ジャワ島の残留日本兵
田中年男 小野寺忠雄 広岡 勇 小野 盛 桶 健行

田中年男の証言
 
証言者、田中年男について


(証言者)
田中年男
1917年2月8日生 福岡県出身
第16軍憲兵隊 憲兵軍曹


田中年男は、小野寺忠雄と同様に憲兵出身である。
彼の証言には、
日本軍時代に憲兵だったという自負があちこちに見え隠れする。
そうした自負があったからだろう。
彼の戦闘は、少々あらっぽい。
が、そこに行くまでの作戦は用意周到である。
その辺を田中の証言から汲み取っていただければありがたい。

さて、
2012年12月12日の弊ブログ=阿部頌二で書いているが、
日本人とインドネシア人の間に、スマラン事件というのがあった。

このスマラン事件で相当な活躍をした田中年男は、
その後、インドネシア軍のいくつかの所属を経て、
KPI秘密師団に籍を置くこととなった。

このKPI秘密師団であるが、
100%独立派の地下集団であった。

兵力は、2万人をくだらなかったようで、まさに「師団」であった。
(註)旅団は2000~5000人、 師団はその上で1万~2万人。


地下集団だから、停戦協定があってもそれを遵守する気はない。
「独立か死か」で、最後までオランダ軍と交戦し、
完全独立を希望すると共に、これを勝ち抜き勝ち取る目的をもって
設立された集団である。


このKPI秘密師団に身を置いた田中は、
その時の心情をを次のように書いている。

KPI秘密師団は、
我ら日本人逃亡者と最後まで運命を共にすることができる、
唯一無二のインドネシア部隊である。 
この有力部隊に参画できたことは、全く天佑といわねばならない。 
この師団に置いて和戦両時に備えることを固く決意する。


KPI秘密師団の目的を明確に知った田中は、
入団すると直ぐに、カマギ師団長に、
目的を共にする日本人達が東部ジャワにいることを伝えた。
それを聞いた師団長は、大いに喜び連絡を取り合うため、
田中を東部ジャワに出向させることになった。

ということで、ここから田中年男の証言を始めます。

吉住に戦闘を約束する

(証言)

直ちに東部ジャワのケデリーに出向し、山口に面接の上、
KPI秘密師団の実情を説明すると、山口は非常に喜んだ。
そして、吉住・市来を紹介してくれた。

吉住と市来は、東部に集まった憲兵を主力とする逃亡者をもって、
日本人部隊を編成することを考えていた。
そして、逆に私にその日本人部隊への参加を頼んできた。

私は、KPI秘密師団に所属していることを理由に断ったが、
ゲリラ戦における行動にあっては、その同目的のためには、
互いに協力して成果をあげるよう努力することを約束して、
ジョグジャカルタに引揚げた。

師団に帰り、カマギ師団長にそのことを報告した。
師団長は、報告を受けた後、
師団の現状として、使命達成のための行動が着々と進み、
軌道に乗っているという説明があった。
心強い限りであった。



日を変えて、ケデリー市内に行った時、
再び吉住と会う機会があった。
吉住は、インドネシア独立宣言以来の政治家の活動状況を
あらゆる角度から検討してまとめている最中であった。

橋本が傍で筆記している。
結核が悪化している吉住は、自分で書くだけの気力がないようである。
顔色も悪い。

挨拶するといきなり「刀を見せてくれ」という。
元気なところを見せようと努力している様である。

「菊一文字か、立派なものだ」と、讃めたあと、
「私のは胴田貫だ」と、長く重そうな刀を抜いて見せた。
実践用の刀である。
背の低い吉住には似合わない長刀である。


雑談の後、真剣な顔にかえった吉住が
「君にあらためてお願いがある」
「オランダ軍占領下にある敵地工作をやってもらいたい」
「今一度、スマランで活躍したように、この東部地区で暴れてもらいたい」
「それがこの地に集まっている日本人の一致した意見である」
と、懇願する。

そこで、
「スマランは指導者に多数の知人がいました」
「彼らの強力を得て動いたに過ぎません」
「その結果は、日イ双方に多数の犠牲者を出す羽目になりました」
「私にとって、東部ジャワのマラン地区は未知の土地です」
「ひとりの知人もいない状態です」
「あなた始め日本人多数の見当違いであります」
と、意見を述べた後、
市来以下が移動している、ウリンギイ部落に向けて出発した。


ウリンギイで市来に面談すると、市来は非常に喜び、
一片の紙片を取り出して、これが日本人部隊の編成表である。
と、次を見せてくれた。

隊長: 吉住
副隊長: 市来
庶務班長: 越智
情報連絡班長: 山口
民衆工作第一班長: 谷本
民衆工作第二班長: 中村
民衆工作第三班長: 井上
敵地工作班長: 田中

隊長以下の日本人の配置もきちんと決められていた。
各班には、2ヶ分隊(15~ 25名)のインドネシア兵が分担配属されていた。
この日本人部隊での元16軍憲兵は、9名であった。


それから数日、私は市来と共に行動した。
その時、吉住が日本人部隊に立ち寄った。
転地療養のため、セゴン農園に行く途中であった。
吉住は担架で運ばれていた。

市来に後事を託した吉住は、私に対して、
「とにかく、東部ジャワのマランで暴れてくれ」
と、繰り返しながら握手する。

氷のように冷たい手で、しっかり握る手には、
全身の力が集中しているようであった。
その真剣な目差しを見て気の毒になり断りきれず、


「引き受けました」
「近日中にマラン地区で暴れてみせますから見ていてください」
「今後は療養専一に務められて、一日も早く全快されることを祈っております」

と言って励ますと、

「有難う、有難う」と、
何回も繰り返して、かすかに微笑する。
吉住は再び担架に乗ってセゴン農園に登って行く。
看護の野口夫妻が後からついて行く。
見送りながら、市来と顔を見合わせる。

事前工作を画策する

住吉に暴れることを約束した田中年男だったが、
不案内のマラン戦線で、しかもオランダ占領地域において、
戦闘に向けて住民の工作をするには、
尋常の手段では不可能であろうと判断した。

