英雄墓地 、 戦没者墓地
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タバナン戦没者墓地
七つの無名のお墓

1945
8月、
インドネシアは独立宣言をした。
が、それを認めぬオランダとの
戦いが4年半続き、
その独立戦争を終えたのが、
1949
12月であった。
1950年、インドネシアは、
独立戦争の戦後処理を始めた。
戦死した者の栄誉を考える、
お墓の整備もそれに含まれた。
タバナンの戦没者墓地も
この時に整備された。
戦没者の戦死日は1946年に
集中している。



その多くは戦死した場所に仮埋葬されていた。
ということは、約4年間、仮埋葬のままであったということだ。
1950
年に、それを掘り起こして一箇所に集めた。
それがタバナン戦没者墓地である。

先日、そのタバナン戦没者墓地(写真右上)に行ってきた。
......
そこに、7名の無名兵士のお墓があった。
墓守人曰く、この7名の全員が日本人だと言う。
7
名のお墓は、写真のとおり氏名や出身地の蘭は全て空白である。


マルガラナのププタンで戦死した90余名も
マルガの地から掘り起こされ、
この地に再埋葬されたとのことである。
マルガラナ英雄墓地の1372体は、
お墓ではなく、慰霊碑であるということだ。
マルガの地以外の遺体も掘り起こされ、
この地に再埋葬され、その合計数は現在849名。

考えて欲しいことがある。
バリヒンドゥーでは、
火葬のあと海に灰を流しお墓を造らない、
のが慣わしであるのが、ここには遺体(骨)がそのまま埋葬されているのだ。

何故だろうか。
次のブログでは、その理由を紐解きたい。

さて、話を戻したい。
バリ島の残留日本兵は、生き残った平良定三氏を除き、次のとおりとされている。


7名の無名兵士は、このうちの誰であろうか。
高木と梶原は、氏名を書かれたお墓が別にある。
となると、高木と梶原を除いた18名の誰かだろうと思うが、
あるいは、ここに載っていない日本人かも知れない。

墓守の話では、毎年817日に、
無名の日本人のお墓をお参りに来る日本人がいるが、
昨年だけは、来なかったとのこと。
どなただろうか。
今年の817日には、私もここに御参りに来てお会いしたいものだ。

タバナン戦没者墓地の理由


タバナン戦没者墓地は広い(写真)。
849
体の遺骨が埋められている。
で、遺骨を埋めたままにしない、
というバリヒンドゥーにあって、
ここだけには遺骨がそのままある、
って、何故なのか。
その特別さを確かめるため、
昨日はシンガラジャの
戦没者墓地を訪れてみた。
あとで書くが、
シンガラジャの戦没者墓地は、
バリヒンドゥーの慣わしどおりに、
奉られていた。


バリ島の戦没者墓地は、
タバナン、シンガラジャ、クルンクン、バンリ、ジュンバラナの5箇所にあると聞いている。
その内のタバナンとシンガラジャの2箇所を見たに過ぎない。
そうした中で言い切れるものではないが、
タバナン戦没者墓地は、遺骨をそのまま埋葬しているということで特別である。
バリヒンドゥーでは、遺体を土に埋めることは肉体の死を認めただけに過ぎない。
その後火葬にすることで、魂が浄化され死者霊から祖霊神になるとされている。
土葬のままでは、魂が死んだものと扱われないのだ。
タバナンの849体の魂は、まだ死しておらず、この世にいる.....
ってことではなかろうか。

輪廻転生を必要とせず、
後々までこのままであり続ける.....
ってことにもなろうか。墓地の入り口に大きなボードがあって、
戦没者の氏名が書かれている(右)。
そのボードの名を
tembok abadi」と大書している。
直訳すれば、
永遠の壁(ボード)であるが、
真意をどう訳したら良いのだろうか....
個人的に言わせてもらえば、
ボードの掲載者は永遠に生き続ける....と書かれていると思いたいのだ。
7
名の無名の日本兵士は、今もこの地に生き続けているってことだ。

抱き合って死んでいた二人

残留日本兵の高木米治さんの遺児のアリニさんから言われた。
父のお墓がタバナンにあるから見て来て......
タバナンの戦没者墓地に来たのは、アリニさんからのこの言葉があったからだ。
で、墓地に来て真っ先に高木米治さんのお墓を探した。
高木さんのバリ名は、マデ・プトラである。
が、前述のTembok Abadi にマデ・プトラの名がない。
でも、よくよく探すと、110番にこんなのを見つけた。


