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市来龍夫物語

  市来龍夫については、情報が多い。
  で、次の順序でまとめたい。

  1、略歴(ネット情報) 
  2、一インドネシア人の市来考(ネット情報) 
  3、スカルノ大統領との交流
  4、一緒に戦った残留日本兵の談話

略  歴

まずは、氏の略歴であるが、
大東亜戦争開戦直前の市来は日本に居た。
で、日本の開戦と同時に再度インドネシアに渡っている。
以下は、それまでの足跡である。
..................

市来龍夫は、明治39年熊本県人吉の多良木生まれ、
熊本士族の子孫である。 
子供のころからおとなしくて成績の良い子だった。
が家庭は複雑で母姓の樅木(もみのき)を名乗っていた期間の方が長かった。
小柄だが目の大きな男、市来を知る人は声をそろえて言う。

昭和3年にはスマトラ島のパレンバンに渡り、
写真技師として勤めていた。 
母への手紙の中で
「自分は人より少し多く感じて、人より少し多く悩む」
「真面目に働いていれば、いつか道は開ける」
と書いているのは彼の人柄を偲ばせる。

インドネシアの為に戦った市来だが、
インドネシアの第一印象はあまり良くなかったようで、
「南洋は野獣の集会のようだ」とコキおろしている。 
インドネシア人、オランダ人、華僑全てに呆れていたようだ。

その後にジャワ島のバンドンに移り住むが、
人吉から呼び寄せた弟が自殺してしまうなど不幸があり、
何となく邦人社会から離れていった。

そしてイティというスンバ娘の家のあるスメダンに転がりこんだ。 
スメダンはバンドンよりさらに山奥にある町である。
イティはおとなしくてでしゃばらない娘であった。
写真を見る限りでは痩身で美人、市来同様に目の大きな娘でった。

その後はバスの車掌をしたり、
エロス写真館などにも勤めたが、
長続きはしなかったようだ。
しかし、この頃から、
インドネシア人に対する感情が変わってきたのではないだろうかと思う。


インドネシア独立闘争を始める


市来は時々バンドンの日本人会館へやって来て日本の新聞を読み、
インドネシア語に訳して地元の新聞に匿名で投稿していたという。
独立戦争中に出会った日本人は、
市来のイ語が現地の人間よりも上手かったと驚いていた。

この頃からますます日本の南進の期待が高まり、
市来の投稿もオランダ当局のマークするところとなる。

市来はイティを連れてジャカルタへ移り、
〝日蘭商業新聞〟の記者となった。
そこで盟友となる、吉住留五郎と知り合う。

市来は一時所要で帰国するが、
オランダ政府によって危険人物と見なされて、
ビザ発給を拒否される。

イティを残してきた市来の気持は、
どんなに切なかったろうか想像も及ばない。


やがて市来や吉住は、
愛国社の岩田愛之助と交流を持つようになる。

岩田は官・政・軍の黒幕的存在の大物である。 
岩田は市来がどんな大物にも、
お世辞を言わない実直さを気に入っていたという。
市来も驕らない岩田の性格を敬愛していた。 

そして岩田はイティが困らぬようにと人脈を通して、
ジャカルタで幾らかの金銭が渡るように助けたと言われる。

市来はこの頃に東京外語でイ国語の教師をしていたとの説もあるが、
事実のようで他にも数人が通訳としてジャワに派遣されている。

午前中は外務省に、
午後は参謀本部第二課に出勤していた。 
参謀本部では中野学校出身の柳川宗成大尉と机を並べている。
おそらく油田のあるパレンバンに詳しい事とイ国語に通じていた。
市来の能力と経歴を求められたのであろう。

そしてラジオを通じて、
インドネシア国民に独立を呼びかける放送を作っていた。

運命の昭和16年12月8日、日本は開戦したのだが、
柳川大尉は「市来さん第二の故郷に帰ろうや」
とインドネシア行きをうながしたのである。 

市来は16才年下の女性と結婚したばかり、
柳川大尉も新婚であったというから運命は残酷なものだ。


インドネシアの友人が語る、市来龍雄

インドネシア独立戦争に加担し戦死した日本兵の中には、
日本名がわからず、インドネシア名だけで記される者が多くいる。

日本兵は、インドネシア人としてオランダと戦った。
インドネシア人であるから名前もインドネシア人らしく名乗ったからである。

市来龍夫のインドネシア名は、アブドル・ラフマンと言う。
知り合いのインドネシア人の名である。
市来は、本人に了承を得て、この名を名乗った。
以下は、ほんもののアブドル・ラフマンの市来への追悼である。



