残留日本兵のその他証言 
  残留日本兵が見たバンドゥン会議 
  市来龍夫物語  市来龍夫のお墓を探しに行く
  藤田清(白い砂) 

残留日本兵を書くことの重み

  写真右は、バンドゥン会議の
  会議場(現在、博物館)の私達。

  日本の敗戦後、
  日本に帰らずインドネシア独立戦争を
  インドネシア人と共に戦った、
  いわゆる残留日本兵......について、
  ブログの掲載を公表しておりましたが、
  なかなか筆が進みません。

  理由は、
  彼らの書き残したものが、
  余りにも「重過ぎ」て、
  簡単に書くことが躊躇されるからです。



今日は、その「重すぎる」ことのみに焦点をあてて、
書いてみたく思います。

重すぎると思われる理由は、二つあります。

まず一つは、日本を捨ててインドネシアに与し、
独立戦争に参加するということは、
助かった命をもう一度捨てるという、
命をかけた行為であったからです。

この「命をかける」ということは、当然のことながら、簡単ではありません。
命をかけるまでには、はるかに及びませんが、
私の経験したことを例にあげます。


25年前、貨物船の船長として働いていた時の話です。
ドミニカのサントドミンゴを出港して、ブラジル諸港に向かう航海でした。
サントドミンゴを出港して、三日後、船内に密航者がいることが発覚したのです。
以後、陸さへ見ればそれがどこの国であろうと脱走しようとする密航者、
それを生かしたままで船内に幽閉することに、大変に苦労しました。

アマゾン川のマナウス港では、とうとう脱走されました。
が、アマゾン川から岸辺には泳ぎ着けておらず、
現地の警察の手を借り捕まえることができました。
橋げたの暗闇に隠れる密航者に、警察にピストルを打たせて、
脅かして引き出し捕まえたのです。
警察と言っても港を守る軍隊です。
彼らは遠慮せずにポンポン撃ちます。
水面に出ているのは顔だけなので、標的が小さいから当たらなかっただけです。
で、彼は私に捕まりましたが、その時命がないことを覚悟したようです。
捕まえたあと、彼を再び船内の一室(トイレ)に閉じ込めました。
が、行動が激しいので、やむを得ず手錠もかけることにしました。
警察に100ドル払い買い求めた本物の手錠です。
私が手錠をかけた時でした。
彼は、せせら笑うように、が、目では私を睨み.....
その手錠を私の見ている前で、両手首を何度も交差しながら、
ついにつなぎ目の溶接の箇所をブチ切り、両手を自由に離したのです。
手首の皮膚は剥け、肉も砕けていましたが、それをやりとおしたのです。
それを見た時に、死を覚悟した人間はなんでも出来るもんだ....と思ったのです。

そうですね、
この話、もっと詳しく いずれブログに書きましょう.....


さて、国からの指令ではなく、
自分の意思でインドネシア独立戦争に身を任せた、残留日本兵....
その一つの一つの行為が、
死を覚悟した真剣の上の真剣であったに違いありません。
重い記述なのです。

さて、もう一つの「重すぎる」理由です。
これは、いずれブログに書くことになるので、ここでは簡単にしておきます。

私のブログもそうですが、
嫌なことは後味が良くないので、
できるだけハッピーな部分のみを書いております。
こと左様に、書き物といえば、100%がそのままではないのが普通です。


が、残留日本兵の書き綴ったものは、読者は一般ではありません。 
読者は戦友です。
戦友の間の交友録なのですから、ごまかしは勿論、
省略や書き過ぎも通りません。
言ってみれば、一字一句がほんものの「証言集」のようなものなのです。
もう今となっては、聞けない重い証言なのです。

即ち、今何度も目を通している、
インドネシア独立戦争に参加した「帰らなかった日本兵」一千名の声.....
は、命をかけた行為の証言録なのです。

というわけで、次回はその重い証言の中から、
残留日本兵が見たバンドゥン会議を書きます。


本坊高利の独立戦争


インドネシア独立戦争は、
1945年8月17日、日本の敗戦と同時に始まりました。
それから1950年8月15日までの約5年間続いた戦争でした。
バンドゥン会議は、さらにそれから5年後の
1955年4月に開催されております。

インドネシア独立戦争に参加し、
その5年後のバンドゥン会議を観た残留日本兵は、
本坊高利氏です。

氏は、宮崎県生まれ、独立混成27旅団砲兵隊の兵長として,
大東亜戦争に従軍しました。

氏が独立戦争に参加したのは、2530才の5年間でした。
生き残ってバンドゥン会議を観たのは、35歳の時でした。
そして、その時の思い出を記述をしたのは、67歳になった時でした。
享年75歳、現在バンドゥン英雄墓地に祀られております。