Bung Ali, Bung Madeと書かれている。
Bung Ali
は、日本名が梶原である。
もしかしたら、Bung Made とあるのは、高木米治ではなかろうか。
であるにしても、何故に二人の名が同じ番号に書かれているのだろうか。
てなことを考えながら、
ボードの前で佇むオレに、墓守人が寄ってきて説明してくれた。

「このお墓だけです。二人で入っているのは......
「二人共、日本人です」
「二人抱き合って死んでいたのでそのまま埋められたのです」

......
なるほど、

二人が戦死したのは、1946105日、
ワナ・サリ(蝶の公園の近く)の戦いであったことは判っている。
戦死の数日後、その地に埋められ4年後の1950年掘り返された。

掘り返された時、二人の骨は
どちらがどちらとわからない状態で、
二体分あったに違いない。
タバナン戦没者墓地での再埋葬でも、
二人を一緒に埋め戻す以外に方法がなかったのであろう。
では、なぜに抱き合って死んだのか。
オレの頭に浮かんだのは、
右のイメージである。
高木、あるいは梶原が先に撃たれた。
それを助けようとするもう一方の背に、
銃弾が当った。
であれば、抱き合った形で死んだことに
なるのではなかろうか。
Bung Ali は、誰なのか

Bung Ali という人物について、よく判っていない。
Bung Ali
って一体誰なのか。
いずれBung Ali の日本のご家族を探せるかも知れない。
その際の資料として、Bung Ali について書きとめておきたい。


1、日本名は梶原である。

東京在住の稲川義郎さんの調査によるものだ。
稲川さんは今年87歳、今年の11月にバリで
稲川さんにお会いできる予定であり、その時に
Bung Ali
を梶原とした根拠をお聞きできると思う。

次に、バリで一緒に戦ったバリ人戦友が、
証言するBung Ali である。

2、陸軍中尉であった。
3、1946年に30歳であった。
4、スラバヤで戦った経験がある。
5、終戦時はティムール島にいた。
6、豪快な人でバリ人兵士からは
  「バパ・ブサール」と呼ばれた。
7、常時、ングラ・ライと行動を共にしていた。
8、疲れたングラ・ライを背負って行進したことがある。
9、重火器の扱いに長けていた。


次に、村人に語り継がれているbung Ali である。

11、グヌン・シクのワルンで働いていたクリピットという名の女性と彼女の実家で結婚している。
   二人の間には、子供はできなかった。

次に、平良定三氏(生き残った残留日本兵)の言動から想像する情報であるが、

12、彼は、台湾歩兵第一連隊所属ではなかった。

日本敗戦時にバリ島にいた日本軍は、
海軍の第2南遺艦隊の第3警備隊で、デンパサールに司令部があった。
その他にシンガラジャに本隊のある阿南大隊(平良定三氏所属)があった。
阿南大隊は、陸軍48師団の台湾第一歩兵連隊に属していた。
平良定三氏は、独立戦争で生き残ったあと、
バリで戦った残留日本兵を入念に調査している。
しかし、Bung Ali の人物を特定できなかった。
同じ部隊の台湾第一歩兵連隊であれば、人物の特定が簡単であったろう。
だから、Bung Ali は、台湾歩兵第一連隊ではなかったと言い切れる。

さて、これら1~12の情報で浮かび上がるBung Ali であるが、

1、第16軍下、第48師団下、歩兵第47連隊所属であろうと思う。
  
その根拠であるが、歩兵第47連隊は、陸軍の蘭印作戦で
1942
31日にジャワ東部に入り、37日にスラバヤを攻略している。
また、この蘭印作戦終了後は、ジャワ海の警備に当りティモール島で終戦を迎えた。
また同連隊は、揚陸能力を備えた機械化軍団であり、隊員は重火器の扱いに長けていた。
これら三つの事実がバリ人が語るBung Ali の過去と一致するからだ。

2、彼は大分県出身ではなかろか。

48師団の元は台湾軍であり、当然に沖縄、九州出身者が多い。
さらに、30歳で中尉という階級から考えられることであるが、
陸軍予備士官学校出であった可能性が高い。
陸軍予備士官学校は、久留米に第一、第二と二つの学校があった。
ここを卒業したのではなかろうか。
さらに、歩兵第47連隊の所在地は、大分である。
さらに、これはあてずっぽうだが、大分県に梶原という苗字が多いのである。

まあ、こんな訳で、Bung Ali を大胆に、

大分県出身、大正5年生まれ、久留米陸軍予備士官学校卒、
歩兵第47連隊所属の陸軍中尉......と予測するのだが.....

.

