福祉友の会
立ち上げ初動の30日間
週報を発行する
スラバヤ組とジャワ組の確執
月報の発刊
日系二世の訪日

17年間、月報を書き続ける

週報を発展的に廃刊とする。

1978
1215日、設立準備委員会を開いた。
当日はジャワ各地より残留者が集り、出席者数25名に達した。
それまでの残留者会合の中でも最大のものとなった。
ここで組織名をメダンの山本敏雄氏提案による、
ヤヤサン・ワルガ・プルサハバタン(日本名:福祉友の会)とした。
定款は準備されたとおりに定められ、ヤヤサン設立時の初代役員も決定した。


但し、これは名のとおり準備委員会であって、正式設立には登録が必要である。
発起人による、それもできるだけ多くの発起人登録を目指すこととした。

週報を活用し、発起人参加を呼びかけた。
正式登記は1979714日であったが、その直前まで発起人への申請を呼びかけ、
次の推移を経て、最終的には107名からの応諾があった。

(1979
)
5
27日  発起人申請者数  30名  週報 34
6
2日            58名     35
6
10日           79名     36
6
17日           92名     37
6
24日           97名     38
7
1日           102名     39
7
8日           103名     40
ヤヤサン設立当日(714日) 107

107
名の応諾があった裏話として、後に乙戸は次のように語っている。


(証言) 乙戸昇

残留者の60%が設立発起人になったとはいえ、当時発起人の過半数がヤヤサンを支持した訳ではなかった。 逆にその大多数がヤヤサンに懐疑的であり、又、ヤヤサンは中途で瓦解すると考ええいた。 それは残留者による組織で成功例がなかったからであった。
それにもかかわらず多くの残留者が発起人とあったことは、先ず残留者の過半数が年齢60歳代、初老期を迎えていたという時代背景を挙げられよう。
更にヤヤサン設立委員会は週報を地方有志に配布し、ヤヤサン設立の必要性を呼びかけた。その週報を通じ、どのような福祉組織とすべきか、具体的提案を促した。そして集った提案を再度週報に掲載し、その案を他の有志に検討してもらって、無意識のうちにヤヤサン設立に参加するよう仕向けた。 又、同時にその週報を通じて発起人として設立参加者を募集し、逐次参加確約者を週報に発表した。 悪く言えば、発起人として参加せねば取り残されるという不安をかきたてた。 多くの残留者はヤヤサンに対して懐疑的ではあったが、ヤヤサンが設立された場合の発言権確保を考え、一応発起人として名前を連ねておこうと発起人となってくれた。
参加の理由はどうであれ、発起人の増加は歓迎であった。 数が物をいい、数が力を生み出すからであった。

(後略)


そんな訳で、107名もの発起人を得て、
1979
714日に、福祉友の会は正式に登録された。
その正式登録された福祉友の会の第一回総会が行われたのは、
1980
315日であった。

さて、それまで意義大として発行し続けた週報であるが、
この第一回総会の記事を書いた翌日の316日をもって打ち切ることとなった。
1年半、毎週休むことなく発刊を続けた週報の最終号は75号であった。
組織ができ、その機関紙として配布されるべきものであれば、
よりよきなんらかの発行することとして週報は発展的に廃刊されたのである。


「月報」を200号まで発行する

結論から先に書くと、月報は一旦発行されると、
ただのひと月も休刊されることなく、200号まで発行された。 
17
年間、毎月発行され続けたと言うことになる。
月報に関しての乙戸の証言をところどころ拾ってみる。

(証言) 乙戸昇

1982
年に自分の能力も考えずに、私が月報の編集を買ってでたのは、当ヤヤサンに会誌がなかったためである。 広大なイ国に点在する日系人を対象としたヤヤサンに、定期にコミュニケーションを計る媒体があいということは、致命的な欠陥であった。
仮に月報の内容が低俗であってもないよりはましである。ヤヤサンを設立した限り、その存続と発展を図らねばならない。 設立したヤヤサンが消滅した場合、日系人の良識が疑われ、且つ日系人の面目丸つぶれである。日本人相互の連絡がなければ理解も生まれず、日系人の親睦も相互扶助も有り得ない。 “当って砕けろ”という気持で月報に取り組んだのは、19824月であった。(中略)

