ジャワ島の残留日本兵
田中年男 小野寺忠雄 広岡 勇 小野 盛 桶 健行

小野 盛 の証言  (後半に「小野盛の家を訪ねる」あり)


市来隊長に捧ぐ



(証言の残留日本兵)
小野 盛
1920
615日生まれ 北海道出身
独立混成27旅団司令部 軍曹

(
証言)

イ国独立戦争当時記した手帳より、
故市来龍夫隊長に関する記事を抜粋し記します。
当時格別のご恩顧を戴いた市来部隊の一員として、
故人の足跡を記しご冥福を祈ります。

1945
8
第二次大戦終戦となるや、
海軍情報部員、吉住留五郎氏との予てからの約束があった様子で、
イ国独立運動に参加すべく、スカルノ大統領、ハッタ副大統領の外、
イ国軍政要人の間を奔走していた。

1946

ジャカルタからジョグジャカルタにイ国独立軍司令部が移転するや、
総司令官スディルマン大将の顧問として、
軍政両面にわたって協力支援した(本件証人、
元陸軍大佐ズルキフリ・リビス氏)。

1946
114
バンドンの日本軍司令部より離隊した下士官3名と共に、
市来氏はイ国独立軍から要請され、
総司令部教育部勤務として、マディウン・サランガンに於いて、
遊撃戦に必要な参考書作りを2ヶ月に亘って作業する。

1946
312
サランガン付近に開校された総司令部の情報学校に乞われ、
同校教官を兼務する。
当時の市来氏は、ジョグジャカルタ、マディウン、サランガン、
東部ジャワ間を往復して情報を蒐集し、
政府・軍部要人達と密接な連絡をとっていた。

1946
5
市来氏の許に集まった情報によると、
残留日本兵の中には女性関係で残った安易な考えの者、
あるいはイ国独立達成に疑念を抱く者もあり、
且つ、日本軍への復帰を望んでいるが処罰されることを恐れ、
迷っている者があるという事を知った。
そのような残留日本兵に対するインドネシア民衆の不信感の一掃と、
本人の復帰希望を叶えてやるべく、同志をバンドン日本軍司令部に派遣し、
小柳準大佐と接触させた。

帰隊者は処罰せずに受け入れる旨の回答を得、
これら日本兵に帰隊を説得して廻った。
一方、この時期はオランダ軍と停戦協定中で、
その協定中、インドネシアに居る日本人は、
その所属部隊で銃殺するか、
もしくは英蘭軍に引き渡す規定をした条項があった。
そのため市来氏は、イ国軍司令部に対し、
日本人は皆無であるとオランダに回答するよう要請している。

1946
5月末
市来氏自身は、この停戦協定には大不満で、
イ国軍司令部に対し、数次に亘って戦闘継続を進言していたが、
受け入れられなかった。

遂に市来氏は、5月末ルビス少将黙認のもと、
ボゴール方面で遊撃戦を展開すべく、
ジョグジャカルタ、スメダンを経て、
ボゴール方面に向け同士4名と共に出発した。

途中、上曹長(氏名不詳)は日本軍に復帰し、
片野曹長は出発前に復帰したので、
市来氏の同行者は3名となった。

又、ガルットでは、高井部隊に立ち寄り、情報の交換をした。
なお、高井部隊はイ国軍西部ジャワ憲兵隊長ロカナ大佐に属し、
残留日本人30名の日本人部隊であった。

1946
612
西部ジャワのプルオカルタ着。
同地区の連隊長ウマルバルサン中佐は、
市来氏義勇軍時代の教え子であった。

同中佐は、市来氏の危険を慮り、
西進することを好まず、総司令官命令を取り付けて
市来氏のボゴール行きを中止させた。

市来氏は、同行の日本人1名を同連隊の顧問、
並びに連絡係として同地に残し、
2
名でジョグジャカルタ(中部ジャワ)の司令部に引き返した。
(本件証人、小野盛)

当時、プルワカルタ以西は英印軍、オランダ軍部隊が各地に駐屯し、
適中横断は至難の業であった。

1946
年7月
敵オランダ軍第一次侵攻作戦(警察行動)があり、
全前線で戦闘が展開された。
その間、市来氏は総司令部にあって作戦指導に従事した。

1946
8月中旬
イ国独立部隊間の勢力争いが発生する。
その多くは、主義を異にするイ国政党の党派争いに
所属部隊が巻き込まれたものである。

1946
829
上述勢力争いに巻き込まれた高井部隊(PT)がPIとの対決を期して
リンガルジャティに出動するとの報を受けた市来氏は、
ガルット地区の憲兵隊長を通じ「同士討ちをしている場合ではない」と、
リンガルジャティから引揚げるよう要請する。

