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インドネシア独立戦争は、
1945年8月17日、日本の敗戦と同時に始まりました。
それから1950年8月15日までの約5年間続いた戦争でした。
バンドゥン会議は、さらにそれから5年後の
1955年4月に開催されております。
インドネシア独立戦争に参加し、
その5年後のバンドゥン会議を観た残留日本兵は、
本坊高利氏です。
氏は、宮崎県生まれ、独立混成27旅団砲兵隊の兵長として,
大東亜戦争に従軍しました。
氏が独立戦争に参加したのは、25~30才の5年間でした。
生き残ってバンドゥン会議を観たのは、35歳の時でした。
そして、その時の思い出を記述をしたのは、67歳になった時でした。
享年75歳、現在バンドゥン英雄墓地に祀られております。
氏が25歳の時に起こった日本の敗戦、いわゆる無条件降伏後、
日本軍人は、それまで敵であった連合軍の配下になりました。
で、それまで仲間であったインドネシア軍を鎮撫する役目をおしつけられました。
氏は、そのことを由とせずインドネシア軍に加勢しました。
激しい葛藤があったと思いますが、
それを淡々と書き綴っております。
文面は、氏が書き残したものをそのまま掲載します。
同志(戦友)が読んでくれることを想定しての文面です。
氏は、戦後、ジャカルタの総領事に請われ、
バンドン名誉領事として残留日本人の世話をした時期がありました。
その淡々と書かれた文面から他から請われる人格であったことが伺えます。
彼が、バンドゥン会議をどのように観たかは、もっとあとになります。
その先に、氏の人となりを知っていただきたく思うからです。
(証言) 本坊高利
1920.3.28生 宮崎県出身
独立混成27旅団砲兵隊 兵長
私は1943年に満州の関東軍から南進してきた者です。
1945年8月15日は、
部隊全員がラジオの前でに集まって玉音放送を聞きました。
しかし、玉音が聞き取れず、「戦争はこれからだ」とか、
「南方軍は特に頑張れ」と言われたとかの、
デマが流され私どもははっきりした状況がつかめませんでした。
8月16日には上杉部隊長が、
続いて小隊長の岩崎少尉が自決され、
又、兵隊でもこれに続くものが出ました。
その後、一週間から10日程して、
兵器類の菊のご紋章をヤスリで消し取れとの命令が出て、
初めて敗戦を実感致しました。
インドネシア兵補も解散し、
日本人だけでゴタゴタした毎日でしたが、
8月下旬、オランダの軍用機がオランダ人抑留所の上空に現れ、
薬品、食料などを投下したときには、
敗戦が一層身に沁みて、涙があふれてきました。
そのうちに下士官などは軍刀の試し切りとか言って、
周辺のバナナの幹や兵舎の柱などに切りつけたり、
あれやこれやで隊内は蜂の巣をつついたような混乱に陥りました。
引き続く英軍の命令で武装解除・兵器・車両の引渡しなどで、
スメダン県・ガルット県などに派遣され、
終わって部隊に帰って来たのは、10月頃でした。
ところが帰隊した翌日に再び命令が出て、
英軍援助のためにチマヒの日本軍砲兵隊から、
1ヶ部隊が出動することになり、
私はその車両操縦並びに修理員としてバンドン入り致しました。
バンドンの英印軍グルカ兵のトラックや日本軍使役部隊がいるだけで、
あの広い道路にはそれ以外に猫の子一匹居りませんでした。
又、ホテル・ホーマン前のアスファルト道路は土砂に覆われ、
チークの樹等が散乱して居りました。
聞くところによると、オランダ軍がインドネシア人部落を洗い流すために、
バンドンの裏山のダムを一挙に開けた際の流木や土砂とのことであった。
当時、英印軍はイ国独立軍対応に腐心して居ました。
ガルット県レレスから駆り出された私共日本軍は、
その日から英印軍の指揮下に入れられ、
日本軍高射砲陣地のあった、あづさ部隊跡に布陣し、
一旦英印軍に引き渡した迫撃砲・山砲・野砲を再交付され、
イ国独立軍基地を砲撃しました。
敗戦前までは「日本人とインドネシア人は兄弟」言っていた私共にとって、
イ国人に砲弾を浴びせることは誠に苦痛でした
部隊の佐藤大尉は涙を流して口惜しがりましたが、
英印軍の命令で如何ともすることが出来ませんでした。
又、ある時は、スカブミ駐屯の英印軍工兵隊が、
その前夜インドネシア軍に襲撃され、
100名もの戦死傷者が出たことがありました。
英印軍はその死傷者輸送のため100車両余の輸送隊を編成し、
朝5時にバンドンの街を出ました。
