スマトラ島の残留日本兵
立川庄三 照山日出男 口 修 近藤富男

照山日出男の証言

インドネシア独立戦争においてのスマトラ戦線では、
インドネシア側(残留日本兵)に、芳しい戦果はありませんでした。
が、照山日出男の撃つ弾は、次から次と敵兵に命中するのです。
お読みください。



(証言者) 

照山日出男
1916
911日生 茨城県出身
近第2師団 准尉

村人に捕まり殺されそうになる


(証言)

1947
年、オランダ軍の行ったネシア全地区の第一次攻撃で、
メダンのインドネシア前線部隊は、
支離滅裂し難民と共に各自の郷里、地方に遁走した。

私たちのような残留日本兵は行く先がない。

所属部隊と行動するか、
所属部隊の司令部所在地に非難するしか方法がなかった。

私は、その頃、
ヤコップ・シレガル中佐を長とする全スマトラ国民司令部に所属していた。
そのシレガル中佐とは、
メダン西方60キロのカロー地区に集結するとの事前協定があった。

この事前協定にしたがい、私は前線を離脱し、カロー地区に向かった。


途中、地理は不明だが、広い田園地帯に出た。
この田園地帯を横断すればカロー地区に通ずる道があることは想像できた。

村を通過しては危険であった。
オランダに内通している日本兵がいるとのデマが飛んでいたからだ。

が、村と村の間が狭まった大通りの近くで村民に見付かってしまった。

「待て」と言って、10名余りの村民が竹槍を片手に追いかけてくる。
ピストルの弾丸は、40発ある。
2・3発威嚇射撃しようとしたが、待て、待て、そんなことしたら、
俺は本当にオランダ軍の手先と思われる、と思い直して、彼らの到着を待つ。

勿論、彼らも気が立っている。
竹槍で突くような挙動が見られたら、その時こそ戦おう、と思っていた。

が、そのグループの長らしいのが、
仲間をなだめているのを見て、ピストルから手を離す。
殺さないと見透かしたからだ。

村に入ると老若男女が何百人と集まり、
思い思いに私の兵器、所持品、金などを掠奪する。

私は内心すこぶる不満だったので、
「君達の中に兵補か義勇軍出身者はいないか」と尋ねると、
元軍曹とか兵長とか言った人間が4・5名いた。

俺は言った。

「仮に俺がオランダ軍の密偵か手先であっても、
こんな村庭でこんな調査の仕方はないだろう。
君達の屯所がある筈だ。 
そこで調べるべきだ」

と、なるほどもっともだ、と了解してくれ、
屯所に連行された。

屯所では、氏名、住所、その他必要なことを訊問された。
俺は、「俺の指揮官はヤコップ・シレガル中佐で、俺は猛虎隊の少佐だ」
と、言うと、

彼らは、シレガル中佐の様相を訊問し、所持証明書を見て、
「貴方は我々の指導者だったのか」と驚き、
村民に命じて私の所有物を返してくれた。

30
分ぐらいして、知り合いの前線中隊長と560名の部下も到着した。
中隊長は「我々の指導者に何かしたら、この村を全焼する」と脅かされ、
村人は皆シュンとして各自の家に隠れた。

その内、某村民宅に誘われ、温かい飯・焼き鯉・酒などご馳走になり、
濡れた服を乾いたのと換えてくれ、親切にしてくれた。
今までの疲労が出、満腹になったので、前後不覚に眠ってしまい、
翌朝 兵隊が出発したのも全然知らなかった。

それでも中隊長は、残っていて、
「オランダ軍は、シレガル中佐駐屯本部である、
バビロン・ウル方面に向かっている」
「中隊は、これをやり過ごしてパラパットのトバ地区に行く」と言う。

