乙戸 昇
まえがき
誕生 〜 ドクトル・ジパン
ジャカルタ移転 〜 福祉友の会設立
息子たちへの手紙の理由

 息子たちへの手紙の理由

乙戸の長男は日本に留学し、次男はアメリカに留学している。
その子供達に乙戸は、毎週欠かさず手紙を出している。
この毎週手紙を書く行為を知るにつけ、乙戸という人物を知り得るように
思うので紹介する。全て乙戸が書き残したものである。


若い頃の私の父は小さな田舎町で黒八丈の名前で知られた郷土の絹織物やマユの仲買を業としていた。 無口な父は子供達と談笑するようなことは全くなかった。

自然子供達からも積極的に父に話しかけることはまれであった。

1941
年、弟が現役兵として海軍に入隊した。
入隊すると、一週間して上海に渡った。

徴兵検査で第二種乙種であった私は予備役に編入され軍需会社に勤めた。
少年時代8年間親許を離れていた私は、何れ軍隊に召集されることを見込んで、親許から勤めに通っていた。 其の頃の軍需会社は、“それ増産、やれ増産”の時期であった。

通勤列車の関係もあって、朝6時に家を出て、帰宅は夜の9時であった。

弟が出征して以来、それまで子供と余り話をしなかった父が、毎晩私に尋ねるのであった。

「弟に今日は手紙を出したか」ということであった。
まだ書いてないと答えると「明日は必ず書いて出しておけよ」というのであった。
同じ言葉のやり取りが父と私の間で毎晩毎晩繰り返された。
私も手紙を書かねばと思いつつも生来の物臭さに勤めの疲れも加わって、“明日、明日”と書きそびれてしまっていた。 弟に申し訳ないと考えつつも、ペンを持つ気にならなかった。
「毎晩言われなくとも判っているよ」と思いたくなるほど、父は毎晩そのことにこだわった。

私は私で「今日は書いて送ったよ」という返事の出来ぬ自分を情けなく思いながらも毎晩同じ言葉を繰り返すのみであった。 判で押したように毎晩同じ言葉を繰り返す父は、それまで全く知らない父親像であった。 子供との対話の少ない父であるが、深い愛情の一端をうかがい知らされた思いであった。


私が一通の手紙も出さぬうちに、戦友から弟の死を報じた便りを受け取った。
弟の死は出征後23ヶ月以内のことであった様である。
弟の死はショックであった。 出征後一回も便りを出さなかった自責の念に身体の縮む思いであった。 それは私の怠慢と甘えによるものではあったが、或いは私は人並みの人情を持ち合わせていないのではないかと反省したほどであった。
この時の自責の感は、私が生涯忘れることのできぬものになった。
この時の悔恨の念が異国に渡った子供達に毎週一回手紙を出すことによって、少しでも軽減できればと願った贖罪感が無意識に働いたようである。
勿論、子供達からその都度返事があることは期待しないことにした。
返事があろうがなかろうが、手紙をかきつづけることにした。


長男への手紙を毎週書き出した。
主として日曜日を其の日に充当した。
物臭な私にとって、毎週手紙を書くことは、矢張り相当な負担であった。
然し子供の手紙を受け取ると、毎週書かねばと思うのであった。
当時毎月二回位送られた長男の便りは、その後月一回になり、2ヶ月に三回、誰かに教わったのであろうが比較的早くから日本語の手紙を書いてきた。
そして程なく私にも日本語で手紙を書くように申し入れて来た。
私のイ国語作文の演習には、ならなくなってしまった。
但し、日本語ではまだ理解できぬと思われる問題はイ国文にしたが、どの程度迄日本語が判るようになったか、判断に迷った。
さて、日本文の手紙といっても、戦前に教育を受けた私にとって並大抵の苦労ではなかった。

当用漢字、教育漢字は勿論、新しい送り仮名も知らなかった。
インドネシア語と同様、国語辞典と首っ引きでの手紙書きであった。
若干の誤りは許してもらわねばならなかった。
長男に続いて5年後の19809月、次男がアメリカに渡った。
「日本語は難しいから」と言うのが、その理由であった。
次男17才の時であった。
アメリカに関しては私自身無知であり、知人もなかった。
渡航の手続きや準備は次男自身に処理させた。
次男の渡航で毎週の手紙書きが2通になった。
日本語とインドネシア語文である。