氏が25歳の時に起こった日本の敗戦、いわゆる無条件降伏後、
日本軍人は、それまで敵であった連合軍の配下になりました。
で、それまで仲間であったインドネシア軍を鎮撫する役目をおしつけられました。
氏は、そのことを由とせずインドネシア軍に加勢しました。

激しい葛藤があったと思いますが、
それを淡々と書き綴っております。
文面は、氏が書き残したものをそのまま掲載します。
同志(戦友)が読んでくれることを想定しての文面です。

氏は、戦後、ジャカルタの総領事に請われ、
バンドン名誉領事として残留日本人の世話をした時期がありました。

その淡々と書かれた文面から他から請われる人格であったことが伺えます。
彼が、バンドゥン会議をどのように観たかは、もっとあとになります。
その先に、氏の人となりを知っていただきたく思うからです。


(
証言) 本坊高利
1920
3.28生  宮崎県出身
独立混成27旅団砲兵隊 兵長


私は1943年に満州の関東軍から南進してきた者です。
1945年8月15日は、
部隊全員がラジオの前でに集まって玉音放送を聞きました。
しかし、玉音が聞き取れず、「戦争はこれからだ」とか、
「南方軍は特に頑張れ」と言われたとかの、
デマが流され私どもははっきりした状況がつかめませんでした。


8月16日には上杉部隊長が、
続いて小隊長の岩崎少尉が自決され、
又、兵隊でもこれに続くものが出ました。
その後、一週間から10日程して、
兵器類の菊のご紋章をヤスリで消し取れとの命令が出て、
初めて敗戦を実感致しました。


インドネシア兵補も解散し、
日本人だけでゴタゴタした毎日でしたが、
8月下旬、オランダの軍用機がオランダ人抑留所の上空に現れ、
薬品、食料などを投下したときには、
敗戦が一層身に沁みて、涙があふれてきました。


そのうちに下士官などは軍刀の試し切りとか言って、
周辺のバナナの幹や兵舎の柱などに切りつけたり、
あれやこれやで隊内は蜂の巣をつついたような混乱に陥りました。

引き続く英軍の命令で武装解除・兵器・車両の引渡しなどで、
スメダン県・ガルット県などに派遣され、
終わって部隊に帰って来たのは、10月頃でした。

ところが帰隊した翌日に再び命令が出て、
英軍援助のためにチマヒの日本軍砲兵隊から、
1ヶ部隊が出動することになり、
私はその車両操縦並びに修理員としてバンドン入り致しました。

バンドンの英印軍グルカ兵のトラックや日本軍使役部隊がいるだけで、
あの広い道路にはそれ以外に猫の子一匹居りませんでした。
又、ホテル・ホーマン前のアスファルト道路は土砂に覆われ、
チークの樹等が散乱して居りました。

聞くところによると、オランダ軍がインドネシア人部落を洗い流すために、
バンドンの裏山のダムを一挙に開けた際の流木や土砂とのことであった。


当時、英印軍はイ国独立軍対応に腐心して居ました。
ガルット県レレスから駆り出された私共日本軍は、
その日から英印軍の指揮下に入れられ、
日本軍高射砲陣地のあった、あづさ部隊跡に布陣し、
一旦英印軍に引き渡した迫撃砲・山砲・野砲を再交付され、
イ国独立軍基地を砲撃しました。



敗戦前までは「日本人とインドネシア人は兄弟」言っていた私共にとって、
イ国人に砲弾を浴びせることは誠に苦痛でした

部隊の佐藤大尉は涙を流して口惜しがりましたが、
英印軍の命令で如何ともすることが出来ませんでした。


又、ある時は、スカブミ駐屯の英印軍工兵隊が、
その前夜インドネシア軍に襲撃され、
100名もの戦死傷者が出たことがありました。

英印軍はその死傷者輸送のため100車両余の輸送隊を編成し、
朝5時にバンドンの街を出ました。

その輸送部隊にも日本軍が使われ、畑中隊の戦車を先頭とし、
後方は私の所属する砲兵隊並びにバンドン警備の日本軍部隊をしんがりとし、
その中間に英印軍を配しました。
加えて、戦闘機2機が出動され空から援護し、
スカブミの街に着いたのは夜7時ごろでした。


