独立戦争記念モニュメント
タナアロン ムンドゥク・マラン パンジ ブルンブンガン その他
Tanah Aron
アグン山山頂より南東方向に、
5
キロほどの地点、
南緯822.3分、
東経11532.7分の地、
土地の名は「タナアロン」
に、こんな像が建てられている。
この像を行き止まりにして
アグン山の道は閉ざされている。

写真は、
10
15日の完成に向かっての、
40
日前の201293日に撮ったもの。
当然に現在は既に出来上がっている、
ものと思われる。

像はバリの英雄ングラライ。
ングラライは、
オランダ軍をバリ島の東西に分散させる目的で、東へ東へと移動しながら、ゲリラ戦を行っていた。
兵器が乏しく、
どこでも劣勢であった。
が、194679日、ここtanah aron
での戦いは、特別であった。
オランダ軍は、
この地で多くの戦死者を出している。
像建立の目的を
「ナショナリズム概念の発展」
像建立の意義を
「この地における闘争の記念」
としている。

2014年7月、再度 Tanah Aron を訪れる

タナアロンに行って来ました。
記念塔はしっかり出来上がっていました。
タナアロンの戦いがあったのは、
7
7日(1946年)、
昨日は、その一日前の76日、
ラッキーでした。
次の日の式典の準備のために、
記念塔はきれいに飾られていたのです。
記念塔の敷地に入ると、
管理人のニョーマン・プトラより
ノートに記帳を求められました。
これもラッキーなことに、
私は10番目の記帳者だったんですよ。
にしても、たったの10人かぁ〜
記念塔がオープンしてから丁度一年、
その間の外来者が10名って少なすぎます。
こんな山ン中ですから、
わざわざ求めてくる人がいない、
ってことでしょうね〜。
先人の偉業にもっと目を向けてほしい.....
と思います


Tanah Aron へ 行くには、

タナアロンは、アグン山の麓にある。
道はそこで行き止まる。
判りにくいので、地図を描いてみた。

サヌールから行くと、
チャニダサを過ぎ、アムラプラの町に入る。
アムラプラから北上し、
ティルタガンガへ右折する処で、
右折せずに狭い道を直進する。
とにかく緩い坂を上へ上へと登る。
と、5キロほど行った地点で、
左への別れ道があり、
そこに右下の道案内の看板がある。
ついでに書くが、
この看板の方向に曲がって、
2
キロほど行くと、右側に
Pura Penatran Sgung
寺院がある。
ブサキ寺院で最も権威の高い寺の
起源寺である。
古びているが、昔は立派であったらしく、
威厳のある寺院である。
タナアロンに行ったついでに、
ここも見て欲しい。

さて、タナアロンへは、
この看板で曲がらず直進する。
しばらく行くと、
道の両側に採掘場がある。
トラックが多く悪路である。
それも通り過ぎて、さらに直進する。
すると、行き止まりになり、
そこにタナアロンのモニュメントが建っている。
地図帳には、道路の全てが描かれていない。
で、GPSへは、次の緯度経度を入力してみて下さい。
南緯822.3分、東経11532.7分。

ングラライの遠征



タナアロンのモニュメントには、ングラライが遠征した順路が示されている(下の写真)。
これに日付を入れて、説明したい。

1、日本の敗戦後の194632日、バリ島に連合軍が上陸。
  その頃、ングラライは、ジャワ島のバニュワンギにいた。

2、19464月上旬、ジョグジャカルタの中央委政府は、
  ングラライを小スンダ地区の司令官に任命する。

3、1946414日、海上を制圧するオランダ軍を突破し、
  ひそかにバリに侵入したングラライは、
  独立義勇軍の指導者達をムンドックマラン(下図の出発点)の地に集め、
  オランダ軍と戦い独立を勝ち取るための作戦会議を行う。

4、194675日、ングラライ軍は、タナアロンの地に到着。
  二日後の77日、同地にてオランダ軍との戦闘が行われる(後日記述)。

5、タナアロンで勝利したングラライは、アグン山を大きく迂回し、
  マルガラナの地に着く。
  1120日、当地マルガラナの大戦にて戦死(96名玉砕)。
  ングラライがバリで戦ったのは、8ヶ月間だけであったが、
  バリ人の意地と勇気をオランダ軍に十分に見せつけた。


ングラライが司令官に任命された、小スンダ地区とは、
バリ島〜ティムールまでの間の列島を言う。
小スンダに対して、大スンダという言葉がある。
スマトラ、ジャワ、カリマンタン、スラウェシ、及び隣接した小島を合わせた総称である。
小スンダと大スンダを合わせて、スンダ列島と呼ばれる。


バリ独立義勇軍の勝利

バリ島での独立戦争だが、
バリ軍は分散しゲリラ戦とした。
で、各所で小競合いがあった。
が、ングラライが率いる本隊は、
ある程度まとまった軍隊であった。
その本隊が、
オランダ軍と正面衝突したのは、
タナアロンの戦いと
マルガラナ会戦の2度であった。
マルガラナ会戦では、
オランダ兵戦死者3400名に対し
バリ兵戦死者は96名であった。
戦死者の数では、
オランダ兵の方がはるかに多い。


が、バリ軍も将軍のングラライが憤死したのだから勝利とは言いがたい。
一方、タナアロンの戦いは、次のとおりバリ軍の大勝利であった。
............

ングラライ軍が、
アグン山の麓のタナアロンの地に入ったのは、75日(1946年)であった。
同時に、そのことがオランダ軍に知られ、
ティルタガンガ付近にオランダ軍が集結しているとの報があった。
オランダ軍とングラライ軍との直線距離は、6kmである。
ングラライは、オランダ軍の迎え撃つ為の作戦を練った。
で、本隊を三つに分け、オランダ軍を挟み撃ちにすることにした。
7
7日、200人のオランダ軍がタナアロンの地に攻めてきた。
最初の銃声は、午前9時、バリ軍からであった。
バリ軍は、オランダ軍を見下ろす位置、しかも三方から襲いかかった。
戦いが終ったのは、午後3時であった。
オランダ軍の戦死者は82名であったのに、バリ軍の戦死者はゼロであった。

さて、ではあるが....
私には府に落ちないことがある。
モニュメントのングラライ塔の土台のところに、次の掲示がある。


Nama para pahlawan yang Gugur Dalam Revolusi fisik 1946.....
これは、1946年の戦いにて戦死した者の名前....との意味である。
土台の5面に同じような掲示があり、計21名の戦死者(バリ名)が書かれている。
管理人ニョマンプトラは「バリ兵は一人も死ななかった」と、我々に説明する。
「ならば、ここに掲示する者は、戦死者ではないのか」と管理人に聞くと、
彼は「違う......ペチャクチャ」と、早口で応える。
このペチャクチャの意味が判らない。
家に帰って調べれば判るかと、そのまま帰ってきたが、やはり判らない。
タナアロンの戦いでのバリ兵の戦死者はゼロなのか21名なのか?
今後も調べ続けるが、もし、どなたかわかるようなら教えて欲しい。

上の写真は、ングラライの塔を守るような位置にある兵士像である。
この他のも合わせ計4人の兵士像があって、その内の2名が竹槍を持っている。
竹槍を持って戦ったことは聞いていたが、その像があるのは此処だけである。
此処(タナロンの地)でも竹槍が使われたのであれば、
しかも戦死者ゼロであれば、どんな戦い方をしたのであろうか。
「落とし穴」とか「網」とかを使ったのではなかろうか?
なんて思ってみても、如何せん、貧弱すぎるオレのインドネシア語、
では、この先を調べきる方法が見つからない..........残念