ジャワ島の残留日本兵
田中年男 小野寺忠雄 広岡 勇 小野 盛 桶 健行

小野寺忠雄の証言


小野寺忠雄の証言を書く前に、
彼の人となりを書いておきたい。

ここには取り上げないが、
小野寺忠雄は、残留日本兵の心情をまとめて、
何故にインドネシア独立戦争に加担したのかを
客観的にまとめて書いている。

ただ、そうした全体のまとめをしておきながら、
自分の場合は、どうだったのかを書いていない。

が、私は、彼もまた相当の信念をもって、
イ国独立のために身を投げ出したひとりであると確信している。
そう思う理由のひとつに、
日本軍時代の「第16軍・憲兵曹長」という、
小野寺忠雄の身分がある。


第16軍の担当区域は、蘭印すなわちオランダ領東インドである。
軍司令官は、今村均中将であった。

第16軍が編成されたのは、フランス領カムラン湾であったが、
小野寺は、この編成の最初から16軍憲兵として参加している。

今村中将の指揮下のもとでの兵暦が長いということだ。
当然に日本軍のジャワ島上陸の戦いも経験している。


小野寺は憲兵、
しかも現場上がりの最高位である曹長であった。

憲兵とは、兵隊の警察である。
兵隊が軍の目的や規律を遵守しているかどうか監視する役である。

規律に違反する兵隊の逮捕権もあった。
であるから当然に、軍の司令官である今村中将が徹底して求めた、
日本軍の使命はイ国独立である.......
という精神を小野寺もまた心に浸透させていたものと思う。


小野寺忠雄は、戦後、
残留日本兵を束ねる会である「福祉友の会」設立にあたって、
当初より活動し、1986年〜1988年の2年間は、
理事長としての重責を担っている。
人望もある人物であったのだろう。


さて、こんな小野寺であるが、
前述の市来隊とは無縁ではない。
そのことも紹介しておきたい。

市来と小野寺を時系列に追ってみる。

1948
7月、
市来は住吉と共に中部ジャワの日本兵を集めて、
日本人部隊を編成した。

この頃の小野寺であるが、
ジャワ南でゲリラ戦を行っていたものの、
停戦協定によりイ軍から中部ジャワへの移動命令を受け、
徒歩で12日間かけて、ジョグジャカルタに移動していた。


1948
9月、
市来は、市来隊吉住隊の混成部隊をいったんはまとめたあと、
効率を上げるために、市来隊長、高井隊長、谷本隊長の3部隊に分割した。

その頃の小野寺であるが、
インドネシア共産軍に捕らえられ、
マデウン刑務所に監禁されており、
身動きできない状態であった。


1948
10月、
小野寺を監禁していた共産軍が政府軍に駆逐される戦闘があった。
小野寺は、その戦闘の隙を狙って、刑務所を脱走した。
脱走の途中、政府軍に加担していた日本人ゲリラ隊に出遭った。

前述の市来のところで書いた、谷本隊であった。
B
特別ゲリラ隊と呼ばれていた。
ちなみに市来隊は、A特別ゲリラ隊と呼ばれていた。
小野寺は、このB特別ゲリラ隊に合流したのである。


1949
1月、
市来はアルジャサリの戦闘で戦死した。
同じ頃、場所を違えて小野寺も他の戦闘をしていた。

で、このB特別ゲリラ隊がオランダ軍との戦闘で、
威力を発揮したのが、特別こしらえの「布団爆雷」である。

次は、その布団爆雷についての小野寺忠雄の証言である。



布団爆雷の威力

(証言の残留日本兵)

小野寺忠雄
19
16年4月11日生まれ 岩手道出身
第16軍憲兵 曹長


(証言)

B
特別ゲリラ隊の当初の隊長は、吉住留五郎であった。
私がB特別ゲリラ隊に合流したのは、
吉住の病死後3ヶ月してからであった。
その頃の隊長は谷本であった。


私が合流した頃の特別ゲリラ隊は、
谷本、井上、宮崎、小野、中村、姿、小川、
木村、松本、菊池(以上の10名は戦死)
北村、砂川、宮崎、小野寺(この4名は生き残る)、
という日本兵14名の外、
地区のインドネシア青年50名位の編成であり、
バナラン・ゴム農園に在って、
オランダ軍の次期攻撃に備え人員の教育訓練、
兵器の整備と作戦の検討をしていた。


この頃の特別ゲリラ隊は、兵器整備の一環として、
マラン飛行場から日本軍が残置した50kg爆弾数十発を
トラックで運び出してきていた。

この爆弾を利用し、
ビルマ戦線生き残りの菊池元工兵軍曹が、
ビルマ作戦の経験を活用して爆弾の改造を行った。

ビルマでは負け戦時の兵器不足を補う為に作り出したもので、
相当の成果を挙げたということだった。

その製法は、
先ず爆弾を解体して火薬を取り出す。
そして、その火薬10kgを麻袋で包み、
さらにゴムシートで包んで密閉する。
それを使用の都度、ナイフで穴を開け、
起爆装置として瞬発信管を挿入し、
200
300mの針金を用いて、
安全弁を引き抜き、
爆雷を爆破させるというものであった。


この爆弾を菊池は小野といっしょに、
火薬で手を真黄色にしながら作った。

これを布団爆雷と名づけた。



1948
1219日頃、敵オランダ軍は、
第二次警察行動と称して、軍事行動を開始した。

それは、一方的にレンバン協定を破り、
スラバヤ、マラン方面よりイ国軍地帯に攻撃してきたもので、
偵察機の誘導のもと、
装甲車を使った徒歩部隊を先頭にしたものであった。


