福祉友の会
週報を発行する
スラバヤ組とジャワ組の確執
月報の発刊
日系二世の訪日

日系二世の訪日


1990
921日、乙戸昇は東京・青山会館にいた。

ホールでは、約250名のインドネシア関係者を集め、インドネシア共和国45周年記念祝賀会と日系二世訪日団一行の歓迎会が盛んに行われていた。

会場にはガムラン音楽が流れ、テーブルに盛り付けられたトロピカルフルーツが異国情緒をかもしだしていた。

インドネシア共和国。ヨギスパルディ駐日大使は日イ両国の友好親善を述べ、なごやかな雰囲気の中で会は進行していった。

日本側の代表者がインドネシア独立の経過を述べ、残留日本兵の二世についての話をすると、乙戸は「やっとここまで辿りついたか・・・・」と安堵の気持を覚えた。

9
13日、スカルノ・ハッタ空港を飛び立ち、日系二世訪日団一行を率いてきたのは乙戸である。 来日の目的は彼等二世を日本の社会に紹介することであった。

今回の来日の主役は、あくまでも二世であって乙戸ではない。

しかし、残留元日本兵が積み上げてきたインドネシアと日本の関係を次代に引き継ぐことは、老い先短い残留元日本兵の責務だと乙戸は信じていた。

二世団の団長、マノボ・オクヤマが日本語で挨拶を始めた。 マノボの父親、奥山寿一郎は岐阜県の出身で、戦前は自動車関係の仕事に従事、敗戦とともに帰国した。

その後の生死は不明である。 マノボは幼少の頃、日本人の子といじめられたこともあったが、多感な青春期を迎えたマノボには、経済大国に発展した父の国は輝いて映った。

日本に憧れ、日本の夢を見、父の祖国に行くために独学で日本語をマスターし、早稲田大学に留学した。 現在はジャカルタでインドネシア産品を輸出する会社を経営している。

「日本のみなさん、こんにちは。 我々二世は、父の国を見たいと願いながら、やっと思いをかなえることができました。 ほんとうに幸せです。 私達のお父さんは、日本の兵隊さんとしてインドネシアに来ました。 そして日本に帰らずインドネシアの独立戦争を戦いました。 私たちは父が日本人であることを誇りに思います。 父の国、日本も誇りに思います。 ここにいる二世もみな日本を第二の故郷と思っています。 今年はインドネシア独立から45年目にあたります。 この場をお借りして、インドネシアの独立を祝し、我々二世の歓迎会を開催していただいた皆様に感謝いたします。 インドネシアと日本、両国の友好発展を祈り感謝の言葉に代えたいと思います。」

マノボの挨拶が終ると、会場には拍手の渦が巻き起こった。

マノボは二世といってもすでに45歳、戦後女手ひとつで育てられ、辛酸をなめてきたマノボは今、父の国で歓迎されていた。

乙戸は会場の拍手にこの訪日が成功した手ごたえを感じ「10年間の労苦はやはり無駄ではなかった」と思った。

福祉友の会の資金確保のため乙戸はこれまで何度も自費で来日し、日本国内を奔走した。

「あんたら好きで残ったのだろう、今頃泣き言を言うな」「逃亡兵のくせに」などと陰口をたたかれたことも一度や二度ではなかった。 日本から要人がインドネシアに来ると、残留元日本兵の地位の向上と福祉友の会への援助を陳情した。 それも、残留元日本兵がインドネシアでそれなりの地位を得ていたからこそであった。

会場は宴に入り、舞台ではガムラン音楽に合わせ、バリダンスが演じられていた。 バリダンスを知っている何人かの男女が舞台に上がり踊り始めた。バリダンスが終わり、ガムランの余韻が残る中を43歳になるプロ歌手の二世リチャード・イシミネがギターを持って舞台に上がった。 

リチャードの父親は戦後インドネシアに残り現地結婚し、1990年の19日に病気で亡くなった沖縄県出身の元陸軍伍長・石嶺英雄である。 リチャードのギターが哀調を込めた音色で会場に響きわたり「ブンガワンソロ」の歌声が場内に流れ、やがて会場は「ブンガワンソロ」の合唱へと変わっていった。 二世団が舞台に上がり肩に手をまわし歌った。 いつしか数人の二世達の目から涙がこぼれ落ちた。

乙戸は静かに舞台を見つめていた。 
ジャワ島を流れるソロ川を乙戸が初めて見たのは、19441月、ジャワにある陸軍予備士官学校に入学した時であった。 
かってのソロの流域にはマタラム王国、シンゴサリ王国を始め、多くの王朝が栄えた。 
9
ヶ月の幹部候補生の訓練の合間に聞いた王朝の名に心を踊らせたのも昨日のことのように思えた。 

あれから46年、
人生は余りにも不可思議であると、乙戸は思った。 
インドネシアで生き続けた残留元日本兵の血は絶えることなく、悠久の流れソロ川のように永遠に生き続けるのである。 

歌が「ハローハローバンドン」の合唱に変わり、乙戸の脳裏に、出征、独立戦争、戦後の困難な慈愛が走馬灯のように流れていった。 
会場から「ムルデカ、ムルデカ、ムルデカ」の声が上がった。

乙戸は独立戦争後、日本人を前にして初めて晴れがましい気分で「ムルデカ」の三唱を聞いた。



もどる