福祉友の会
立ち上げ初動の30日間
週報を発行する
スラバヤ組とジャワ組の確執
月報の発刊
日系二世の訪日

週報を発行する


一年半、週報を書き続ける。


さて、ここまでがヤヤサン連絡簿第4信までですが、
その後、送り先がどんどん増えていきます。
そして、「週報」と名づけられ、会員への連絡信として続けられるのです。
実に75号まで、一年半もの間、一週も休むことなく書かれます。

この週報の意義は大きく、
白川正雄、石井正治、樋口修は、「週報」をして、次のように書いています。



(証言)白川正雄

日ごろ誠実一点張りの乙戸兄が、義をみて成さざる勇なきなりと健筆をふるって苦心惨憺、あの広大な全インドネシアの各地に分布する残留日系インドネシア人の一人ひとりに呼びかけたのが、あの有名な週報であります。
この週報は全く乙戸兄個人の費用と労力で何ヶ月と続けられ、その間、諸説粉々・甲論乙駁の意見交換や齟齬はありましたが、とにかく乙戸兄の物心両面に亘るご尽力によって、はじめてインドネシア全国に散らばっていた約177名の残留元日本軍人軍属の存在が明らかになるとともに、最後はその全員が慈善会の結成に賛同され、遂に1979714日、107名の発起人からなる福祉友の会が結成されたのである。
実に乙戸兄の誠魂がこり固まって出来上がったと言っても過言ではありません。



(証言)石井正治

戦後35年を経ても、元日本兵がどこにいるのか分明ならず、ジャカルタ有志による名簿作り。乙戸氏の異常な熱意によって書き続けられた週報。
その成果が実り107名の名が記帳されたことによって、設立総会に漕ぎ着けたものでした。



(証言)樋口修

福祉友の会は10年前に乙戸昇が中心になり、結成されました。
この10年の間、日本人の生存者名簿は、雑誌に新聞に、インドネシア独立戦争に参加した「天皇の兵士」たち、の題目で「望郷日本人」として大特集されました。
これらのニュースは中央紙にとどまらず、地方紙にも報道されました。
10
年間にわたる乙戸昇氏の努力とその筆跡の力が、それであることは、会員一同の共通認識であります。 厚くお礼を述べ、会員の総意として賛辞を呈します。


一方、乙戸本人ですが、
週報の発送につき、次のように証言しております。



(証言) 乙戸昇

週報を書き出してから身辺が忙しくなった。
今次、もし「会」の結成ができぬ場合、今後の結成の機会は皆無である。
前進あるのみと毎週週報を書き続け、号を増やすと共に送付先を追加していった。

週報の内容はその時々の問題を当方から提議し、それに対する各地有志の意見を求め、その意見を整理して次の週報に採り上げ、他の有志の意見を引き出すべく努めた。
そしてその間、問題に対する委員会側の考えを述べるとともに種々の意見を誘導し、組織形成のためのコンセンサスをつくっていった
誘導によるコンセンサスつくりは少しの遅滞も許されない。
“鉄は熱いうちに打て”である。
間切れなく輿論をリードしてゆくための機関紙は週報が絶対に必要である。
月報ではタイミングを失する虞がある。
文字どおり毎週休むことなく書き続け、且つ発送した。
最後には30数名に達し、その封筒の宛名書きだけでも少なくない時間を要するようになった。

そんな週報書きは自分との戦いでもあった。 体調が悪いと言っても書かぬわけにはいかなかった。 会社の仕事を理由に休刊することは気持が許さなかった。
毎休日はもちろん朝の出勤前、退社帰宅後も週報と格闘した。
それを承知で組織作りをよびかけ週報を書き出したのである。
なお、輿論をリードし、残留者を結集させるためには週報だけが全てではなかった。
週報に加え、各地有志個人宛に私信も書いて発送した。
毎週2〜3通の私信を順次有志に送ることによって、週報の及ばぬ点を補ったが、私信は相互の理解と信頼を深めるうえで、多大の効果があったものと確信している。


もどる