アブドル・ラフマン本人が語るアブドル・ラフマン(市来)

市来龍夫、インドネシア名アブドル・ラフマンの死の物語に、
誰しも心打たれるはずである。
インドネシア人として感動せずにはいられないはずである。

一人の外国人がインドネシア独立の為に生命を捧げてくれた。
何という偉大な犠牲的行為であったか。

私自身にとって市来の死は、
生前の彼を知るだけに更に感慨深い。
彼の別名アブドル・ラフマンは私の名前である。

そして私は、独立戦争の時、竹槍、山刀、小銃ではなく、
彼の手から与えられた立派な銃と弾丸で戦うことができたのである。

私は1943年から1944年にかけて、
市来と防衛義勇軍(PETA=ペタ) の、
幹部教育隊指導部1602部隊という軍事機関で、
一緒に仕事をしたことがある。

仕事の内容は主にペタの軍事教育に用いる資料の菟集と、
Pradjoerit(プラジュリット=戦士)」という雑誌の編集で、
市来は私たちの上司であり、山崎一大尉が全体を統括していた。

思い起せば50年の昔になる。
1945
年のポゴール市で、私は27才、市来は39才であった。
1945
817日、ジャカルタでなされた独立宣言の熱気は、
ポゴール市にも伝わり、町は沸き立った。

人々は綱を解かれた馬のようになった。
350
年間のオランダ時代と3年半の日本軍時代という、
外国支配の軛は斬ち切られたのである。

独立だ!独立だ!
地方行政機関は、日本人からインドネシア人の手に移り、
日本人は本国送還を待つ間、1ケ所に集まった。

1945
12月のある日、
私はたまたま西一通り(今のムルアカ通り)のある家で市来の姿を目撃した。
その頃、その場所から100メートルばかり先のコタパリス収容所の周辺では、
英国軍に支援したNICA(オランダの対インドネシア支配の出先機関)と
インドネシア住民との間に衝突があったばかりだった。

そんな場所で、そんな時に市来に出合ったことは、
大きな驚きであった。
本国送還のため、とうにジャカルタに移された、
とばかり思っていたからである。

市来は心持ち痩せており、睡眠不足のように蒼ざめていた。
戦争に負けた国民として無理もない、と私は考えた。
彼は私を奥の部屋に招き入れ、
そこで長い間、一緒に働いていた頃の話などをした。

唐突に、彼は「アブドルラフマンという名前を使わせてもらいたい」と切り出した。
「間もなくポゴール市を離れるから」という一言だけで、
他に説明はなく沈黙になった。

何か、心乱れるといった風に見えた。
私は彼の気を悪くしたくはなかったし、
彼が誠実で良心的な男と知っているから、短く答えた。
「どうぞ使って下さい。良い目的の為になら差支えありません」と......

それを聞いて彼は涙を浮かべた。
感動した様子だった。

彼は立ち上がり、
別の部屋から一丁のピストルと弾丸を持ってきて私に手渡した。
「インドネシア独立の為に戦ってくれ」と.....

私は天にも昇る思いでピストルに刻まれた型名を読んだ。
「H-Rselfloadine aliber 32 USA......
思ってもみない好意だった。

武器.......
それは当時インドネシア人の誰もが、
何とかして手に入れたいと思っていたものである。

ムルアカ通りのこの出合いが最後となり、
コンパス紙の記事を読むまで、
私は市来の消息に接することはなかった。

ペタ(祖国防衛義勇軍は、
1943
年、日本軍の支援で結成きれたインドネシア人による軍隊である。
インドネシア国軍の前身ではないが、
現実にはベタの小団長や中団長や大団長を務めた人材から、
多くの国軍の将官が生まれ、重要な役職に就いている。

スハルト大統領もベタ出身者である。
ベタのメンバーが教練を受けたのは、
ポゴール市の北一番通りの第1602部隊の「Ksatrian PETA」、
と呼ばれていたオズマン兵舎であった。

