ジャワ島の残留日本兵
田中年男 小野寺忠雄 広岡 勇 小野 盛 桶 健行

桶 健行 の証言


インドネシア独立戦争を戦った残留日本兵で氏名の分かっている者は903名いる。
903
名の大方の年齢は24歳〜27歳であり、20歳以下となると30名しかいない。
これら20歳以下の若い日本兵は敵の前線で戦ったためかほとんどが生きて戻れなかった。
20
歳以下で生きて戻れた日本兵はたったの5名しかいない。
その5名のうちの一人、桶健行の証言を紹介する。
彼は柔道4段であり、インドネシアの柔道普及に貢献している。
若いときから身体を鍛錬していたのだろう。
また、彼は日本軍離隊にあたり、
あらかじめインドネシア軍に連絡をとり、
武器を満載した小型トラックで、イ軍に乗りつけている。
剛健なだけでなく胆力もあったのだろう。
彼の郷里は、石川県の美川町である。
美川町は、私が中学まで育った町である。
郷里の英雄として、誇らしく彼の証言を紹介したい。




私の独立戦記


(証言の残留日本兵)

桶 健行
1926
110日生まれ 石川県出身
16
軍野貨廠 二等兵

(
証言)




インドネシア国軍より歓迎される

19462月、
私はバンドン地区、ダユロット村に駐屯の
日本軍火薬兵器庫・兵器廠・伊藤隊から離隊した。

私は兵器を満載した小型トラックを運転し、
独りでTNI(イ国国軍)の前身であるBKR(人民治安隊)の
TRI(イ国人民軍)に入隊した。

そのTRIは当時南バンドン地区守備隊であり、
アブトラ・サレー部隊であった。
日本軍軍政時に義勇軍大団副官であったアブトラ・サレー部隊長に、
前もって連絡していたので、私は大歓迎された。

アブトラ・サレー部隊は大隊編成で、兵員数は約500名であった。
兵器は日本軍の重機関銃3丁程あったと思う。
其の他迫撃砲5門、擲弾筒数筒並びに軽機関銃、
自動短銃、小銃等で数百丁、数は相当揃っていた。
アブトラ・サレー部隊長の話によると、
これ等兵器は日本軍の兵器製造工場の幹部から
入手したとの事であった。



日本軍離脱の意志変らず

部隊にはもと義勇軍兵士や
元日本軍兵補達が大勢いたので、
取り敢えず言葉は何とか間に合った。
彼等のほとんどが簡単な日本語は話せたからだ。

又程なく私の原隊、兵器廠伊藤隊が
私を探していると言う噂を耳にした。
然し、私の意思は変わらなかった。

1946年の半ば頃には、
インドネシア独立軍とオランダーイギリス連合軍との間の
戦闘が、各地で盛んに行われていた。
アブトラ・サレー部隊にいた日本人は私1名だけだったが、
私も丁度満20才、恐いもの知らずの年令であった。



偵察の途中、敵に見つかるも危うく逃れる

其の様な或る日、
私は部隊長よりゲリラ戦展開の為の敵連合軍の兵力、
配置並びに地形等の偵察を命じられた。
当時我が部隊はチタルム河を挟んで、
敵連合軍と対峙していた。
そしてチタルム河を渡る鉄橋は、
我が軍によって既に破壊されていた。

朝7時、私は部下2名と共に部隊を出発し、
チタルム河を渡った。
私の身に付けた衣服は住民から借りたもので、
汚れた上着と半ズボンに、
首からサロンを襷(たすき)に掛けたものであった。
部下たちも一般民服に大笊(ザル)を担っていた。

勿論私は顔や手足に泥を塗って素肌を隠していた。
私は部下と共に中央をさけて道路脇を歩いた。
道路上には猫一匹姿を見せず、
無気味な静けさに包まれていた。
其処はバンドンから数キロ離れた敵軍の駐屯地帯、
パラッサリー周辺であった。

天候が急に崩れ、雨が降り出したと思う間もなく大降りになった。
周囲を見渡しても、
近辺には雨宿り出来る様な民家も小屋もなっかた。
已むなく雨中を進むうち、折角手足に塗った泥が雨で洗われ、
徐々に素肌が現れてきた。
悪い事に、前方から兵士を満載した敵トラック数台が、
装甲車を先頭に近づいてきた。

