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市来隊長の戦死
(証言の残留日本兵)
広岡 勇
1921年9月10日生まれ 山口道出身
20野航修 一等兵
(証言)
1919年元旦、全員東方に向かって武運長久を祈ったあと、
屠蘇がわりに椰子酒を一杯づつ飲んでマグレサリーの拠点を出発しました。
オランダ軍の来攻前から市来隊長の元に身を寄せていた、
ワジャックの暴力団の親方カビットに、攻撃参加を誘ったところ、
拠点の留守番をするといって尻込みしてしまいました。
携帯兵庫は水冷並びに空冷重機各1挺に小銃約10挺、
現地製弾使用の擲弾筒2筒に戦車地雷2ヶ、
重機用弾は各5000発準備しました。
インドネシア兵士達は、寄せ集めでどの程度役に立つか不明でしたが、
一応部隊らしいものになりました。
小銃隊は山野が指揮をとり、飛行機搭載用空冷銃は前川と広岡が、
そして水冷重機は杉山と若林が担当しました。
空冷機銃は日本軍がジャワを攻略した際、
オランダ兵が地中に埋めたものを独立と共に掘り出した代物で、
腐食が甚だしく、射撃時にしばしば突込み故障を起こす一物でした。
ゲリラ本隊はスンバルレジョで待機し、
斥候を出すと共に付近住民より情報を集めました。
それによるとワジャックの敵軍は、
完全装備の一ケ中隊に増強されており、
2日夜明けからパンダンサリーから谷を二つ越えると、
我々の拠点にも到達することから、
あるいは我々日本人部隊の情報を得ていることも考えられました。
増強されている敵軍に
兵器も少ない寄せ集め小部隊での攻撃は、危険と判断し、
攻撃を中止してトレン街道に地雷を埋設することにしました。
早朝3時にスンバルレジョを出発し4時15分街道予定地に到って、
地雷2ヶを埋設しました。
再度、スンバルレジョに引揚げる途中、
ボーンという爆発音を聞きました。
早速兵士を派して調べさせたところ、
埋設したばかりの地雷1ヶに付近の農民が引っかかり、
跡形もなく吹き飛んだということでした。
罪もない住民を犠牲にしてしまって申し訳ないが、
已むを得ないと考えるより他はありませんでした。
スンバルレジョの村長宅で、
熱いコーヒーをご馳走になっていた朝の6時半頃、
物凄い爆発音が再び響き、村長宅のガラス戸さえ震わせました。
敵装甲車が地雷に引っかかって15メートル位吹き飛ばされ、
兵士の乗った後続トラックが追突して、
死者16名ぐらい出たとのことでした。
イ国兵達は初めての戦果に手をたたいて喜んでいました。
さて十分に休養し、ゲリラ拠点に引揚げるべく、
村長宅を出発しようとしていた時、
パンダンサリーより見知りの青年が駆けつけてきました。
ワジャックのオランダ軍は2日朝より行動を起こし、
パンダンサリーを経てマグレサリー拠点を目指して、
進撃中という話でした。
市来隊長以下全員、
一応拠点近くまで引揚げようということになり、
急遽出発しましたが、時刻はすでに昼近くになっていました。
敵部隊は前日マランから派遣された増援部隊も加わって、
完全装備であるという情報でした。
我々はスンバルサリー西側の谷に隣接した峰を
警戒しながら登っていきました。
それは敵が登っていると思われる峰に平行した峰でした。
途中すれ違って峰を下る農民の話によると、
敵はオランダ人、アンボン人、
並びにその他のインドネシア人からなる、混成部隊とのことで、
間違いなくマグレサリー拠点を目指していると判断されました。
我が方も一層警戒を厳にし、
小銃隊を先頭として隣の峰から見えぬように行動し、
ボポン村に着いた時には既に日が落ち暗闇に包まれていました。
この村はアルジャサリーより少し高い筋向いの峰に位置していました。
我々ゲリラ隊は、このボポン村に一泊することにしました。
村の青年団に食事を頼み、お茶を飲んでいる時、連絡員が来ました。
報告によると、オランダ軍もマグレサリーに、
一泊するよう既に夕食の準備をしているが、
食料は携帯していて、飲み湯を沸かしているだけということでした。
持てる者と持たざる者の差で、已むを得ないことでした。
それでも我々は、とうもろこし飯に
未熟ナンカの実入り汁だけの食事でしたが、
全員満腹しました。
食後市来隊長のところに日本人だけ集まり、
明日の作戦を練りました。
余り名案とてなかったのですが、
明朝未明にボポンを出発し、
隠密行動で尚山麓を登ることに決まりました。