1946
915
市来氏は高井部隊の留守業務を担当しているスメダンの福井氏宅に出向き、
そこで事件の落着を待つ。

1946
920
高井隊長の要請で市来氏はリンガルジャティに出向き、
そこで事件の落着を見る。
この際、高井氏より高井部隊の掌握を要請されたが、
余り気の進まぬ様子であった。

1946
925
以前バンドンの戦闘で負傷した元日本航空隊出身の今野氏は、
スメダンで治療中であったが、治療が叶わず戦病死された。

葬儀は部隊葬で多くの村民に送られて埋葬された。
(本件証人、同地区長の娘と結婚された高野氏)。

1946
1010
高井氏の要請で市来氏は部隊長となった。
リンガルジャティは停戦協定の結ばれた地で、
停戦協定会議が行われている間中、部隊は鳴りをひそめていた。
但し、次期作戦に備え隊員の再教育訓練に励んでいた。

1946
11
インドネシア政府の最初の紙幣が出回る。
それまで通用していた日本軍軍票は紙屑と化し、
途端に部隊は軍費に窮してしまった。

1946
11月末
高井部隊の所属して憲兵隊が解散し、部隊の維持が困難となった。
隊員の希望をいれて部隊は解散したが、
なお残ったもので部隊を編成。
市来隊長、高井副長、石井淑普(元日本軍少尉)外、
全員13名、リンガルジャティを後にし、
ジョグジャカルタの憲兵隊司令部に引揚げる。

1946
125日~25
ジョグジャカルタ司令部高級副官スガンダル大佐の要請で、
参考書作戦に従事する。
この間、日本軍航空整備隊出身の松尾氏以下3名、袂を分って去る。


1946
1228
総司令部及び憲兵司令部の要請により、
市来部隊長以下10名、在スデウンの司令部直轄教育大隊に教官として
転属が決まった(教育大隊々長ラティフ中佐)
 

1947
11
新任地マゲタンに於いて、
市来氏以下日本人10名新年を祝う。


1947
320
市来氏以下10名の業務分担指令を受ける。
即ち、
市来隊長: サランガンに位置し、従前同様司令部の支援。
高井副長: 以下4名、前線の情報収集活動。
石井元少尉: 以下5名、教育隊つき教官。

なお、教育大隊は、
5
28日から628日までの間、
隊員それぞれ原隊復帰することになったが、
それまでは、ソモビト前線担当の第一部隊として活躍する。
市来隊長はサランガンより、慰問を兼ねて前線視察に来る。
また教育隊教官の山城氏は、隊長の許可を得て、西部ジャワへ、
石井氏はソロ方面行きを希望し、それぞれ市来氏と別れる。


1947
年7月20
市来隊長と教育隊の3名、司令部命令により
在サランガン士官学校(尉官の再教育)教官を任命された。
しかし、オランダ軍の再侵攻で同校は解散され、
生徒は所属原隊に復帰した。

市来隊長は状況の急変により、司令部に即時復帰し、
残り3名は敵オランダ軍の侵攻に備えるための陣地構築、
偵察を命ぜられる。


1947
104
東部ジャワ、ブリタル方面で国民軍(第13旅団)を編成し、
遊撃戦を展開中の吉住留五郎氏の持病、肺結核が悪化し重体となる。

市来氏は吉住氏を空気清浄の地、サワンガンで静養させるべく、
適当な旧オランダ人宅を物色する。
サワンガンは避暑地で当時ドイツ人約500名が抑留保護していた地である。

また市来氏は山野五郎をして看護婦を探させるなど、
受け入れ準備を進めると共に、
司令部との連絡の外、ジョグジャカルタ、サワンガン、
東部ジャワ間を忙しく往来していた。


1947
1011
重体の吉住氏を山野氏とともに担架でサワンガンに移す。
爾後市来氏は、終日看病の有様で、
ジョグジャカルタ、マディウン部隊との連絡は
山野氏が代理として出張する。
(本件証人、山野氏及び13旅団の高瀬氏)