で、荒療治以外に方法がないと決めた。

非常手段として、オランダ軍占領地区内で一線を交えた後、
住民工作の糸口をつくることにしたのだ。

田中は、そのことを市来に説明して諒承を得た。
その後、情報連絡班長の山口と打ち合わせた。

で、まずは、作戦に協力してくれる、
インドネシア軍の兵力の確保から始めることにした。

ここからは田中年男の証言を転記する。


(証言)

山口の進言を受け、最初に会ったのは、
ルマジャン戦線の大隊長(大隊=300~1000人の兵力)であった。

民情についての質問をするも解答に要領を得ず、
頼りにならないと、この部隊の利用を諦めた。


山口をうながして、次の候補である、
PT分遺隊の部隊長と面談した。
先刻の大隊と大同小異であった。


そこで、第3候補の
クパジェン第13旅団(旅団=2000~5000名の兵力)を訪問した。
ジャイナルアリヒン旅団長に挨拶して、訪問の趣旨を説明すると、

「丁度よいところに来てくれた」
「今日の作戦会議でマラン地区の部隊長にゲリラ戦の指示をしたところだ」
と、前置きして、旅団参謀に兵用地図を持って来いと命令する。

そして、机の上に地図を広げて、
オランダ軍占領地区の中の各部落を説明しながら、
敵兵力・民情連絡員の所在に関して詳細に説明する。

吉住の息がかかっているので、さすがに違うと感心する。
この部隊となら、やれると判断する。

旅団長に協力を依頼すると無条件で同意してくれた。
直ちに、クジャ地区前線の大隊長宛書類を作成してくれた。

それは、旅団配下のワジャ地区前線のジイン少佐あての命令書であり、
爾後、田中年男の日本人部隊が貴地域で行動する場合には、
全力をあげて合流し、その命令指示にしたがうこと、と書かれていた。

これがあれば、ジイン大隊(300~1000名)の一部、
または、全部の協力を求めることができる筈である。

……


ということで、
協力してくれるインドネシア側の兵力の確保ができた、田中は、
次の準備として、イ国警察の協力を得る工作を始めた。

何故なら、時は、レンヒル停戦協定により停戦中である。

敵軍地に入るには、協定に従って第一線を警備している、
イ国警察の警備地域を通過しなければならない。
通過の際、警察から邪魔をされてはならないからである。

戦う前に、イ国側に暗黙の了解をとるという、
事前工作が必要だったのである。
その事前工作について、彼の証言を以下に転記する。



(証言)

まず、日本軍政時代、高等検察官であり、
現内務省の治安部隊の治安部長であるスプラト宅を訪問する。
かねてよりの知人であった。

私は、次を言い放った。
「来る8月31日、オランダ軍哨所を攻撃します」
「警察の警備地域を通過せねばなりません」
「その際は、黙認してください」
「貴方がダメだと言っても私は決行いたします」
「もし警官が通過を拒否した場合、やむなくこれを強行突破します」
「以上のこと、あらかじめ承知ください」

その返事は、
「無茶なことは止めてくれ」であった。

が、同時に、
「広範囲な警備地域故、警察官不在の場所がある筈だから」
「その間隔を見出して通過することも可能であろう」
とも言われた。

その返事で、先ずは大丈夫であろうと判断した。


次に、BPRI本部の大元締めであるストモ少将に面会を申し込んだ。
初対面の挨拶が終わったあと切り出した。

「あなたの部下であるBPRIの部隊を指揮して、8月31日オランダ軍哨所を攻撃します」
「ついては、少将の意見を承りたい」

ストモ少将は、無言のままで返事がないので、
さらに付け足して言った。

「貴方に許可をもらいに来たのではありません」
「貴方が反対しても本計画は予定通り実行します」
と言って、立ち上がると、

同時に立った少は、あらためて強く握手したあと、
「大賛成である」と言ってくれた。


次に、マゲラン中部ジャワ副総督ウイナルノに面接した。

「8月31日オランダ軍哨所を攻撃します」と説明した。
と、「官吏である私は、本件に対して絶対反対である」
との、予想外の返事が返ってきた。

「貴方が反対されても、必ず実行します」と言うと、
「まあ、落ち着いて話は最後まで聞いてくれ」
「官吏としては絶対反対だが、インドネシアの一国民としては大賛成である」
「成功を祈る」と言って、激励された。


さらに、同行した日浦(日本兵)を派遣して、
キアイビル部隊の責任者スカルモ・ケンダル県知事と、
サラモコ・ケドウ州長官にも計画を話し、協力を依頼した。
以上がジョグジャカルでの事前工作である。



次にソロに向かい、ソロ市内で、
バンテン部隊長イスカンダル大佐に面接して、
東部ジャワでの戦闘開始と共に、ウマングン地蜂起の件を説明した。

イスカンダル大佐もこれに同意し、
サラテガ地区ゲリラ隊長のサストロ少佐を紹介してくれた。

サトスロ少佐も日本人部隊に呼応して、
サラテガ前線におけるゲリラ活動を活発化することを約束してくれた。


さらに、トンバン地区のボスであるインドネシア人を味方につけた。
度胸がよくて頭の回転が早く、身軽で責任感旺盛であった。
情報収集に当たらせることにした。
「ネコ」と命名する。
その後、「ネコ」の活躍は驚くばかりであった。

吉住逝く

さて、こうして事前工作を終えた。
もう決行までの期日は余すところ僅かであった。

田中はジャワ前線の大隊本部に急行した。
インドネシア兵の協力を得ることが本当にできるかどうか......
を、前線の現場で確認しておくためである。

ジイン少佐に面接し、第13旅団の命令書を提示した。
少佐は、協力することを確約してくれた。

以上で準備は整った。

ついで、田中は、
ワジャ正面のトンバン地区のオランダ軍の情報収集を行った。

集まった情報を分析し、検討した結果、
攻撃目標をキダル・オランダ軍硝所に決定した。

そして、
その攻撃目標のオランダ軍の兵力装備・陣地の状況、
及び付近部落住民の動向について、
綿密に、また周到に内偵を始めた。

そんな時であった。

ウリンギイより山口が来て、吉住が死去したと言う。
今日の通夜と明日の葬儀に参加するようにとの市来からの手紙があった。

田中は、大隊長ジイン少佐と「ネコ」に、
敵情報収集を続行するように依頼し、山口と共にウリンギイに引揚げた。

ウリンギに着いた後は、田中の証言どおり転記(一部省略)する。


(証言)

