日本への一時帰国

土岐時治の証言


残留日本兵の会である「福祉友の会」が行った事業の中で、
“一時里帰り”の記述を、私は涙しながら読みました。

一時里帰りの費用は、日本外務省から若干の補助金が出て実現しました。
その補助金を受ける条件として、
本邦内に身元引受人となる親族がいること、
身元引受人及び帰国希望者に旅費負担能力がないこと、
が条件でした。

言ってみれば、捨てた日本にもういちど世話になるということです。
このことを由としない残留日本兵もいたようです。

事実、一時帰国しなかった残留日本兵からは、
日本に一時帰国して、国や故郷から歓迎された様子を報告する同僚に、

「いつまでも感傷に酔っている場合ではない」
「インドネシアに帰化した後、今日まで如何にして生きてきたか」
「今後如何にして生きて行くか」
「それを考え独立戦争に参加した元日本軍人と襟を正していくべきだ」

と、一時帰国を暗に批判する意見も出ました。

そういうこともあってか、
第一次一時帰国者は、6名いたのに、
第二次帰国希望者は、4名に減り、
第三次帰国については、希望を募ったものの応募がありませんでした。

残留日本兵にとっては、
日本軍を脱出しイ軍に参加したという、わだかまりが
なかなか消えないものであったようで、悲しくなります。

さて、
このような一時帰国の記述の中から、ひとつの証言を拾いたく思います。
第二次一時帰国者4名の代表者として帰国した、土岐時治の証言です。

土岐氏は、南スマトラ鉄道省のプラムブリ駅の駅長を定年まで勤めあげています。
また、土岐氏は、福祉友の会から月報が届くたびにお礼の手紙を書き、
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歳の生涯を終える直前には、「もうこれ以上書けません」と、
最後の力を絞った手紙を送っております。

誠実一途の人だったようです。
お読みください。


(証人) 土岐時治
1910
17日生 石川県出身
電1連 伍長

(証言)
(中略)


新聞の記事に、“ある残留者は日本に帰りたかったが、
日本に残した妻子に反対され、断念した“ と報じられていました。
その人は、どうしてもっと積極的に妻子と話し合わなかったのかと、
かえすがえすも残念に思います。

実は、小生の里帰りにも、日本の子供達は猛烈に反対しました。


“親父は世間の恥さらしだ”
“我々子供の顔にまで泥を塗るのか“

と言う返事を受けました。

私は“カッ”となって、子供達の手紙を破り燃やしました。
私は直ちに加賀市長に長い手紙を書きました。
又、朝日テレビの鈴木さんにも子供を説得してほしいと手紙を書き、
私の弟にも同様の手紙を出しました。

里帰りの目的は、
両親と妻の墓前に土下座して私の不徳のお詫びをしたい事、
加賀市の皆様に復員しなかった事情をのべ、
戦後40年の心のわだかまりを清算したい事、

を訴えました。


程なく子供から手紙が来ました。
封を切ろうか切るまいか、
一瞬迷ったが意を決し開封しました。

それには、

私は、市長さんや朝日テレビの鈴木さんや叔父等に説諭されました。
あなたのお父さんが現地に残留したのも、戦争の犠牲になったものである。
厚生省・福祉友の会援助による、
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余年のお父さんの念願の里帰りに反対するあなた方は、人の子ではない。
血も涙もない冷血漢だ、と言われました。
わけても私の妻が、私に食って掛かって来ました。
私の悪夢が覚めました。
お父さん許して下さい。
我々子供は万全の準備をして、お父さんをお迎えします。

と、書かれていました。

子供の手紙を受けたその晩は、一晩中眠れませんでした。
子供達は理解してくれた。
矢張り血を分けた子供だと嬉し泣きしました。



我々第二次里帰り4名は、付き添いの日系婦人岡本恭子さん、
並びにSofian氏に、朝日放送・鈴木さんのご一行加えて、
去る66日午後7時30分発、日本航空便でHalim空港より旅立つた。

機内の座席はYayasan役員の計らいで、
翌朝富士山が見える様にと、左側窓近くに陣取った。

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年振りで日本娘のサービスを受け、
又、機長の挨拶もあって、それまでの不安も薄らぎ消え去った。

それまでに随分迷った事もあったが、
里帰りに踏み切ったのが良かったと、づくづく思われる。
満ち足りた気持ちに身をまかす。

そして、それも束の間、
想いは一足先に故国に馳せ、一睡も出来ず夜を明かす。

午前6時頃窓側に座っていた吉良氏が
「富士山が見える」と叫んだ。

我々全員窓に顔を寄せて、故国の表徴富士山に見入る。
雲が多く山頂がちょぴり見えた程度で
42年振りに富士の偉容”とは言えない。
かえすがえすも残念であった。

”富士山が見えたら程なく着陸“と考えたら、
気がそわそわし落ち着かない。
気がついたら、朝日放送のカメラが富士山に見入る我々を写していた。

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日朝、710分、日航機は無事成田空港に着陸した。
飛行機を降りて空港構内に一歩踏み込んだ我々は、
ひしめき合う報道陣にびっくりさせられた。

カメラに、質問に取り巻かれて、歩くのも遅々としてもどかしい。
パスポートに入国許可の捺印を得て、通関完了。

日イ親善の架け橋となった我々の功績を評価して、荷物検査なしと言う。
「長い間ごくろうさまでした」と税関史にやさしく声をかけられて嬉かった。

Yayasan
協会役員に導かれて記者会見室に入る。

待ち構えていた報道陣から
“何故残留したか”
“戦後日本の感想”等等質問攻めに会い、
どぎまぎしている間に20分間の記者会見は終わる。

出口に向かった。
先ず、“土岐時治氏歓迎”の横幕旗も高々と掲げられ、
又、日の丸の小旗を持った多数の歓迎の人波に二度びっくりさせられた。

“万歳万歳” “お帰りなさい” “よく帰ってきてくれた”
あらゆる叫び声が重なり合って怒涛の様に、“ぐおん”と耳する。

感極まりない。
夢の様だ。


「土岐さん! あそこに息子さんが迎えに来ておられます」と誰かが言った。
指差す方を見ると、大きな男がにっこりと笑っている。

私は歩をはこびつつ男の顔を凝視した。
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年前の子供の面影が浮かんできた。

「あっ! 泰男!」
私は、トランクを投げ出し走り寄り、泰男の肩に抱きついた。

「許してくれ、逢いたかった」
涙があとからあとから、とどめなく顔をぬらした。

その時、横から又抱きついて来た者があった。
「お父さん、雄司だ!」

親子3名、ただただ抱き合い声なく再会を確かめあった。
里帰りの前の一週間、私の里帰りを拒否したあの子供達が、
心から私を歓迎してくれた。

これで42年間、もやもやしていた心の陰が一掃された。

すがすがしい気持ちで里帰りを終えることができた。
これも一重に里帰り関係者皆様のご理解とご協力によるものと厚くお礼申し上げます。

1983
6月  土岐時治


なお、一時帰国を終え、インドネシアに戻ってきた土岐氏が
空港に迎えに来た福祉友の会の役員に口頭で次のことを伝えている。

「郷里、加賀市大聖寺では、市民大会を催して歓迎してくれた」
「あいにくの雨にもかかわらず、800名の市民が集ってくれた」
「市民大会で加賀市長は“土岐さんは日イ両国の親善の勇士である”と挨拶した」
「大会参加者から、里帰り中の小遣いにしてくれとお金が集められた」
「そのお金が51万円にもなり、厚意のみを頂き交通遺児に寄付した」

以上