REAL INKA TREK
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 インカ帝国は都クスコを中心にカバック・ニャン(偉大な道)という幹線道路を整えた。タンボと呼ばれる旅籠が置かれ、チャスキ(飛脚)が行き交う光景が脳裏をかすめる。クスコの旅行代理店でマチュピチュツアーと並んで目玉商品となっている「INKA TREK」は、その一部をなぞるものと思い込んでいた。
 実は、インカにはカバック・ニャンのほかに謎の道があった。クスコとインカの秘密基地を結んだといわれるビルカバンバの山道だ。その一部は現在トレッキングコースとなっていて「INKA TREK」として人気を集めている訳だ。通常3泊4日。モノノ本には全行程33Kmとある。
 そして、マチュピチュへの交通手段として需要の高い高山列車は、その謎の道とほぼ平行にふもとの谷をウルバンバ川に沿って走っている。列車の窓から広がる風景から古代インカ帝国に思いをはせると感慨深いものがあるのは、そのせいかもしれない。

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 ここで、オヤっと思うべし!「INKA TREK」の前になぜ「REAL」がついてるんだって?!

 この日、私はマチュピチュからクスコまで夕方のローカルトレインで帰れるよう、現地の旅行代理店に手配してあった。pm3:30にプエント・ルイナス駅 で、列車の切符を受け取って、午後8時くらいにクスコに着くはずだった。

 「昨日とは違う風が吹いてる」というのは直観的に鋭いところをついていた。正しく言えば「いつも」とは違っていたのだ。というのも、遺跡にいる人の数が少なすぎた。前日が多すぎたのかもしれないと思えばそこまでだが…。ワイナピチュ登頂で気分が高ぶっていた私は、気付くのが少し遅かったのかもしれない。
 というのも、その日、ペルーの列車がストライキを始めたのだ。誰に聞いてもいつ終わるのか分からない。1週間かも…と聞いて少し気が遠くなった。帰れない?!とにかく昨日泊まったアグアス・カリエンテス(マチュピチュに近い宿場町みたいなところ)までしかバスは出ておらず、多くの人たちがそこで足止めされているらしい。午後2時すぎ、思いがけないハプニングの渦中にいることを知り、何はともあれ、アグアス・カリエンテスに向かう。そこへ行けばバスとか代替交通手段があるって思いながら…。
 アグアス・カリエンテスに着いて、情報が命!とinformationみたいな旅行代理店に入った。そこには、私と同じような気持ちの欧米人バックパッカーたちでにぎわっていた。彼等がいうには、ここからクスコまでは、車の通れる道路が整備されていない。クスコに帰るには、ストライキが終わるのを待つか、ヘリコプターで飛ぶしかないと。だったら、ヘリしかない。時間のない身としては、そうするしかない。予約しようとオフィスを訪ねたところ、これが明日まで予約でいっぱいで、その後は分からないという。午前中ワイナピチュで会った女の子(from USAだったはず)もキャンセル待ちするという。ふーーーーー。途方に暮れて街の中心部に向かった。
 あちこちで、この街の脱出方法について語る「輪」が出来ている。そのひとつに、今から25Km離れた隣の駅まで歩いて行って、バスでクスコに帰るという案があった。その話を聞いているうちに、こうでもしなければ帰れない!そんな気がしていた。頑強な青年たちが街の旅行代理店と掛け合っていた。聞けば、これからその隣駅まで歩いて、そこに迎えの車を用意してもらう手配をしているとか。そこで思わず「私も行く!」と言ってしまった。
 差し出された紙に名前を書き連ねると、彼等が言った。「午後3時半かー。出発するよ」…「えーっ。それって今すぐってこと?」やれやれ。よくよく聞けば、隣の駅まで線路の上をひたすら歩くこと6時間。日没までになんとか進めるだけ進むとかで、あの「INKA TREK」コースの線路上バージョンを、こんな時にだからこそ?!やろうっていうらしい。一瞬「無謀なバックパッカー、ペルー山中で死亡」っていう新聞の見出しが思い浮かんだ。