吉住の遺体はゼコン農園よりウリンギイに移されている。
日本人部隊の全員が集まっている。
ハイルデン以下、インドネシア人の顔も多数見受けられる。
吉住の霊前にぬかづき、焼香して合掌し冥福を祈る。

数日前この部屋で、
「スマランで暴れたように東部ジャワで暴れてくれ」
と言った吉住の声が聞こえてくるようである。

必ずやります。
8月31日に決行します。
何故にその日まで待ってくれなかったのですか。
ちょっと早すぎました。
私は今、前線から返ってきたばかりです。
あの世で詳報をお待ちください。
と、心の中で約束する。

一晩通夜のあと、翌日はトラックで、ブルタルに遺体を運び、
イスラム教方式で葬式が挙行された後、ブルタル陸軍基地に埋葬される。

インドネシア部隊の小銃射撃(礼砲)が墓地の四辺に木霊する。
日本人部隊長吉住、インドネシア名アリフは此処に眠る。


日本人全員、その日のうちにウリンギイに引き上げ、
翌朝全員集合の上、今後の日本人部隊の在り方について協議する。

先ず、隊長に昇格した市来が、部隊の規律を設定する必要性を強調し、
各自の意見を述べるようにとの発言があった。

私は、現在までの規則は、そのまま続行されるべきで、
何も吉住一人の死亡で全てを改める必要はないものと判断します。
と、発言した。

その発言に続き、次を申し出た。


尚、私は、第15旅団長ザイナル・アルヒン中佐、
第5旅団長スラマット中佐、ジイン大隊長、BPRI秘密旅団長、
マゲランのブロト、トウマングンの池上などとの打ち合わせがあるため、
これで、ウリンギイを離れます。
8月31日のオランダ軍攻撃は予定通り決行します。
これによって、吉住の霊に餞けとする覚悟です。
若し私と行動を共にする意志のある人は、
8月30日までにワジャの前線に集合されるようお願いします。

と、発言すると、
山口、広岡、日浦の3人が即座に同意を表明した。


翌日、私はこれら3名に事情あって林を加えて、
クジャへ向け出発した。
決行の期日が切迫している。
ぐずぐずしては居られない。

前線に着いた私は、ジイン少佐に面接して、
爾後の情報収集の状況を聴取した。
「ネコ」の情報も合わせると、キダル・オランダ軍硝所陣地の
状況が、ある程度浮き彫りになってきた。


強固な陣地によるオランダ軍兵力は、一ヶ小隊(30~60名)である。
重機関銃・迫撃砲も装備している。

8月30日までに駆けつけて来た日本人は、
山口、日浦、広岡、林、杉山、前川、家原、若林、山野で、
私を入れて、計10名である。

日本人全員集合して、攻撃の図上作戦を練る。
この攻撃に参加するインドネシア兵は二ヶ中隊(120~500名)、
日本人9名とする。

山野はトラック一台を準備して、RI地区前線に待機し、
戦闘終了後の日本人移動のための輸送を担当する。
移動先はダンビットのコーヒー農園とする。

日本人9名を含むインドネシア軍二ヶ中隊で集中攻撃して、
一時的にキダル陣地を占領する。
その間、兵器弾薬は全部頂戴する......、

という雄大な計画が出来上がる。

イ軍の弱腰で作戦変更を余儀なくされる

8月31日朝、ジイン少佐に攻撃計画を説明して、
二ヶ中隊の兵力提供を改めて要請する。
戦わずして敵を呑む勢いである。

ジイン少佐は、クパンジェンのジャイナル・アリヒン旅団長に連絡する。
駆けつけてきた旅団長は、「二ヶ中隊の兵力提供は不可能だ」という。


何!!!
そこで、命令書を提示して、
「貴方は私に対してジイン少佐の大隊に対する必要なだけの…」
「兵力要請の権限を与えているではありませんか」
と、抗議すると、


「あの時は吉住部隊の日本人全員が参加すると考えて….」
「命令書を作成したが、この少数の日本人参加の場合は…」
「二ヶ分隊(16~24名)以上の兵力提供はできない」と言う。

顔面蒼白である。


恐らく戦闘後における、KTNよりの停戦協定違反を
追及されることを気にしているものと思われる。
吉住の死亡も影響しているのかも知れない。

二ヶ分隊では、キダル陣地攻撃には兵力不足である。
オランダ軍とはいえ、陣地に依っている一ヶ小隊(30~60名)に対して
二ヶ分隊(16~24名)では、敵を完全に制圧して兵器弾薬をして、
入手することは不可能である。


無理をして我方の被害が多いようでは、
今回の目的に反する結果となる。

あくまでも戦闘が目的ではない。
敵地工作の足がかりをつくるための戦闘である。


日本人の中には、
日を改めて新たに作戦計画を練った方が無難ではないか、との意見も出る。


然しながら東部と西部ジャワで、
8月31日決行の打ち合わせを済ませている。
その当事者の顔が走馬灯のように脳裏を掠める。
「今一度暴れてくれ」と言った吉住の声が聞こえてくる。

私は
「一度決定した8月31日夜、即ち今夜の攻撃は変更できない」
と、確言する。


第13旅団長の横槍で当惑しているのは、
大隊長ジイン少佐である。
徒に時間は過ぎてゆく。
異様な空気が部屋中にみなぎる。

ぐずぐずしていると、オランダ軍攻撃後、
インドネシア警備地区に引揚げる前夜が明ける。
停戦協定違反の面倒な問題が台頭してくる虞がある。


そこで、国境線に一番近いバナナラン・オランダ軍硝所攻撃に変更する。


バナナラン・オランダ軍硝所は、
キダル同様に一ヶ小隊(30~60名)であるが、
堅固陣地はなく、表門に12.7粍の重機関銃が取り付けてあるだけで、
大きな米倉庫がそのまま兵舎として使用されている。