昨日はバンドン市内のインドネシア軍を、
そして今日はバンドン裏山のレンバンの独立軍基地をと、
心ならずも連日砲撃を繰り返し、
夜の点呼ではインドネシア人犠牲者のために黙祷をする、
という毎日でした。

勿論砲撃に際しては手加減致しました。
しかし英印軍の作戦参謀が監視していることもあって、
思うに任せませんでした。
ホテル・ホーマンの屋根を越え、
インドネシア軍地区を砲撃させられたこともありました。


1945年末頃の日本軍部隊に広がった噂では、
引揚船の都合で故国帰還は20年後あるいは30年後になるとか、
一生捕虜として連合軍に使われるとか言うことでした。

又、食料不足で餓死せざるを得ないとか、
シンガポール沖ガラン島に送られ、
第3次世界大戦に備えて陣地構築使役に使われるとかの噂も流れました。

それは、毎日毎日が暗い嫌なニュースの氾濫でした。



「よし! こんな毎日を送るより、インドネシア独立のために戦ってやれ」
と、決心しました。



幸い私は英印軍発行の公用証を持って居りました。
弾薬・燃料等は準備したが身を寄せる先の目当てのないまま、
バンドンの飛行場を通過しパダララン迄来た時、
インドネシア側の検問を受けました。

そしてそのままパダラランのイ国軍部隊に身を寄せました。
同行したのは、本橋軍曹と私の2名だけでした。
その晩は、部隊から持ち出した食料や煙草で過ごし一夜を明かしました。

翌日イ国部隊長に呼び出され、
私はSUKAMTOと命名され第4中隊付けを申し渡されました。

一方、本橋は第2中隊となりましたが、
1948年3月3日、オランダ軍に捕らえられ、
その一週間後に銃殺されるという不運に見舞われました。
その後、英雄墓地に埋葬され現在に至っております。


私がイ国独立軍に身を投じたのは1946年1月5日でした。
当時のイ国軍は、TKP(人民治安軍)の時代で、
毎日毎日が日本軍から持ち出した自前の兵器での戦闘でした。

パダララン付近の山の上で、
待ち伏せした英印軍輸送部隊を襲ったこともありました。

その後、チリリン郡の1部落に移動して約一ヵ年間の毎日が、
チタロン河を挟んでの戦闘での明け暮れでした。

それは、若さに支えられての日々でもありました。

一方、日本軍は「全日本軍将校に告ぐ」と記した宣伝ビラを撒き、
残留日本兵の日本軍復帰を勧告したことがありました。

又、イ国軍との話し合いがついた様子で、
日本軍大尉を長とした説得班がパンジャランの中学校に見えられ、
残留日本兵の日本軍への帰隊を要請したこともありました。
その時には、1名の帰隊者もありませんでしたが、
後日、日本軍に戻った方もあった様でした。


1946年11月、
リンガルジャティ協定が締結されると英印軍は撤退し、
オランダ軍だけになりました。

そのオランダ軍に残留日本兵は懸賞金をつけられました。

懸賞金欲しさに欺かれ、
オランダ軍に引き渡されたり殺されたりした残留日本兵もあって、
当時は生きることそのものが大変な時期でありました。

その間、
西部ジャワから中部ジャワのインドネシア共和国地区への移動、
1948年9月のマデウン事件への出動、
同年12月のオランダ軍第2次進攻時のイ共和国首都、
ジョグジャカルタへの侵入等に遭遇しました。

当時は医師も不足、薬もなかった時で、
身体の弱いものはばたばた倒れていった時代でした。


今になって、当時のことを想い起こすと、
良くも生き抜くことが出来たと感無量です。


私共残留者の時代もいよいよ終わりになりました。
日本人にしてもインドネシア人にしても
敗戦やイ国独立当時のことを知らぬ人が多くなりました。

「虜囚の恥」を許されなかった当時の1兵士が、
現在インドネシアの地に生きて居られるだけでも有り難いことです。

幸いに生を得ているのだから、
少しでも日イ両国のお役に立てばと思って居りますが、
ヤヤサン・福祉友の会を中心として、
私共の足跡を日系二世・三世に伝えると共に、
彼らを善良なイ国人に育てることが私共の責務ではないかと考えます。