敵に身分が知られたら射殺される事は明らかだ。
絶体絶命とは此の事だと肝に銘じた。

トラックが眼前に近づいてきた。
私は俯いて歩いた。

若しトラックが停車したら、
私は懐中の榴弾で自爆するのみと覚悟した。

振り返って部下を見ると、まるで死人の様な顔色をしていた。
トラックは1台又1台、私の脇を通り過ぎていった。
私は村人らしくとぼとぼと歩き続けた。

そして最後の敵トラックが過ぎ去った時、
私は道路端の田圃に飛び込んだ。

後方約100mで敵トラックは急停車し、
敵兵がトラックから飛び降りる姿が見えた。

私は部下と共に腰をかがめて走った。
後方から敵機銃の乱射音が聞こえてきた。

幸い稲が高く伸びていて私達を隠してくれていた。
敵弾も他方にそれて危機を脱した。

途中私達は何度か部落を過ぎ河を渡った。
そして安全地帯に入って部落で1泊し、
部隊に帰りついたのは翌日の午後であった。



敵軍攻撃を試みるも失敗する

其の後約1ヵ月間は何事もなく過ぎたが、
次はバラッサリー駐屯の敵軍を攻撃すべく準備に入った。
兵力200名で夜間攻撃をしかける事にした。

時は1946年の秋だった。
部隊は態勢を整え、午前2時基地を出発した。

私は元義勇軍小団長であったモハマッド・サニー中隊長と2名で、
部隊の先頭に立ち夜道を進んだ。
敵陣に約300mの所まで隠密前進した我々は、
部隊を左右に展開させた。
当夜は月夜で明るく、午前3時頃であったと記憶している。

部隊は戦闘体勢のまま待機させ、
私と中隊長モハマッド・サニーの2名だけで尚匍匐前進し、
敵前50m迄忍び寄った。

敵の歩哨2名が衛兵所横の土のうに寄りかかって、
互いに何かを話している姿が見えた。
オランダ兵の様だった。

其処から先は私だけで行く事とし、
モハマッド・サニー中隊長にはそぼ場を動かぬ様指示した。

私は這って尚10m進んだ。
敵兵は全く気付いていない。
私の考えは、独りで敵陣に跳び込んで行き、
敵兵2名を軍刀で刺殺し、
其の後衛兵所へ手榴弾を投げ込む事を先ず考えていた。

現在になって想うと、
どうして其の様な乱暴な捨身行動を考えついたのか、
私自身にも分からない。
それにしても、良く今迄生きながらえたものだと感無量である、

私は軍刀を握って尚這い進んだ。
そして、もう一息で敵陣に飛び込もうとした寸前に、
後方で待機している筈のモハマッド・サニー中隊長が、
突然身を起し、私の所迄走り込んできた。

何を勘違いしたものでしょうか。
「あっ」と思った瞬間、敵の自動短銃が火を吹いた。

私は咄嗟に道路脇溝に飛び込み、
敵陣に向かって手榴弾を投げつけた。
それは反射的な無意識による行動であった。

敵弾は数知れず頭上をかすめ、夜気を引き裂いて飛び去った。
被弾したものか私の帽子も消えうせていました。

作戦は失敗した。



敵弾が手首を貫通し負傷する

敵軍は緊急体制をとっている様子であった。
後方に待機中の我が部隊からの援護射撃が始まった、

私は這って後退し始めた。
突然右手首が物凄く熱く感じた。
同時に右手が利かなくなった。
敵弾が手首を貫通したのだろうか。

又、右膝上も急に熱く感じると同時に痺れ動かなくなった。
痛みは何も感じない。
痺れは、右腕、右足全体に襲ってきた。

こんな所で死んでたまるものか。
全力を尽して溝を越え、田圃に入り込み、
左手、左足で必死で後退した。

戦闘状況は夜の事とて彼我両軍共に前進せず、
敵軍は専ら敵地の守備に徹した様であった。

何時間経過したのだろうか。
何時しか銃声も聞こえなくなっていた。
我が軍も恐らく後退したものと思われる。
私はモハマッド・サニー中隊長の安否が心配になって来た。
果たして生きて逃げ切れたであろうか。
私は自分自身の命以上に、戦友の安否が気になった。