インドネシア語作文の機会がまた来たが、益々負担が増大して来た。
先ず、イ国語の知っている単語が極く限られている事。
加えて、平生でたらめな発音していた事より、書く場合、綴りが解らない事。
或は文法に対する知識不足という事であった。

当時初老の域に入っていた私にとって辞書との首っ引き作業は、其の他の雑用もあわせて、日曜日を苦闘させることになってしまった。
休養日どころではなく、日曜日は朝から晩まで机に向かって書きものをする日になってしまった。

愚人の常で、何故若い頃に勉強しておかなかったと愚痴をこぼしたくなった。
しかも、同じ言葉を何回も何回も繰り返し、辞書を開かねばならなかった。
又、それ以上に困った事は、苦労して綴った文が果たして正しいかどうか、判断出来ない事であった。

私信を第三者に見てもらうには、ためらいがあったからである。
それでも私は毎週手紙を書き続けた。
インドネシア語は、構文や綴りに若干誤りがあっても、大体の意味が通ずるので、この点は有難かった。
又書き続けると何としてでも続けねばと考え、真夜中にペンをとった事もあった。
自分で励んでいるつもりでも、語学の勉強法を知らぬ私にとって、その効果はさっぱりあがらなかった。
私自身気付いていた事であるが、長男宛の私の手紙の堅苦しい文体を読んだ長男の友人が、これは親から子供に宛てた文体ではないと批判した由であった。
ともあれ私は毎週手紙を書き続けた。
子供達から返事があろうが無かろうが一方的に送り続けた。
次男の方は長男以上に怠慢で、半年に一通位しか便りが来なくなった。
但し電話は毎月一回位かけて来るので大体の状態は把握する事が出来た。
さてこの様に手紙を書き続けている間に気づいた事がある。

それは亡父と子供達の間のコミニュケーシヨンが不足であった事と同じ事が、私と子供達との間にもあったと言う事であった。

そして、それ以上に大事な点は、一方通行的な便りであるが、それによって従来以上に私と子供達とのコミュニケーションが増したと言う事であった。
遠く離れて、始めて父子のコミュニケーションが増したと言う様な事は、ほめた話ではない。

然し、過去はともかく一歩前進したと言うことは喜ばしい事であった。
例え一方的であっても、子供達が私の考え方に同意してもしなくとも、私の考え方が彼等に伝わっている事であった。
そのことに気付いて私は嬉しくなった。
これは予期しなかった収穫と私は愉快になった。
7
4ヶ月日本に行っていた長男が、19827月に帰ってきた。
元日本委任統治領であった、太平洋に浮かぶ芥子粒ほどの小島から、嫁を伴って帰って来た。

これで長男宛日本語の手紙は必要なくなった。
長男は一応人並みに素直に成長してくれた様だ。
ひと先ず安心である。
これで長男に対する親の責任は果たせたと思った。
将来については長男と嫁の責任で、協力して成長してもらいたい。
長男の嫁も素直で明るい性格の良い子であった。
長男一人を頼りに一名の知人もいない当国に来た丈あって、芯の強い嫁のようであった。
かって一度も不平・不満や泣きごとを口にした事がない。
良い嫁を得て、私も満足であった。
其の長男一家が帰国して私と同居し、孫娘も生まれ家庭内が誠に賑やかになった。
若し私の亡妻が生きていると仮定したら、子供達の成長を一番喜んでくれたであろう。
次男も渡米して47ヶ月たった。
次男の方も大過なくやっているようである。
私が送り続けた手紙について、長男からは何等意見を聞えていないが、次男が帰国するまで毎週私はイ国文の手紙を送り続けよう。
「父親の日常生活態度を見たら、子供達もその後からついて来てくれるであろう」と割り切り、子供達を半ば投げ出した形であったが、何とかついて来てくれた様である。

今後は子供達自身の力で、私を乗り越えて成長してもらいたい。
私は誠に幸運に恵まれた様である。
敗戦後独立戦争に挺身した頃のあれこれを振り返って見ると、現在迄生き永らえている事が、夢の様である。
特にイ日各界の皆様の御指導と御援助を得られた事が、一番の幸運であった、と痛切に感ずる今日この頃である。



乙戸がインドネシアで育んだ家族

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