場所は平坦な部落内にある。
問題は、部落内に兵舎があることである。
敵地工作のための戦闘では、住民を傷つけることなく、
オランダ軍に損害をあたえなければならない。

この目的達成を前提とする戦闘であれば、
二ヶ分隊(16~24名)で、何とか互角の勝負ができそうである。


第13旅団長との水掛け論は止めて、

「それでは、二ヶ分隊と日本人9名で模範的戦闘のやりかたを教えるから….」
「旅団長以下観戦された上、将来の参考にされるよう希望します」

と言って将校連中を見回した後、

今夜の攻撃に参加する二ヶ分隊のインドナシア兵を集合させる。


兵器・弾薬・服装点検後、

「この二ヶ分隊は我ら日本人9名の援護射撃をするだけである」
「一兵も傷つけないことを約束する」
「よって、命令どおり沈着に行動するように」

と指示した上、出発を命令する。

オランダ軍硝煙所を攻撃する

レンヒル停戦協定でインドネシア警察が警備している地域を突破して、
オランダ軍占領地区内に侵入する。

夜半12時頃、ナナラン部落の端に取り付く。
ワジャ地区より相当の距離である。

部落はひっそりと寝静まっている。
しかし民間の軒下には各戸毎に石油ランプが下げてある。

これがため部落内の小さな路地は真昼のように明るい。
オランダ女皇の誕生日を祝福するため、
ランプを灯しているのである。
部落民には罪はない。

密偵を派遣してオランダ兵舎と周辺を偵察させる。
かえってきた密偵の報告によると、
12.7粍の重機関銃は兵舎の表門前の土のうの上に据えられている。

そこには2名のオランダ兵歩哨が立っているが、
動硝はしてないことが判明する。


日本人9名は12.7粍重機関銃の死角に当たる裏側より
オランダ軍兵舎を攻撃することを決定する。

二ヶ分隊のインドネシア兵は、二隊に分ける。
一ヶ分隊は部落の左側に位置し、
他の一ヶ分隊は部落右側を迂回して配置につくように指示する。


各分隊の攻撃目標は、
兵舎正面の12.7粍重機関銃とオランダ歩哨に限定する。

射撃開始の時期は手榴弾の爆発音と指示して、
所定の配置につくため出発させる。


二ヶ分隊の戦闘配置完了までに要する時間は
30分以内と判断する。


日本人9名は密偵「ネコ」に誘導されて、部落内に侵入する。
真昼のように明るい部落の小路地を各個前進で、
飛石伝いに部落中央のオランダ兵舎裏側に接近して行く。

10数分後には全員兵舎裏に取りつく。
身を伏せて周囲の状況を注視する。
敵には発見されていない。


部落内でも人声ひとつ聞こえない。
不気味な静けさである。
右側に迂回したインドネシア兵も戦闘配置を完了したものと判断する。

現在の位置は、兵舎裏の壁から10m足らずの近距離である。
兵舎裏側の壁は相当に高い。
時刻は午前1時ごろである。


杉山、前川の順で磁石付戦車攻撃用の破甲爆雷各一個を投げるよう指示する。
破甲爆雷は、兵舎の屋根まで投げないと味方が危険である。

杉山、山口、前川の三人は、更に5歩ぐらい前進して、
準備完了と共に投擲する。

手榴弾1、破甲爆雷2個が見事に屋根瓦を破って、
続けさまに兵舎内に落ちる。
と、同時に手榴弾が爆発する。

耳をつんざくような爆発音につづいて、
白い閃光が真昼のように四囲を明るくする。


白い閃光が消えると同時にオランダ兵舎の屋根が
不気味な音をたてて崩れ落ちる。

これと同時に左右両翼のインドネシア二ヶ分隊からの一斉射撃が、
兵舎前の12.7粍銃機関銃に向けて開始さる。


敵は沈黙を守っている。
全滅した模様である。
日本人部隊は突撃を命令する。

この時、オランダ軍は猛射撃してくる。
予想外の兵力である。
盲射撃のため危険の度合いが少ない。


約10分の交戦の後、逐次後退して部落外に出る。
敵は追撃して来ない。

しかし、地理に明るいオランダ軍は、
迂回して我方の退路遮断する事も考えられる。

この場合、夜間国境線突破は困難となり、
KTNが介入してくると、事は面倒になる。


インドネシア二ヶ分隊を掌握して一路国境線に向かう。
インドネシア地区に入ったのは、午前五時頃であった。

オランダ軍は破甲爆雷の爆発音とその威力に度肝を抜かれて、
追撃する勇気がなかったものと判断する。

ここで用意されている朝食をとると、
二ヶ分隊のインドネシア兵に即時帰隊するよう命令する。


日本人9名は山野の準備したトラックに乗車する。
第13旅団長とジイン大隊長が駆けつけて来て、
昨夜の件を詫びると共に、戦勝の祝辞を述べる。

私はトラックの上から
「先刻の戦闘で参考になる点があったら、今後大いに利用するように」

と、述べた後、

オランダ軍の被害判明次第、
ダンピットのコーヒー農園まで報告されるよう依頼する。

トラックは間もなくダンピットのコーヒー農園に到着する。
此処には参加者の労をねぎらう為、会食の準備がしてあり、
日本人全員が集まっている。


市来が立ち上がって、オランダ軍攻撃の成功を祝して乾杯する。
攻撃に参加した者、残った者も混ざって賑やかな宴会となる。

途中、市来が「ワジャよりの連絡員が来た」と言って、
部屋を出て行く。
返ってきた市来は満面に喜びを浮かべて、戦果報告だと言う。


情報によると、
オランダ軍兵舎大破、
兵舎内にいたオランダ兵は兵舎前歩哨も含めて20名、
爆風や屋根の下敷き、並びに軽機射撃により全員死亡。

オランダ女皇の誕生日を祝福するため、
区長宅に招待されていたオランダ兵数十名があく運強く無傷のため、
爆発音と銃声に驚き、区長宅前より盲射撃するだけで、
追撃するどころか恐怖におののき、
百メートル足らずの兵舎にさえ夜が明けてから取り付いたこと。


