残留日本兵 903名 の傾向
          戦没・不明・生存者の数
          出身地・年齢
          軍人・軍属・民間人の別
          戦死・行方不明になった場所

戦没・行方不明・生存者の数

敗戦後日本に帰らず、インドネシア独立戦争に参加した、
いわゆる残留日本兵の数であるが、
巷間おおざっぱに「2000名、その内1000名が戦死」と伝えるものがある。
が、それほどはいなかったようである。
正確な数を数えようと過去に何人もが挑戦している。
これらの挑戦を列挙すると、

1、福祉友の会230名名簿
2、200号月報「抜粋集」掲載人名リスト
3、福祉友の会・現存者名簿(1982.4.1)
4、読売新聞大阪版(1981.12.3)
5、読売新聞74名名簿(1982.2.22)
6、厚生省帰還者名簿(1958.11.1)
7、在メダン日本国領事館作成名簿(1974.10.1)
8、日イ文化交流委員会・池上信雄氏提供資料
9、アジア問題ジャーナリスト加藤裕氏提供資料


であるが、
これらを集大成してカウントすると、
右表のとおり、903名という数字になる。
集大成を試みたのは、松下電子社員として、
インドネシアに勤務した坂根孝氏である。
氏は、903名という調査結果を「仕掛品」であって、
完熟した数字ではないと言っている。
が、ほぼ現実に近い数字であろうと思われる。

ひとつ気にかかることがある。
人数の把握に取り組んだ,
乙戸昇氏の次の言葉である。
「残留日系人数となると各地に残っておられた、
日系婦人も加算しなければならない」
と、言っていることである。
独立戦争を戦った自らが残留日本兵の
乙戸氏ご本人が言っているってことは、
そうしたことを痛感する事実があったからであろう。
そうしたご婦人のことが、
全く歴史の表面に出て来ていない。
時が過ぎ去りすぎて、もう掘り起こすことはできない。



年齢
右の表は、
残留日本兵全員の日本敗戦時の年齢である。
ということは、
日本軍を離隊し、
自分の身をインドネシア独立戦争に、
投げ出すことを決断した年齢ということになる。

下は、右表をグラフ化したもの。
24
27歳にピークがある。

私の25歳の時を思い出してみる。
まだ、独り身であった。
で、何かにつけ、はつらつしていたように思う。
又、何かにつけ、青臭く純粋だったようにも思う。

そうした私が、同じような境遇に出会えば、
私もも残留日本兵になったのじゃなかろうか。
高い確率でそのように想像する。
カミさんも「あんたはきっと残留したはず」
なんていう。

が、妻や子がいればどうだったろうか。
残留したかもしれない確率はどーと下がる。

昔は結婚年齢が若かった。
右表の27歳以上の者には、
たいがいに妻子がいたのではなかろうか。

それでもインドネシア残留を決意している。
気構えに圧倒されて、言う言葉が見つからない。



軍人・軍属・民間人 および 出身地

戦没・行方不明者の場所