スマトラ島の残留日本
立川庄三 照山日出男 樋口 修 近藤富男

近藤富男の証言

インドネシアの独立戦争に加わった残留日本兵の話、
スマトラ島での戦闘に話を移します。
スマトラ島でもっとも大きな都市は、メダンです。
戦闘は、このメダン、及びメダン以西のアチェ地区、
さらにメダン南部のトバ湖周辺で多くありました。
最初の証言は、近藤富男氏です。


油田に火を放つことを提案する

(証言)

時は1947年、
オランダ軍第一次侵攻作戦が全インドネシアにわたって展開され、
スマトラ各地に於いても熾烈な抵抗戦が行われていた時のことである。

メダン市はすでに敵の掌中にあり、
メダン西部包囲陣を張っていた友軍は、
左翼のスタバ農園地区が敵機甲部隊に突破され、全線総崩れとなり、
腹背に敵を迎えた友軍は、
あわや全滅かと思われる危機に直面したことがあった。

しかし、かろうじて退路を切り開き、
中央山脈を長路徒歩でアチェ州に入り、
アチェ郷土防衛軍と合流した。

勢いに乗ったオランダは、
戦車・装甲車を主力とする部隊をもって、
勇猛をもって鳴るアチェ郷土防衛軍を
一気に粉砕、破壊しようと侵略を企画していた。

その作戦展開のためには、
まず油田を確保しなければならなかった。

何故なら、そこの油田の原油は珍しく低硫黄質であり、
未精製原油そのままで戦車・装甲車に使用できたからである。
よだれの出るほど欲しい“しろもの”であったのだ。

オランダ軍は総力を結集、万難を排しても、
掌中に収めるよう期待していることは、明白に予測できた。

オランダ軍を油田に近づけぬようにするには、
その手前の鉄橋を爆破することが効果的であった。

友軍、アチェ郷土防衛軍は士気旺盛であったが、
情けないことに兵器らしい兵器を持っていなかった。
加えて、早急に敢行しなければならない鉄橋爆破なぞ、
できる技術も知識も持ち合わせた者は、残念ながら1人もいなかった。


ところが幸運で僥倖であったことは、
たまたまこの道のベテランの岸山勇次が居たことである。
彼は驚いたことに、
既にこのことあるを予見していたようであった。

アチェ郷土防衛軍にはダイナマイトが在るわけでなく、
それを岸山は貴重な起爆剤である信管や導火策を八方手を尽くし、
すでに入手していたのである。


アチェ州は長年にわたってオランダに徹底抗戦した歴史を持つ。
アチェ人は憎きオランダと共に天を頂かない、
死すとも屈しない誇り高き種族であった。
全村民は全滅覚悟の死闘を全土に展開するであろう。

そして勿論我々も彼らと共に徹底的に抗戦し、
華々しく討ち死にするであろう。

焦土作戦を実地するに臨み、
師団長フシン・ユスフ大佐を座長とする作戦が夜を徹して行われた。
衆議がまとまるまでには一部の猛反対もあった。

オランダはかねがねインドネシア側の焦土作戦を極度に恐れており、
空中よりイ軍にビラを撒いた。
曰く「焦土作戦に関係した者には極刑をもって臨むであろう」
と、宣言し盛んに牽制と心理作戦を展開していた。

会議には自分も下級将校の一員として末席に列していた。
上級から順に指名され、それぞれ意見を述べた。
私も求められるまま素直に私見を述べた。
元日本軍として私は異色の存在であった。

戦況は刻々緊迫しており、列席者は真剣であった。
問題が油田の焦土作戦ということで、
討議は激しい応酬が続いた。
形勢は反対論がやや優勢であった。

これは大変なことになりかねない。
上官であろうが同僚であろうが遠慮する余裕はなかった。
上官や同僚の一部を名指して、私は次のように言った。



今度の戦闘で死ぬかも知れないが、
絶対に勝たねばならない。
メダン戦線では負けたが、まだ退却する余裕があった。
しかし今度は違う。
負けたらどこに退却するのだ。
負けたら全ておしまいだ。
貴司令官初めここに列席する諸官は、小官を含め、
全員銃殺刑位は免れまい。
もっと深刻な問題は、不幸、油田が敵の掌中に陥った場合、
戦闘員、非戦闘員を問わず、
全アチェ人が皆殺しに遭うことを意味する。