先行するオランダ軍も必ず下がってくるであろうから、
遭遇地点で一戦を交えるが、
先に敵を発見し戦闘を有利に導くということで、
夜8時ごろ各々の部隊に帰りました。
又、就寝前には警備陣を一巡し、
且つ、夜中に起きて交代で巡察もしました。
その夜はランプの灯りひとつ見えず、また物音もなく、
全く不気味な静けさでした。
嵐の前の静けさということであったでしょうか。
1月3日午前4時半、全員出動準備完了し、
山野小銃隊を先頭に市来隊長、杉山と続き、
更に前川、広岡の機銃隊、
擲弾筒の林、酒井、
水冷重機の若林が従って35〜36名の兵員数でありました。
アルジャサリ村に通ずる浅い谷を先頭が渡り始めました。
前川と広岡は進路が違うと杉山に伝えましたところ、
オランダ軍もまだアルジャサリ迄は下っていない筈であるから、
急遽アルジャサリ部落を横切り部落の東端に出ることになったということでした。
全員駆け足で部落を横切り、無事谷沿いの部落の東端に出て、
部落の端を上方目指して登って行きました。
部落の一番上の民家を過ぎると段々畑になっており、
トウモロコシの芽が10〜15cm 伸び、
また畑の地肌が見える程度でした。
畦道を用心して登っていくと、部下が「敵だ!」と言うので、
良く見ると、やはり敵は村道を中心に展開し、
その右端はわが山野小銃隊から20m位離れたところに位置しておりました。
前川機銃の斜め前方40〜50mにこんもり土の盛り上がった所があり、
その陰に敵兵がおりました。
前川は直ちに段々畑の端に機銃を据つけ、
いつでも射撃できる体制をとりました。
杉山重機は広岡の後にいたが、これも又、
大きな木の根を利用して重機を据つけました。
敵も既に我々に気づいている様でした。
然し、敵は身体を乗り出し中腰にならぬ限り我が方が見えず、
又、それは我が方も同じでした。
そんな緊張が極点に達している時に、
山野が我が重機前30m位の所の畦道を東側からトコトコ歩いて現れました。
敵前4〜5mです。
前川も広岡も一驚しました。
已むを得ず…..
「敵だ! 山野下がれ」と、怒鳴りました。
敵も驚いた様子で4〜5名が身を乗り出して周囲を見廻しました。
途端に前川が「撃つぞ!」と叫ぶと共に機銃が火を吹きました。
杉山重機も直ちに撃ちだし、敵も応戦して激戦となりました。
程なく敵の擲弾筒弾が頭を越えて東の谷に落下し始め、
物凄い爆発音が谷にこだまし響いてきました。
戦闘は双方の機銃の撃ち合いとなり、
小銃音は全く聞こえず、
小銃隊兵士の姿も見えませんでした。
近接の自動火器の前では日本の38式小銃は、
無用に等しい状態でした。
前川機銃が弾の突込みをやって、
射撃がぴたりと止まってしまいました。
前川の機銃の口蓋を開け、
広岡がドライバーとハンマーで弾を引き出し、
すかさず前川が射撃を始めました。
この間わずか数秒であったと思います。
この戦闘で杉山重機は15回以上弾の突込みを起こしましたが、
それ以外は好調で撃ちまくりました。
100発に一発位の割で入れてある曳光弾が尾を引き、
昼間とはいえ美しかったことを覚えています。
部落中央道路上に位置した敵擲弾筒の弾が、
前川機銃東前方10m位の所に「すほっ」と音を立てて落ちました。
前川はすばやく機銃を引き下げ身を伏せましたが、
弾は不発で白い煙を出したのみでした。
その後、擲弾筒の至近弾を2回も受けながら、
何れも不発であったことは幸いでした。
前川機銃は適時移動しながら射撃し、
且つ、しばしば弾の突込みを経験しました。
後方に我が擲弾筒部隊の林がいたので、
「源ちゃん擲弾筒は何で撃たんのか」と、怒鳴ると、
「弾を持った兵士がいなくて、弾無しだ」との返事が返ってきました。
その時、敵陣で物凄い爆発音と共に土煙が舞い上がりました。
それは山野が破甲爆雷を投げたものであったことが、
その後になった知りました。
「市来隊長はどうした」と、杉山が後ろで怒鳴りました。
「全然見ていない」と、答え、
ふと横を見ると、
山野小銃隊の兵士が軍刀を持っていることに気づきました。
「その軍刀はどうした」と、尋ねると、
「隊長は私の小銃を取り上げ、代わりに軍刀を残して、
山野小銃隊の方に行かれました」と、言いました。
戦況はいよいよ逼迫して来ました。
杉山が「市来さ〜ん」と3回連呼しましたが、
返事はありませんでした。
敵軍の左翼が迂回を始め、杉山重機の包囲体制を示しました。
