独立戦争記念モニュメント
タナアロン ムンドゥク・マラン パンジ ブルンブンガン その他
Panji

インドネシア独立戦争を戦った、
残留日本兵は、20〜30人いる。
その中で生き残りバリに永住したのは、
平良定三さんだけである。

その平良さんも
10年前にお亡くなりになった。

でも、嬉しいことに、
妻のメルダさんは、今もご健在である。
そのメルダさんと平良さんが
最初に出遭ったのが、
シンガラジャから15キロの
山の中のパンジである....と、
私はメルダさんからお聞きした。

平良さん率いるゲリラはどういう処にいたのだろうか。
メルダさんと出遭ったのは、どういう処なのだろうか。
オレは、パンジに行ってみたくなった。
そして、実際に行って来た。
昔はジャングルだったらしいが、今は大きな村に変貌していた。
そして、そのパンジ村にあったのが、写真のモニュメントであった。

モニュメントの名前は、Bhuwana Kertaである。
入り口にあるボード(下)には、モニュメントの意義が書かれている。
中ほどを抜書きしてみると、

pada tanggal 17 januari 1948
berkumpul ditempat ini pimpinan gerilyawan pemuda pejuang kemerdekaan di samping menam dua pohon beringin juga mencetuskan ikrar

とあり、翻訳すると、

1948
年(昭和23年)17
この地にゲリラの指導者が集った。
この自由の戦士達は、独立にむかってあくまでも戦うことを誓った。
その誓いの証に、ガジュマルの木を2本植えた

.......となろうか。

そうか、簡単に言えば、
バリ軍は、この地に集ってミーティングをしたんだ。
この地には、残留日本兵の平良定三さんが70名のバリ兵を率いて居住していた。
ということは、平良さんが中心になってのミーティングではなかったろうか。

話を後日に飛ばすが、
デンパサールに帰ったあと、私はそのことを確かめるために、
平良さんの息子さん(スワルサさん)に逢いに行った。

Bhwana kerta 行きも、
そうであったが、
スワルサさんへの面会にも
クトゥを帯同した。
写真左は、クトゥ。
中央がスワルサさん。
クトゥは日本語を話せない。
が、長い付き合いなので、
私の喋る内容をほぼ理解できる。
私がスワルサさんに、
下手なインドネシア語で質問すると、
彼女がそれを本物のインドネシア語に、
変換して喋ってくれるのだ。
彼女は、通訳ではなく言語訂正者って訳だ(笑)。

まあ、そんな風にして意思疎通を行って、スワルサさんから聞きだせたのは、
次のとおりであった。

1、父(平良定三さん)と母(メルダさん)が出遭ったのを
  過去にパンジと言ったのは、大まかな意味で言ったのである。
2、実際に出会ったのは、すなわち父が隠れ家としていたのは、
  パンジから7キロ山に入った、Desa Banjar Anyar である。
3、その頃の Desa Banjar Anyar
  そしてPanji もまた、人っ気の少ないジャングルであった。
4、パンジのミーティングを主導したのは、
  PakCilik という人物であり、父ではない。
5、父もゲリラの指導者として、Banjar Anyar の地からパンジに出かけて、
  ミーティングに加わっている。
6、このミーティングは少人数ではなく、遠くはマルガラナ辺のゲリラの指導者も参加した。
7、ミーティングを主導したPakCilik は、
  独立戦争後も生き残り、父と同じ頃(8年前)に亡くなっている。

スワルサさんからのこうした情報を得て、
パンジでのミーティングの意義を捉えなおしてみたい。


まず、ミーティングを行った19481月の頃の情勢分析だが、
バリ軍ゲリラとしては、実に苦しい時期であったに違いない。
ングラライ将軍という中心的指導者を失って既に一年を経ていた。
また、墓地に刻まれた戦死者の多くが1946年であることから、
戦いの先頭に立った勇敢なバリ兵の殆どがすでに戦死しており、
兵力も衰退していたと思われる。

各地に散らばっていたバリ軍ゲリラは、
兵力も武器も少ない状態で、オランダ軍との正面衝突を避け、
単にうるさく抵抗していただけであったと思われる。

で、これではいけないと.....
戦う気力の中締めのためのミーティングであったのだろう。
実際に、次のような会話があったようだ。

・オランダ軍は強くて、とても勝てそうにもない。
・が、自由を勝ち取るまでは、屈することはできない。
・もしも、自由を勝ち取れたら今日の会議を後世に残そう。
・そうだ!ここに「寺院」を建てていつまでも語り合おう。

この会議から半年ほど経った、19488月には、
バリ島のほとんどの王様がオランダ軍に降伏した。
それが引き金になり、バリ兵もひとり欠けふたり欠け、
少ないゲリラ兵がますます少なくなってしまった(平良定三氏メモ)。