それを防ぐ唯一の途は、
この油田地帯を灰燼にすることである。
近代装備の敵戦車や装甲車に貧弱な兵器しか持たない友軍が、
どうしてまともに立ち向かうことができるか。
まさか、竹槍で戦うつもりか。
この油田に火を放ち、焼こうではないか。…..と、結んだ。

後日、この席での発言が原因で、
私はパンカラン・ブランダの街への入り口にある、
プラウイ川の鉄橋破壊に関係することとなった。


インドネシア兵が逃げ日本人4人だけになる


当時二つの油田は大規模の精製油施設を誇っていた。
その施設中には得がたい諸機械類もあった。

それを一緒に灰燼にするには如何にも惜しい。
運べるものは何とかして安全地帯に運び出さねばならなかった。

そのための焦眉の急は、まず油田地帯の手前で、
敵機甲部隊の進出を食い止めなければならなかった。

パンカラン・ブランダン と パンカラン・ススの両油田の手前を流れている、
プラタイ川は、川幅が余り広くないが常に満々とした水量をたたえ、
程遠くないマラッカ海峡に緩慢に流れ注いでいた。

河川一帯は湿地帯を形成し、
川にかかった鉄橋は鉄道と車道併用であった。

両油田に通ずる鉄橋は、
旧型のアーチ式のこれ一本しかなかった。


敵の進攻近し”と予想してか、付近の村民は疎開し、
不気味な程静まりかえっていた。
勿論鉄橋を往来する車も人も見受けられなかった。

敵との距離は約20キロメートル、
此の20キロメートルが勝負であった。   


爆弾運搬の為、
トラックで現地に乗りつけた友軍歩兵一ヶ分隊の兵士達は、
指示された場所に恐る恐る爆弾を降ろすと、
一目散に撤退してしまった。  
結局残ったのは吾々、
岸山・山本・宮山3兄と私の4名だけであった。 


暑い昼下りの太陽が照り付けていた。  
鉄橋の向い側、敵側に通ずるアスファルトの路面は、
太陽の照り返しで“かげろう”が立っていた。  
視界は遠くまで見通せて良好である。   

愈々作業開始である。 
 
岸山兄のテキパキした指示は見事であった。   
4名は力を合せ、
鉄橋左右の橋枠付け根を支えるベトン(コンクリートの意味)と、
川岸のベトンとの間に爆弾を抱え持って横にし、
次にその上の橋枠の付け根にそれぞれ横たえた。


当時の爆弾は弾体の先端に弾筒が装着されていて、
爆発の秒目を調整出来る目盛があった。 
それをはずし起爆剤の作用をする信管を挿入、
再び弾頭を装着すると、状態は誠に危険なものであった。  

弾頭に外から衝撃を与えればたちまち爆発する。  
今回は静かに弾頭を外し、導火線に連結した信管を、
弾体内にギッチリ詰まっているニトログリセリン(黄色薬)に直接挿入した。 

そして、導火索の火薬で信管を起爆させ、
爆弾を爆発させる手法をとった。  

ニトログリセリンは非常に敏感な火薬である。   
擦っても爆発するので、
此の道に無智な私は正直なところ、びくびく及び腰であった。  

とまれベテランの岸山兄の指図通りにやっていれば間違いなかった。
岸山兄はみじんも恐れる素振りをみせなかった。
的確にしかも慎重に弾頭を外し、
導火策の末端に信管を連結させたものを弾体内に挿入した。

