英雄墓地 、 戦没者墓地
タバナン戦没者墓地 シンガラジャ戦没者墓地 マルガ英雄墓地 プンリプラン
マルガ英雄墓地
上の写真が、マルガ英雄墓地の全景。
バリ島での独立戦争で戦死した、
1372
名を祀っている墓地である。
この中に前記したとおり12名の日本人がいる。

下の写真は、Gusti Ngurah Rai.
インドネシア独立戦争の英雄である。
バリの国際空港も彼の名をとって、
グラライ空港と呼ばれる。
また、5万ルピア紙幣にも彼が採用されている。
グラライは、人民治安軍の将軍(中佐)であった。

インドネシア独立戦争では、
バリ島においてゲリラ戦術で8ヶ月間戦い抜いた。
タバナン県のオランダ軍補充部隊の兵舎を
襲撃して成功を収めた。

しかし、その数日後に、
オランダ軍と遭遇し、マルガにて戦闘となった。

その際、率いていた96名全員が
降伏勧告を拒否し、壮絶に戦って玉砕した。
バリでは、この玉砕をププタンと呼ばれ、
名誉ある戦死とされている。

英雄墓地に埋葬される日本兵
バリ島でインドネシア独立戦争を戦った日本兵は何人ほどいたのだろうか。
私は、30名はいたと確信している。
グラライと共にマルガラナで玉砕した、名誉ある戦死者は96名であった。
下表のとおり、そのうちの4名が日本人であったと記載されている。
(後日:玉砕した日本人は5名と判る)

墓標339番には、2名の名前が書かれている。
墓守は同一人物で名前がふたつあったというが、正しくない。
戦死した場所が別のところであるからだ。
墓標1372番は、英雄墓地ができた時点で氏名の分からない者全てを網羅したものだ。
この中に、工藤栄と曽我がいることは確かである。
また、マルガの戦いで玉砕した中の氏名不詳者が日本人であるとすると、
1372
番には、5名の日本人がいることになる。


    マルガ大戦を振り返って、
私は次の二つを確信している。

1、バリ人兵士の全員が戦死したわけではない。
2、オランダ軍戦死者数は、300~400名であった。

どうでもよいことかも知れないが、
情報が少ない中、ここまで確信するにはちょっと苦労したので、
その苦労をちょっとだけ書きたく(笑)、
冗長になることお許し願いたく。

........................

バリ島におけるインドネシア独立戦争、
の中でもっとも大きな戦いは、マルガ大戦であった。
この戦いは別名、マルガラナのププタンとも呼ばれる。
ププタンとは、玉砕を意味する。
ウィキペディアでは、マルガ大戦を
「バリ兵96名が降伏勧告を拒否し壮絶に戦って玉砕した」と、
戦った全員が戦死したように書いている。
が、私はいくつかの理由から、この全員戦死説に疑問を持っていた。

その1

プナルガン村の戦史によれば、
同村出身のバリ兵は約220名、それを松井と荒木が率いたことになっている。
220名という数字は、独立戦争の5年を通算してのものである。
マルガ大戦では、この中の何名が参加したか定かではない。
が、指導者の松井と荒木がマルガで戦死したのだから、
相当の部下が一緒に戦死したものと思われる。
同村の220名の兵士のうち36名が独立戦争を生き残っている。
この36名のうち、マルガ大戦を戦ったものがいたのではなかろうか。
生き残った人数を数字的に見て、そのように直感するのである。

その2

以前に書いた、バリ人戦友が語る日本兵のスラマット の記述。
そこではマルガ大戦がどのようであったかをバリ兵が詳しく書いてる。
これを書いたバリ兵は、生き残ったから書けたのではなかろうか。

その3

戦いは昼に始まって白兵戦となって夜に終っている。
暗くなって見えなくなったから終ったのではなかろうか。
途中で終ったのであれば、生き残っていた者がいたはずだ。

その4

そのように思っていたところに、この度、
末尾に掲げる「平良定三氏証言:マルガ大戦」が手元に入った。
この中に、

1、その壮絶なる白兵戦の状況はとても口では説明できません。
2、翌朝、両軍共に負傷者の収容、戦死者の処理などを行いました。

との、平良氏の二つの証言があるが、
これは、生き残った者がいたからこその記述と思える。
ということで、
これら、その1~その4の理由を合わせ、
私は、マルガ大戦では、全員が戦死した訳ではない、と確信する。



もうひとつの確信は、オランダ軍の戦死者数。
マルガ大戦での戦死者数は、
日本兵スラマットを語る中で語られている。
語ったのはバリ人兵士である。
「バリ兵の戦死者96名、オランダ兵戦死者300~400名」と、書いている。
この数字、大げさではなかろうかとの疑問をもっていた。

が、平良氏の
「オランダ軍はその甚大なる消耗で戦意を喪失したようです」の記述で、
この数字は、大げさではないと思いなおした。
白兵戦であれば、武器の量ではなく、戦う意志の強さが、
相手を上回ることになろうとの一般的観測も後押ししての思いなおしである。
オランダ兵戦死者300~400名であったのだろう。


さて、
そんな二つの確信をさせてくれた、平良定三氏の証言を紹介しよう。
平良氏が、月森省三氏(以前に記述)に語ったものの中からの紹介である。



(平良定三氏証言:マルガ大戦)

当時のインドネシア義勇軍は、圧倒的なオランダ軍の火力に
海岸拠点からブドゥグル山麓へと転戦しておりました。
オランダ軍もバリ島南部中原を制圧した余勢を駆って
山麓地域帯へと進出して来ましたので、
戦局の大勢は必然的にマルガの会戦へと流動して行ったのです。

