福祉友の会
立ち上げ初動の30日間
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スラバヤ組とジャワ組の確執
月報の発刊
日系二世の訪日

スラバヤ組とジャワ組の確執


残留日本兵の会を立ち上げるのは、簡単ではなかった。
その大きな障害のひとつが、スマトラ組とジャワ組の確執であった。
乙戸は、福祉友の会を立ち上げた20年後に、
その確執を振り返って、次を証言している。


(証言) 乙戸昇

一匹狼的な者も少なくない残留者を、ひとつの組織の下にまとめるのは生半可なことではなかった。 又、残留者は自己の意志で所属日本軍部隊、又は団体を離脱したことから、脱走兵・逃亡者という烙印を日本社会の一部から押されていた。 その精神的な引け目が多くの残留者をその後の人生において、種々の形で影響を与えたと考えられる。
そんな残留者自身の間に残留者自身を“ジャワ組”と“スマトラ組”とする区別があった。
私自身40年余ジャカルタに住んでいるが、“スマトラ出身者”である。
特にジャワの大都市では、スマトラ出身者が1950年代、1960年代に移転し生計を営んでいる者が多い。生死を共にした青年期の連帯感が厳然とあるのである。 そのような残留者の抱える要素に配慮し、組織をまとめねばならぬ苦労があった。

(後略)


具体的には、スマトラ組から次のような反発があった。
1978
1015日付のメダン在住山本敏雄氏からの信による、
メダン地区残留者はヤヤサン設立計画には批判的であるとの指摘であった。

1、 先ず定款を提示せよ。参加不参加はその後の問題である。

2、 各方面に援助を願う 乞食根性は賛成できぬ

3、 設立の場合、残留日系人一世のみとし、
   その他日系人・日系二世は後日の問題である。


これに対して、乙戸は、
週報6ページ中、4ページを費やして答えると共に、
6
名の残留者個々に私信を書いて発送した。 
要約すると次のとおりである。

1、 定款の遅延は申し訳ないが、大事な定款であれば、
   どのような内容にすべきか諸氏の積極的なアドバイスを頂きたい。

2、 福祉組織の性質上、 寄付を集めることの
   そのものは乞食根性ではない。 
   集めた資金の運用如何が問題である。 
  適正な資金運用で実績を得ることにより信用を得ることができる。

3、 同感である。 
   当初は残留者を対象とすることだけでも手一杯と思われる。
   しかし、それだけの力が養われてきた際は、
   対象範囲を拡大してゆきたい。



この他に、やはり北スマトラ在住残留日系人を主に
次のような質疑や提案、主張があった。

1、 日系人の組織作りをすることそのものが反対であった。 
   主としてスマトラ在住者から出たもので、
   自ら日系人であることを宣言するのは、
   得策ではないと言う理由であった。

2、 福祉組織であり、政治不関与であるが、
   日本企業などへの援助申請などがあれば、
   政治関与の疑いを招来する。

3、 インドネシア全土に亘って一組織にせず、
   各地区に組織をつくり、連合形態にすべき。

4、 日系人の組織作りはイ国民への同化を阻害するや否や、
   での意見の不統一。


ただ、乙戸は、
このように諸問題の質疑や提案・主張が積極的に出てくるということは、それだけ深い関心を有しているということと、前向きに捉えて対処していた。
その対処の例を書いてみる。


@ 早い時期にメダン地区の残留者に影響力のある、
  樋口修氏に組織参加の承諾を得る。

A 会の名称を北スマトラのオピニオンリーダーであった、
  山本敏雄の提案を採用する。

B 福祉友の会が正式登録された4ヵ月後、
  日本大使より数名のヤヤサン会員を夕食に招待したい、
  との申し出があった。
  乙戸は、この機会を逃してはならないと、
  総領事を通じ招待者を9名に増員してもらうように交渉し、
  できるだけスマトラ出身者を参加させるように仕組んだ。
  結果、ジャワ出身3名、スマトラ出身6名の参加となった。


この大使招宴に関し、
メダン地区を代表してこの招宴に加わった石峰英雄は、
「メダン地区在住残留者の視野の狭さを痛感した」と述べている。

その後、招宴に加わったスマトラ出身者を中心に、
スマトラ地区の残留者のヤヤサンに対する理解が深まった。  

スマトラ組とジャワ組を近づけ、
その確執を少なくした出来事であったが、
地方を優先するという、乙戸の仕組んだ思いやり施策であった。


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