二人はバリ人戦友と一緒に眠る

.....という訳で、
梶原(Bung Ali)と高木(Bung Made またの名をMade Putra)は、同じお墓に入っている。
墓守が所有するBung Ali Bung Made の記載も見せてもらった。

.


見ての通り、Bung Ali 28歳、Bung Made29歳としている。
どうも12歳違うようだが、まあ、おおよそで書いているのだろう。
日本でのBung Ali は陸軍の中尉であった。
一方、高木は海軍の兵曹長(准士官)であった。
が、インドネシア軍での階級は、どちらも中尉であった。
階級から想像して、二人で100人ほどのバリ兵を引率指揮していたと思われる。
二人が戦ったワナサリの戦闘は、
オランダ軍が梶原/高木の隊が持つ重火器を奪おうと仕掛けてきた戦いであった。
激しい戦いだったが、重火器は奪われず死守できた。
戦いには負けなかったということだ。
が、先頭で戦った梶原と高木は戦死した。
その二人のお墓が、カミさんが横に佇む写真のお墓である。
二人のお墓は110番、右の写真は187番のお墓である。
この187番のお墓、名前のところを拡大しておいたが、Sukur のお墓である。
墓守に伝えられている話では、
Sukur
は、Bung Ali ともBung Madeともに親しい友人で、
Sukur
も、二人のすぐ傍で重なるように戦死していたとのことである。
110
番と187番は、番号こそ飛んでいるが、立地場所は至近である。
梶原と高木は、二人だけでなく
一緒に戦ったバリ人の戦友ともども、この地に一緒にいるってことだ。

マルガラナ事件の英雄

右の写真は、
タバナン戦没者墓地内の全景。
後ろ向きの女性は、
同行してもらった、
エヴィさん。
オレのインドネシア語では、
難しい話にはついていけない。
最近はどこに行くにも
通訳として、
エヴィさんに来てもらっている。

で、エヴィさんの先の右を行くのが墓守人。
その墓守人曰く、「もうひとり日本人がいます」と、
案内されたのが、
名盤に「無名の英雄」と書かれた、
170
番のお墓(左の写真)。
墓守人が言うには、名が判らないが、
日本人だということだけは判っている、
んだそうです。

戦死したのは、マルガラナの地。
ングラ・ライのすぐ隣で戦死していたそうな。
この日本人は誰なのか?
私は、スラマットだろうと思うのだ。
スラマットの日本名は判っていない。
が、バリ兵は誰もが彼を日本人と知っていた。
バリ兵が語る日本人のスラマットを、
過去と重複するが、次に再掲載する。

.....

11
20日の朝、北と南からオランダ軍が来て、マルガ付近で包囲された。
ングラ・ライ軍はそこを脱出して、バンジャール・オレで軍を集結しなおした。
オランダ軍は、飛行機からの攻撃も加えて来た。
この飛行機はスラウェシのマカッサルから飛んできたものであった。
ングラ・ライ軍は飛行機に向かって鉄砲を撃った。
弾は当らなかったが、その後飛行機からの攻撃は途絶えた。

ングラ・ライ軍は、オレからクラチに場所を移した。
その時であった、オランダ軍の飛行機が再度やってきた。
今度は爆弾を落としてきた。
その爆弾攻撃で第2大隊・大隊長である、イ・スギアンニャールが憤死した。
スギアンニャールは、I Selamat の友人であった。
彼は激怒した。
同時にスギアンニャールは、ングラ・ライの友人でもあった。
ングラ・ライも激怒した。
この時のバリ軍の武器は80丁の鉄砲だけであり、弾も少なかった。
が、ングラ・ライは、総攻撃を命令した。

そして、戦いは17時に終った。
ングラ・ライ軍は96名が戦死し、
彼もその中に入っていた。
一方、オランダ軍の戦死者は、
300~400名であった。

彼の名が何故にI Selamat であるかは、
後日バリ人の戦友が語っている。
彼は勇気があって射撃が抜群に上手かった。
どの戦いでも勇敢に戦って生き残った。
ブレレンでの戦いでは、
一旦は死を受け入れるほどの、
激しい戦いであったが、
それでも生き残った。
そうした抜群の「幸運」をして、
I.Selamat
と呼ばれたとのことである。
彼と一緒に戦った経験のある者は、
独立を求めて勇敢で、
疲れを知らない戦士として彼を賞賛している。


.........

以上がバリ人戦友が語る、日本兵スラマットであるが、
私は、このスラマットが170番のお墓に入っているように思うのだ。
170
番の記帳を見てみた(右上)。
摘要に「マルガラナの無名の英雄」と書かれている。