我が方B特別ゲリラ隊は、
待っていましたとばかりに、
教育中の他部隊兵をそれぞれ帰隊させて、
応戦体制を整えた。


先ずゲリラ拠点をカウイ山腹、
海抜1000mもある人家もないジャングルの中に設け、
兵器、弾薬などを運び込んだ。
地名ドノモリヨという所であった。

更に中間作戦拠点(連絡拠点)をトロゴマスに置き、
前線拠点としてバナラン(ゴム農園)に人員を配置した。

又、我が部隊の右側に、
隊長マス・イスマン少佐率いる学徒部隊(TRIP)、
更にその右側に、
土屋、西島、古川、高瀬の4名の日本人が率いる一ヶ中隊が展開した。
(
註:B特別ゲリラ隊以外にも日本人が率いる中隊があった)

左側には、隊長マルカデ大尉のマルカデ中隊を配置し、
その左後方に、オーラン少佐のオーラン大隊が居て、
更に後方にサバルデン少佐のサバルデン大隊が続いた。

なお、サバルデン大隊の第一中隊長は、木村であった。
(註:この木村はB特別ゲリラ隊の木村とは別人と思われる)

カウイ山南面は、このように隙間ない配陣であった。


敵軍は行動開始後、短期間に、
マラン、クパジン、ケナンヘン、ウリンギ、ブリタルと進出し、
いよいよオランダ軍とイ国軍との攻防戦が始まった。

我がB特別ゲリラ隊は、
谷本隊長と井上福隊長が各々隊を二分して指揮をした。
谷本隊長は中間作戦拠点に、
そして井上隊はバラナンの前線拠点に位置して、
敵情視察・情報収集に努めた。

先ず最初の攻撃目標を、
足下に横たわるウリンギ町の敵軍と決めた。

敵情を詳しく偵察したところ、
敵主力の歩兵部隊はウリンギ郡役場を兵営として、
駐屯していることがわかった。

敵は兵営の周辺に土嚢を築き、
我方の夜襲に備えて探照燈を要所々々に備えていた。
また、スパイを四方に放って、
我方の兵力並びに配置を探っていた。

井上隊長は砂川並びにインドネシア隊員10数名率い、
当時前線で活躍していた盗人隊と共同作戦をとった。

夜半1時頃、敵情視察に敵兵営に接近した。
この夜は、戦闘はなかったが、一部隊員は兵営内に潜入し、
乳牛を7頭盗み出してきた。
この牛は後々まで拠点で飼育し、
隊員に毎日牛乳を飲ませることができた。


次の回は、谷本隊長と日本人3名、
並びにインドネシア隊員30名が小銃・軽機・擲弾筒の装備で、
ウリンギ敵兵営の東側から夜襲した。
10
分位の間、射撃した。
擲弾筒が威力を発揮し、
敵兵数名の絶叫と混乱の声が聞こえたという。

その後2回、夜襲をかけたが、警戒が厳重になって、
これという成果が得られなかった由であった。


その頃から布団爆雷を使用する昼間襲撃に戦術切り替えた。
先ず、手始めに井上隊が指導する1隊に砂川外2名が加わって、
マラン市に通ずるクパンジン街道にあって、
ウリンギ町東方78km地点の鉄橋を爆破した。
そのために敵の自動車・装甲車の通行を遮断することができた。

一方、菊池が率いる一隊が、
ウリンギ西方ブリタル街道12から5km地点にある、
短い橋梁を布団爆雷にて破壊した。


またその後の或る日、谷本隊長指揮の一隊が、
マラン市西方からウリンギ町に行軍中の敵部隊の後尾に
多大の損害を興えた。
それは掘割道路の斜面の草むらに布団爆雷を布設し、
爆発させたものである。
敵軍後尾のトラック3両を破壊し、
少なくとも兵員78名が死傷したと思われる戦果をあげた。


更に小川の指揮する2組の攻撃班が、
ウリンギとブリタル市間で道路の傍の屋台店に布団爆雷を仕掛け、
爆発させて、小屋諸共に敵巡察兵56名を死傷させた。


この様な布団爆雷を用いた攻撃戦果をみて、
インドネシア兵達も積極的に爆雷を用いた攻撃を敢行した。

そのために布団爆雷を用いた総合戦果の概算は、
敵トラック大破14輌、中・小破30輌、装甲車2輌、
兵員殺傷約80名に及んだ。

以来、布団爆雷はゲリラ部隊の虎の子となった。


我々日本兵は、ゲリラ戦の実戦と平行して、
インドネシア兵の兵員教育も担当していた。
東ジャワ憲兵隊員など50名単位でゲリラ戦法教育をほどこした。
この中で布団爆雷の使用方法も彼らに教育した。

そして、その布団爆雷を相当数準備し、
貰いに来る近隣の他部隊にもわけてやった。

それら布団爆雷が使われ、
東部ジャワの大河、プランタスにかかる橋梁のうち、
大4橋、中小8橋を破壊すると共に、
農園・工場などの諸施設の爆破に使用され威力を発揮した。

こうした布団爆雷による戦果は、
敵兵の心胆を寒からしめると共に、
インドネシ独立軍の士気を鼓舞し、且つ高揚させた。
一般民衆もその戦果に驚喜し、イ国独立軍に感謝してくれた。


さて、戦後の話になるが、
独立戦争当時、東部ジャワ州のブラウイジャ師団に所属した、
日本人の生存者29名には、195471日付をもって、
師団長職代行のスデルマン中佐署名の感謝状が贈られた。

その感謝状は、
当時氏名が明らかでなかった為に記載漏れになった方もあるが、
私は、特別ゲリラ隊に参加された、
全日本人に対する感謝状であると確信する。

そして、その要因は菊池が作った、
「布団爆雷」によるところ大であると私は信じている。

1989
1月 小野寺忠雄