一般にはベタの育ての親は柳川指導官と言われる。
私は、それなら市来もまた「ベタの母」と呼ぶにふさわしい人物と考える。

「ヤナガワタイチヨウドノ」と呼ばれた柳川宗成大尉は、
荒々しい気性だから、「虎」というあだ名をつけられていたが、
ベタを指導し我々士官候補生の精神面から実技面までを
鍛え上げてくれた立派な軍人である。

しかし、その教練には、日本軍の(軍事関係の)教科書から翻訳され、
刷られた「キヨウレンキヨウテイ」などの数冊が欠かせなかった。
これら教本類の翻訳は、市来の手になるものだった。

他に、編集、特殊用語の解説スタッフとして、
アグス・サリム(イスラム同盟最高指導者、後の外務大臣)、
スタンプラン・ブスタミ(元新聞記者)の二人の年輩者と、
若いイスラム・サリムと私がチームを組んで補佐した。

市来の果たした役割を検証する為、
1944
年の「プラジユリット(戦士)」第四号紙上で,
ベタ一周年(1943103日~1944103日)に、
寄せられた彼の文章の一部を紹介しょう。


この一年間、諸君と一緒に仕事をしてこられた事は、
私にとって非常な喜びでした。
私は当時関わっていた仕事の関係で、
義勇軍結成についての参謀本部の意向を発表より早めに耳にしていました。
それから三週間後にKratrian錬成隊、
つまり、今の教育隊で諸君に対する訓練が始まり、
赴任命令を受けて私は喜び勇んで諸君のもとへ移ってきました。
私は着替えと本と鍋や皿を携えてきましたが、
それは諸君にいつか役立ててもらえる....
『紙の弾丸(軍事戦略と戦術関係の文献)』を作るためです。
この名誉ある名前(「戦士」)のもとに、
諸君の受けている猛烈な鍛練にひけをとらぬよう、
私たちも一層心を引き締め、仕事に励む心算です。
諸君の国家の『礎』としての重要且つ崇高な任務は、
インドネシアの独立が間近に見えてきた今日この頃、
いよいよ確かなものになりつつあります。
この『礎』の上にこそ、
輝ける独立インドネシアという殿堂が打ち建てられるのですから....


さて、
日本軍でかなりの要職にあったにもかかわらず、
市来の生活ぶりは質素なものだった。
人柄は穏やかで、口数少なく、不言実行といったタイブだった。

他の日本人たちとも違っていて、
大声で怒鳴ったり、何かというと殴ったりすることもなかった。

ポゴール市では、当時「北一番通り」と呼ばれていた、
現在のスデルマン将軍通り、ヤニー将軍通り、青年通り、
の交差する角の大きな邸に住んでいた。

だから、私は、あの最後の出会いになった、
ムルアカ通りの映画館近くの一軒の家で彼を見かけて本当に驚いた。

彼の周辺には、
アグス・サリム、オット・イスカンタルアナタといった著名な民族的英雄や、
ブスタミら編集者たちなど、文人墨客の知友が多かった。
それはつまり市来の人柄によるものだろう。

それにしても、三年間も顔を見ない、老いた母と、
妻ミホコヘの後の心情を聞いたことのある私は、
彼が日本人である事を棄て、
インドネシアの独立の為に生命を投げ出す、
という道を選んだ事を思うと、
いまだに感慨無量になってしまう。

日本が連合軍に敗れた後、
市来は家族についてしみじみと語っていた。

64
才になる母は、前線にある息子にせっせと便りを書き送って励まし、
最愛の妻ミオコも婦人会の一員として,
前線のへイタイサンに送る慰問袋作りに忙しく働いているということだった。

3年前、ダイマルで食事をしてからギンザで土産物を買い、
郷里(熊本)へ帰る二人(母と妻)を東京駅へ送ったのが最後だったそうである。

九州中部の小きな村を回顧する市来の瞳に光るものがあった。

タツオサン(市来のこと)が逝ってから長い歳月が流れた。

辱めを受けるよりは、死を選ぶ、
英雄の心を持って死ぬことを彼は望んでいた、と後々聞かされた。


市来は、インドネシアの独立を援助する、
と約束しながら果たさないで敗北した日本政府の大きな落胆を、
日本人を棄てる事で抗議し、
郷里に彼の帰りを待ち侍びる母と妻を思い切り、
インドネシアの独立に生命を捧げたのである。