夜が白々と明けて来た。
私は小さな丘に疲れ果てて横になった。

何処をどの様に歩いて来たのか、皆目見当もつかない。
幸い私はチタルム河の近くまで辿り着いていた様であった。

私を捜していた中隊の兵数名に会ったのは、
其の後間もなくの事であった。

彼等が私を戸板に乗せて歩き始めたまでは知っていたが、
其の後は失神したらしく何の記憶もない。
気が付いた時には、
チチャレンカの市民病院に収容されていた。
“助かった”と私は思った。

其処から又直ちにタシック・マラヤの総合病院へ車で移送された。
幸い私の傷は手首の骨を少々砕いただけであり、
又膝上の傷は肉を削り取られた程度であった。
医師はドイツ人であった事を記憶している。

タシック・マラヤの病院には、
右指3本を失って入院していた故海和氏がいた。
私は彼の隣のベットに寝かされ、
結構楽しい入院生活をしたと、今でも想い出す。
地元婦人会や女学生の慰問を受け、
日本の軍歌等を歌ってくれた事など、
私は一生忘れる事はないだろう。

尚、モハマッド・サニー中隊長も無事であった。
其の後彼は陸軍准将まで昇進した後退役、現在に至っている。



味方軍、地雷に触れる

1947年の春、私達アブドラ・サレー部隊は、
タシック・マラヤに部隊本部を置いていた。
前線はバンドン南方、マジャラヤとチバライの中間の
クラレット部落地区に、第1、第2中隊をおいていた。

又バンドン東方、ウジュンブルン部落地区に、
第3中隊を配置していた。

バンドン地区TRIに、正規軍として西部ジャワ第1師団と稱され、
俗にシリワギ師団と呼ばれていた。

そして師団長はAHチスティヨン大将であった。
私達アブドラ・サレー部隊は第5大隊、
叉は赤熊大隊(Batalyon Seruang Merah)と呼ばれた。
前線の状況は相変わらず小競り合いが続いていた。

私が負傷入院中にも、
敵オランダ軍は大砲を押したてて我々前線を攻撃して来た事があり、
其の際のっ戦闘で味方数名が戦死した由である。

ある時、
私と中隊長モハマッド・サニーは部下8名を従え、
敵軍パトロール地域内の状況偵察をする事になり、
武装して部隊本部を出発した。

敵地域にはいって私達10名は、
道路脇を左右に別れて注意しながら歩いた。

私は右側の先頭を進み、左側の先頭は兵士某であった。
突然、身が裂かれんばかりの大爆発音と共に、
私は爆風で吹飛ばされ、
よろけて前方に押し倒された。

咄嗟に敵の砲撃と判断し、
「全員地に伏せろ」と怒鳴った。
地面にしがみついて数分過ぎた。

然し予期した第2弾が飛んで来なかった。
私は不思議に思って頭をあげ、周囲を見廻して驚いた。
左先頭を進んだ某が、2メートル先に倒れている、
変わった姿が見られた。

一瞬何が起きたのか分からなかったが、
誰かが「地雷にやられた」と叫んだ。
某の身は、ばらばらになって飛び散って居たのであった。
私は全員道路脇に降りる様に指示し、
飛び散った5体を捜させた。

鳴呼無惨!
首は5メートルばかり先の鉄柵の中の落ちていた。

兵士達に肉片のひとつひとつを拾い集めさせ、
私も片足の肉片を拾った。
人間の命の余りにも儚いものである事を知らされた思いであった。



オランダ軍への総攻撃に参戦

其の後私はバンドン東方のウジュン・ブルンへ行き、
我が部隊の第3中隊が展開している前線を見て廻った。

中隊は5門の迫撃砲をスカミスキンに据えていた。
あたかも我TRI(正規軍)全部隊による、
バンドンの敵オランダ軍に対する総攻撃の寸前であった。

我が第3中隊の任務は、
迫撃砲による我が攻撃部隊の援護攻撃任務であった。
愈々我が軍による総攻撃が始まった。

時刻は朝3時頃であった。
敵の正面を行く部隊、
横手の丘から発進した部隊、
各々前進を開始した。

我が第3中隊は早くから迫撃砲の射撃準備をしていた。
前方を行く部隊からの、射撃開始の合図信号が打ち上げられた。
わが中隊は、一斉に撃ち出した。
前線の状況はさっぱり分からなかったが、
我々は迫撃砲を撃ちまくった。