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 現実でいて夢のような時間が始まった。ミネラル・ウォーターは1本あったから、とにかくチョコレートを買った。一行はもう線路を歩き出していた。私自身、遠足でも25Km歩いたことなかったし、背中にひとかどの旅道具を背負って、どこまで行けるかなんて考えてもヤボなことだと思った。この人たちと一緒なら大丈夫だっていう、第六感みたいなものを信じることにした。
 「よろしく〜」って一緒に歩き始めたのは、USA の青年2人だった。ほかにも新婚旅行らしきペルー人夫婦とか、さまざまな人間が線路の上を歩いていた。気持ちはひとつ。「無事帰れますように」
 不安と裏腹に一行はきわめて元気だった。トンネルみつけては「ここに名前と日付彫っていこうぜ」って言い合い、記念撮影なんかもこまめにやってた。よく見れば、私だけがアジア人で、あとはみんな欧米人と地元人だった。不安要素に対する楽天的思考がケタ違いである。日本人にしては楽天的といわれる私でさえ、うならせてしまう!
 一行は自然と淘汰され、男女総勢7人のチームになっていた。それこそアメリカ、ドイツ、スウェーデン、イスラエル、そして日本といったインターナショナルチームである。そんな一行の様子にカゲが見え始めたのは、太陽が山の端にかかってきたときだ。立ち止まって懐中電灯を持参してるか確認し合う。幸い二人一組で歩けば、なんとかなる本数はあった。出発するときに買ってきたミネラルウォーターを回し飲みしながらの作戦タイムである。
 明るいうちは線路脇の細い道を歩いた。土の弾力性で歩きやすいからだ。だが、暗くなるにつれて、線路上の枕木の上を歩いた。安全に歩くためには月に照らされた枕木の上を歩くしかないのだ。懐中電灯もあったけど、この先何があるのか分からない。極力節約して、月の光を頼りにひたすら歩いた。ウルバンバ川のせせらぎをBGMに一歩一歩確かめるように。真面目に歩けば、6時間。だけど、人間としての限界もあった。自然と休憩時間が多くなった。
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 とうとう持参したミネラルウォーターがなくなった。15Km歩いたか歩かないかといったところである。しかし、メンバーのひとりがウルバンバ川の清流をくんできて、浄水の薬剤を入れて、問題解決。誰もがもう歩けないと思いながらも、口には出さないでいるギリギリのラインだった。
 歩くのを再開しても、先頭と最後尾の距離は開く一方だった。体力のない私はひたすら後ろのほうで歩いていた。気がつくと前に仲間の姿が見えない。先頭は先のカーブを曲がってしまっているらしい。とぼとぼ歩く心細さを救ってくれるのは、アンデスを照らす月と、その時の自分を動かしているパワーのみ。数えても数え切れないほどの枕木を踏みしめて私たちは歩いた。線路脇のゴミ袋がうずくまってる人に見えた。暗闇の中、近づいてくる物体をも恐れず歩み進めると牛だったりした!思いにもならない気持ちが頭の中でグルグルしていた。ただ「帰りたい」という気持ちだけが意識の中にあった。
 その意識も朦朧として、足だけが機械的に動いているのにも慣れてきた頃、やれやれ駅のようなところにたどり着く!ゴールと思いきや、そこは沿線の出店みたいなところで、ほんとに露店みたいなのが1件だけ。聞けば目的地まであと7.8Kmという。もう腰が抜けそうだった。しかし、頑強な青年たちは違う。そこで、ペルー名物インカコーラを一気に飲み干して「もうすぐじゃん」って嬉しそう!さらにその空ボトルで足などを叩くとマッサージ効果があることを発見して、私の太モモからふくらはぎにかけてをそれでポンポンと叩いてくれる。やさしさは余裕から生まれてくるんだと思った。
 あと一息…が、実は長かった。もう記憶も何もない。
 やがて、向こうの方から懐中電灯の灯りが近づいてきた。手配されたガイドさんだった。「あと1Kmだ」『うわー』もう1Km、まだ1Km。二つの思いがぶつかりあっていた。
 次第にそれらしき灯りがみえて、、、駅に着いた。嬉しくて荷物ごとひっくり返った。
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 が、これがゴールでスタートである。約束通り、トラックが待っていた。深夜である。ホントに送ってくれるんだろうか。もう時間なんか知っても知らなくても、どうでもよかった。一人20ソルで、交渉は成立した。私にはその値段が高いのか安いのか分からなかった。
 荷台にのって3時間。もうどうにでもなるとしか考えられなかった。ペルーは冬とあって、着込めるだけのものは身に着けたつもりだった。しかし、屋根も何もない荷台ゆえ、風の冷たさは身に凍みた。他のメンバーは疲れたらしくて、寒空の下、揺れるトラックの上で防寒具をかぶって眠っている。私は目を閉じていた。ふと目を開けると、そこは平原の真っただ中であったり、遠くに小さな街の夜景が見えたりした。エンジンの調子が悪いのか、運転席の真後ろにはほんのり温かい空気が流れてきた。いくつもの山道を走り、寒さに耐えきれず起き上がると、眼下に100万ソル!の夜景が!!見覚えがある!!!初日の遺跡めぐりの帰りに見たのと同じ配置で街が拡がっている。クスコだぁ。
 トラックはクスコの中心、アルマス広場に止まった。夜遅くまで人でにぎわうこの広場も、この時間ともなればほとんど誰もいない。街灯だけが妙に明るい。私たちはありったけの力をふりしぼって荷台から降りた。ふと見上げると、遠くの丘の上で「CRISTO BLANCO」といわれる白い巨大な像が闇に浮かんでライトアップされていた。まるで天から降りてきたかのように両手を広げてそびえ立っている。救われたんだと思った。
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 その場にでも座り込みたい気持ちとは裏腹にホテル探しである。マチュピチュ出発前、泊まっていたホテルには戻ってくるって告げてあったけど、この時間ともなれば、満室だと言われても仕方ない。果たして、ホテルの門は固く閉ざされていた。何度かチャイムを押すと、「本日の当直」みたいなフロント係が寝ぼけ眼で出てきて、空いてる部屋に入れてくれた。といっても改装中とかで、ベッドが3つ押し込められていて、毛布もよりどりみどりだった。時計をみると午前4時半。私は気を失うかのようにベッドに倒れ込んだ。長いながい一日が終わった。

 私にとって「INKA TREK」は、はからずもハプニングから生まれた。安全も何も保証されていないけど、人を信じて自分も信じることに賭けてみた。今だから笑って話せるけど、その時は文字通り「必死」だった。これが、私にとっての「REAL」だったのである。
 


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