右の写真は、
タバナン戦没者墓地内の全景。
後ろ向きの女性は、
同行してもらった、
エヴィさん。
オレのインドネシア語では、
難しい話にはついていけない。
最近はどこに行くにも
通訳として、
エヴィさんに来てもらっている。
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で、エヴィさんの先の右を行くのが墓守人。
その墓守人曰く、「もうひとり日本人がいます」と、
案内されたのが、
名盤に「無名の英雄」と書かれた、
170番のお墓(左の写真)。
墓守人が言うには、名が判らないが、
日本人だということだけは判っている、
んだそうです。
戦死したのは、マルガラナの地。
ングラ・ライのすぐ隣で戦死していたそうな。
この日本人は誰なのか?
私は、スラマットだろうと思うのだ。
スラマットの日本名は判っていない。
が、バリ兵は誰もが彼を日本人と知っていた。
バリ兵が語る日本人のスラマットを、
過去と重複するが、次に再掲載する。
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11月20日の朝、北と南からオランダ軍が来て、マルガ付近で包囲された。
ングラ・ライ軍はそこを脱出して、バンジャール・オレで軍を集結しなおした。
オランダ軍は、飛行機からの攻撃も加えて来た。
この飛行機はスラウェシのマカッサルから飛んできたものであった。
ングラ・ライ軍は飛行機に向かって鉄砲を撃った。
弾は当らなかったが、その後飛行機からの攻撃は途絶えた。
ングラ・ライ軍は、オレからクラチに場所を移した。
その時であった、オランダ軍の飛行機が再度やってきた。
今度は爆弾を落としてきた。
その爆弾攻撃で第2大隊・大隊長である、イ・スギアンニャールが憤死した。
スギアンニャールは、I Selamat の友人であった。
彼は激怒した。
同時にスギアンニャールは、ングラ・ライの友人でもあった。
ングラ・ライも激怒した。
この時のバリ軍の武器は80丁の鉄砲だけであり、弾も少なかった。
が、ングラ・ライは、総攻撃を命令した。
そして、戦いは17時に終った。
ングラ・ライ軍は96名が戦死し、
彼もその中に入っていた。
一方、オランダ軍の戦死者は、
300~400名であった。
彼の名が何故にI Selamat であるかは、
後日バリ人の戦友が語っている。
彼は勇気があって射撃が抜群に上手かった。
どの戦いでも勇敢に戦って生き残った。
ブレレンでの戦いでは、
一旦は死を受け入れるほどの、
激しい戦いであったが、
それでも生き残った。
そうした抜群の「幸運」をして、
I.Selamat と呼ばれたとのことである。
彼と一緒に戦った経験のある者は、
独立を求めて勇敢で、
疲れを知らない戦士として彼を賞賛している。
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以上がバリ人戦友が語る、日本兵スラマットであるが、
私は、このスラマットが170番のお墓に入っているように思うのだ。
170番の記帳を見てみた(右上)。
摘要に「マルガラナの無名の英雄」と書かれている。
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