それは何時間続いたのであろうか。
前線での我が軍の攻撃は何時しか止んで、
友軍はどんどん後退して来た。

皆疲れ果てている様子であった。
戦果は何も分からなかったが、
私達は彼等を迎えて其の労をねぎらった。

それから程無い朝の9時頃であったろうか、
我が中隊は敵野砲の一斉射撃を受けた。
強い笛を吹いた様な音声がしたと思った瞬間、
「だ、だ、だーん」という炸裂音が空気を引き裂いた。

私は咄嗟に道路脇の溝に身を投げ込んだ。
敵砲弾は引き続き落下炸裂した。
砲弾の弾着は後方から始まって徐々に前方に移り、
又後方に戻った後、再度前方に移すといった要領の繰り返しであった。
飛弾音と共に起きる炸裂音は、
弾着の近い事を示して肝を冷やし命のちぢむ思いであった。

横20メートル先に砲弾が落ちた時は、
石と土を頭から被った。

溝に身を伏せている私の身体の上に、
2
名の部下が重なって身を伏せていた。
矢張り独りでは恐ろしいのである。

大気を引き裂く被弾音が頭上をかすめたと思ったら、
2メートル先に「ドスッ」と土中にめり込む弾着音を聞いた。

瞬間土を握りしめて眼を閉じた。
しかし爆発は起きなかった。

私は身体の力を抜いて、そのまま身を横たえていた。
砲声が止んで周囲が静かになった。

私はのろのろと起きあがって付近を見渡した。
近くに砲弾が不発のまま土につきささっている。

また々私は何度目かの命拾いをしたのであった。
部下が近づいて来て、不発弾に触れようとした。
私は強く部下を制し、触れさせなかった。
敵の報復攻撃で、後方の味方数名が負傷したと言う事であった。



市民から激励される

それから数日の後、
タシック・マラヤのの大隊本部から、
アブドラ・サレー大隊長自身に案内されて、
2名の日本人が我々の居る前線に現れた。
2人はスパルミン赤松兄とスパルマン吉田兄であった。

彼等は共にバンドン駐屯の日本軍航空隊を
離隊して来た由である。
年令は大正末期生まれでほぼ同年輩であった。
それまで独りであった私は、2名の同胞を得て誠に力強かった。

私達は互いに頑張ろうと誓いあった。
私達3名は、距離20kmあるバンドン南方前線と
東方前線の間を3日に1回往復し、部下を指導した。

其の間戦闘らしい戦闘もない平穏なひと時であった。


バンドン総攻撃から数ヶ月の或る日、
突如師団命令で私達第5大隊は、ジャカルタ地区前線へ
転進する事になった。

我が部隊のチカンペック・クラウン前線への移動は、
当時としては堂々とした立派なものであった。
第1中隊を先頭に第2、第3中隊と続き、
其の後に大隊本部の順に兵営をあとにした。

タシック・マラヤの市民は街頭に出て部隊を見送ってくれた。
私も部隊と共に行動し、多くの人々から激励の声を受けた。

それはかって故国をあとにした当時を偲ばせると共に、
暖かい心の満ちたりた幸福感を感じさせるものであった。



休暇願いを出し、部隊を離れる

タシック・マラヤ駅より汽車で一旦チボレンに出て、
其処からチカンペックへ向かった。

さて前線に到着して初めて知った新しい任務とは、
現地の民兵部隊の勢力が余りに強い為に、
それ等の鎮圧であった。

即ちLaskar Rakyatと呼ばれ、
Pesindo(社会党所属)Napindo(国民党所属)、
Isbulah(回教政党所属)、其の他の武装集団が、
勢力争いの為に互いに敵対していた。

