残留日本兵のその他証言 
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  藤田清(白い砂) 

藤田 清 (白い砂)



残留日本兵の話、
8合目ほど書き進んだのではなかろうか。
最後のビッグテーマは、
残留日本兵の会である「福祉友の会」と、
それを立ち上げた、「乙戸昇」のことである。

「福祉友の会」が組織として成功した原点はいくつかある。
中でも戦友どうしの交遊録となった、
「月報」の効果は大きかった。

その「月報」を書き続ける、乙戸を助けたのが
藤田清の「白い砂」と題した投稿であった。
乙戸昇のことを書く前に「白い砂」を紹介しておきたい。

乙戸は、残留日本兵を纏めるために、一度の休刊もなく、
「月報」を発行し続けていた。
が、当初は誰からも投稿がなく一方的な報告であった。

「月報」を出し始めて一年をした頃、
「白い砂」の原稿が届いた。
残留日本兵からの初めての投稿であった。

この投稿への反響は大きく、
それまで口を閉ざしていた残留日本兵が、
以後自分を語り始めた。

何故に、
この投稿により残留日本兵が自分を語り始めたのか。
なぜに、そんな効果があったのだろうか。
それを考えることが、
同時に当時の残留日本兵を知ることにつながる。
と、思うので話を進めるが、
残留日本兵としてインドネシアに残り、
細々と暮らしている者の身から「白い砂」を思ってみると、

次の3つがあって、
以後、自分を語り始めることになった、と思うのだ。


1、 藤田清は、生き残り組の成功者ではない。

残留日本兵の会である「福祉友の会」を立ち上げた、
中心メンバーいわゆる事務局の面々は、どちらかと言えば、
インドネシア社会で豊かに過ごせている者たちであった。

「白い砂」が投稿された頃は、
まだ140名ほどの残留日本兵が居た。
それらの多くは、その日暮らしの人であった。
そうした者からは、「月報」そのものが壁の向こうのものだった。

が、自分よりさらに苦しい生活を送っている、
言ってみれば、貧乏者の仲間である、
藤田清からの投稿であった。
「月報」だけでなく「福祉友の会」そのものも身近に感じた、
とのことがあったように思うのだ。

2、 今もって「戦友」が続いていることに共感した。

「白い砂」は、藤田清の体験談である。
当時、藤田は手足が不自由で歩くことができず、
寝たっきりであった。
その藤田により添って見守っていたのが、寺岡守一であった。

「白い砂」は、藤田の口述を
寺岡が代筆する形で書かれたものだ。
その寺岡守一も、後に「貧乏神に取り付かれた男」との題で、
投稿していることで判るように、やはりその日暮らしであった。

藤田は陸軍(上等兵)、藤田は海軍(上曹)と、出身が違う。
彼らを結びつけたのは、インドネシア独立戦争であった。
バンドゥン地区でのゲリラ戦で生死を共に戦った。
以来、藤田と寺岡の「戦友」が始まったのだ。

生死を共にする「戦友」というもの、
残留日本兵の誰もが特別に懐かしく思うものである。

「白い砂」の投稿には、藤田清・口述、寺岡守一・代筆
と、明記され「月報」に掲載された。
二人が今でも「戦友」であり続けていることに、
他の全ての残留日本兵が共感を覚えたのではなかろうか。

3、 戦闘の記事ではなかった。

「白い砂」は、独立戦争時の戦闘のことを書いたものではなかった。
戦闘の合間の移動中のことを書いたものだ。
藤田本人は「まわし合羽に三度笠」と気楽な旅と茶化して書いている。
肩がこらず気楽に読めたのでは、なかろうか。
戦闘の話は思い出すだけでもいやだ。
が、「これならオレでも書ける」と投稿者が増えたのではなかろうか。

そんな「白い砂」だが、
使う言葉は茶化しているが、内容は楽しいものではない。
戦友が次々と死んでいく悲しい物語である。
この内容も残留日本兵にとって、昔を思い出す、
きっかけになったのではないだろうか。

