独立戦争記念モニュメント
タナアロン ムンドゥク・マラン パンジ ブルンブンガン その他
Singaraja
シンガラジャの
街の中心地の至近の海岸に、
建立されたモニュメントである。
左手に、インドネシア国旗、
遠くて見にくいが、
右手には短銃を持って
いるように見える。
近くにいる若者に、
像の意義を問うてみた。
「海からのオランダ軍をやっつける」
んだそうな。
申し訳ないが.....
少々大げさすぎて、
俺には実感が湧いてこない。


Buleleng


ブドゥグルからシンガラジャへの、
ギギの滝の近くの道路沿いの、
この記念像。
「ギギの戦い」での
バリ人戦死者の慰霊のためだ。
像の全員が、
悲壮な表情のように見える。
その理由を語りたい。
独立戦争で、
オランダ軍に抵抗するバリ軍ゲリラ。
そのゲリラの中に、
オランダ軍に内通するものが居た。

スパイからの内通があったのだろう。
隠れ家がオランダ軍に襲われた。
不意を襲われたバリ軍の9名がこの地で殺された。
シンラジャに降りる道の左側にある、この記念碑.....
カーブの近くなので、ついつい見逃しそうな場所にある。
ギギ(gitgit)の近くに来たら、是非に見つけて全員の表情を見て欲しい。
なお、この地の近くでゲリラ隊を引率していた、
残留日本兵の平良定三は、この戦いには巻き込まれずにすんでいる。

Bon


残念ながらエンスト車が道を塞いで行けなかったボンのモニュメント。
8
31日、再度、出かけて来た。
今度はしっかりと見てきた。


モニュメントは小高い丘にあった。
まさにこの場所で戦闘があったという。
戦闘があったのは、1946613日。
その時ングラライは、この地「ボン」に潜伏していた。
オランダ軍にそれがばれて、戦闘が始まった。
ングラライは高地を選んで有利に戦った。
が、プラガに駐屯部隊があったオランダは、
そのプラガから次から次と、
新手の兵を送り込んだ。
ングラライ軍は劣勢にたたされ、
lawak
 の地まで退却した。
というのが「ボンの戦い」である。

この戦いでは、ングラライ軍から
ひとりの戦死者が出た。
バラキュー出身のワヤン・スレムだ。
モニュメントの中央に慰霊碑がある。
慰霊碑は彼のためのものだ(右)。

ワヤン・スレムは一兵卒であった。
ましてブラキュー出身ってことは、
地元民って訳でもない。
にも関わらず立派な慰霊碑である。
独立戦争で戦死した英雄に対する
バリ人の思いの大きさにつき、
あらためて考えさせられる慰霊碑である。
Pemeteran


Pemeteran村への脇道を探しながら、本通りを走るも、
google マップに描かれた場所に、その脇道はない。

車を降り、付近の住民に聞くと、
「Waringin寺院の横に小さな脇道がある」という。
googleマップにも地図帳にも描かれていない処。

バリの山道の情報、あてにならない。
こんな調子では、サム部落へは行けないかも....

不安を感じながら、Waringin寺院を探す。
と、あった!
寺院の横を斜めに入る、ちいちゃな脇道が....
で、しばらく走ると、こんな道に(写真は車窓より)。
先行きが安心できる程度の道だ(笑)。
でも、車の往来がない。



ところどころに民家が見えだした。



Pemeteran村に入ったようだ。
とあるワルンの前で車を止める。
アグン山を背景にかなり大きな広場がある。
ワルンのおばさんが言うには、
ングラライ軍とオランダ軍との戦い跡を広場にして残した、とのこと。
そうか、ここが Pemeteranの戦いの古戦場 なのか。
来たかった場所のひとつ。
意外と簡単に探せた....感激だ!



広場の横にモニュメントがあった。



1946年6月20日に、この地で戦いがあったことが書かれている。



ングラライ軍から出た戦死者(一人)の慰霊碑。



その戦死者の名が刻まれていた。