その間の時間の何と長く感じたことか。
自分なぞはただいたずらにうろうろするのみであった。

逃爆破準備完了


敵情が気になって仕方がなかった。

岸山兄を補佐している山本、宮山両君も、
誠に冷静に作業を手伝っていた。
自分なぞは全くの役に立っていなかった。

太陽に照り付けられた鉄橋の橋桁は焼け付くように熱かった。
それに辛うじてよじ登り、
双眼鏡で敵情を偵察する位が精一杯であった。
この爆破は金輪際やり直しは許されなかった。

しかし敵情が掴めないだけに気が気ではなかった
極限状況下で次のことを果たさねばならなかった。

すなわち、鉄橋を上に吹き飛ばすだけでは駄目なのであった。
橋を支えているベトン(コンクリート)と岸のベトンもろとも爆破し、
敵が直ちに再架橋できない状態に爆破しなければならなかった。


決められた導火策の長さは、
いずれも30cmでなければならなかった。
4ヶ所の弾体内に挿入された信管は、
絶対に同時起爆されねばならなかったのである。
仮に起爆時間に少しでも遅速があった場合、
所期の成果を得ることができなかった。

この成否の如何は、
ある意味では後日必ず我々の生死にもかかわってくるものであった。

30cmの導火策で退避できる限度は、
走って精々50mぐらいである。

爆破の破片は、
爆心を中心として円周50メートル付近に落下する公算が多いようであった。

従って、その中間の25メートル付近が比較的安全と言われていた。
我々の退避地点は、点火後 走って目測25メートル辺にすることを
あらかじめ打ち合わせてあった。


我々はそれぞれ所定の位置についた。

橋に向って左側上の橋げた付け根に宮山兄、
その下のベトン基部に岸山兄がうずくまった。
右側の上に自分、同じく下のベトン基部に山本兄が、
それぞれ点火の姿勢をとった。

さあ、いよいよクライマックスの点火であった。
言い知れぬ緊張感で身の引き締まる思いであった。
瞬間、ふと不安が脳裏をかすめた。
敵は既に相当近づいているのではないか。
もはや、やりなおしのきかない運命の瞬間であった。
友軍の命運もまさにこの爆破にかかっていた。
我々の運命も全アチェ人の生死もこれに係っているのである。


現場付近はネコの子一匹いなかった。
この作業を知るものは我々4名だけであった。
もし我々4名が、不幸爆破で死んだら、
果たして誰がこの事実を語ってくれるだろう。
さて、いよいよ爆破であった。

万一不測の事態に備えて、煙草、マッチ、小刀の準備品を再点検した。

先ずタバコに火をつけて口にくわえた。
もし、マッチがうまく導火策に点火しなかったら、
すぐ煙草で点火するためであった。

導火策の芯を中心に小刀で十文字を入れた。
火薬をむき出しにし、引火し易いようにした。
芯の上にマッチの軸を置き、上からマッチの軸の方を押さえつけて、
こすりつけて点火させるためである。

鉄橋の爆破成功

矢は放たれた。
一、二、三の合図で同時にマッチをすった。

早やる心を押えて、それぞれもう一度芯の引火を確かめた。  
芯の火薬は子供の遊ぶ花火の様なシューと言う音を立て、
かすかな白い煙を出しながら、燃え進み始めていた。   