マルガ一帯の村落はオランダ空軍の執拗なガス弾、焼夷弾爆撃を受けましたが、
独立義勇軍の兵士は壕内でひたすら耐えました。
空軍の掩護を受けながらオランダ歩兵部隊が近づいた時、
壕内で満を持していた独立義勇軍は敢然と白兵戦に打ってでました。

その壮絶なる白兵戦の状況はとても口では説明できません。

11月20日午後から夜間にかけての延々たる白兵戦の断続で、
両軍共に甚大なる兵員を失いました。
11月21日払暁、
両軍共に負傷者の収容、戦死者の処理などを行いましたが、
もはや銃声はありませんでした。
明らかに、オランダ軍はその甚大なる消耗で戦意を喪失したようです。
独立義勇軍も甚大なる損耗を払いましたが、
自主独立への基礎を獲ち取ったという大戦果をあげました。

 ププタン・マルガラナ慰霊祭(11月20日) 
   
インドネシア独立戦争におけるバリ島の英雄、イ・グステ・ングラライ。
彼の命日である1120日には、
玉砕したルガラナの地で毎年、慰霊祭が行われます。

ここバリ島では、20余名の日本兵が、
終戦後も日本に帰らず、インドネシア独立戦争に参戦しました。
いわゆる残留日本兵と呼ばれております。

彼らのほとんどが参戦後、一年を経ずして戦死しております。
バリ兵に戦闘の模範を示すために、常に戦闘の最前線にあったからです。

インドネシアのために魂を投げ出した、こうした日本兵の戦死は、
バリ島においても好意的に語り継がれております。

ですから、元日本兵のご親族は、
大切な人として、慰霊祭に招待されます。

今回の慰霊祭には、
残留日本兵のひとり、工藤栄氏のご親族が参列されました。
そのご親族を案内する者として、私も招待状を頂き参列しました。

しっかりと慰霊祭の全てを見させていただきました。
写真で紹介させていただきます。

まずは、マルガラナの正面、入口です。
関係者か、あるいは招待状がないと、この割れ門をくぐれません。


 

日本兵のご親族です。
最前列の高い位置に座らせていただきました。

 

広い式場。

 

整然としていました。

 

現在のインドネシア兵だと思いますが、
代表者がングラライの遺訓である、オランダ軍への徹底抗戦を読み上げ、
その精神を受け継ぐことを宣言します。
式典におけるクライマックスです。
セレモニーではありますが、宣言の声に誠実さがあり、聞かせるものがありました。

 

踊りながら歌う女性。
踊りの意味、歌の意味は、分かりませんでした。

 

これぞ、バリ!

 

慰霊塔へ貢物を運びます。

 

その年に選ばれた学校の生徒のみ、式典を見ることが許されます。

 

手にある写真が工藤栄氏。
持っているのが、甥の工藤和彦様。
そのお隣の大きい方も、甥の工藤昭様。
お二人のおかげで、式典に参列できました。

 

工藤栄氏の慰霊碑をお詣りするお二人。

 

やはり日本兵のひとりである、ワジャの慰霊碑です。
近日中にプラガにあるお墓を整備することを報告しました(左は私)。

 

マルガラナには、独立戦争を語る遺品館があります。
私は、これまで何度もマルガラナに来ていますが、
入口には鍵がかけられていて、中に入れませんでした。
が、当日は特別に開館しており、展示品を見ることができました。
館に入り、最初に目についたのが見覚えのある次の写真です。

 

右上が高木米治氏です。
その左が平良定三氏です。
左下が松井久年氏です。
どうも日本に関係のある掲示のようですが、
あとの3名は、どういう方なのかわかりません。
表示だけを見て判断できないからです。

というのは、
例えば、松井久年氏の名前ですが、バリ名を Wayan Sukra と言います。
が、Bung Sukra と表示している場合もあります。
さらに、彼の日本名となると、Mutsisiso とか Mutswiso と表示されています。
聞こえたままに表示しているからです(稲川氏証言)。
松井久年は、実地あがりのトップの兵曹長(陸軍では曹長)でした。
で、松井兵曹長、即ち「Matswiso」と聞こえたままに表示したのです。

ついでに言うと、
荒木武友氏についてもいろいろです。
荒木を Harraki とか、極端には、Haraka とも書かれます。
そういう風に聞こえたのでしょう。

バリ人は年齢を気にしません。
ですから、年齢となるともっといい加減です。
松井久年は、1915年生まれで、戦死した当時は31歳でした。
荒木武友は、1920年生まれで、戦死した当時は26歳でした。
が、バリ州が作成した「Puputan Margarana」には、
両名とも40歳と記入されております。

と言う風に、
バリでは、過去の記述に少し曖昧さがあっても気にしません。
判らないで書かないより、何かしら書いた方がよいだろうとの感覚なのでしょう。

ですから、書いてある表示を見ただけでは、全てがわからないのです。
一冊の本を読んだだけで全てを理解した気になってはいけないということです。



左から、エヴィさん、カミさん、
そして、高木武友氏の忘れ形見、アリニさん、
右端は、アリニさんの長男の奥様です。
アリ二さんとは、久しぶりであり、うれしい出会いでした。

 

高木武友氏と工藤栄氏の両名とも、海軍の第三警備隊所属でした。
同じ部隊の戦友だったということです。
そのご親族どおしが一同に集まり夕食をご一緒しました。
バリヒンドゥー教では、死して草場の陰に居るのではなく海の彼方に向かいます。
サヌール海岸のレストランでの会食でした。
高木、工藤の両氏も、波打ち際まで来て、
この会食光景を喜んで見ていてくれたことでしょう。