その輸送部隊にも日本軍が使われ、畑中隊の戦車を先頭とし、
後方は私の所属する砲兵隊並びにバンドン警備の日本軍部隊をしんがりとし、
その中間に英印軍を配しました。
加えて、戦闘機2機が出動され空から援護し、
スカブミの街に着いたのは夜7時ごろでした。
昨日はバンドン市内のインドネシア軍を、
そして今日はバンドン裏山のレンバンの独立軍基地をと、
心ならずも連日砲撃を繰り返し、
夜の点呼ではインドネシア人犠牲者のために黙祷をする、
という毎日でした。
勿論砲撃に際しては手加減致しました。
しかし英印軍の作戦参謀が監視していることもあって、
思うに任せませんでした。
ホテル・ホーマンの屋根を越え、
インドネシア軍地区を砲撃させられたこともありました。
1945年末頃の日本軍部隊に広がった噂では、
引揚船の都合で故国帰還は20年後あるいは30年後になるとか、
一生捕虜として連合軍に使われるとか言うことでした。
又、食料不足で餓死せざるを得ないとか、
シンガポール沖ガラン島に送られ、
第3次世界大戦に備えて陣地構築使役に使われるとかの噂も流れました。
それは、毎日毎日が暗い嫌なニュースの氾濫でした。
「よし! こんな毎日を送るより、インドネシア独立のために戦ってやれ」
と、決心しました。
幸い私は英印軍発行の公用証を持って居りました。
弾薬・燃料等は準備したが身を寄せる先の目当てのないまま、
バンドンの飛行場を通過しパダララン迄来た時、
インドネシア側の検問を受けました。
そしてそのままパダラランのイ国軍部隊に身を寄せました。
同行したのは、本橋軍曹と私の2名だけでした。
その晩は、部隊から持ち出した食料や煙草で過ごし一夜を明かしました。
翌日イ国部隊長に呼び出され、
私はSUKAMTOと命名され第4中隊付けを申し渡されました。
一方、本橋は第2中隊となりましたが、
1948年3月3日、オランダ軍に捕らえられ、
その一週間後に銃殺されるという不運に見舞われました。
その後、英雄墓地に埋葬され現在に至っております。
私がイ国独立軍に身を投じたのは1946年1月5日でした。
当時のイ国軍は、TKP(人民治安軍)の時代で、
毎日毎日が日本軍から持ち出した自前の兵器での戦闘でした。
パダララン付近の山の上で、
待ち伏せした英印軍輸送部隊を襲ったこともありました。
その後、チリリン郡の1部落に移動して約一ヵ年間の毎日が、
チタロン河を挟んでの戦闘での明け暮れでした。
それは、若さに支えられての日々でもありました。
一方、日本軍は「全日本軍将校に告ぐ」と記した宣伝ビラを撒き、
残留日本兵の日本軍復帰を勧告したことがありました。
又、イ国軍との話し合いがついた様子で、
日本軍大尉を長とした説得班がパンジャランの中学校に見えられ、
残留日本兵の日本軍への帰隊を要請したこともありました。
その時には、1名の帰隊者もありませんでしたが、
後日、日本軍に戻った方もあった様でした。
1946年11月、
リンガルジャティ協定が締結されると英印軍は撤退し、
オランダ軍だけになりました。
そのオランダ軍に残留日本兵は懸賞金をつけられました。
懸賞金欲しさに欺かれ、
オランダ軍に引き渡されたり殺されたりした残留日本兵もあって、
当時は生きることそのものが大変な時期でありました。
その間、
西部ジャワから中部ジャワのインドネシア共和国地区への移動、
1948年9月のマデウン事件への出動、
同年12月のオランダ軍第2次進攻時のイ共和国首都、
ジョグジャカルタへの侵入等に遭遇しました。
当時は医師も不足、薬もなかった時で、
身体の弱いものはばたばた倒れていった時代でした。
今になって、当時のことを想い起こすと、
良くも生き抜くことが出来たと感無量です。
私共残留者の時代もいよいよ終わりになりました。
日本人にしてもインドネシア人にしても
敗戦やイ国独立当時のことを知らぬ人が多くなりました。
「虜囚の恥」を許されなかった当時の1兵士が、
現在インドネシアの地に生きて居られるだけでも有り難いことです。
幸いに生を得ているのだから、
少しでも日イ両国のお役に立てばと思って居りますが、
ヤヤサン・福祉友の会を中心として、
私共の足跡を日系二世・三世に伝えると共に、
彼らを善良なイ国人に育てることが私共の責務ではないかと考えます。
お互いに頑張りましょう。
1987年5月 本坊高利
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