重機の足元にも敵弾が集中し始めました。
一方重機の手持ち弾も少なくなったということで、
東の谷を渡って退避することとし、
前川機銃がしんがり部隊として退避援護をすることに決まりました。
その時、同時に杉山重機の射手、若林が「杉山さ〜ん」
と、悲鳴をあげ始めました(その時負傷、後日死亡)。
杉山は「後を頼むぞ!」と言い残して退去し始めました。
前川機銃は部落中央道路に位置している敵本陣めがけて射撃を続行しました。
敵の擲弾筒弾は方向違いに落下、破裂しておりました。
我が擲弾筒隊の林が杉山重機は後退したというので、
「擲弾筒も直ぐ退れ」と、退避させました。
前川は機銃を雨外套で巻き、
片膝を立てて機銃をその上にのせ、
射撃と移動を繰り返しながら、
我々機銃隊も後退し始めました。
広岡は樹銃弾2〜300発兵士から受け取り、
兵士も先に退却させました。
深さ50〜60mの谷の上まで後退してきた時に、
杉山重機は谷を下りきり、対岸の崖を登り始めている所でした。
それは丁度蟻の行列を連想させるものでした。
先に後退した杉山重機の援護の元に、
我々もスメル山中で1〜2と言われる深い谷を越え、
約30cm幅の細い崖道を約60mの高所まで這うように登り終え、
ゴム林に辿り着いた時には、緊張からの開放感も伴って、
兵器も投げ出してぶっ倒れました。
大地に身体を投げ出し、高ぶった気持ちも落ち着くと、
危機を脱出した安心感と共に心にも余裕が出来て、
谷越え時によくも敵さんは出てこなかったものだと、
前川とも話し合いました。
遮蔽物の少ない谷を渡っている際、
オランダ軍が追求して来ていたら、
我がゲリラ部隊はおそらく全滅に近い被害を受けたことであったと、
思われました。
その時又敵飛行機が飛来し、
アルジャサリ部落周辺を機銃掃射している音が伝わってきました。
敵軍は我々が南方面に後退したと判断した模様でした。
広岡にとってこの戦闘は初めての経験でした。
それに引きかえ杉山、前川は共に関東軍以来のツワモノであり、
適切な戦況判断とそれに基づく判断には頭の下がる思いでした。
おそらく市来隊長といえども、
そのような戦闘駆け引きは、真似が出来なかったであろうと思われました。
その後尚谷を越え、スンバル・アゴンの本体に合流したのは、
午後1時頃になっていました。
スンバル・アゴンの部落民も
既に今朝の戦闘のあったこと報を知っていて、
我々ゲリラ隊を手厚く持て成してくれ、
早速コーヒーや食事などの準備をしてくれました。
インドネシア兵士達は手まね足まねを交えて、
戦闘状況を住民に伝えるのでした。
そして、日本人部隊と行動を共にしていれば戦闘も間違いない、
との確信を持った様子で、
日本人を全面的に信用してくれるようになりました。
さて、一応満腹したので思い思いの場所を選んで仮眠休憩しました。
しかし、午後4時半になるも市来隊長と山野の消息が一向に得られず、
案じていたところ、2時間後の6時半、市来隊長を探して、
ダンピット方面を廻ってきたという山野が帰隊しました。
山野の話によると、
市来隊長は兵士の小銃をとって小銃隊に合流した由でした。
敵味方至近距離の戦闘でしたので、
相互共に中腰に腰を浮かさねば相手が見えにくい状況であったことから、
市来隊長が敵を求めて腰を半ばあげた途端、
敵の自動短銃が火を吹き負傷されたと言うことでした。
山野は直ちに兵士2名に市来隊長を後送する様指示し、
自身は破甲爆雷を敵中投げ込み、
敵部隊を威嚇した後、
周囲を見回した時には、
既に部下の兵士は1名もいなかった由でした。
山野は市来隊長がすでに後退したものと思い、
自身も後退し始めたが、
途中注意するもそれらしい様子は、
見られなかったということでありました。
その後も市来隊長に関する情報を集めるも、
一向に消息は判明しなかったことから、
山野に兵士数名を配し、
ダンピット方面を再度調査してもらうことになりました。
翌日1月4日早朝、山野を長とする市来隊長捜索隊は、
スンバル・アゴンを出発しました。
捜索隊は一日半を費やし、翌5日午後帰隊したが、
報告によると市来隊長らしい消息はつかめず、
ダンピット方面で負傷手当中という噂は、
全く誤報であることが判明しました。
再度協議の結果、
翌6日アルジャサリの戦闘現場を捜索することとし、
朝の9時半、日本人と小銃隊員が捜索隊を組織し基地を出ました。
再び谷を越えてアルジャサリに到着したのは、2時間後でした。