バナナラン部落の被害及び住民の負傷者なしとの事。
尚、日本人引き上げ約一時間後、KTNの将校がワジャに駆けつけて来たが、
何等得ることなく、引揚げて行ったことなど。
市来が力強く読みあげる。
全てが計画通り行った。
全員戦果を祝して、再び乾杯する。

第13旅団長が二ヶ中隊の兵力要請を受け入れてくれたら、
キダル陣地の兵器全部が入手できたのにと思うと残念である。


今は亡き、吉住を始め、中部・東部ジャワ各部隊との約束どおりに、
オランダ軍攻撃を実行できたが、
20名のオランダ兵を殺しただけでは物足りない。

二次攻撃計画する。

部落の有力者を味方に得る

二次攻撃を決めた田中は、
その目標をポンチョコスモ・オランダ軍硝所とし、
攻撃の決行日を9月17日とした。

この二次攻撃計画に、
先の反省があったのであろうが、
マラン第4師団第5旅団が兵力の提供を申し出てきた。
が、彼は前回の苦い経験があるため、
協力部隊は一ヶ小隊(30~60名)に限定し、
第5旅団長スラマット中佐よりの精鋭一ヶ小隊のみを申し受けた。

結局、二次攻撃に参加する戦闘員数は、
日本人10名とインドネシア兵一ヶ小隊ということになった。


攻撃発信の基地をどこにするかの検討を行った。
結果、ジャンジャン部落に決めた。
ジャンジャン部落は川を挟んで、オランダ軍硝所の対岸にある。
敵軍にもっとも近いインドネシア人部落である。

オランダ軍硝所に近い、ということは、
オランダ軍に内通する者のいることが考えられる。
が、部落民に極秘で部落内に基地設営は困難である。

そこをどうするか。
彼は、情報員「ネコ」をジャンジャン部落に潜入させ調査させた。

ここからは、田中の証言で書く。



(証言)

「ネコ」の報告によれば、
ジャンジャン村は、週数回のオランダ軍巡察が行われている。
巡察の兵力は一ヶ分隊内外(10名程度)である。
巡察経路はいつも同じで、途中必ずハジ・ヘクサン宅に寄って、
休憩することが判明する。

問題は、部落の有力者である、このハジである。
ハジは、部落民の信任厚く完全に部落民を掌握している。

「ネコ」の判断では、
ハジは親蘭派ではなく、インドネシア独立派だと思う、
とのことであったが、
インドネシア兵一ヶ小隊と日本人10名の命にかかわる問題である。
簡単にハジを信用して不覚をとるようなことがあってはならない。

直接にハジに会って、彼の真意を確かめる必要がある。

で、翌日、
杉山、日浦、広岡、と私の4名は、「ネコ」に案内されて出発する。
日本人は手榴弾、破甲爆弾、軍刀だけを携帯する。

部落の入り口に着き、「ネコ」を派遣して待機し情報を待つ。

ほどなく帰って来た「ネコ」は、
ハジは在宅であること、オランダの巡察はまだ来ていないことを報告する。
速やかにハジ宅に急行する。

部落の中で一番大きな建物である。
ハジに面接する。
あらかじめ「ネコ」が連絡していた為か、
驚いた様子見受けられない。
人の良さそうな人相である。
初対面の印象では、悪い人間ではないように思われた。

ハジは、「私はインドネシア政府に忠誠を誓うことを約束します」
と前置きして、
「ナナラン攻撃の戦果を知っています」
「一ヶ小隊のインドネシア部隊の宿舎と給与の件は責任を持ちます」
「安心して、部隊を前進させてください」
と、落ち着いた口調で発言する。

「ネコ」より全て聞いて知っているのだ。

「その節は迷惑かけるが、よろしく頼む」
と、話しているところに、部落民が駆けつけて来た。
何かハジに耳打ちすると、急いで引き返して行く。

ハジの顔を注視すると、
「只今、オランダ兵の巡察がこの部落に向かっている」
「….との連絡がありました」
「貴方たちはどうされますか」と、尋ねる。
一瞬困ったような表情が見受けられたが、もう平常心に戻っている。


「今日、我々は戦闘する考えはない」
「その証拠に飛び道具を持ってきていない」
「貴方は平常どおりオランダ巡察兵を接待してもらいたい」
「我ら日本人のことは心配無用である」と言って、ハジ宅を出た。


巡察経路に当たる道路に面した民家に入り潜伏待機する。
ハジ又は部落民がオランダ派であれば、
銃器を持たない日本人の所在を密告して、
オランダ兵に攻撃させる筈である。

その最悪の場合は、
手榴弾、破甲爆弾、軍刀をもって応戦する覚悟である。
はやる心を押さえて、巡察隊をやり過ごす。
皆顔を見合わせ無言のままでうなずきあう。

「ネコ」が裏口より風のごとく音も立てずに入って来る。
「巡察隊はハジ宅に寄ってお茶を飲んでいる」と言って、又出てゆく。
10数分後、又「ネコ」が入って来る。

今度は大きな声で、
「オランダ兵はいつものコースを通って部落を出た」と報告する。
「ネコ」について部落の出口まで急行する。

「ネコ」の指差す方を眺めると、
なるほど、先刻の6名が暢気そうに歩いている後ろ姿が見える。
全く天下泰平である。

ハジも部落民もオランダ兵に密告しなかった。
インドネシア政府に忠誠を誓うといった言葉は信用できる。

再びハジ宅を訪れて、
ハジと部落民を疑ったことを詫び、
後日、インドネシア部隊を進駐させるから、
山手に近いところに兵舎として4軒の民家を準備することと、
当分の間、一ヶ小隊分の給与をお願いしたい、と頼むと、
ハジは快く引き受けてくれた。

