新しい人生を踏み出す決断をする |
新しい人生に踏み出す決心をする
1950過ぎ頃から、メダン市内にも占領下の日本製と記された、
雑貨類が店頭にならびはじめ、インドネシアと日本の仲介役として、
多くの元日本兵が、日系企業に雇われていったが、
1956年末になっても乙戸はまだムラティ村にいた。
しかし、乙戸は考えた。
生きる喜びを感じると新しい人生を踏み出そう、
四十歳になってからでは遅い、
ダリム一家と別れることがつらかったが、
今こそ新しい人生に踏み出さなければ、
この地で埋もれてしまうに違いないと思った。
鹿島貿易の駐在となることを勧める知人がおり、
その話を受けることとした。
そして村を離れる二日間は、
町から医者をよび村人の健康診断を施した。
その費用はすべて乙戸がもった。
村人に対する乙戸のささやかな感謝の気持だった。
ダリム一家には乙戸が手に入れた田の全てを与えた。
それを終え、鹿島貿易メダン事務所を訪ねたのは、
1957年5月上旬であった。
その時の思いを乙戸は手記にこう記している。
「私が村を離れた時は満三十九歳でした。
再出発の遅れたことは、
その後ことあるごとに痛感させられたが、
遅れた反面私は診療所で蓄えた30万ルピアの資金を
活用することができました。
当時市内の中心部の二階建ての商店が
15万ルピアで購入できる時代でしたから大金でした。
それは私の生活費の三年分に値する額で、
資金は経済的なゆとりを私に与えたばかりでなく、
精神面においても、
計り知れないゆとりをもたらしてくれました。」
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工場経営を成功させる |
メダンの鹿島貿易駐在事務所の社員となった乙戸は、
その年ジャカルタの駐在事務所に移った。
商売のコツが誠意と熱意であることを確信したのは、
この頃のことである。
乙戸はこの頃のことを次のように話している。
「ジャカルタに出て独立した時の方が大変だった。
初めのころはインフレがひどく、
物価が一年で2倍にも3倍にもなった。
そういうときの自分の資金作りが大変だった。
結局ものをいうのは、信用でした。
あの人なら貸してもいいとなるのに、
一年やそこらではできなかった。
私は日本との関係を大事にしようと思いました。
結果的に祖国を大切にした残留者が信用され安定しました。」
ジャカルタに出て落ち着くと乙戸は、
中部ジャワ出身のジャワ人、カスノイと結婚し、
エディとブディの二人の子供をもうけている。
1970年の9月、乙戸は商用を兼ね、
妻とともに日本の土を踏み、
仕事の合間をぬって大阪で行われていたに万国博覧会を訪れた。
戦後の日本の繁栄に度肝を抜かれた。
その一週間後、妻カスノイは体調を壊し33歳の若さで命を落した。
乙戸昇52歳、これからと言う時に妻は逝ってしまった。
何もいいおもいを妻にさせることができなかったことが心残りだった。
その時の心境を乙戸は手記にこう書いている。
「残された15歳の中学生の長男と、
9歳の小学生の次男を抱えて、どうしたものかと思いました。
二人は妻が亡くなったあと、母のことを一切口にしませんでした。
それは私にとって救いでありましたが、不憫でもありました。
私は妻の両親を家に呼びいれ面倒をみてもらいました
そして私は独身でとおすべきか、
再婚すべきかを考えました。
わたし自身のことはどうにでもなりましたが、
肝心なことは子ども達のために何ができるかということでした。
母親なしで子どもの教育に自信があるか、
と問われれば答えられません。
また再婚した時の子ども達の反応も、
予想することができませんでした。
結局、私は結論を出すことができず、
私の後ろ姿をみせることで子ども達は、
ついて来てくれるだろうと思いました。」
1972年10月、乙戸と明和グラビア社長、大島康弘の努力が
実り工場設置の許可がインドネシア工業省から下りた。
工場の建材は、国内の冬眠工場を買取り、
他の機材も日本から取り寄せなければならなかった。
そしてインドネシアで第一号となる塩化ビニールの工場、
メイワ・インドネシアが設立され、
現地法人の代表として副社長に就任したのが乙戸だった。
工場が動き始めると、家庭用のカーテン、
テーブルクロスを生産し順調に滑り出した。
翌年のオイルショックで原料不足に悩んだものの、
社員のやる気で乗り越えた。
大島は後にオイルショックを乗り切ったのは
「乙戸の力に負うところが大きい」と述懐している。
その後世界各国からインドネシアに自動車部門が進出し、
乙戸の会社、メイワ・インドネシアは、
自動車内装材の生産で、大きく成長していった。
乙戸と大島のイスラム教国での工場生産の成功は、
この国の人々に対する細やかな配慮があったからである。
イスラム教徒の生活の中には、「信仰の告白」「拝礼」
「喜捨」「巡礼」「断食」の五行が日常的にある。
