乙戸 昇
まえがき
誕生 〜 ドクトル・ジパン
ジャカルタ移転 〜 福祉友の会設立
息子たちへの手紙の理由

 まえがき

写真は、乙戸 昇。
乙戸昇は、近衛歩兵3連隊の、
少尉であった残留日本兵です。

私は、乙戸昇を尊敬しています。
「帰らなかった日本兵」一千名の声(月報抜粋集)を読み、
それぞれが一匹狼であり個性派ぞろいの残留日本兵を一本にまとめ、福祉友の会を立ち上げた、乙戸昇の細かな気遣いを知るにつけ、乙戸昇のことをもっと知りたくなりました。

今年3月に、ジャカルタに行ったのはそのためでした。
福祉友の会には、乙戸昇の足跡がいっぱい残されていました。
乙戸昇の書いた文字を読み、丸一日、乙戸昇だけに浸かりました。

乙戸は、だれもが賛成できる福祉友の会にするため、
これでもかこれでもかと思われるほどの気遣いをして立ち上げます。
人心をまとめ、ひとつのことを成就させるには、
これほどのことをなさねばならないのだ。
ということを教えてくれる教本のように思えるのです。

写真家の長洋弘氏が僻地に残留日本兵を訪ねて、
まとめあげた本があります。
偏屈者が多い残留日本兵には、
日本人の訪問は喜ばぬ人も多くいます。
しかし、乙戸昇からの紹介ということを明かされると、
誰からも歓迎されて取材をすることができました。
残留日本兵の全てが、乙戸昇を敬愛していた証です。

乙戸は、52歳のとき、妻を亡くしました。
その時の乙戸の証言を転記し、乙戸なりを知っていただいてから、
「乙戸物語」に書き進んでいきたく思います。


(証言) 乙戸昇

1970
10月、本当に苦労をかけた妻が急逝した。 
その時、私は52歳であった。 妻の居なくなった家庭は、何がどこにおいてあるのかもわからず、慌てざるを得なかった。 残された15歳の中学生の長男と9歳の次男をかかえて、どうしたものか思案した。 その両名の子供達は、母親が亡くなった日以降、母親に関することは一切口にしなかった。

それは私にとっては救いであったが、子供達は意識してそのようにしていると考えるには、余りにも幼いと思われた。 あるいは誰かが知恵をつけたのかも知れないが、いずれにしてもいじらしく不憫であった。

とりあえず、当時健在であった亡妻の両親を家に呼び入れた。
次に落ち着いた時点で考えねばならなかったことは、爾後私が独身でとおすべきか、妻帯すべきかということであった。  私自身について言えば、どのように様にでも身を処してゆける自信があった。
要は子供達を主体として考慮してやるべきと考えた。
しかし、この問題は、さ程簡単ではなかった。 母親なしで子供達が義母を得た場合の反応もできず不安であった。 しかもこのことを子供達に相談する気にもなれず、遂に話をする気になれなかった。

生来、論理的思考の不得意な私にとっては、幾日考えても結論が得られなかった。 いずれにしても女児がいなかったことは、この際気が楽であった。 結局、“父親の日常生活態度を見たら、子供達はその後からついてきてくれるだろう” と割り切り、爾後独身で通すことに決めた。

亡妻の両親や姉、兄などは、口には出さなかったが私の身の処し方に注目していたようであった。 しかし、その後、1年経っても2年経っても一向に再婚の気配のない私に、彼らは一種の安堵感と一層の近親感を抱いたようであった。

1976
年、亡妻の母親が、その一年半後に同じく父親が他界した。
実子が多勢同じジャカルタに住んでいたが、義父母は共に娘婿である私の家で亡くなった。 私にとっては、何もできなかった私の亡父へのかわりに孝養するという気持ちがあった。

(後略)


乙戸の証言は、ここで中断させるが、
私は、自分ができないことを出来る人を全て尊敬、あるいは尊重する。

52
歳で小中学生の子供を抱えて妻に先立たれた場合の私を思ってみると、
“今更面倒くさい” という理由で独身を通すかも知れないが、
子供のことを中心に考えて、自分の身を処すことはない。
私は自分にわがままであり、乙戸のような考え方ができない男である。

また、異国にあって、亡妻の両親を最後まで看取ると言うこと、
それも献身的に看取ると言うことは、なかなかできないことと思われるが、
その理由は、日本の父に何も出来なかったことの代わりである、
と述べている。
この後、書くことになると思うが、
兵隊への召集令状が来ることを覚悟し、その前の軍需工場で働く際は、
せめてもの親孝行と無理をして実家から通っている。

私には、こうしたことに思いやりをもった過去はない。

こと左様に、乙戸の歩いてきた道を辿ると、
どこかしこに、私心なきやさしさが満ちている。

ブログという紙面の制約から乙戸の一部しか書けませんが、
なんとかして、乙戸のこの「心のやさしさ」を伝えたく思います。

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