アルジャサリ部落の上方から捜索隊は一列横隊に展開して、
部落に下がりながら戦闘現場を探すも、
市来隊長に関連あると思われる兆候は何一つ得られませんでした。
又、アルジャサリの部落民を集め情報聴取するも結果は同じでした。
丁度戦闘のあった当日は、
敵飛行機の銃撃で部落民26名が死亡したことから、
事後処理に追われ、その後まだ畑に出た者もないということでした。
丁度その時、林が駆け込んで来て、
隊長の遺体が見付かったと知らせてくれました。
其処は、小銃隊が戦った東側の谷に縁に小さな畦道がありましたが、
高い草に覆われて、且つ、谷側に遺体がずり落ちていたため、
畦道から見えなかっためでした。
林も一端そこを通り過ぎたが死臭で気づき、
発見することが出来たということでした。
市来隊長は、頭部に被弾されていることより、
即死されたものと思われますが、
隊長後送を指示された2名の兵士は、
隊長を後方に引きずった際、隊長の身体が谷にずり落ちた為、
そのまま遁走したものと思われ、
その後姿を現さず、詳細不明のままとなっていたものでした。
さて、市来隊長は谷の縁2〜3m下った窪みに、
崖の斜面に背をもたされ座ったような格好で、
頭をあげておられましたが、
ご遺体はすでに腐敗し始めておられました。
住民の協力を得て、ご遺体はとりあえず現場に回教式で仮埋葬しました。
石碑代わりに約50cmの大竹を半分に割り(約15cm)、
その内側に持ち合わせた青い色鉛筆で次のとおり、
広岡が弔文を書きました。
Majar ABD,Rachaman/ Tsatsuo Ichiki
Umur 43 Tahun
Gugur: Tgl 3-1-1949 Djam:07.30
Pertempuran Ardjasari
Sumber-Putih, Dampit ,Malang
少佐 アブトラ ラハマン / 市来竜夫
年齢 43歳
戦死: 1949年1月3日 時刻:07.30
スルバル・プティ ダムピット、マラン
なお、市来隊長の致命傷は右目上の額より右耳下への銃弾の貫通によるもので、
他の一発は左耳を擦傷し、もう一発は鎖骨部を貫通しておりました。
さて、市来隊長亡きあとの特別ゲリラ隊は、
スラルディ杉山大尉を隊長として選出しました。
その後の1月16日、故市来隊長の部隊葬を行い、
村民列席のもとアルジャサリ村落近くの墓地クドスに移葬しました。
後日、独立戦争の終わった1952,1953頃、
マラン英雄墓地に再移葬の話が出ましたが、
アルジャサリ、クドス部落民から
私たちの父であり、独立戦争の戦死であるアブトラ・ラハマンの霊は
戦死されたこの地で今後私たちが守りたい、
と強く要請があり、再移葬はされませんでした。
清らかな大気の下、絶景の地スメル南麓に永眠する市来隊長も
愛して止まなかったインドネシア住民の要望に満足されていることと思います。
追って、日本人8名にインドネシア兵を配した小部隊が、
完全武装のオランダ軍一ヶ中隊を相手に1時間半激戦した事は、
イ国民からも想像以上高く評価されることになりました。
それまでは日本人に対し、半信半疑の懸念もあった様ですが、
それも一掃され、爾後は全面的に信用されるようになりました。
尚余談となりますが、
上述アルジャサリ戦闘で日本人部隊の予想以上の反撃に会ったオランダ軍は、
相当の被害を蒙ったことからも日本人部隊の戦力を一ヶ中隊以上と推定し、
マランより一ヶ中隊の増強を得たオランダ軍2ヶ中隊は、
我々日本人部隊の掃討作戦を展開しました。
その掃討作戦は、同年2月27日のウォノコロ戦闘で、
オランダ軍は小さな山、パンダンサリ山に拠る我がゲリラ隊を
早朝より包囲攻撃し、激戦半日、
オランダ軍中佐以下25名以上の戦死者を出して引揚げたものでした。
それに反し、イ国側戦死者は1名でありました。
しかもオランダ軍は当日全遺体を収容できず、
5〜6体(内1名は女性将校)を仮埋葬して残置したことから、
翌28日早朝からウォノコロを砲撃すると共に飛行機の援護の下再度来襲、
遺体を収容していきました。
引揚げに際して途中の村々に火を放った由で、
トレンのオランダ兵舎では一週間半旗を掲げた由でした。
なお、このウォノコロ戦闘は
イ国独立戦史にも明記されていると聞いております。
1987年6月 広岡 勇
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