1947
1130
当時、市来氏は総司令部の外、
東部ジャワ・ケデリー師団(師団長スンコノ大佐)、
ダンビット師団(師団長、バンバン・スペノ大佐、後に少将となる)
の顧問も兼務して忙しかった。
部下の日本人3名を東部7師団に配属させ、
また吉住氏の病状も小康を得たことから、サワンガンを引き払う。


1948
22
隊員宮下氏は予ねてよりの希望通り、
市来隊長並びに師団長の許可を得て、
マゲタン部隊に転属のため袂を分かつ。
(その宮下氏は、オランダ軍第二次攻撃時、マゲタンで戦死する)。

当時はレンヴィル停戦協定下にあり、
第7師団配下の第一部隊(プロボリンゴ、ルマジャン方面)は、
協定に基づいて西部地区に撤退を余儀なくされつつあった。

市来氏はイ国軍再三の撤退、あるいは、レンヴィル停戦協定そのものが、
オランダ軍の兵力配備と増強を図る為の時間稼ぎであるとした。

また、それはイ国軍に莫大な不利をもたらすとし、
第7師団だけでも協定を無視して、戦闘を継続すべきであると進言する。

しかし、総司令部は具申策を受け入れず、
総司令部と市来氏の間で板挟みとなった師団長と参謀長は、
残念無念と男泣きをする。


1948
221
停戦協定中の部隊再編成のため、総司令部はセダユに移転する。
市来氏以下3名の日本人も移動した。
市来氏の進言で、師団長は指揮下の部隊に撤退命令を出さなかったが、
総司令部直接の命令で部隊はケバンジェンに撤退させられた。

市来氏は次期作戦に備えた部隊再編成に協力すると共に、
サワンガンにいる吉住氏と共に、政府要人に強力に意見具申することにした。

そして、意見具申が受け入れられぬ場合は、
独立達成の見込み薄と見て山篭りすることし、
その場所の選定に出向かねばならぬなど、周囲の者に慨嘆していた。


1948
3
オランダ軍との再度の停戦協定も屡破られ、攻撃が再開された。
イ国軍は新編成兵力を以って抗戦した。

市来氏は部下の日本人2名を教育大隊に配属させ、
長期戦に耐え得る精鋭部隊の育成に努めた。


1948
7
病状小康を得た吉住氏は、
サワンガンよりウンギリに出て来て市来氏と計り、
強力な遊撃戦を展開すべく、東・中部ジャワの日本人を集め、
日本人部隊を編成、両氏が指揮をとった。

それら日本人は、
各部隊に分散していたものを司令部の許可を得て集めたもので、
総員29名であった。

しかし、吉住氏は尚療養の要あり、
ダルガン農園に分散配備し、自活体制を整えると共に、
付近住民の指導にあたらせた。(この月、吉住氏病死さる)


1948
9
来るべきオランダ軍の攻撃に備え、
効率の良い戦果を挙げるべく、部隊を次のとおり配置した。

市来氏を隊長とする一隊: 17名を主力として、ダビット方面
高井氏を隊長とする一隊: ジョンバン方面
谷本氏を隊長とする一隊: ケデリ方面
(本件証人: 当時企画部担当の越智氏)

市来部隊は、
7師団館内のバタモン・ワジャ・スンベル・ファイに駐屯し、
情報の収集と、オランダ軍兵器奪取のための待ち伏せ攻撃をすると共に、
友軍兵器工場より兵器を受領し、部隊装備向上を計る。

当時、マディウン、ブリタル方面のイ国政府軍と
左派系部隊との対立が激化し、
双方、部隊の増強を行って緊迫化した情勢下にあった。

政府系諸部隊はこの機会に共産系部隊を徹底的に叩く作戦に出た。
そして、市来部隊にもこの政府軍作戦に参加を求めてきた。

しかし市来はいかなる状況下にあろうとも、
インドネシア部隊間の同士討ちする内戦には応じられぬと、断固一蹴した。


1948
1020
友軍(左派軍)の指導者、前内閣総理大臣、
アミール・シャリフデンも政府軍に逮捕され、
又、その他の左派軍首謀者も殺害されて一段落した。


1948
1024
市来部隊の田中氏以下9名、
市来隊長の指示で遊撃戦実施のため、
中部ジャワ・サラテガ方面に出勤する


1948
1130
東部ジャワの市来日本人部隊の勇戦にオランダ軍は頭を痛め、
頻繁に巡察隊を繰り出す一方、
密偵を放って、日本人部隊の暗殺を策す。
市来部隊は常に移動して敵前線部隊を攻撃し、神経戦に持ち込んだ。


