スマトラ島の残留日本兵
立川庄三 照山日出男 樋口 修 近藤富男

樋口 修 の証言

黒岩通について

近藤富男の証言の中に、
焦土作戦として、油田は友軍の手で燃やされた。
と、あります。

この友軍ですが、実はこれも日本兵によるのです。
黒岩通という日本兵です。

この黒岩通という日本兵・・・・私は、
インドネシア独立戦争時のスマトラで、もっとも活躍した日本人は、
この黒岩通だと思っています。


黒岩通は、少々なぞめいた人物です。
出身は東京で、南支戦線で活躍、金鵄勲章をもらった陸軍軍曹です。

残留日本兵の中では、クチアリーとの現地名で登場します。
日本名も黒岩通だけでなく、黒岩正吾とも名乗っています。
しかし、これらは全て偽名で、本名は「岸」だと言う情報もあります。


日本の敗戦直後のアチェ州の勢力図ですが、
親オランダ側としてウルバラン勢力がありました。

ウルバランというのは、その土地の有力者の集まりです。
ウルバランは、日本統治時代には、
日本軍の配下にあって群長を務めていました。
が、オランダが再進出してくると、
少々の例外を除き、ほとんどがオランダ寄りになりました。


一方、この親オランダ勢力に反発するインドネシア独立勢力ですが、
インドネシア共産党、国民党、インドネシア国軍、
など種々の勢力が乱立してありました。
その中で、だんだんと力をつけ、インドネシア独立派をまとめあげたのが、
回教徒の青年の集まりである、プシンドーでした。


この親オランダのウルバラン、そして反オランダのプシンドー、
それらの中間にいるのが日本軍でした。

敗戦直後の日本軍は、この地区に海軍陸軍合わせ、約4000名いました。
その頃の連合軍側は、まだアチェ州の民衆を押え込む力がなく、
日本軍に治安維持を任さざるを得なく、
そのため日本軍の武装解除をしておりませんでした。


これら3者の状況を整理すると………、

まず、親オランダ派のウルバランですが、
過去の経緯から権威には強いものを持っていました。
が、だからこそ一般民衆からは恨まれる側面がありました。
また権威を持っていても、軍事面には素人であり、
日本兵の力を借りたかったのですが、
過去に日本軍との衝突があって、日本軍の評判はよくなく、
日本兵の援助を得るのは困難な状況にありました。


次に、反オランダであって、独立推進派のプシンドーですが、
士気は旺盛で人員もそろっていましたが、
それに見合った兵器が不足していました。
日本軍の持つ兵器をなんとしても譲り受けたく思っていました。


そして、日本軍ですが、十分な兵もいて兵器も十分にありました。
が、日本敗戦での本国からの指示により、
連合国側に協力しなければならず、兵器の使用についても、
インドネシア民衆の暴動発起を押える為しか使用できませんでした。
が、多くの日本兵の心中は、
日本に帰る際はインドネシア側に兵器を渡したいと思っていました。
しかし、連合国の目があって、そうはできませんでした。


要するに、3者の思惑と勢力は、3すくみの状態にあったのです。
こういう3すくみの中で暗躍したのが黒岩通だったのです。


結論から書きます。
黒岩は策略を用いて、日本軍の兵器の一部をプシンドーに横流ししたのです。
それだけでも、インドネシア側にとっては大きな援助でしたが、
それだけではなく、
其の後、黒岩はプシンドーの隊長になり、プシンドーの戦闘指導もしました。

また、そのプシンドーを指導しながら、
前述の油田の油を燃やす焦土作戦も成功させたのも黒岩でした。

さらに、1947214日の
カンポンラランのオランダ軍陣地への総攻撃に際し、
残留日本兵全員を集め、それらを指揮し戦ったのも黒岩でした。

日本の終戦直後の黒岩ですが、
連合国側に与されるのを由とせず、
北アチェのグンパンという山砦に部下の特別警察隊員350人を引き連れ、
徹底抗戦を叫んで立ち籠り、軍政部長官の要請でやっと山を下りたそうです。
とにかく規格外の男だったようです。

次の残留日本兵の証言は、この黒岩通の周辺から書きたいと思います。
まずは、黒岩としばらくは行動を共にしていた、樋口修の証言です。


証言者の樋口修について

日本軍がスマトラ島に攻め入ったのは、1942312日の夜であった。
上陸地点はスマトラ北端のサバン島と、
コタ・ラジャ近くのウジュン・バティであった。
当時アチェ地区にはホーセンソン大佐の率いる強固なオランダ軍がいた。
これを16日間の短期間で降伏させたのは、近衛歩兵3.4聯隊であった。
この戦いは、スマトラ勘定作戦と呼ばれ、スマトラの中部と北部を制定し、
4000
名のオランダ兵を捕虜とした。

証言者の樋口修は、この戦いに参加した近衛歩兵である。

日本の敗戦後、樋口修はインドネシア側に与し、独立戦争を戦った。
黒岩通のことを証言しているが、自身も多くの戦いに寄与している。
独立戦争後は、福祉友の会の初代理事長を勤めている。

樋口修は、この証言を書いた6年後、
自宅に押し入った4人組の強盗に殺され非業の死を遂げている(合掌)。



樋口修の証言:黒岩通

(証言者) 

樋口修
1919
131日生 群馬県出身
近衛歩兵4聯隊 兵技軍曹


(証言)

日本軍統治時代のアチェ軍政部に「特別警察」なる組織があった。
機動警察的な任務と、治安と情報の蒐集を目的としていた。
残置スパイの摘発、限られた局地的治安異常には、
実力行動をとる警察の役をしていた。
この隊長が黒岩通であった。