ありがとう、市来龍夫、あなたは素晴らしい人でした。

アリガトウゴザイマンタ。タツオサン、アナタハ タイヘン シンセツデシタ。

1996
719日付コンパス紙掲載



市来に感謝する、スカルノ初代インドネシア大統領
  

  まずは、右の写真を見てください。
  スカルノが建てた、
  市来龍雄と吉住留五郎への顕彰碑です。

  東京の芝の青松寺にあります。

  この顕彰碑が建てられた経緯を知れば、
  スカルノの市来への想いが判ります。


吉住留五郎については、201313日の弊ブログ:
「スバルジョはスカルノとハッタの救助に向かう」で、
既に書いております。

同時に、201315日のブログで
「海軍武官府・前田海軍少将」を書いております。

その前田少将の元で活動していた西嶋重忠について、
2013
1月7日のブログの「西嶋重忠(番外紹介)」
に書いております。

各人物については、そこをお読みください。
ということで、写真の顕彰碑が建てられた経緯です。

まずは、戦後、日本にスカルノが、来たことから始まります。
来日したスカルノは、西嶋と面会(1958年)しました。
面会したのは、芝の青松寺に近い日本料理「醍醐」でした。

独立戦争で戦死した市来と、
ゲリラ戦の山中で病死した吉住の話しになった時です。
スカルノ大統領はこの両名の死を思い出すたびに涙を流したそうです。

西嶋はスカルノに両名が靖国神社に祀られていないことを伝えました。

と、スカルノは、
西嶋さん、二人の英雄を忘れては、
永遠に日本とインドネシアの友好はない、
何とかしてほしい、……..と、頼んだそうです。

それを受けて、青松寺に、
スカルノ大統領特有の文字と文章で彫られ建碑されたのです。

碑には、日本語で……

市来龍夫君と 吉住留五郎君へ
独立は一民族のものならず 全人類のものなり
1958
815日 東京にて スカルノ

インドネシア語で、
スカルノ大統領の直筆と署名入りで…..

Kepada sdr. Ichiki Tatsuo
dan sdr. Yoshizumi Tomegoro.
Kemerdekaan bukanlah milik sesuatu bangsa saja, tetapi milik semua manusia

と書かれています。

今でもインドネシアの大使が日本に赴任されますと、
必ず青松寺に行き顕彰碑を参られるそうです。


残留日本兵からも敬愛される

1996
5月、残留日本兵の1人、
石井淑普氏に勲六等単光旭日章が贈られました。
日イ両国語の翻訳の仕事を通じ、
両国の情報交流に分野で功績があった、
ということでの受勲でした。

日本大使館で行われた伝達式で石井氏は、
席上次のように挨拶しております。

市来龍雄は、元日本軍の集団の隊長として活躍しただけではなく、
戦闘の合間に集中的にインドネシア語を教えてくれました。
その生徒が私です。
私は、彼のお陰でインドネシア語の能力を備えるようになりました。
今日の受勲も彼のお陰であります。


また、同じく残留日本兵の小野盛は、
「市来隊長に捧ぐ」との文章を記し、市来への尊敬の念を残しています。

さらに、小野寺忠雄も市来の戦いぶりを記し、
広岡勇は、「市来隊長の戦死」と題する文章を記し、
特に記憶に残ることとしています。

小野盛、小野寺忠雄、広岡勇の記述は、
今後のブログにも取り上げる予定です。

また、
市来が戦死したあとの、
市来部隊の隊長となったのは、杉山長幹でした。
その杉山氏は、戦後スラウェシ島に移り、トラジャのコーヒー栽培の
調査に貢献していますが、
その頃、杉山氏と行動を共にした、小池利家氏が、
杉山からよく聞かされた話として、
「吉住留五郎と市来龍雄には、心が打たれた」と、
両氏を称える話を何度も聞かされたことを語っております。


このように、
市来龍雄は、残留日本兵の中でも特別な存在でした。
私が、インドネシア独立戦争に寄与した、
日本人3傑にあげた理由も、こうしたことがあるからです。