後になって聞いた話では、
これ等民兵組織間の戦いで相当数の犠牲者を出したとの事であった。

此の民兵勢力の鎮圧作戦は、
同民族間の戦であり、
民兵側にも我々の様な日本人が居ると聞いている。

果たして我々外国人が内戦に参加す可きであろうか。

私は理由を述べずに部隊長に休暇願いを出し、
タシック・マラヤに再び引き返してきた。

赤松・吉田両兄は我々の部隊にはいって日も浅く、
無理を言えぬ立場にあった為、部隊と行動を共にした。
それが両兄との最後の別れとなった事を後になって知った。
彼等は其の後数ヶ月間に、果厳な最期を遂げたのであった。

いまになって考えると、
無理をしてでも一緒にタシック・マラヤに、
引き返す可きであったと悔やまれてならない。

私はタシック・マラヤで種々の情報を待ちながら、
既に、退院して休養中の海和と共に暮らした。

然し其の後、彼はタシック・マラヤを去っていった。
一方、タシック・マラヤで既に結婚し
、所帯を持っていたフセン塙兄と初対面した。
同期のよしみで親しく交際させてもらった。



敵襲により部隊は全滅に近い打撃を被る

其の後塙兄の紹介で、
塙婦人の出身地シンガパルナのイスラム教の長老に会い、
イスラム教入信の割礼の儀式を受けた。
その時の情況は別の機会に述べる事にする。

さて19477月、
オランダ軍が突然西部ジャワ全都市に対する攻撃を開始した。

先ず敵軍は、戦車・飛行機・大砲等を持って、
ジャカルタ方面の我が前線部隊を突破し、
そのままチレボン迄侵入して来た。

一方バンドン方面も同様で、
敵軍は我が前線部隊を攻撃、突き破って、
タシック・マラヤ迄進出して来た。
敵は大兵力であった。

勿論ジャカルタ戦線同様、戦車・飛行機・大砲を装備していた。
そして飛行機は、専ら偵察と機関銃による掃射攻撃に任じられていた。

私はタシック・マラヤで敵軍の攻撃に遭遇した、
一人では戦う事も出来ず、
一歩一歩後退しては又様子を見、又、後退した。
そして落着いた所はイスラム教に入信したシンガパルナであった。
その時には、既にガルット地区に駐屯していたシリワギ師団の
第3並びに第4部隊は山越えし、
師団司令部と共にシンガパルナに後退して来ていた。

すでに土地の娘と結婚していた海和兄宅に、
私は泊めてもらって世話になった。
そして3人で情報を交換すると共に、今後の事について話し合った。
ジャカルタ前線、クラワン地区に展開した我が赤熊部隊の安否も心配であった。
皆無事に後退出来たであろうか。
我々3名は相談して近くの師団司令部に行き、
参謀長サラギ中佐に面会した。
そこで私の所属部隊である第5部隊、別名赤熊部隊の消息を得た。
部隊は敵襲によって全滅に近い打撃を受けた様子であった。


ただその一部の少数が、
タシック・マラヤ南方50kmの地区に集結しているとの事であった。
参謀長サラギ中佐は我々3名に対し、
シンガパルナ駐屯部隊のゲリラ作戦に協力方要請した。
そして紹介されたのは、
シリワンギ師団特別部隊の隊長チトロス少佐であった。
私はそれ以来、その特別部隊に所属し、
ゲリラ作戦に参加した。


タシック・マラヤーガルット間の地域で、
敵パトロール部隊を攻撃したり、
時には砲弾を改造したものを道路に埋め、
敵軍トラックの通過時それを爆発させ、
同時に崖の上より攻撃して、敵の兵器を奪ったりした。

一方、塙定正兄や、今は既に亡い海和敏雄兄は共に元気で、
他の部隊で戦っていた。

尚、其の後得た情報によると、
スパルミン赤松兄は友軍が敵軍に包囲された際に脱出出来ず、
敵軍の捕虜となり、以後消息を断ってしまった由である。

又、スパルマン吉田兄は、
敵襲時味方数名と共に後退し、
タシック・マラヤ南方の海岸地区に集結したのであるが、
悪性マラリヤに冒されて病死されたとの事である。