そうした情報をもとに、中隊から別れ、また1人の逃避行を始めた。
で、スリブ・ドロックの町に着くと、
そこには猛虎隊員が沢山集結していた。
友人宅に泊まった。


壕に隠れてオランダ軍を待ち伏せる


翌日の午後、
機関銃の修理をしている最中にオランダ軍に包囲された。

突然に一斉射撃を受けた。
女看護婦達の叫び声が聞こえて来る。

「それっ」と手許に置いていた各自の荷物を
わし掴みにして一目散に草原に逃げる。

途中、他部隊の妨害を若干受けたが、
夜明けにやっと猛虎隊の本部所在地である、ブラスタギーの町に到着した。

大隊長のバヨン・バグン大尉に会い状況を話し、
バスで後方に送ってもらう。

集結地の村に到着してみると、
40
名余の日本人が集まっていた。

その中には既知の者もあり、未知の者もいたが、
皆、同じ環境にあるので近親感以上の兄弟愛みたいな気持ちになり、 
すぐに10年の知己のようになる。

我々の最後になるかも知れんというので、
各自所持品を出し合って平等に分配する。

数日後、私ほか2名がバグン大尉に呼ばれ作戦会議を行った。

私はインドネシア語をわりに知っていたので、
前線部隊長に任命され、全日本人と2個中隊(約300名)を引率して、
明け方、プラスタギー前線に向かうよう命令を受けた。


その後、カロー地区の戦闘は思わしくなく、戦果もあがらなかった。

私は、そうした際の取り決めであった、7名ばかりの日本人を連れて、
サラギラス少佐の指揮する猛虎隊の所在地である、
シャンタル前線まで下がった。

サラギラス少佐に会うと、
喜んでくれ、前線部隊長兼参謀を命ぜられた。

「シマルグン」のシャンタル前線地区では食事は普通であった。
前の「カロー」地区では煙草はあるが紙がなく、
食物の材料はあるが塩がなかったが、この地区ではそんなことはなかった。

上等ではないが、避難兵の吾々にとっては、普通であった。

「パネトガ」近辺で戦友、宮下外次郎の壮烈な戦死を聞き泣いた。
夕方遺骨埋葬(軍葬)し、其の後は主にゲリラ戦をやる。


忘れもしない1947年10月29日のことである。

一旦「カロー」地区まで進撃したオランダ軍は、
補給路確保と治安維持のために、
再び「カロー」地区より「サンタル」に向かうとの報を入手した。

我がインドネシア軍はその途上の「ゴンテン・ラヤ」村の道路を切断して、
オランダ軍の侵攻を阻止しようとした。

その切断道路は両側が険しい崖になっており、
左側は森林、もう一方は崖下のちょっとした平坦地は田、
その向こうが高い丘になっていて、全く地の利を得ていた。

深さ3メートル、長さ7メートル位に道を掘り、
その前面の「カロー」方面と切断道路の後方に壕を設けた。


私の位置した壕は、道路面より2mばかり高く3人を収容できるものであった。
切断道路際でオランダ軍が来たら、真正面に対抗せねばならぬ場所である。
この壕でオランダ軍を待ち伏せた。


撃つ弾、撃つ弾、次々命中


そうした位置に着き、第一日目無事であった。
二日目も何もなかったので、後方100メートルの空家に入り就床する。

三日目の明朝8時オランダ軍は、
パンセル7台・ジープ4台・トラック7台位に分乗して攻撃して来た。

私の壕の位置とオランダ軍の最前パンセルの間は、
せいぜい25メートルであった。
幸いなことにパンセルは道路の関係上横隊になれない。
私の所持兵器はマドソン。
敵先頭パンセルから猛烈に機関銃を射って来る。

「こ奴を射殺、沈黙させれば、敵の戦闘力の半分は減勢できる」
と思い、マドソンでよく照準する。

3発を射つ。
うまく銃眼に入ったようだ。

間もなく血が少ししたたるのを認められる。
敵パンセルの射撃が止まった。

と同時に、前の高地から機関銃を連射してくる。
その相手を狙い1発射った。
命中。


交代射手が3発と射撃しない内に、
又、その射手を射ち命中。


私の所持していたマドソンはバネが弱いために、
時々射撃不能になるため、
一緒に壕内に居た現地兵の日本軍の38式歩兵銃と交換し、
弾丸も16〜17発貰っておいたのである。

