指導のきっかけ

 出町中学校を本格的に指導して8年が経過しました。指導者がいなくなってレベルが低下したのを立て直してほしいという市協会の依頼を受けて始めたのですが現在のようにいろんなものを犠牲にして指導にあたることはしてませんでした。今の私を作ったのはあるメンバーがきっかけでした。

 冷めやすい性格の私が長く指導するようになったのは、8年前に指導した現在大学4年生のメンバーがいたからです。

 その前年は地区選手権1回戦で負け、当時は市内の3中の中でも極端にレベルが低くもまともなゲームもできない状態でした。その地区戦が終わってエナジー(当時は日鉱共石)のクリニックがあったとき出町だけは観覧席で見学していたものです。

 その新チームのメンバーは私たちはどうしても勝ちたい。とにかく勝たせてほしいと訴えてきました。しかし、私も今のようにシステムや練習方法等は理解していなかったですし顧問の先生はバスケ未経験で県外遠征も無く夜間練習もできませんでした。

 新人戦は組み合わせが良くて2位で県大会に出れましたがそこでも散々なスコア(N中にトリプルスコア)で立山杯にも出場することなく(決定戦でG中にダブルスコア)終わってしまいました。

 キャプテンを中心にもっと練習時間を延ばしてもらえないか、夜間練習はできないのかと訴えにきましたが当時は許してもらえませんでした。できないから自分たちで時間を見つけてやるしかない(これは今でも言ってることです)としか言えませんでした。

 ある日、市民体育館の職員から今年の出町はやる気がありますねという話を聞きました。なにかと思えば集まってシューティングをしているとのことでした。有料なのですが自分のお小遣いを使って練習していたのです。私が高校のときに リング下に跳び箱を置いてそこに長椅子を自分の側に斜めに置いてシュートが入ったらボールが自分の側に戻ってくるようにして一人でシューティングをしていた話をした後のことで努力をすれば結果はでるということ指導していたときでした。これには私も気合が入りました。なんとかしてあげようと思って練習に取り組んだものです。しかし今振り返れば技術的にはめちゃくちゃでゲームをしてもなかなか勝てませんでした。この自主練習はずっと続いていたようです。(今は庭先にリングのある家がたくさんありますが当時は販売してませんでした)

 Oコーチのチームと初めてゲームをしたのもこの年でした。技術的にも、ものすごくハイレベルで素晴らしかったのですがなによりも驚いたのはゲームとゲームの間にずっとボールハンドリングや個人練習をやっているところでした。それも大道芸人の域で今までに見たこともないボールハンドリングでした。すごいですねとOコーチに聞いたら「彼女たちは日本一になりたいと言っている、日本一になりたいのならあれくらい当たり前で特に言わなくても勝手にやってるんですよ」と言われました。それ以来、出町も試合や遠征ではゲームとゲームの間に個人練習をやるようになりました。(今は言わなければ動きません、やってもしかたなく形だけ) また、このときに立ち方、走り方まで、頭のてっぺんから爪の先まで徹底して指導するんだという話を聞き、今のように個人技を徹底するようになりました。

 その年のメンバーが3年生になったときに顧問の先生が変わってバスケは未経験ですが体育系の熱い先生になられました。その先生のおかげで夜間練習ができるようになり週2回9時過ぎまで徹底的に練習をやりました。(現在は部のできない月曜日に8時まで)もちろんだれ一人休むものもなく父兄から批判がでることもなかったです。更に当時は部の朝練習もありました。(今はありません)夜間練習の次の日は朝練習を休むように言われたときは「どうしてできないんですか」と言ってきました。結局は自主的に練習をしていたようです。

 技術的には私がまったくわかってなかったので低かったのですが能力的には現在指導している者をはるかに上回っていました。スタメンの身長は、PG166、SG160(キャプテン)、F166、CF170、C176でゾーンからファーストブレイクを武器に徹底して走る練習をしていました。(今の知識があれば・・・・・・・)

 迎えた県選手権(私は中学で初めての県大会)の初日の相手は新人戦で負けているG中です。練習の成果があってファーストブレイクがどんどん決まりダブルスコアで勝つことができました。2回戦は余裕のあるゲームだったのですが控えの3年生を出したら張り切りすぎて過呼吸になって倒れるものがいるくらい気合が入って、120パーセントの力を出してゲームをしていました。

 準決勝の相手はこれも新人戦で負けているN中です。競ったゲームになったのですが大事なところでシュートが決まらずに4点差で負けてしまいました。北信越をかけた3位決定戦ではもう燃え尽きてしまいゲームになりませんでした。学校に帰ってからキャプテンと副キャプテンが「私たちが頑張らなかったから北信越に行けなくてすいませんでした」と泣きながら言いにきました。「そんなことは無い。あれだけ勝ちたいと言っていた君たちを勝たせて上げれなかった私の力不足で本当に申し訳ない。」

 この子たちが私に火をつけてくれました。この後から指導用のビデオや本等を購入して勉強を始め現在に至っています。

 一度良い思いができればその後長く続けることができるものです。この年は北信越や全中に出場できませんでしたが私にとっては一番良い思い出の年です。その後から県のトップレベルをキープして北信越や全中に出場できるようになったのはこの年代があったからです。

 過去を振り返っていても仕方の無いことなのですが現状を見ているとついつい懐かしんでしまいます。

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