英雄墓地 、 戦没者墓地
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プンリプラン

2011年6月2日のブログで書いたプンリプラン村。
ひっそりとした部落で誰も訪れる人などいなかった。

そのプンリプランに4年ぶりに訪れてみた。
と、昔とすっかり様変わりしていた。




バリ州から観光地に指定されたことにより、
駐車場が整備され.....
村内に土産屋も出現していて.....
訪れる観光客も多く......なったのだ。

さて、こんなプンリプラン村。
再度、訪れたのは他の理由による。

プンリプラン村の村はずれ(海側)にある、
写真の地を訪れるためだ。



この地の名前だが、
多分、日本語表記は私が最初だろうから、
言葉が一人歩きしないように慎重に扱いたい。

というのは、
この地(建物)の意義を完全には把握していなく、
バンリ隊英雄墓地と書いてよいのか、
バンリ英雄墓地と書いてよいのか、
A.A. Mudita 慰霊碑と書けばよいのか、
A.A.Gde Anom Mudita 慰霊碑と書いてよいのか、
正確にはつかめないのだ。

後日、もっとも正確と思える表現が探せ得た時、
その理由と共に、再報告することにして、
ここでは仮に「バンリ隊英雄墓地」として話を進めたい。

んで、
「バンリ隊英雄墓地」が造られた経緯だが、

......


インドネシア独立戦争時、バリ島では、
約300名のングラライ軍がオランダに抵抗し、
ゲリラ戦を展開していた。

1946年10月、
持っている武器が底をついたングラライ軍。
オランダ軍と勇敢に戦い続けることで、
住民の独立への意識を高めるのが目的のングラライ軍。
戦えなくなった見すぼらしい軍の実態を住民に見せることは、
存在感としてはマイナス要素しかない。
ングラライは、軍を一旦解散し出直すことを決断した。

自身は、ジャワに渡り武器を調達して再度バリに戻る。
その間、各部隊は、地元に戻り、情宣に努めて欲しい。

と、言い渡したのだ。

その頃のングラライ軍には、
各地域から集まった、
バドゥン隊、タバナン隊、ブレレン隊、バンリ隊、
それにジャワからの応援部隊である海軍隊があった。
このうちのバンリ隊の隊長は、
A.A. Mudita(大尉)であった。



A.A. Mudita(写真の像)は、
ングラライの指示通り、バンリ隊を率いて、
地元である「バンリ」の地に帰り、
独自にオランダ軍に抗戦をしかけた。

そんな A.A. Mudita に
1946年11月20日、
マルガの地でングラライが戦死したことが知らされた。

彼は、落胆したが、闘志をあらたにし、
オランダ軍への抵抗を続けた。
が、その闘争の困難さから、
自身もいずれ戦死することを覚悟した。

で、もし、戦死するなら、
ングラライと同じ、11月20日に戦死する.....
ことを頭に描きはじめた。

........このあとのこと、まだよく知らない。
要するに、一年後の1947年11月20日までの
彼の行動だが、いずれ調べて解ればブログに書きたい。

いずれにしても、A.A. Mudita は、
彼が頭に描いた通り、
ングラライが戦死した丁度一年後の同じ日の
1947年11月20日にプンリプランの地で戦死した。

A.A.Gde Anom Mudita は、
その名前 A.A=ANAK AGUN が示すとおり、
バンリ国の王様一家の一員である。
そのような高貴の出目でありながら、
独立戦争に身を投じたことで、
地元民から絶大に尊敬されている。

今回、地元民から、
プンリプランの地で戦闘があり、その戦闘で、
18名の部下とともに、A.A.Mudita が戦死した。




と聞かされたが、
その戦闘がどのようなものだったか、私は知らない。
話からだけでは、真意はわからない。
どのような戦闘であったかの調査も今後の課題にしたい。

A.A. Mudita は、信念の人であった。
インドネシアは、いずれ絶対に独立する...
ということを信じ、部下にそれを告げたあと戦死した。
この話は、後々も語り継がれ、
今は、石に刻まれ、残されている。



さて、私が、
プンリプランを調査に訪れたのは、もうひとつ理由がある。
毎年の11月20日、マルガで行われる、ングラライの慰霊祭。
同じ日に、プンリプランで、
A.A. Mudita の慰霊祭があると聞いたからだ。

もし、それが本当なら、
今年の11月20日には、マルガではなく、
プンリプランの慰霊祭に参加したいと思うのだ。

現地で確かめると、そのとおりであった。
11月18~20日、慰霊祭が催され、
20日の日がもっとも盛大である、と聞かされた。

ということで、今年の11月20日には、
A.A. Mudita の慰霊祭に参加する予定だ。