お互いに頑張りましょう。


1987
5月 本坊高利



バンドゥン会議とは

本題に入る前にバンドゥン会議について書きたく思います。

バンドゥン会議とは、
第一回アジア・アフリカ会議(AA会議)のことです。
バンドゥンで開催されたので、バンドゥン会議と呼ばれたんです。
が、その後、第二回以降は開かれなかったので、
アジア・アフリカ会議そのものが
「バンドゥン会議」とも言われるようになりました。

さて、このバンドゥン会議についてですが、
3月21日の弊ブログ「バンドゥンに行ってきました(バンドゥン会議)」
で少し書いております。
が、今日はもう少し掘り下げて書きたく思います。

バンドゥン会議の意義を
世界から見て、インドネシアから見て、日本から見て、
の3方向から書いてみたく思うんです。

まずはどのような経緯でバンドゥン会議が生まれたかについてです。

その頃の世界ですが、
第二次世界大戦(大東亜戦争)以降、
アジアには独立する国が増えてきました。
しかし、西欧の帝国主義的考えが一掃された訳ではありませんでした。

アメリカとソ連の冷戦状態が続いており、
その隙を抜って、フランスによるインドシナ戦争がありました。

そういう世界情勢にあって、
過去に植民地として支配され、搾取されたアジア、アフリカの諸国は、
危機意識を感じていました。
で、時計の針を逆に戻させないことを世界に発信する必要を思ったのです。

その必要性をコロンボ会議(内容は省略)に集まった5カ国で話し合いました。
インド、インドネシア、セイロン、パキスタン、ビルマの5カ国です。


この中で、意見をリードしたのは、インドネシアでした。


インドネシアのリードにより、この5カ国、
そして後には中国、エジプトが加わり、これらの国の呼びかけで、
最終的には29カ国の集まる「バンドゥン会議」が開催されたのです。


集まった29カ国は、次のとおりです。

アフガニスタン、イエメン王国、イラク、イラン、インド、インドネシア、英領ゴールドコースト、エジプト、エチオピア、カンボジア、サウジアラビア、シリア、スーダン、セイロン、タイ王国、中国、トルコ、日本、ネパール、パキスタン、ビルマ、ベトナム民主共和国、フイリッピン、ベトナム国、ヨルダン、ラオス、リビア、リベリア、レバノン、

さて、ここまでを読んで、バンドゥン会議の
世界から見た意義、インドネシアから見た意義
の二つがお分かりかと思います。

そうです。 まず世界から見た意義ですが、
何世紀も続いた世界の帝国主義、植民地主義の終焉を宣言しました。
言ってみれば白人に対する有色人種の正当で堂々たる叫びでした。

実際に会議以降、西欧の支配から独立する独立国が急増しております。
バンドゥンの会議場(現博物館)でも、
会議以降の独立国を列挙して、会議の効果としての展示をしています。


次に、インドネシアから見た意義ですが、

オランダとの独立戦争を終えてまだ5年の若いインドネシア....
インドネシアは、300余年、植民地として搾取し続けられた過去があります。
自分が味わった、この苦しみを世界からなくしよう、
との熱い正義感があったように思うのです。

その正義感を主張し、自らが主導して、
アジア・アフリカ会議を自国で行えたことの誇りがあった様に思います。

バンドゥンの会議場(現博物館)の最初の陳列品は、
コロンボ会議でAA会議の構想を話し合った、5カ国の首脳の写真です。
その中央には、インドネシア首相の写真が飾ってありました。

今でもインドネシアは、
東南アジア諸国連合(ASEAN)の盟主と言われております。
アセアン本部もインドネシアのジャカルタに置かれております。

バンドゥン会議を主導した実績を世界が認識しているからだと思います。
インドネシアのバンドゥン会議による意義です。


さて、次は、バンドゥン会議を日本から見た意義です。
が、今日は、ちょっと長く書きすぎました。
明日のブログに書くことにいたします。


日本にとってのバンドゥン会議の意義ですが、
何故に日本が会議に招待されたのかを考えれば解ると思います。

バンドゥン会議は、植民地政策の終焉を宣言した会議です。
宣言は世界に対してですが、
実際には支配してきた宗主国に対してのものです。
西欧及びアメリカらの覇王主義国に対してのものです。

もし、バンドゥン会議参加国が
日本がこれらの覇王主義国家と同じく見ているならば、
日本に会議参加の招待が来ることはありません。

が、日本は会議に招待されました。

西欧・アメリカらの覇王主義国家に苦しめられた同胞と
して認められたからなのです。

私は過去のブログで、
当時の日本の本音と建前について書きました。
本音は西欧やアメリカと肩を並べた覇王主義であって、
建前は大東亜の独立であったと書きました。
それは、今でもそうであったと思っております。