スパイに騙される

攻撃発信予定地での、こうした下準備を終え、
日本人10名とインドネシア部隊一ヶ小隊を率いて基地を出発した。

一時間後にはジャンジャン部落に通ずる道路上に出た。
手回しの良い「ネコ」の一味が待っていてくれた。

「ネコ」に誘導され、兵舎として設営が終わっていた民家に入った。

インドネシア兵に民家を割り終えた後、
非常呼集をかける。

屋外に集合した一ヶ小隊を誘導して後方高地配置につける。
この訓練を3回繰り返した。

暗夜でも整然と配置につけるようになった。
さすが正規軍として正式な訓練を受けた精鋭である。


翌朝、BPRIの証明書をもったインドネシア青年が宿営地を訪れてきた。
「私はオランダ軍の情報収集のため、敵地に留まっている者です」
「この部落の娘と結婚して住んでいるので、部落民にも信用があります」
と言って自己紹介する。


一応は疑ってみるが、インドネシア部隊兵士の中で
彼を知っている者が相当おり、
プロボリンゴ出身だと言うから一先ず安心する。

その後、彼は毎日のように遊びに来て、雑談のあと帰って行く。
自称BPRIのこの男は、成程、この部落内で結婚しており、
毎日のようにポンチョクスモ方面に出かけて行くとのことである。

この男をうまく利用すれば、
ある程度的確なオランダ軍の情報を入手することも、
可能かも知れないと考えながら、
宿営地家屋への出入りは自由に任せて放置した。


此処に宿営してから、まだ一回も巡察が来ない。
不思議な気がするが、敵は察知している筈がないと思い直す。

夜間、例の男が居ないとき、非常配備の訓練を繰り返すとともに、
簡単な散兵壕を構築する。
(部落民にも秘密にしていた、この訓練が後になって功を奏した)


今日も巡察が来ない。
不思議に例の男も来ない。
一寸おかしいと思うが、インドネシア兵は心配無用という。

そうこうしているうちに、夕刻、
不意に顔を出した男は、
「ポンチョコス・オランダ軍情報収集のため、明朝出発します」
「相当詳しい情報をとって来ますのでご期待ください」
と言うから、「ありがとう」と、頭を下げると、帰って行く。


次の日も巡察は来ない。
平凡な一日が過ぎる。
夜の9時ごろに部落入り口で突然銃声がする。
オランダ軍の盲射撃である。
敵襲である。


非常呼集で全員を起こして、
消灯の後、後方高地の配置につける。
部屋の中には一物も残さず、身の回り品は全部携行させる。
別命するまで待機して絶対射撃しないように厳命する。

部落入り口では、まだ銃声がしている。
オランダ軍の常套手段、威嚇射撃である。
吾が方は沈黙を守っている。

10数分後には射撃が断片的になり、
部落内で人が動く気配がする。
オランダ軍が入って来たのだ。


銃声が止んだが、住民からの報告は何もない。
部落民にも秘密にして夜間訓練した、この高地配置である。
報告に来ないのが当然だと思い直す。

10時を過ぎると部落内が騒がしくなる。
耳を澄まして聞き耳をたてている「ネコ」も
部落民が何を話しているか分らないと言う。
オランダ軍は元来た道を引き返したものと判断する。


爾後の指揮は杉山に一任して、
「ネコ」を先頭にして広岡と共に部落に入り、
ハジ宅に乗り込む。
多数の部落民が集まっている。
近づいてみると二人の日本人が負傷して寝ている。

ハジの説明によると、
部落入り口の番小屋で夜警に服していた二人の青年は、
9時過ぎに部落に接近するオランダ兵を発見したため、
日本人部隊に急報すべく駆け出したところ射撃されて負傷したとのこと。

オランダ軍は部落入り口正面に散開して射撃し、
約20分ぐらい後、部落内に侵入してきたとのこと。
このオランダ軍を誘導してきたのがBPRIと称する例の男である。

尚、この男は日本人及びインドネシア部隊の宿営地を調査して、
全員逃走したことを確認の上、ハジ宅に来て部落民の指導者を集め......、

今後インドネシア部隊に対して、
情報提供、給与、その他の便宜供与を厳禁する。
これに違反した場合は、部落全体の責任として民家全部を焼却した上、
ハジ以下の有力者全員を逮捕する。
と、注意した上、
一発も応戦せずに逃走した日本人及びインドネシア部隊を非難したという。


我が方の非常配置の線まで引き返して、
上記の概要を日本人に説明する。
「ネコ」はインドネシア兵に説明している。

「ネコ」一味とインドネシア兵は、
あの男にだまされたことで激怒している。
必ずあの男を逮捕して、この仇を討つと意気込む。

スパイを捕まえ処刑する

私は日本人に対して、今後の処置についての意見を求めた。

と、敵は我方の存在を知得しているため、
不利な立場になっている。
この際、一応インドネシア地区に引揚げて、
再び時期を見てオランダ攻撃をした方が良い。
との意見が圧倒的であった。

そこで私は、
戦闘もせずにこのまま引揚げたのでは、住民の信用が失墜して、
協力を求めることができず、再進出は難しくなるものと判断する為、
あくまでも敵地にとどまって、予定通りの行動を遂行する考えである。
と、言うと、日本人は皆黙ってしまう。

インドネシア側の意見を求めると、
全員無条件で私の意見を支持すると言う。


そこで再び日本人に向けて、
引揚げ希望者は遠慮なく引揚げてください。
私は残ってインドネシア兵と行動を共にします。
と言うと、
日本人は「今後の行動予定は如何」と質問する。


私は一時この上の部落に移動して待機すると共に
あの男を逮捕して取り調べた後、処分してから、
ポンチョコスモのオランダ軍を攻撃するつもりです

と、説明した後、
「ネコ」一味を先頭にインドネシア部隊に前進を命令する。
全員黙々として火山灰の山道を登って行く。
後を振り返って見ると、日本人全員も後について来るのが見える。