1948
1219
オランダ軍は大攻勢に転じ、
ジャワ全島中、村長の居る村以上の規模の全都市を占領するも、
かえってイ国軍の好餌となり、次第に撤退の巳なきに至ってゆく。

当時の市来部隊は9名の日本人と、
同地所在の部隊を含め、約1ケ隊の兵力であったが、
その大部分はオランダ軍の攻撃により、
部隊主力との連絡を絶たれた小部隊の集まりであった。 

よって戦力としては余り期待できぬ状態であった。
(本件証人、山野氏)

1986
6月 小野盛  記


(
注)
なぜに山野氏が本件証人かというと、
この時、筆者の小野盛は、市来隊長の指示で、
兵器受領のため、ケデリーに出張していて不在だったからだ。
市来隊長の戦死は、小野盛のこの不在中に起こった。

したがって、市来が戦死した戦いの様子については、
やはり市来隊にあって戦いにも参加した、広岡勇の証言で書く(次号)


 小野盛の家を訪ねる
 
スカルノに会い、吉住に会い、市来にも会えた。
Bromo行は、失敗したが、お遊びなのでたいしたことはない。
今宵は、Tulungagung に戻り、エヴィ一家とお別れ会食。
と言っても、みんなエヴィのパパにお任せ。

ジャワでのオレの目的はみんなオワリってんで、

Malang で泊まった翌朝、
またまた、運転をエヴィにお願いして、
Tulungagung まで、車を走らせる。
4時間のぶっ飛ばし。

が......
助手席で、ジャワの旅の総括のため、
メモを広げていたオレ、とんでもないことに気付く。

バリを出発する前に、情報収集しておいた、
残留日本兵、小野盛の住所を見ていた時である。

事前に調べた住所は、Sidomoyo であった。
ジャカルタの福祉協会に電話して、
庭師のワヤンに聞き取らせて書かせた住所である。

Sidomoyo という町は、ジャワ中部の南の海辺にある。
とてもじゃないが遠すぎるので、訪問をあきらめていた。

が、もしかして、
Sidomoyo ではなく、Sidomulyo では、なかろうか。
Sidomulyoならば、Malang の近くのBatuにある。

確かめてみよう。
幸いに小野盛さんの娘さんの電話番号を控えてある。
エヴィに電話をかけてもらい確かめた。

と、彼女はスラバヤに住んでいるが、
双子の弟(Eru Suyonoさん)が、
今もBatuに住んでいるという。

やはり、そうか。
逢いたい。
是非に会って、市来の墓のことも聞きたい。

その場で、Suyonoさんに連絡を取り、
明日の午後一時に家に伺うことで快諾いただいた。

うん!そうか! 
明日は、小野盛さん(英霊)にもお会いできる。
いろいろと勘違いがあり、ばたばたしたが最後は間に合う。
オレは、本当についてる!
ありがたい。


翌朝、Tulungagung のホテルを8時に出る。
Malang までは、4時間、
Malang からBatuまでは、1時間、
の計5時間の運転.....のつもりがちょっと慣れたのか、
30分早くBatuに着く。


が、それからが大変。
Sidomulyo の街はすぐに見つかったものの、
次の、「Cemara Kipas通り」がなかなか探せない。
バリもそうだが、ジャワも住所だけで目的地に行くのは難しい。

何人に聞いただろうか、誰も知らない。
その中の一人、「この近くであることは確かだ」という。
で、そこから10m先に Cemara Kipas 通りがあった。

自分の家の周辺10mぐらいは、
知っておいて当たり前だろうが....と怒る気にもなれない。

さて、Cemara Kipas 通りに入った....狭い! 
車とバイクは交差できるが、車と車はすれ違えない。

番地も分かっているが、番地で探せないことは百も承知。
ここまで近くに来たら、氏名を言えば探せる。
が、小野盛のインドネシア名(ラハマット)をど忘れした。
小野盛では通ずる訳がない。
で、「片腕のない日本人」で聞き込みを続けた。