彼は占領下の諜報と闇の横行や隠匿物資による流通の阻害に注意し、
オランダ分子とその系統と見られる人物に対して、
強硬手段を用いて弾圧していた。
隊員の軍規も義勇軍に勝るものであった。

黒岩氏は台湾軍の出身で、
中国の南支那の南寧作戦に現役で従軍し原隊復帰後、
台湾の南方作戦研究室に勤務して居た。
そこでシンガポール作戦の参謀馬奈木敬信の知遇を得た。

その関係と思われるがシンガポール陥落後、
アチェ州軍政要員として、コタ・ラジャに送り込まれ、特別警察隊長となった。
黒龍会のメンバーであり“我国眼”と自称していた。

彼の特別警察は有名になり、土地の人々は“特別”と言っただけでも通じた。
憲兵(M.P)以上に恐れられた。
隊員の選抜に工夫がなされ厳選された。
一芸に秀でたもの、飛抜けた技量の者が優先された。

例えばボクシングの選手、サーカスの曲芸の出来る男、
又特に服役中のスリや泥棒で特にその特技のある者を引取り、
警察官の中から射撃の上手者を特に訓練して超一流の射撃者に仕上げた。

隊員の服装も、特命ある場合以外は平服着用で、
制服は儀式のある場合しか着せなかった。

命令は絶対で、命令を守る為に生命を捨てる事は当たり前で、
命令を守れぬものは死刑になっても仕方がないと言った規則を守り、
規律を徹底させた。

その代わり給与と食事は公務員の中で最高に高いものが与えられ、
隊員の自負心も高く、軍部より高い評価が与えられていた。

ウルバランやオランダ側からすれば、最もいやな奴であった。
それで終戦後は、戦犯のトップに挙げられ、自身もそれは充分覚悟していた。

終戦後、インドネシア側の武器の要求と
それに派生する事件が多発するようになった。
これに抗するため、
1945
11月中旬頃から、コタ・ラジャ周辺の軍隊と、
残留した軍政部の日本人が、ブラン・ビンタン飛行場に集合した。
飛行場には、既にサバン島引揚げた、海軍第9根・廣瀬部隊が居た。
それに合同したのだから、大集結であった。

この大集結地は、トク・ニヤ・アリフの先祖代々の支配地であった。
トク・ニヤ・アリフは、ウルバランであったが、
穏健派であり、的確な情勢判断のできる人物であった。

大半のウルバランは、インドネシアには独立の能力はなく、
独立は時期尚早であり、オランダが権威を回復するものと考えていた。
しかし、トク・ニヤ・アリフは、問題はあるが、
インドネシアは独立を勝ち取ると考えていた、極めて少数派であった。

したがって、トク・ニヤ・アリフの先祖代々の支配下にある、
この大集結地は、比較的に安全であった。

ここに12月からは、軍政部も加わった。
更に宮部隊の一部の警備要員も加わったので、
全体としての日本人は、約4000人に近い数字になっていた。


この約4000名が、1219日、遂に引揚げとなった。
プラン・ビンタンをあとに、開港オレレに集まり引揚船に乗ることとなったのだ。

プラン・ビンタンとオレレ間は、20キロあった。
途中で兵器を欲しがるインドネシア側の襲撃の恐れがあった。
ほとんどが自動車に乗れず、230台ある貨車は、食料を運ぶ為に使用された。
出発開始の当初は、その行動を内密にできるが、
プラン・ビンタンを出発すれば、遅かれ早かれ移動は明らかになる。
この時点から如何に対処するかが最大の問題であった。

事実、日本軍から兵器を奪取することは、インドネシア側の誰もが検討していた。
インドネシア共産党や国民党、それにインドネシア国軍がそれを検討していた。
しかし、日本海軍は完全武装しており、それを襲うことには無理があった。
唯一戦えそうなのが、ロンガのプシンドーであった。
プシンドーを除いて、強力な日本海軍に立ち向かえる集団はなかったのだ。

黒岩氏は、このプシンドーの指導者達に話を通していた。
話し合いで兵器を譲り受けることの提案をしていたのである。
プシンドーは、黒岩の提案を受け入れ、兵力を動かさなかった。

黒岩氏は、アチェ軍政部とも通じていた。
その軍政部を介し、海軍側に、
インドネシア側の情勢とその兵力及び戦闘能力につき連絡をしていた。

その際のアドバイスとして、
何らかの弾みで夜盗のごとき集団からの襲撃があった場合に備え、
万全の体制は必要であり、
オレレへの移動はいつでも戦闘に応じられる準備が必要である。
が、これは夜盗であり、組織だってプシンドーが動くことはない。

ということを言明した。
黒岩氏は、プシンドーが動かないことの見返りとして、
オレレ引揚げの際、
できる限りの兵器をプシンドーに渡るようにとの配慮を願い出た。

それらが全てうまく運んだわけではない。
連合軍の監視が厳しくて出来なかったことも多かった。
英海軍の軍艦から艦砲射撃があり、
残置兵器資材を持ち出すことができず切歯扼腕させたこともあった。

とはいうものの、それ相当の車両類と兵器がプシンドーの手に渡った。
もし、黒岩氏の協力がなかったなら、
恐らくほとんど残置されたものがなかったであろう。

その後、プシンドーの長であった、ニヤネ氏と黒岩氏の結びつきが強くなり、
黒岩氏は、ロンガのプシンドーの隊長に要請され、
ロンガの日本人の第一号となった。

なお、プラン・ビンタンより撤退し、乗船完了した日本人は、
海軍3204名、陸軍485名、政庁26名、合計3715名であったと報ぜられている。
この多くの日本人への損害が皆無であったのは、
プシンドーを制止した黒岩氏の働きが寄与しものと思われる。

1990
8月  樋口修