生に訊ねた。

 「数百年前、わが王国が白人に滅ぼされたとき、ある予言者が『数百年後北から黄色い民族が来る。その黄色い民族が来たら白い民族は引き揚げる。この黄色い民族は2、3年で引き揚げ、我々の民族は独立する』と予言したと伝えられています。あと、2,3年したら独立できるので喜んでいるのです。あなた方は救いの神です。」ということだった。そしてまったくその通りになった。