礼拝は一日に五回メッカに向かって祈らなければならないし、
「断食」は、一年に一ヶ月間、イスラム暦の第九月(ラマダン月)に、
日の出から日没までは飲食をしてはならない。
このように日常生活と結びついているイスラム教の人達を
従業員として雇うにはそれなりの工夫と努力がなければならない。
乙戸もまたクンプルというインドネシア名を持った、
イスラム教徒である。
従業員のために工場内にモスク(イスラム寺院)を作り、
五行をおろそかにしなかったことが、
工場経営を成功理に導いたといえる。
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福祉友の会の設立 |
経済的に安定した乙戸は、
ある日、残留日本兵であった同胞が病死した際、
同じ残留日本兵の誰にも看取られなかったことを大いに反省する。
その反省が後の福祉友の会の設立に結びつく。
その間の経緯につき、少々詳しく次に書きおく。
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立ち上げを決意したできごと |
1975年11月25日のことです。
残留日本兵のひとりである藤山秀雄の家に、
ひとりの青年が血相を変えて飛び込んできました。
青年は泣きながら
「お父さんが死んだ、死んでしまった」と繰り返しました。
彼は近くに住む元軍属で同じく残留日本兵であった、
堀江義男の二男でした。
藤山が堀江の家に駆けつけると、
彼は粗末なベッドに裸で横たわり、
体には無数の蟻と蝿が群がっていた。
「おい、堀江!どうした」
藤山が叫んだが応答がなかった。
堀江の姿は、まるで明日はわが身のように思えた。
多くの元日本兵は日本企業の現地駐在員に雇用されているが、
あくまでも現地採用であり、何の補償もなかった。
こんな姿では俺は死ねない、と藤山は思った。
藤山はポケットから千ルピア紙幣を数枚出すと、
二男に渡し、葬儀の準備をするように話した。
藤山の連絡を受けて駆けつけたのは、
岩元富夫と中瀬元蔵であった。
岩元は、「ウオー!堀江」と叫んで絶句した。
「こりゃ、ひどいな」
遺体に無数の蝿を追い払ったのは中瀬であった。
やっと仕事にありついても体を壊せばこの通りだ。
何の補償もないインドネシアで見放され死を迎える、
余りにも悲しくないか。
岩元は、そういうと目頭をおさえた。
俺は堀江の最後を看取れなかっただけに悔やまれる、
近くに住んでいて気づかなかった藤山が発言した。
その藤山に岩元、中瀬が諭した。
藤山さん、自分を責めてはいけない。
我々の多くがその日を暮らすのが精一杯だ。
とても仲間のことまでは手が廻らない。
俺らは逃亡兵かも知れない。
好きで残ったのであろうと言われればそれまでだ。
が、俺らがいたから日本に帰れた連中もいた。
これじゃ、逃亡兵、非国民の汚名をきて死ぬだけだ。
堀江にはインドネシアの国軍葬で送ってやろうじゃないか。
が、堀江の家には、
国軍葬に必要な英雄勲章などの書類が見付からなかった。
あるはずだが、見つける事ができず、どうにもできなかった。
堀江は英雄墓地に葬られることもなく、
一般墓地に埋葬された。
それから一週間、
日本食料理店「菊川」で堀江を偲ぶ会が行われた。
出席したのは約10名、その中に乙戸も入っていた。
3人の報告を聞いた乙戸は、
次第に自身への憤りがこみあげてきた。
なぜ、堀江に手を差しのべることができなかったのだろうか、
見殺しにしたのではなかろうか
そして、乙戸は集った仲間に言葉を噛みしめるように言った。
私は堀江さんの死に自責の念にかられております。
私は彼の窮状を知らず、
亡くなったことも知りませんでした。
戦後、我々は脇目もふらず働き、
仲間を省みる余裕はありませんでした。
私も堀江も出征、離隊、独立戦争と
同じ運命をたどった者です。
何時、我々が堀江と同じような運命にならないといえましょう。
今、私は堀江を支援できなかったことを
悔やまれてならないのです。
乙戸の話を聞き、
その時の席上の全員がそう思ったにちがいない。
が、堀江の死の衝撃が遠ざかるにつれ、
酒を飲みオダをあげて終わった。
が、時間が経てども乙戸の自責の念は変わらなかった。
ある日、乙戸は意を決して仲間に言った。
我々が集ったのは、堀江君の死を悼み、
二度と仲間があのような死に方をしてはいけない、
という反省が、皆さんの胸の中にあったからです。
このようにただ酒を飲んでいるだけでは意味がありません。
あのようなことが二度とないように、
困窮者に対しての相互扶助組織のようなものを早く作るべきです。
これにまず、藤山が賛同した。
我々は今、日系企業に就いてそれなりの収入を得ている。
しかし中には、その仕事に就けなかった者も多くいる。
それが運というなら、そうかも知れない。
しかし、堀江の死には、絶句した。
乙戸さんの言うことに賛成です。
しかし、誰がそれをやるのだ!