スメル山麓最高地であって、最近開拓された部落に到達する。
戸数40個足らずの小部落である。
今登って来た道、
山の手についている道、
ポンチョコスモに通ずる道、
の3ヶ所に重機、軽機を据えて散兵したまま、
交互に休養するよう命令する。
早朝のオランダ軍攻撃を想定しての布陣である。


布陣が終わり、
「ネコ」の一味をジャンジャン部落に送り込んだ。
食事はハジに連絡して、ここに届けてもらうよう連絡する。
ここの新興の部落に給与を依頼するのは負担が重いと考えた上である。


「ネコ」の報告によると、オランダ軍は、
日本部隊はすでにインドネシア地区に引揚げたものと思っているようだ。
なおも確認する為、「ネコ」一味をジャンジャン部落に残置する。


二日過ぎた正午、
大胆にもBPRI出身の例のオランダ軍密偵が、
多額の礼金と部落民に対する破格な権限を付与されて、
盆と正月がいっしょに来た位の気持ちで、
足取りも軽く部落内の情婦の家に帰って来る。


一歩家の中に足を踏み入れた処を張り込んでいた「ネコ」一味に
急襲されて、抵抗する間もなく逮捕された。

この第一報を部落民より入手したインドネシア兵は、
数日に亘る苦労も忘れて喜びの喚声をあげる。


男が「ネコ」一味にこづかれながら連行されてくる。
と、三日三晩不休のインドネシア兵に包囲される。

「BPRIの面汚し」
「インドネシアの恥さらし」
「オランダの犬」と、口々に叫びながら、
踏む、蹴る、殴る、の連続である。
オランダ密偵の顔は、またたく間に変形してしまう。

無理もない。
ジャンジャン部落では、BPRIの証明書を利用して、
顔見知りまで騙して、食事さえして行った横着者である。


しかし、このオランダ軍密偵より、
ポンチョクスモのオランダ軍兵力、装備、警備状況を聴取する必要がある。
怒っているインドネシア兵を制して、杉山に取調べを依頼する。

このオランダ軍密偵と「ネコ」からの情報を総合して、
オランダ軍の内容を次のように知ることができた。


オランダ軍は一ヶ小隊(30~60名)である。
部隊長はオランダ軍大尉でガジャプティ(白像)部隊である。
主力はオランダ本国人で若干アンボン人が混ざっている。
部落中央の大通りは自動車の通行可能である。
この道路上の民家が兵舎に当てられている。
兵舎の周囲は有刺鉄線で囲まれている。
道路上はバリケードで塞がれていてオランダ兵二人が立硝している。
以上、完全装備の一ヶ小隊である。


相手はオランダの白像部隊であって、
その一ヶ小隊ならば、
兵力は恐れるに足りない。

オランダ密偵は、
ポンチョクスモ攻撃の前祝に、
ジャンジャン部落民とインドネシア部隊の名において処分する、
と、宣言すると、全員が賛成する。


インドネシア小隊長に穴を掘るように命令する。
火山灰の畑の中に穴を掘るのは、至極簡単である。
間もなく「穴掘り完了」と小隊長が報告する。


「私に処分させてくれ」と息巻く小隊長に密偵を渡すと、
小隊長は後ろからぐいぐい押しながら穴の傍まで連れて行くと、
足で蹴飛ばして穴の中に落し入れる。


「ネコ」が穴の中に入り、密偵を踏みつけながら、
部落及びその付近の他の密偵の住所、氏名、年齢、性別を訊問する。

女を交えた数人の名前を自白する。
小隊長がその名前をメモしてゆく。
後は知らないと言う。
小隊長はそれを聞くと、拳銃に弾丸を込め、
引金に指をかけると、頭部を照準にする。


「駄目だ、撃つな!」
撃てば、ポンチョクスモのオランダ軍を緊張させるだけである。
私は、それを制止した。

恨めしそうな「ネコ」は、足で密偵の顔に砂をかける。
これと同時に穴の周囲で見ていたインドネシア兵が一斉に、
盛り上げてある土を穴に落とした。

火山灰の土である。
鍬の必要がない。
またたく間に穴が埋まってしまった。
土の中でかすかな声がした。
断末魔の声である。

インドネシア兵の怒るの無理はない。
この売国奴のためジャンジャン部落の青年二人が負傷し、
一ヶ小隊のインドネシア兵は、
数日間に亘り不眠不休の重労働である。


インドネシアの小隊長が大きな声で言う。
「オランダ軍密偵の最後はこのようになる」
「この処置に対してどう思うか」と、ジャワ語で部落民に問う。

部落民は口を揃えて、
「当然のことであります」
「天罰であります」
と、生き埋めの処刑を肯定する。

市来の別働隊が加わる

インドネシア兵と共に警戒を厳重にする。
オランダ軍の巡察はない。
夜は完全に明ける。
9月17日、予定した決行日の朝を迎える。

この新しい部落の住民は誰もいない。
昨日、密偵の生き埋めを手伝って恐怖を感じたものと判断する。
ポンチョスクモに通ずる道は、見張りを配置しているので問題はない。
が、どこに消えたのであろうか。
部落民の行方が気にかかる。
密偵の処分といい、部落民の蒸発といい、
オランダ軍に察知されるのは時間の問題である。

今夜の攻撃に向け、日本人全員を集めて作戦を練る。
打ち合わせの結果、次の如くなる。

戦闘部隊長: 田中
小銃班: 広岡、山野
軽機第一班: 前川
軽機第二班: 若林
重機班: 杉山、日浦
擲弾筒班(日本製): 小野
擲弾筒班(現地製): 林
破甲爆雷班: 家原
部隊誘導班: ネコ一味
各班の日本人には、インドネシア兵二ヶ分隊を分割配分する。