が、もうひとつ深く考えて欲しいのです。

政治家や官僚トップや軍人トップは、
いつも国家主義を頭に置かねばなりません。
彼らはそういう職業なのです。
そういう職業の人々が寄り集まって、
激すれば覇王主義になりやすいのです。
それはそれで間違いです。
反省も必要です。

が、一般民衆はどうだったでしょうか。
新聞には建前論が集中して書かれました。
大東亜の独立のための戦争であることが書かれました。
東南アジアの戦地にあって現に戦った兵隊は、
支配していた白人を追い出したアジアの同胞ということで、
現地民からは万感の歓迎で迎えられました。

そうして迎えられた兵隊の胸の内を思ってみてください。
喜ばれたことで誇り高きものがあったと思います。

政治家や官僚トップや軍人トップと言ったとて、
ほんの一握りの人達です。

戦地において実際に戦争に参加したのは兵隊です。
現地民に影響を与えたマジョリティーは兵隊なのです。
建前論を信じて戦った兵隊なのです。
言ってみれば、現地に影響を与えたマジョリティーは、
大東亜の独立だったのです。

ですから、
大東亜の各国は、日本の本音の部分は感じつつも、
マジョリティーとしての兵隊が真に思う独立支援に接して、
納得する部分も多くあったに違いないのです。

だから、バンドゥン会議に招待されたのです。

バンドゥン会議に出席した加瀬俊一外務相参与
(外務大臣代理)が後に、次を報告しています。

アフリカからもアジアの各国からも、
よく来てくれた、日本のおかげだ、と大歓迎を受けた。
日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、
我々はいまもイギリスやフランス、
オランダの植民地のままだった、と言われた。

私は、
インドネシアに住んで既に5年が過ぎました。
この国の国民性も少々理解できるようになりました。
残留日本兵のことを調べながら、
インドネシア独立を考え直す機会がありました。

そういう経過を経た今.....
バンドゥン会議の日本の意義を

各国が加瀬俊一外務相参与に語った言葉どおりに受け取っております。


本坊高利が見たバンドゥン会議


残留日本兵のひとり、本坊高利は、
Sukamto
というインドネシア人名で、
インドネシアのために独立戦争に加担しました。

独立戦争が終わったあとの、
残留日本兵のインドネシア人としての暮らしぶりですが、
ほとんどの人が口をそろえて、
戦中以上に大変であったことを書いております。

生涯ドラム缶の風呂しか入れなかった40年を自嘲的に
語り人生の幕を閉じた残留兵もおります。

本坊高利の戦後も同じでした。
戦後間もなくは、トラックの運転手として生計をたて、
その後、雑貨店を経営しております。
バンドゥン会議を見た頃は、
トラックの運転手として働いていたのだと思います。

氏は、次のように証言しております。


(証言)


1955
418日から同月24日迄、
バンドンで第一回アジア・アフリカ会議が開かれました。
日本代表団は45名でしたが、
まだ日本人が珍しい頃で、会場付近に出かけました。
日本代表団は、
イ国政府が準備したベンツでしたが、一台だけでした。
それに対する中国代表団は、周恩来を長として40名位、
乗用車に掲げられた中国国旗の大きいのに反し、
日本代表団の用いた国旗はハンカチ大でした。
戦に負けると、こんなにも異なるものかと淋しい限りでした。


以上が本坊高利の証言です。




彼は、関東軍として中国での戦いも経験しております。
中国の誇らしさを見るに付け、
余計に感ずるものがあったのでしょう。

彼は、20歳~25歳の5年間を日本兵として日本のために戦いました。
25
歳~30歳の5年間を、残留日本兵としてインドネシアの為に戦いました。

20
代の全てを戦争に奉げたことなります。
その10年間をさぞや空しく思ったものでしょう。

多くの犠牲を払って、大東亜の独立に寄与した日本、
もっともっと胸を張って、会議に参加して欲しかった。
そして、今も胸を張って、歴史認識として、
そのことを語っても良いのじゃないでしょうか。

今の私は、そのように思っております。


残留日本兵が見たバンドゥン会議....の最後です。
本坊高利のために証言を追加して書きます。

会議から12年後(時期不詳)、
日本初の見本市船、興安丸がジャカルタに来ました。
それを見に行った彼は、
船尾に掲げられた大きな日章旗を見ました。
日本の発展振りを感じ、
嬉し涙が止まらなかったそうです。