それを知ると、なおさらに、
この時期の気力引き締めのミーティングの重要性が判る。

さて、インドネシアの独立であるが、
独立戦争が泥沼化し、国際世論に押された、1949112日、
ハーグ円卓会議によってインドネシアの主権が認められた。

オランダとの戦いに勝った訳ではないが、自由を得たのである。
バリ島のゲリラ兵の間でも、パンジでのミーティングの結果が出たものと、
誓いどおり「寺院」を建てる話が持ち上がった。


話がもちあがった時期は、
定かではないが、
いずれにしても、ミーティングから、
21
年後の1969117日に、
このモニュメントが建てられた。

「寺院」が「モニュメント」に
代わったいきさつも定かではない。
が、もっとも大事な場所である、
2
本のガジュマルの木の間には、
小さいものだが寺院を設けている。
自由の兵士達の誓いの
名残なのであろう。

写真は、その寺院で祈る、同行したクトゥとイロの二人。

このモニュメントは、高さや形状に特別な意味がある。
それらが書かれている、インドネシア語の記述を紹介する。

この記述から、モニュメントの意義を知り、
是非に現地に足を運んで本物を確認いただきたいと思う。



Monumen Bhuwana Kerta dibangun setelah perjuangan rakyat Bali mempertahankan daerahnya dari Belanda yang ingin memecah persatuan rakyat Bali Utara setelah proklamasi kemerdekaan Indonesia dikumandangkan. Saat para pejuang Bali kehilangan pegangan material dan fisik perjuangan, maka hanya anugerah Tuhanlah yang bias menyelamatkan cita-cita suci bagi kemerdekaan Indonesia. Rakyat pejuang Bali Utara pun membuat sebuah ikrar yang sudah disepakati yang berbunyi : “Bila Republik Indonesia Menang, ditempat ini akan dibangun Pura Republik”.  Ikrar ini diucapkan para pejuang kemerdekaan pada 17 Agustus 1948 didesa Panji, Buleleng. Selain pengucapan ikrar, para rakyat pejuang kemerdekaan ini juga menanam buah batang pohon beringin dibagian selatan dan utara tempat ikrar diucapkan, dengan jarak 17 meter.

Terdapat kata “Pura Republik” terucapkan dalam ikrar tersebut, namun belum terpikirkan bagaimana nanti wujud fisiknya. Tetapi sebagai bangsa timur yang banyak memiliki bahasa symbol, hal itu tak jadi masalah. Interprestasi terhadap kata “Pura Republik” itu tentu akan mudah dilakukan setelah Indonesia betul-betul bebas dari cengkraman pasukan Belanda. Meskipun beberapa (tempat suci umat hindu), tetapi monumen. Bentuk monument dipilih, karena bentuk ini dinilai paling tepat sebagai perlambangan tugu peringatan perjuangan bangsa yang diperjuangkan oleh para pejuang dari berbagai suku dan bangsa.

Akhirnya Monumen Bhuwana Kerta pun dibangun dengan peletakan batu pertama pembangunannya dilaksanakan pada 31 maret 1966. Luas areal monument Bhuwana Kerta sekitar 1,350 ha. Monumen Bhuwana kerta bertinggi 17 meter, merupakan visualisasi simbolik angka keramat kemerdekaan bangsa Indonesia. Puncak monument berwujud padmasana dan api, merupakan symbol Tuhan yang memberi anugerah kemerdekaan bagi bangsa Indonesia. Dibawah wujud padmasana dan api terdapat wujud delapan helai daun teratai symbol asthadala, manifestasi Tuhan dalam keyakinan Hindu. Selain itu, bentuk ini merupakan symbol dari bulan kemerdekaan bangsa Indonesia

Bentuk badan monument yang polos adalah symbol dari keluhuran, kesucian dan kejujuran perjuangan kemerdekaan bangsa Indonesia di Bali. Adanya bentuk dulang dengan wujud visual bercelah-celah sebanyak 45 buah dibagian bawah badan monument, merupakan simbol dari tahun kemerdekaan bangsa Indonesia

ejarah monumen Bhuwana Kerta sangatlah menarik, dari pembangunan yang sudah tertata rapi sampai perjuangan rakyat Bali Utara yang sangat gigih mempertahankan keyakinannya. Semua nilai-nilai suci dan perjuangan bias dipelajari dari sejarah Monumen Bhuwana Kerta. Ini bias menjadi daya tarik bagi wisatawan untuk berkunjung dan mengambil nilai baik yang terkandung dalam Monumen Bhuwana Kerta tersebut. Didekan Monumen Bhuwana Kerta terdapat objek wisata bahari pantai segara penimbangan, pantai lovina yang juga menarik. Terdapat juga hotel murah untuk menginap didaerah monument Bhuwana Kerta, seperti Hotel Singaraja indah.