さて、「月報」を前進させ、
しいては「福祉友の会」を発展させる起爆剤となった、
そんな「白い砂」を明日から二日にわたり書くこととします。



(
証言)白い砂


(証言者) 藤田清
1922
331日生  東京都出身
独混27旅団砲兵隊  上等兵

(代筆者) 寺岡守一
1919
1229日生  広島県出身
海軍上曹

これは、インドネシア独立戦争時の6名の日本人、
藤田、菊池、谷村、宮下、北沢、カスマー(日本名不明)
の記録である。

それは1947年某月某日のことであった。
我々6名の日本人の悲しくも恐ろしい、
運命にもてあそばれた悪夢の様な古い思い出である。

当時、インドネシア独立軍とオランダ軍は
数次の会談の結果、両国軍の境界線が新たに決められた。
それは西ジャワと中部ジャワの州境を
境界線としたものであった。

西部ジャワに展開していたインドネシア共和国軍は、
列車を利用して、決められた中部ジャワに転進していった。

然し我々日本人は徒歩で中部ジャワを
目指してヒジラ(聖遷)する事になった。

“股ぐ敷石が三途の川。そっと吹く風無常の風”、
何も知らない我々は気が軽かった。
又、其の時2挺の小銃を持っていた事は
非常に心強いものであった。

昔流に言えば“回しカッパに三度笠、
腰に一本落し差しした旅から旅への渡り鳥”
6人衆といったものであった。

山を越え、河を渡る、数百キロ行程も、
鼻唄まじりの気軽な旅立ちであった。

それから数日間、ガロットの山や谷を踏破した。
そしてタシックマラヤとの県境付近の
山々にさしかかった時、
黒服に赤鉢巻で銃を持った数名の男達が現れた。

「ヘイ、ブルヘンテ{止まれ}」
その中の一人が声をかけてきた。

「お前たちは何処へ行くのか、TNI か」
と我々を取り囲み、銃を不気味に突き立ててきた。
我々はそのまま彼等の本部と思われる所へ連行された。

そして、2~3のやりとりのあと、
一軒家に閉じ込められてしまった。

「ジャパン プンチャット ワエー」
不安な監禁生活を2~3日余儀なくされた或る日、
我々日本人を皆殺しにしてしまえ、
というスンダ語を聞き込んだ。

もう猶予出来ない。
早速その夜我々は其処を脱出する事に決めた。
夜半を待った。

そして歩哨を襲い首を絞め、
失神した所を銃を奪って迯走した。
「やれやれ命拾いした」、危険地帯を脱した時、
谷村氏が言った。
同時に皆の顔にも笑顔が戻った。

我々は足早に中部ジャワを目指して歩いた。
そして、夕闇もせまった頃、或る部落にたどり着いた。

村人の態度は何か冷たいものを感じさせた。
然し疲れた身に闇もいよいよ深まった事とて、
其の部落に泊まる事にした。

我々はひとりの村人に伴われて、
区長の家に案内された。
一応区長の家に泊めて貰うことになって
“ホッ”と安堵した。

然し夕食も終って落ち着くと、
えたいの知れぬ不安におそわれるのであった。
雰囲気に何か溶け込めぬものがあり、
菊池氏初め他の皆の眼もその疑念を語っていた。

「様子が変だ。危ないぞ」、私が他の者にささやいた。
「此処を抜け出そう」、菊池氏はきっぱり言った。
「然し、深夜を待ってからにしよう」
と気付かれぬように付け加えた。

我々は“草木も眠る丑三の時”を待って、
此の部落からそっと抜け出した。

案じていた村人にも気付かれず、方向も判らぬまま逃げのびた。
そして翌日払暁、或る山の上にたどりついた。

山からは昨夜抜け出した部落と、
オランダ軍が取り囲んでいるらしい区長の家が望見された。

「馬鹿者、そうは問屋が卸すかい」、と誰かが言った。
皆で大笑いもした。
が、私は“ひやっ”と何か冷たいものが
背を走った様に感じられた。

さて、この様な危険にさらされた時、
一番頼りになるのは菊池氏であった。

彼は第二次世界大戦中、
マレー及びビルマ戦線を転戦した猛者であった。
種々の体験を積んでおり、
或る時は英軍に数日間包囲された事もあった由である。

その間食糧は全くなく、草や木の根は勿論、
食べられるものは何でも食べた。
そして機をうかがって頑張り続け、
ある夜ひそかに包囲網を脱出した、
と寝物語りに語ってくれたものである。

菊池氏の指揮で数度の危機を脱出した我々は、
その後何事もなく南海岸(インド洋岸)に到着した。
チバットジヤ村付近の白浜であった。

それは1947年も半ばを過ぎた頃であった。
白浜の海岸近くに、取り残された様に
“ポツン”と建っていた一軒家を見つけ出した。
心身共に疲れた我々にとって、
其処は一時戦場を忘れさせる平和があった。

我々6名は休養がてら一時其所にとどまる事になった。
私は料理する事が好きなので、炊事を引き受けた。
他の或者は食料探し、或る者は薪を探した。
それは楽しいものだった。

然し期待した平和な生活も長くは続かなかった。
数日後からひとり又ひとりと病に倒れていった。

栄養不足に加えて南海岸地帯の風土病や、
悪性マラリアに侵され始めたのであった。
顔や手足がむくみ、“ぶくぶく”し始めた。
薬とてなく、それは手の施し様がなかった。

皆の顔色は11日と悪くなるのがはっきり感じられた。
「良い水をくれ」、若い宮下氏はつぶやくように言いながら、
ふらつく身体を懸命に支えてはいずる様に砂浜に出て行った。

そして気付いた時には白い砂を握って砂浜で死んでいた。

其の後毎日の様に白い砂を握って、
次から次へと仲間は死んで行った。

私も遂に病に倒れてしまった。
栄養不足で痩せてはいるが、
元気なのは菊池氏ひとりになってしまった。
彼は病人の世話をしながら食物を探し回った。

そして食料探しから帰ると、
留守中に死んだ友の為に白い砂を掘って、
埋葬するのが菊池氏の日課となった。

遂に寝たきりの私と菊池氏の2人だけになってしまった。

「おい、死ぬんじゃないぞ、生きるんだぞ」、
菊池氏は毎日私を励ましてくれた。
「とうとう2人になってしまった」
「お前に死なれたら俺も困るんだ、頑張れよ」とも言った。

「何か栄養分のある物を探してくるから、死ぬなよ」
と言い置いて出かけて行った菊池氏が、
或る時死んだ猪をかついで帰って来た。

それは畠を荒した為に村人に殺され、
打ち捨てられた猪であった。
肉は腐り始め臭いにおいがただよっていた。

菊池氏は早速肉を焼いてくれた。
「おい!食べるんだ。食べて元気を出してくれ」
栄養不足で既に立つ事も出来なかった私にとって、
それは得難いものであった。
2
人は毎日その肉を食べた。

一頭分の猪の肉は十二分の量であった。
そして、食べるにつれて、
不思議と思われる程日々体力が回復していった。

それまで、起き上がる事の出来なかった私が、
立ち上がり歩ける様になった。

「よし!何時迄も此処にいては死んでしまう」
「此処を出てインドネシア軍のいる所を探そう!」
と菊池氏は言った。

2
人は悲しく恐ろしい思いでに満ちた、
白浜の南海岸を後にする事にした。

無言で砂浜を歩き出した2人の歩みは重かった。
力無く踏む2人の足許で白い砂がくずれた。