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  市来龍夫物語  市来龍夫のお墓を探しに行く
  藤田清(白い砂) 

市来龍夫のお墓を探しに行く
 
市来竜夫のお墓の所在地だが、
市来の部下の広岡勇が死体発見時、
その場所に埋葬し、大竹を半分に割り色鉛筆で、
その場所を次のように記入し目印に刺している。

Pertempuran-Ardjasari
Sunber-Putih Dmpit Malang

この情報以外に、
実際にお墓を捜し得た人が書いた文章もネット上に流れていた。
それによれば、ジャサリではなく、ボポン村であり、
それもスナリさんという家の庭先にお墓があったと書かれていた。

この二つのどちらが正しいのだろうか。
多分、後者の方が正しいのだろうと、
目星をつけて探すことにした。


さて、こうした昔のお墓探し。
東ジャワが故郷であるエヴィのお母さんが世話を焼いてくれた。
Kepanjen に住む同級生に援助を頼んでくれたのである。
その人が次の写真のジョコさん。
ジョコさんは、今は年金暮らしだが、元銀行員。
銀行の支店まわりで、大概の土地は知っているという。
そのジョコさん、
ちょうど奥さんと娘さんがジャカルタに遊びに行っていた。
で「ヒマだから何でも手伝うよ」と、二つ返事で受けてくれる。
(エヴィのお母さん、ありがとう)


                



自宅にお邪魔し、事情を説明すると、ジョコさん。
Sumber-putih付近に詳しい近所の人(写真)を自宅に呼び、
みんなで話し合いながら、お墓探しの作戦を練る。
この人たちは、Dampit 出身という。
同じ郡内だから、ジョコさんよりも土地勘がある。
オレは全てお任せ、傍で聞くだけで、楽ちんだ。





そして、お墓探しに出発する。
ジョコさんが運転もしてくれる。
これも、なんと楽ちんなことか。




一時間少々でSumber-Putih の村に入る。
Sumber-putih と言っても人家はまばら、とてつもなく広い村だ。
とりあえず、少々家が建てこんでいる処に車を止めた。
そして、聞き込みをする。
が、チンプンカン、とりつく島もない状況であった。
が、写真の左のおばさん。
そういうことに詳しい人がいるので、聞きに行ってみる。
と走って坂を駆け下りて行ってくれる。




彼女がその人を呼びに行っている間に村民と話す。
Sumber-Putih村は、とても広い....。
部落がまばらにある.....
Bapon や Retjasari  や Ardjasari  の部落だ.....と言う。

Bapon と聞いて、ネット情報を思い出した。
で、
「Bapon に スナリーさんと言う家がありませんか」
と聞いてみると、

Baponは、川向うになり、ここからは遠い….
ただ、そういう方はいないと思う……との返事。

さて、どうしたものか。

と思案をしているとき、
先のおばさんが若者を連れて戻って来た。
若者が何か情報を知ってるらしい。
でも若者は何も言わない、とにかくついてこいというので、
その若者のバイクを追っかけた。
写真左の先行するバイクが彼である。

道路の右に見える背の高い植物....
サトウキビかトウモロコシだろうか。
そういえば、市来が戦った場所について、
小野盛は「サトウキビ畑だった」と書き残し、
広岡勇が「いや、それはトウモロコシ畑が正しい」
と訂正している。

運転するのはジョコさん、
助手席はエヴィ(まつ毛が長~い)。

バイクはそれらしいところに向かっているようだ!




が、前を行く若者(写真、中央の男)。
本当は、余り知らなかったらしい。

ただ、誰かから聞いたかすかな記憶があったらしい。
で、記憶の場所に来て、バイクを止め、
今度は若者自らが聞き込みを始めた。




彼は、通りすがりの村人にも聞く。
誰に聞いても要領を得ない。

が、そんな時、
最初に聞き込んだ、おばさん連中が、
「もしかしたら、アブトールラフマンのことかい」と言う。
そう、そうだ! ラフマンの墓を捜しているのだ。
「であれば、谷の方だよ」と言う。

家の庭先ではないのか。
谷なのか。
ネット情報と違う。

とは思ったものの、行くしかない。
んで、そこに向かう。
ここまで案内してくれたバイクの若者に代わり、
この村の若者がバイクで先行してくれた。
みんな、みんな親切だ。

その二人目の若者が案内してくれた場所は、
途中で行き止まり(トウモロコシ畑)になっていた。




そのトウモロコシ畑の前で案内の若者が言う。
「ここからは2キロある、徒歩でしか行けない」

ええ!!2キロの山道と言えば1時間…

オレ、そんな元気がない。
それに、こんな場所にあるはずがない。
オレは、まだ半信半疑だった。

そこにエヴィが助け舟を出してくれた。

「どうもバイク一台だけなら行けそうだよ」
「ヨシイさんだけバイクの後ろに乗って現場に行ってみたら」
「そしてホンモノだったら、呼びに戻って来て」

さすが、エヴィ、機転の利くこと。
頭がいい!

で、オレ、2キロとかの山道を
若者の腹をしっかり抱いて登ることになったのだ。
走ってみると、山道でもなかった。
ただ、道路が狭く、バイクの車輪が乗るスペースしかない。
さらに、硬くなった土が濡れているので滑りやすい。
若者は、時々足をつきながら走ってくれた。

前方から、ご婦人とその後ろにおばあさん、
の二人が歩いてきた。
頭の上を超える高さまで草を担いでいる。
多分、牛の餌なのだろう。

バイクと人とは、すれ違う幅がない。
若者は、ご婦人に「下に降りてくれ」と頼んだようだ。
ご婦人は、50センチほど下の隣接する畑に飛び降りた。
が、おばあちゃんが降りられない。
若者はじーと待っている。
と、おばっちゃん、飛び降りて、畑に転がった。
おお、可哀想!
でも、やんわり起き上がり、ほんのりと笑う。
おお、強い!