それぞれ「大丈夫か」と互に確かめ合って、
あらかじめ目測してあった遮蔽物にむかって一斉に飛び出した。   

ほぼ25メートル付近の太目の椰子の木で、
やや根元から曲がった根っ子に身をうづくめた。

用意してあったござを頭からかぶり、幹を盾に首を引っ込めた。
恐る恐るござから首を出して前方をうかがった。

前方は静まり返ったままであった。

無意識に首を引っ込め、又、首を出して前を見た。
前と変わりはなかった。

今度こそ爆発してくれと祈るような気持ちで、
又、又首を出して前方を睨んだ。
しかし、依然として前方は静まり返っていた。

ちらっと不吉な思いが脳裏をかすめた。

“ひょっとすると不発か”と首を引っ込めるや否や、
“どしん”と言う、物凄い、腹までこたえる大音響と共に、
もうもうとした土煙をあげて爆発した。

“ワーッ”と思わず歓声をあげた。

土煙と共にチラッと真っ赤な火焔が見えた。

“ピューン”と金属音を立てて、
爆弾の破片が頭上遥か後方に飛んで行った。
又、ベトンの破片が頭上の椰子の葉に当たって落下してきた。

幸に大きな破片ではなかった。

土煙と真赤な焔の陰に鉄橋の枠橋がちらりと見えた。
橋は棒立ちに、端を上にあたかも生き物の様に立ち上がって居た。
一瞬棒立ちのまま止まった様に見えた。

尚よく見ると徐々に右側の方へ傾いていった。
と、見る間に‘ドドーン‘と大きな水音をたてながら、
あっと言う間に川中に落下し、その姿を没してしまった。

それはほんの数秒間の出来事であった。

吾々は声もなくその光景を見詰めていた。
それは形容し難い、荘厳なまでの情景であった。

ぼーつとしていた我々が吾に返ったとき、
期せず大声を張りあげ、
躍り上がって万歳を叫ばずには居れなかった。

土砂や小石が尚頭上の椰子の葉に当って忙しく音をたてていた。
土煙が鎮まり、はっきり向こう岸まで見通せる様になった。

それまで有った鉄橋は嘘の様に視界から消えていた。

思わず一斉に川岸に向け駆け出して行った。
そして吾々が立ち止まった所は、
元ベトンで固められた岸辺であった。

今は無惨に破壊されて、
生々しい土がむき出しに掘り返されていた。

又、たまたま鉄橋と並行して架設されていた、
太いパイプの輸送管も見事に継ぎ目から切断され、
原油が川に盛んに流れ込んでいた。

右側の水面はぶくぶくと盛んに水泡を出しており、
下流に向かう左側の水面には流入した油に火がついて、
河口に向かって火の川に化していた。

これはまさに予想外の大成果であった。

川岸に突立った吾々は、
水中に没し去った鉄橋があると思われる、
水面に向かって挙手の礼をした。

それまでの事が目まぐるしく思い出され、
込み上げてくる歓びをしばらく噛みしめていた。

ああ!吾々の事は成った。
これで両油田の焦土作戦は安心して出来ることになった。
友軍も苦戦の危機を脱することが出来たのだ。
それはまずまずアチェ人全滅をまぬがれることでもあった。

吾々は次の焦土作戦を考える余裕を得た。
其の後焦土作戦は急速に進められた。
その詳細は後日に譲ることとし、結末を先に述べねばならない。

即ち、作戦は見事に成功し、
前出の両油田の満タンの油は、
友軍の手で燃やし尽くすことが出来た。

さしものオランダ軍も如何ともなす術がなかった。
ためにオランダ軍アチェ進攻作戦は水泡に帰してしまった。

オランダ軍の意図を挫折させた、
その爆破行の意義は深い。

その功績はひとえに岸山兄のものと言っても過言ではない。

尚、吾々の無念さは、
岸山兄が其の後いくばくもなく急逝したことであった。

アチェ、プルラの町からバリサン山脈にかかったカライノン油椰子工場で、
手榴弾の製造指導をしていた岸山兄は、
手榴弾爆発で其の他の爆薬の誘爆事故により、あたら春秋に富む身を、
あたかも死に急ぐ如く、独立の日を見ることなく、散華してしまった。

又、吾々の歯がゆさは、
本当にアチェ人の命の恩人だった同兄が、
常々目立つことを快しとしない人柄だった為に、
余りアチェ人には知られていないということである。

こいう日本人も居たのである。

今同兄を偲べば数々の思い出と共に、同兄の胸中を察して余りある。
感無量であり、今尚胸痛む。

1991年9月    近藤富男