と、みんなが知っていた、が、それからも大変。
坂を下りた家というので、坂を下りて聞くと、
坂を上った家、という。
狭い一本道を上ったり下りたりの繰り返し。

もう、この辺りだろうと検討をつけ、駄菓子屋に飛び込んだ。
おばあちゃんが店番をしていた。
おばあちゃん、腕のない日本人を知っている。
「知ってるよ」
去年亡くなったはずだけど。
と、「そう」と、おろおろと涙ぐむ。
おばあちゃん、泣いていないで家を教えてよ。
と、おばあちゃん、もう喋ってくれない。
指を右に振るだけ.....どう見てもお隣さんの様だ。

ということは、オレが車を止めた処だ。
急いで、お隣さんに飛び込み
「小野さんの家ですか」と聞いてみる。

その時、ちょうど13時。
アポを入れておいた時間にピッタリ。
suyono さんは待ってたらしく、すぐに出て来た。
てなわけで、小野盛さんの息子さんとお会いできた。
小野盛さんの家の前で、Eru Suyono さんとオレ。




小野盛氏の息子さんのEru Suyonoさん(写真)は、
日本で働いていた経験がある。
日本語が通ずるのがありがたい。
彼から、いろいろなことを教えてもらった。



小野盛が市来のお墓を建てた

お墓を建てたのは、1990年7月8日。
市来が死んだ場所が特定されなくなるのを気にし、
小野盛が費用を負担し、お墓を建てた。

その頃、戦友のほとんどがすでに亡くなっており、
お墓作りに参加したのは、次の方々だった。
1、小野盛さんと息子のSuyonoさん
2、林源治の奥様(アルジャサリ生まれ)
3、酒井富夫の奥様(アルジャサリ生まれ)と子供さん達

40年以上、土の中にあったからであろう。
深く掘ってみたが埋められた骨を確認できなかった、とのこと。



左手前が林源治さんの奥様。



酒井富夫さんの奥様。



村人総出で手伝ってくれたそうな。




インドネシア独立後の残留日本兵の生活

市来の率いる特別ゲリラ隊の規律は厳しかった。
女性との関係でインドネシアに残るような安易さを許さなかった。
真にインドネシアの独立を願うもののみで部隊編成がされた。
日本への望郷はすでに捨てていた。
インドネシア独立をMalang の地で迎えた彼らの多くは、
日本に帰ることなく、この地の女性と結婚した。
そして、戦後、お互いに家を訪ねる間柄であったとのこと。
小野盛の家にもっとも頻繁に来たのは、杉山長幹だったとのこと。
杉山は、市来亡き後、部隊長となり市来の弔い合戦を成功させた男である。
後にスラウェシ島のマカッサルに移り住む。

戦後の小野盛の生活

小野盛は、Batuの女性と結婚した。
広大な畑を開墾し果物や野菜を作って生計を立てた。
その畑、広すぎるので一枚の写真には収まらない。



これをみな、片腕で耕したの?
Suyonoさんは言う。
「そうです」
「お父さんの頑張りは真似ができません」



次の写真の下、すなわち川の畔まで畑が続く。
畑は子供たちに分配され、Suyonoさんの畑は一番下にあるそうだ。




目が見えなくなったのは10年前から

小野盛さんは、亡くなる10年ほど前から失明した。
ということは、10年前から市来のお墓に行けなかったということですか?
と聞くと、「そうです」との返事。
さらに小野盛はSuyonoさんに、
市来の慰霊碑は、Malangの英雄墓地にもある、
と言っていたそうだが、Suyonoさんが後日、
英雄墓地を捜したが見つからなかったとのこと。

小野盛さんが片手を失ったいきさつ

オランダ軍に追っかけられて、逃走した時、
腰から吊るした手りゅう弾が落ち、その場で爆発したそうです。
最初は手だけ吹っ飛ばされたのですが、その後腐りはじめ、
上腕から切断することになったとのこと。
そんなお父さんが厳しく子供たちに語ったことは、
「曲がったことをするな、いつも正道を歩め」であったとのこと。

インドネシアに独立させるといっておきながら
いつまでも独立を認めず、ずるずると戦争をした日本。
小野盛は、日本のそうした嘘に義憤を覚えて、
終戦を迎えても日本に帰らず、
インドネシアの独立戦争に加担した........

「曲がったことをするな」は、
小野盛の生涯変わらぬ信念だったのでしょう。

市来の奥様もお墓に訪れていました。

いつごろの写真か聞き忘れましたが、
アルジャサリの地主さんの家の前でのスナップ。
左端が小野盛、その右が市来竜夫の奥様だそうです。