インドネシア独立戦争におけるバリ島の英雄、イ・グステ・ングラライ。
彼の命日である11月20日には、
玉砕したルガラナの地で毎年、慰霊祭が行われます。
ここバリ島では、20余名の日本兵が、
終戦後も日本に帰らず、インドネシア独立戦争に参戦しました。
いわゆる残留日本兵と呼ばれております。
彼らのほとんどが参戦後、一年を経ずして戦死しております。
バリ兵に戦闘の模範を示すために、常に戦闘の最前線にあったからです。
インドネシアのために魂を投げ出した、こうした日本兵の戦死は、
バリ島においても好意的に語り継がれております。
ですから、元日本兵のご親族は、
大切な人として、慰霊祭に招待されます。
今回の慰霊祭には、
残留日本兵のひとり、工藤栄氏のご親族が参列されました。
そのご親族を案内する者として、私も招待状を頂き参列しました。
しっかりと慰霊祭の全てを見させていただきました。
写真で紹介させていただきます。
まずは、マルガラナの正面、入口です。
関係者か、あるいは招待状がないと、この割れ門をくぐれません。
日本兵のご親族です。
最前列の高い位置に座らせていただきました。
広い式場。
整然としていました。
現在のインドネシア兵だと思いますが、
代表者がングラライの遺訓である、オランダ軍への徹底抗戦を読み上げ、
その精神を受け継ぐことを宣言します。
式典におけるクライマックスです。
セレモニーではありますが、宣言の声に誠実さがあり、聞かせるものがありました。
踊りながら歌う女性。
踊りの意味、歌の意味は、分かりませんでした。
これぞ、バリ!
慰霊塔へ貢物を運びます。
その年に選ばれた学校の生徒のみ、式典を見ることが許されます。
手にある写真が工藤栄氏。
持っているのが、甥の工藤和彦様。
そのお隣の大きい方も、甥の工藤昭様。
お二人のおかげで、式典に参列できました。
工藤栄氏の慰霊碑をお詣りするお二人。
やはり日本兵のひとりである、ワジャの慰霊碑です。
近日中にプラガにあるお墓を整備することを報告しました(左は私)。
マルガラナには、独立戦争を語る遺品館があります。
私は、これまで何度もマルガラナに来ていますが、
入口には鍵がかけられていて、中に入れませんでした。
が、当日は特別に開館しており、展示品を見ることができました。
館に入り、最初に目についたのが見覚えのある次の写真です。
右上が高木米治氏です。
その左が平良定三氏です。
左下が松井久年氏です。
どうも日本に関係のある掲示のようですが、
あとの3名は、どういう方なのかわかりません。
表示だけを見て判断できないからです。
というのは、
例えば、松井久年氏の名前ですが、バリ名を Wayan Sukra と言います。
が、Bung Sukra と表示している場合もあります。
さらに、彼の日本名となると、Mutsisiso とか Mutswiso と表示されています。
聞こえたままに表示しているからです(稲川氏証言)。
松井久年は、実地あがりのトップの兵曹長(陸軍では曹長)でした。
で、松井兵曹長、即ち「Matswiso」と聞こえたままに表示したのです。
ついでに言うと、
荒木武友氏についてもいろいろです。
荒木を Harraki とか、極端には、Haraka とも書かれます。
そういう風に聞こえたのでしょう。
バリ人は年齢を気にしません。
ですから、年齢となるともっといい加減です。
松井久年は、1915年生まれで、戦死した当時は31歳でした。
荒木武友は、1920年生まれで、戦死した当時は26歳でした。
が、バリ州が作成した「Puputan Margarana」には、
両名とも40歳と記入されております。
と言う風に、
バリでは、過去の記述に少し曖昧さがあっても気にしません。
判らないで書かないより、何かしら書いた方がよいだろうとの感覚なのでしょう。
ですから、書いてある表示を見ただけでは、全てがわからないのです。
一冊の本を読んだだけで全てを理解した気になってはいけないということです。
左から、エヴィさん、カミさん、
そして、高木武友氏の忘れ形見、アリニさん、
右端は、アリニさんの長男の奥様です。
アリ二さんとは、久しぶりであり、うれしい出会いでした。
高木武友氏と工藤栄氏の両名とも、海軍の第三警備隊所属でした。
同じ部隊の戦友だったということです。
そのご親族どおしが一同に集まり夕食をご一緒しました。
バリヒンドゥー教では、死して草場の陰に居るのではなく海の彼方に向かいます。
サヌール海岸のレストランでの会食でした。
高木、工藤の両氏も、波打ち際まで来て、
この会食光景を喜んで見ていてくれたことでしょう。
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