戦闘配置の諸準備及び編成など全て完了した後、
部隊全員ハジの準備してくれた夕食をとる。
四囲はすでに薄暗くなっている。


雑談しているところに、市来が山口、秋山両人と
インドネシア兵一ヶ分隊を従えて到着する。
軽機一挺、破甲爆雷6個、小銃10挺を装備していた。

市来が言うには、

ジャンジャン部落でオランダ軍に夜襲されたとの情報を得たので、
取り急ぎ一ヶ分隊を編成してインドネシア地区の前線基地に来てみると、
オランダ占領地区の部落民多数が越境して来ているので驚き、
部落民の調査を行うと、
日本人数人を混えたインドネシア部隊数十人が、
前日より上の部落に駐屯していることや、
またオランダ軍密偵の青年が生き埋めにされたこと、
更にジャンジャン村の青年二人がオランダ軍の夜襲で負傷したこと、
などが判明したので、
警備応援のため、駆けつけてきたとのことであった。

これで部落民の移動先は判った。
一安心である。


市来に今日までの経緯を詳しく説明した上で、
今夜、従来の予定通り、ポンチョクスモの攻撃を実行致します。
間もなく出発する時間です。
と言って、敵情並びに作戦計画を説明した後、
「貴方はこの残置部隊と共にこの部落に残ってください」と頼んだ。

と、市来からは、

「別働隊として本隊の側面より援護射撃をしたい」
「別働隊であるから、決定済みの作戦を変更する必要はない」
「独立しても小規模のゲリラ戦ができるだけの装備はある」
「決して、本隊の足手まといにならないから頼む」
と、懇願される。

日本人全員での協議の上、希望通り別働隊としての、
市来部隊のポンチョクスモ攻撃参加を認めることにする。


これで、オランダ軍攻撃参加は、
日本人13名とインドネシア兵三ヶ分隊及びネコ一味となる。
装備は、重機一挺、軽機三挺、擲弾筒二筒、
小銃三ヶ分隊分五十挺、破甲爆雷二十個、手榴弾多数、となる。

この完全装備の我が精鋭部隊は、
オランダ軍一ヶ小隊に比して大差ない。
戦闘意欲に関しては、吾が方は敵に数倍する。
勝利は吾が方にある。
インドネシア独立の聖戦である。
天も吾が方の味方である。
戦わずして既に敵を呑んでいる。


夜の9時、残留の小隊長2ヶ分隊と
ジャジャン部落のハジ及び有力者に見送られて出発する。
ネコ一味を案内役として、
小銃班、軽機班、重機班、擲弾筒班、破甲爆雷班の順で、
最後尾に市来別働隊がつづく。

数時間歩いた後、市来部隊と別れる。
市来は吉住と共にポンチョクスモ部落の入り口近くの民家に、
数ヶ月過ごした経験がある。
市来にとっては、かって知ったる道である。
下の大通りに沿って歩くという。
本隊は予定の経路に従って山道を通ってオランダ兵舎に向かう。


時計を見ると午前二時である。
随分と長く火山灰の山道を歩いたものだ。
雲ひとつ無い満月は、真昼のように明るく四囲を照らしている。
間もなくポンチョクスモ部落に近い川岸に到着する。

攻撃と成果

部隊を停止して低姿勢となり、ポンチョクスモ部落を注視する。
川向こうの田園を突っ切った処に、ポンチョクスモ部落の大きな姿が
真っ黒く浮き上がって見える。

川の流れの水音と、
部落の夜警の鳴らしている拍子木の音が聞こえてくる。
拍子木の音は徐々に移動していく。
ポコポン、ポコポンと同じ調子で身近に聞こえてくる。

この音は、市来隊もどこかで聞こえているはずである。
オランダ軍も夜警も、未だ我が部隊の行動を察知していない。

斥候として、
小銃、軽機、重機の各班より日本人各一名を選出する。
広岡、杉山、前川の三人である。
ネコ一味の三人が斥候の三人を案内誘導する。


前面の大きな川を渡ってゆく。
川幅は広いが水深は浅い。
深いところで膝までである。
川を渡り切って、月明かりで明るい対岸に上がると、
田んぼ道を駆け出した6人の影は、
ポンチョクスモ部落に吸い込まれてゆく。


全員息を殺して前方の部落を注視する。
夜警の拍子木の音はなおも続いている。


帰隊した日本人斥候の報告によれば、
偵察途中で部落の女に発見された。
若い女性は、我らを発見するとオランダ兵舎の方に走って行った。
オランダ軍に報告するためだと思われる。
とのことである。

全員、動揺する。
日本人の間では、
「敵に察知された以上、攻撃は吾々に不利である」
「たとえ部落に侵入しても攻撃後の引揚げ途中の損害を考慮しなければならない」
との意見が出る。


しかし乍ら、もし敵に察知された場合、
戦わずして後退する時も敵は追撃してくるだろう。

その際、吾が方の士気は粗漏して的確な指揮は不可能となる。
その上、時間が長引けば昼間の戦闘になり吾が方の損害は甚大である。
このまま、後退できぬ! 

と決意する。


夜警の拍子木の音は、
前と同じ調子でポコポン、ポコポンと鳴っている。
その拍子木の音は絶えず移動している。
敵は察知していない証拠であると判断する。

例の女がオランダ軍に報告しても、
その情報を確認してから戦闘態勢を整えるまでには、
まだ時間的余裕がある。
また、夜警の拍子木の音も不変である。


1985年3月 田中年男


・・・・

田中年男の証言は、
ここまでが全体の約3分の2です。
残りの3分の1は、福祉友の会で保管され、
月報として掲載されませんでした。
したがって、読めません。

実は、残り3分の1を読むために、
この4月、私はジャカルタに行ったのでした。
が、福祉友の会に着くや否や、
沢山の読みたい資料に目を奪われ、
残りの3分の1の行方につき尋ねるのを失念してしまいました。

したがって、書いている私も残念なのですが、
田中年男の証言はこれで終わりとさせていただきます。


但し、この戦闘での戦果について

オランダ兵舎大破、
オランダ兵死者80名(本国人75名、アンボン人5名)、
日本人及びインドネシア部隊、部落民、民家に被害無し。

と、他の資料に残されております。