最近の中国、韓国の反日運動。
領土問題のみ取り上げられているが、
大戦時の日本への恨み、
が根っこにあるからである。
今現在、仕事で中国や韓国に住む、
日本人がいる。
住みづらい思いをしているに違いない。
に比べ、オレはインドネシアにいる。
親日的な国である。
中国や韓国に住む日本人に申し訳ないが、
比較的大事にされて、過ごしやすい。
この理由、いろいろあろうが、
大戦中、日本がインドネシアにとって来た行為が、
ある程度認められる部分があったからであろう。
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その中に、ある程度とかではなく、
絶対に認められている行為がある。
日本の敗戦が決まっても日本に帰らず、
インドネシアの独立戦争の為に、
自分の命を投げ出した日本兵が大勢いたからである。
今、オレは日本人としてインドネシアで安穏と暮らしている。
これも、この先人達のおかげである。
そうした感謝を込めて、インドネシアの独立に果たした日本人のことを書きたい。
まずは、何故にインドネシアの独立のために命を投げ出したのか....
おいおい述べていくこととするが、
真っ先には、宮山継夫氏の「離隊の言葉」(昭和20年12月9日)を紹介したい。
宮山氏は東京帝国大学卒だが、将校にならず兵で通した気概を持つ人であった。
戦友宛にインドネシア独立のためにインドネシア軍に加担する意義を激白したもの。
当時は冷静に分別ができる30歳の青年であった。
敢えて大命に抗して、
独自の行動に出でんとす
言うなかれ 敗戦の弱輩 天下に用無しと
生を期して米英の走狗たらんよりは
微衷に殉じて
火に寄る虫とならん
天道は正義に拠る
世界史の赴くところ
叉正義に有非ずして何ぞ?
敢えて不遜の行動に出ずるゆえん
願わくばご容赦あらんことを
戦友諸君
宮山継夫は、独立戦争を生き残り、戦後の1952年、北部スマトラより、
第一回の帰国団で日本に帰国している。
日本帰国後、北スマトラ石油開発株式会の役員として、
再度インドネシアに来ている。
氏は、1988年9月、68歳で死去しているが、
この「離隊の言葉」は、東京の自宅に残されていたものであった。
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