とかなんとあり、細い道を更に進む。




突然に若者は「ここだ」と谷を指さす。
たいした距離を走ってない。
まだ2キロなんて来ていない。
せいぜい500Mだ。
が、まあ、インドネシア人の距離感覚は曖昧だ。
今更でもあるまい。
んで、若者の指さす方を見るも、何も見えない。




若者は「降りるからついてこい」という。
少し降り、上から見ると、
3m四方ほどの広場があった。
若者は「そこだ」と言う。




その「そこだ」まで、降りた。
若者(写真)は、そこに立った。




なにやら書いてあるが、泥に汚れて読めない。
手で泥を洗い落とし、読んでみると、
3、1、1949 が出て来た。
市来がオランダ軍の鉄砲玉に当たり死亡した日だ。
間違いない、これが市来のお墓だ。
若者に、間違いない、皆をこの場所に呼んできて欲しい、と頼んだ。
若者も嬉しかったのであろう。
すっ飛んで登って行った。




(註)
ABR RACHMAN : アブトール ラフマン (市来のインドネシア名)
Mayor : インドネシア軍の階級で「少佐」。
CMDPGI: CMDは、特定できず(多分、所属旅団名)。
       PGI は、Pasukan Gerilia Istimea(特別ゲリラ隊)

若者がみなを呼びにいっている間、
持参したメモを読み直してみた。

広岡勇は、書いている。

林が駆け込んできて、
隊長の遺体が見つかったことを知らせてくれた。
そこは小銃隊が戦った東側の谷の縁に小さなあぜ道があった。
が、高い草に覆われて、且つ谷側に遺体がずり落ちていたため、
あぜ道からは見えなかった。
そこを通り過ぎた時、死臭に気づき発見できたのである。

そうだ、そのとおりだ。
あぜ道がある。
オレも先ほどそのあぜ道に立った。
が、この場所が見えなかったじゃないか。

あぜ道の方を見上げて写真をとった。




上の方に、かすかに空が見えている。
あそこから丘になっているのか。
市来は、あそこで戦った。
鉄砲で撃たれ即死した。
インドネシア兵が運ぼうとしたが、ずり落とした。
ずり落ちたまま、ここまで転がって来たのだ。

若者の報を受けたみながかけつけてくれた。
左から、この土地の持ち主、メスマンさん。
彼は、ここに降りて来るとすぐに周囲の草を抜き始めた。
自分の土地のお墓ということで、普段より手入れしているのだろう。
でないと、こういう「広場」が確保されない。
すぐに草茫々になるはずだ。
バリもそうだがジャワも同じだ。
地元民がよく管理してくれる。

次の体格の良い青年は、最初にバイクで案内してくれた若者。
そして、エヴィとカミさん。

次の背の高い青年が、後にバイクで案内してくれた若者。
で、右端の男は、みなが騒いでいるのでかけつけてくれた者。
彼のお父さんが、市来竜夫の死体をこの地に並び寝かせたとのこと。




その彼が、何度もオレに言う。
1月になると、手のない男がお詣りに来ていた。
但し、最近は来ていない。
手のない男......小野盛かもしれない。
太ってる男か。
そうだ、太っている。
小野盛に違いない。
小野盛は、隊長としての市来竜夫に真髄していた。

そうか、小野盛が、毎年お詣りに来ていたのだ。
やはり、日本人、律儀である。
そんな小野盛も去年の8月に亡くなっている。
確か、94歳だったと思う。

さて、この地が、
遺体が転げ落ちるほどの急斜面であることを写真で見せたい。
まずは、お墓のお詣りを終え、あぜ道まで登って来るエヴィ。
あぜ道のオレから見ると、ほとんど真下だ。




続いて、ようやくあぜ道まで登ってきたカミさん。
ずりおちないようにしっかりと前を行く若者に掴まっている。




あぜ道も少しづつ広くなり、と、部落の道路に出る。
ここがその出口。




出口を出ると、、
部落の人が何があったのかと珍しそうに集まっている。
本当は、こういう部落民に戦闘のことを聞きたい。
が、すでに日が暮れかかっている。
明るいうちに、kepanjeng を経て、Malang まで行きたい。
暗闇の運転は危険だ。
これ以上の情報収集をあきらめる。





村人用にバリからお土産を準備してきていた。
それらお土産は、全てメスマンさん(地主)にお渡しすることにした。
写真はメスマンさんの家。




メスマンさんと奥様。
メスマンさんは、言う。
手のない人(小野盛さんのこと)が来ると、
必ず家に寄って、この椅子に腰かけたのですよ。

ああ、小野盛さんにお会いしたかったなあ~
1年遅かった。




さて、市来竜夫のお墓の場所は、
Ardjasari Sumber-putih であった。
まさに、広岡勇が記述したとおりの場所である。

市来のお墓を建てた小野盛の家を訪ねる
 
市来のお墓を作ったのは、同じ残留日本兵で、
市来の部下であった小野盛さんです。
市来のお墓を探し得た翌々日、
小野盛さんの家にも行ってきました。
その話は、小野盛さんの処に書いております。
次をクリックして、お読みください。

 小野盛の家を訪ねる