丘の軽機関銃がその後射撃して来ない。
と、丘から7名ばかりのオランダ軍が降りて来て、
パンセル傍で膝射ちの姿勢をとる。
その分隊長らしい兵の胸を狙い射つ。
勿論命中。


2人のオランダ兵はおどろいて崖に落ち、
あとの兵はパンセルの後に隠れた。
勇敢な敵兵1人がステンガンをパンセルに乗せ、
そっと手を出し、頭を出しかける。
やっと口のあたりまで出した時、
私の1発を額に食らい倒れた。


より勇敢な色の白い敵兵が、
切断道路に飛び降り、こちらに向かおうとしている。
同壕内の現地兵の注意で慌てた私は、
腰がめで1発射つ。
うまく命中。


弾丸も射ちつくしたので後退だ。
現地兵は先に逃げたが、
私はアメーバ赤痢とマラリアのため体力が衰えて走れない。
怖いが諦めてぼつぼつ歩く。
1Kmばかり後退すると、同部隊の兵隊達に会い、
その晩は切断道路から若干離れた村に宿泊する。


翌朝、私は兵隊達に昨日の壕を利用せず、
もっと後退して壕を造るように命じた。

又、今日はオランダ軍も作戦協議や資材準備のため、来ないだろうが、
明日には必ず来るので、その際は抵抗することなく後退しろと命じた。


そのとおりとなった。

10月31日朝8時、オランダ軍は徒歩で進撃してきた。
兵が1人もいないのを確認して、私は道路に飛び下り退却する。
一昨日の壕に砲弾が命中している。
予感が的中した。
いち早く壕を後退させておいたて良かった。


脇の細道に入ると、
上田氏所属の擲弾筒の弾丸持参の少年が1人ぼんやりと待っている。
その少年を連れて、切断道路崖下の森林中に潜伏した。
オランダ軍がどういうことを言うか、聞きたかったのである。


弾丸の音が絶えると、
道路資材を下ろす音が聞こえ、オランダ兵が現地人を逮捕し、
「一昨日、ここで抵抗した日本人は誰か」
「兵隊を14名も殺したのだ、名前を教えろ!」
と殴打しているのが聞こえる。

これで私は、(おー、一昨日、敵はそんなに死んだのか)と思った。
一昨日の戦闘では壕近くに砲弾が落下して、
俺の体は土砂だらけだった。
戦闘当初に撃った上田氏の擲弾筒の弾丸も敵のジープに命中したようだ。