年を越えた1983年に入ると、残留者よりの投稿が寄せられるようになった。
その第一は、スマラン在住の藤田清口述の寺岡守一筆記の体験記「白い砂」であった。
同年3月号に掲載されると残留者間に反響を呼び起こし、以後多くの残留者が投稿してくれるようになった。(中略)
1982
5月号から月報の編集をした小生であったが、当時すでに60歳代の半ばに達していたし、まだ自分自身の仕事にも携わっていた。生半可な考えではヤヤサンの信用を損ねる事態も生じかねない。 編集を引き受けたからには、成し遂げねば成らずと腹をくくり、当初の目標として月報100号までは引き受けようと決心した。 84ヶ月の歳月を必要とすることである。 100号に達した際の小生の年齢は満72歳を超えていることになる。 しかし8年先のことを案じても事が進まない。 誠意をもって体当たりすることにした。(中略)



月報の順調な滑り出しにもかかわらず、ヤヤサン自身の運営資金が不足してきた。ヤヤサン事務所の堤氏も退職してもらうことになった。 19856月のことである。 以後の月報は編集から清書までの作業の全てを小生が一括して担当することになった。同時に私自身も運営資金の調達に奔走した。(中略)

1990
8月、当初の目標である100号が発刊された。84ヶ月の間、自分自身の仕事もあったし、体調を崩したこともあった。 2週間3週間と国外を旅したこともあった。 しかし月報だけは遅刊・欠刊のないように腐心した。 ヤヤサン関係の事務処理は総て会社に持ち込まず、日曜、祭日、朝の出勤前、帰宅後の総ての時間をそれに充当した。 そして大過なく月報100号を発行できた喜びを満喫した。(中略)

100
号が発刊されたことで後任者を物色したが引き受けてくれるものがいなかった。 結局小生が引き受けざるを得なかった。 それまでは持病の糖尿や慢性の腎臓病に加え、長年に亘って顔や手足の皮膚が黄色味を帯び慢性化していた。 それが月報を100号まで発行するということで健康に注意してきたためか、100号の発行時には黄疸症状も消え、体調も以前に比べ好転していた。 自分自身の体力にもある程度自信が持てるようになってきていた。小生は月報第2の目標を150号とした。(中略)

1991
6月、小生は実務から引退した。 7月以降は月報編集作業を含む、福祉活動に専念できるようになった。 引退後の小生は、月報のような書きものをせねばならない場合、自分の事務所に持ち込んで処理している。そして、199410月、月報150号も大過なく発行することができた。 100号より42ヶ月、当初より通算すると12年6ヶ月の歳月を経、小生の年齢も喜寿を越えた。
月報は当初、在留日系人間のコミュニケーションの媒体としての機能を主とし、対外広報機能を従目的として発足した。 ヤヤサン発足時の在留日系人は約180名であった。 しかし150号を発行した現在、僅か76名になってしまった。 しかも長期間病床に臥し、あるいは視力が衰えて、月報の読めぬ残留者も日を追って増してきている。 現在なお月報を読んでおられる残留日系人は、50名を割るのではなかろうか。
それにもかかわらず、現在の発行部数は毎号/毎月510部である。
それは換言すれば、コムニケーション機能より、外部に対する広報機能が主になっているということである。(中略)

当ヤヤサンはようやく基礎が整ってきた段階である。前途はなお遠く、且つ希望に満ちたものである。 現状に即し、次の時代に適応できる有能な若い世代に、引き継いでもらわねば成らない時期に至ったと考えている。 しかし、現実の問題として、次の編集後継者は誰かと問われても、現在の小生には具体的な腹案はまだ持っていない。 当ヤヤサンの役員、有志によって広範に人材を求め、選出してもらいたい。 それを期待し、それまでを小生の今後の目標として、老骨に鞭打って編集作業を続けることにする。(中略)


月報最終号200号の編集が終りました。 1994年、当ヤヤサンの運営が二世たちの手に委譲された時点で、その機関紙の編集も二世たちの手にゆだねねばなりませんでした。 しかし当時の二世たちの依頼により暫時月報の編集を続けることとし、現在に至りました。 そして西暦2000年、20世紀最後の年を1ヶ年後にひかえ、この12月、区切りよく200号に達しました。 この好機を得ると共に、戦後の世代に適した新しい機関紙の発刊を期待し、当月報の編集を終え、同時に廃刊といたします。(中略)


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