誰かが言い、互いが顔を見合わせた。
乙戸は言った。
どうです皆さん、非力ですが、
私にその世話人をやらせていただけませんか。
ここで、皆さんに賛同いただければ、
私が世話人をやらせていただきます。
誰かが言う。
日本人が組織を作れば、
一般民衆から暴動の対象にされるかも知れない。
中国人が目の仇にされているのも、そうした理由だ。
でなくとも、政府から睨まれるかも知れない。
乙戸はそれに、
それは大丈夫です。
我々は人数が少ないし経済力が全くありません。
そして我々が強いのは、独立戦争を戦った英雄だということです。
その我々をインドネシア社会がないがしろにするはずはありません。
そう信じましょう。
この話を傍で聞いていた「菊川」の経営者の菊池輝武は、
後日、次のように語っております。
彼らは個性的で飲めばつかみあいの喧嘩になりました。
乙戸君の人柄が皆を引きつけたのでしょう。
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福祉友の会の世話をしながら生涯を終える |
こうした経緯があって、残留日本兵の相互補助を目的とした、
「福祉友の会」を立ち上げました。
福祉友の会を立ち上げ、組織作りに尽力する乙戸に、
同じ残留日本兵であった、白川正雄が後(設立10周年の挨拶)に、
「乙戸兄の精魂がこり固まってできあがったといっても過言ではない」
と言っております。
福祉友の会を立ち上げる際の話と、
その後の会を成功理に結び付ける乙戸の精魂は、
是非に細かく書き残しておきたい。
で、紙面を別にして、あらためて書くことにします。
乙戸と福祉友の会のかかわりを氏が同会の役員として、
名を連ねた経歴から述べると次のとおりです。
1979年〜1986年 事務局長
1986年〜1990年 事務局
1990年〜1992年 副理事長
1992年〜2000年 発起人会長
乙戸は82歳の時の2000年12月19日に逝去しました。
その直前まで福祉友の会の活動にかかわっていたことになります。
福祉友の会の定款を原文のまま、記しますと、
「ヤヤサンの独力で或いは政府、民間の援助を得て、インドネシア国民又はインドネシア民族の、なかんづくヤヤサン設立人一同および曾つのインドネシア共和国独立戦争において闘争の軌跡を辿った元日本人でインドネシア国民に帰化しインドネシアに居る者およびその二世、三世の連帯意識の滋養強化並びに福祉の向上を精神的、物質的両面から授けることをヤヤサンの目的とする。
であり、乙戸はこの定款どおりの活動を続けます。
例をあげると、次のような活動です。
1、 残留日本兵の里帰り
2、 軍人恩給一時支給申請
3、 体の不自由な者、貧困者のための生活補助金支給
4、 その子弟への学費の援助
5、 日系二世に対する日本語教育講座の開催
6、 日系二世への奨学資金の支給
7、 月報(毎月)の発行
8、 日本語学校の設立
9、 日系二世の訪日
10、全生存者への大使表彰
これらの活動には資金が必要でした。
福祉友の会は、会費制ではありません。
その運営資金は、残留日本兵の会員と日本国内関係者の寄付で
まかなわれていました。
資金確保のために、乙戸が自費で何度も日本を往復しています。
これらの活動のどれもが簡単ではありませんでした。
そのうちの「日系二世の訪日」と「全生存者への大使表彰」については、
乙戸の長年の努力が実ったものと、読みながら私は涙しました。
福祉友の会のところで書くことにいたします。
日系二世の訪日 全生存者への大使表彰
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