乙戸昇と福祉友の会を語るとき、
是非に横に置いて欲しいのは、その歳月である。
1、あることがきっかけで残留日本兵の会を立ち上げこととなった。
が、実際に立ち上げたのは、それから3年も経てであった。
乙戸は、その3年間を変わることなく同じ思いを持ち続けた。
2、立ち上げの世話人となるやいなや一ヶ月で軌道に乗せた。
3、軌道に乗ったあとも毎週の「週報」を75週間休まずに発行し続けた。
4、「会」の発足後は「月報」を17年(200号)毎月発行し続けた。
上の1〜4の期間は、23年間になる。
この歳月の長さは、そのまま乙戸の努力と真面目さを物語っている。
歳月の重さを意識しながら、読んでいただければ、
乙戸の思いを理解していたでけるものと思う。
私も23年間の重みを心に刻みながら、書き進んでいきたい。
「残留日本兵の会」の立ち上げを決意する
前のブログで、残留日本兵の掘江義男が仲間から看取られずに、
淋しく病死してしまったことが、会の結成のきっかけになり、
乙戸がその世話をすることになった、と書いた。
しかし、実際にはそんなに簡単ではなかった。
きっかけになった、堀江義男が亡くなったのは、1975年11月25日、
乙戸が世話をすることを決断したのは、1978年9月6日である。
その間、約3年間も空いている。
その間、何もしていなっかたのではない。
1976年には、組織つくりの世話人が決まっていた。
中瀬元蔵・中川義郎・喜岡尚之・出口良夫・石井淑普・
藤山秀雄・高瀬源之助・河原井勇・並木正夫の諸氏である。
勿論、スラバヤ・メダン在住有志にも呼びかけている。
時々、ジャカルタの「菊川」で会合もあった。
その時の会合につき、乙戸は次のように証言している。
「会合の都度、酒類を飲みながらの協議であったため、
協議会というより、親睦会に近い集まりとなって、
解散するのが常であった。」
そういう会合だったが、乙戸は欠かさず出席していた。
そして、1978年9月6日に、
乙戸が世話をすることを決断することになるが、
そのことを乙戸は日記に次のように書いている。
「残留者の年齢を考えると、今組織を作らねば機会を逸する。
今まで、私は多くの先輩がおられることから、残留者の前面に
出ることは控えていたが、逡巡は許されぬ現状である。
因って今後積極的に運動するので支援を乞うと申し入れ賛同を得た。」
会の結成のきっかけになるできごとがあってから、
自らが世話人になることを申し出るまでの3年間は、
乙戸自身の意識の醸成期間でもあったのだろう。
今こそと、機が熟した感があった。
故に決めたあとの乙戸の行動はすばやかった。
昼間は自分の事務所で仕事を普通にこなしながらの行動であった。
9月13日から10月14日までの30日間の乙戸の日記を拾ってみる。
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