この戦闘では、私1人で3時間、敵と防戦したことになる。
こんな状態では、インドネシアの独立は至難だ。

いっそ死んだほうが良いかも知れないという、自暴自棄の気持ちになる反面、
俺は日本人である、という自尊心があって、複雑な思いにかられた。

日本軍時代も師団司令部つきであったので、
戦争らしい戦争をしたのはシンガポールへ上陸してからだった。


日本軍の時は、上官の命令に従い、絶対的信用ができたが、
現地軍を指揮してみて、把握指揮が如何に難しいか分かった。

怖いのは誰も同じで、我々も怖ければ敵も同様なのだ。
誰が先制勇敢に戦うかで勝負が決まる。

精神状態と教育が如何に大切であるか痛感した。


内乱軍に兵器を掠奪される


スマトラ東海岸でオランダ軍に抗戦したのは、
わが猛虎隊が最後であった。
その抗戦も限界に来てしまった。

撃つ弾がなくなり、
他のインドネシア軍が逃げるばかりで抗戦しなくなったからである。

敵軍の圧迫もますますひどくなり、
止む無くトバ湖畔のテガラス町を離れた。
夜半に船に乗り、サモシール島へと逃避した。

その頃、第5大隊長のサラギラス少佐が
部下の起こしたクーデターで抑留されるなど、
猛虎隊の中でも内部紛争がおこり、
まとまりがつかなくなりつつあった。

猛虎隊そのものの力を殺ごうとする勢力もあった。

いわゆるイ軍の中での仲間割れ、勢力争いがあったのだ。

そういう中で、
私はヤコップシレガル中佐の許可を受け、
特別中隊(100名)を引率し、
ドバ地区並びにシャンタル地区でゲリラ戦を行うために出発した。

山を越え、川を渡り、粟飯を食べ、
間道、山道と何百キロを歩いて、
やっと、ドバ地区に到着した。

そこで、バンテンネガラの部隊長のマラオ少佐の妨害圧迫を受けた。

バンテンネガラの部隊は、
主にトバ人で構成されるクリスチャン教徒部隊であった。
この部隊は、一応イ国側であるが、
オランダ軍の密偵が多くいることが噂されていた。
猛虎隊の勢力を削ごうとする部隊のひとつでもあった。


そのバンテンネガラの幹部と協議中に、
オランダ軍の大々的攻撃を受けた。

会議中絶し、
我が中隊と、東海岸州より避難してきた猛虎隊のB旅団の一個中隊は、
朝8時半頃から薄暮迄、このオランダ軍と戦闘を交えることとなった。


後方の台地には、
もし我々が後退しようものなら、我々の武器を奪おうとする、
バンテンネガラの部隊が待ちうけていた。

前方は、勿論にオランダ軍である。

結局、私たちの2個中隊は、
前と後を挟まれた形での戦闘を余儀なくされた。


幸いに我が軍が防戦した村は、
四囲が1メートル位の高さに土が盛られてあり、
村の周囲は田で戦闘するには地の利を得ていた。

反対にオランダ軍の方は平坦な田を通って攻撃せねばならず、
攻撃困難なように見えた。

激しい戦闘であった。

夕方、オランダ軍は大砲を使用するに至り、
飛行機まで偵察に飛来した。
後日、村民に聞くと、敵軍の死傷者は中々多かったらしい。

我が軍はT兵士が右上腕部に擦過傷を受けただけであった。
戦果は上々であった。

今迄敵軍に対して、抗戦らしい抗戦を見なかった住民は、
非常に喜んで、食糧の方は全責任を持つから、
是非ともこの地に留まってくれと要望された。

後方のバンテンネガラの部隊からは、
粛清し協力しようとの申し出あったが、
我々は後難を恐れてそれを断り、その地を出発した。


一晩中歩いて、「アサハン・アルミ」企業の発電所である、
シグラ・グラ村に到着した。

大休止後、アサハン川の竹橋を渡り、
対岸上にある民家に到着した。
この家の主人及び一家は感心な人達で、
我々230名の朝食を一軒で担当してくれた。

……..
20年後の1969年、昔のお礼を言いたくて、この村を訪問したが、
3軒ばかり住んでいた村民は誰もあらず、家は廃屋となっていた。
……

その後、数日して我が中隊は、
ポルセア北部にある、ロンバン・ルブ村に宿泊した。
兵の宿舎として、山や森の中に仮宿舎を作ったが、
兵隊は自分の郷里に久しぶりで帰った。

夜中の2時ごろ、兵隊のほとんどがいなくなったところを、
バンテンネガラの部隊に包囲され、
所持兵器・百挺余りを掠奪された。

幸いに、シネトガ准尉を長とした、
一個小隊をオランダ軍攻撃の為、先発させていた。
その一個小隊分の兵器25挺ばかりが助かった。

次の戦いの「パラパット」オランダ軍攻撃は、
この25挺の兵器で行うこととなった。

バラパットのオランダ軍攻撃


バンテンネガラに包囲された村は、直ちに撤去して、
パラパットに近い、ゲルサン村に泊まっていた時である。

スカルノ大統領がオランダ軍に捕らえられ、
パルパットの迎賓館に抑留されているとの噂が耳に入る。

こんな敵地に長居は無用である。
が、その前にオランダ軍に一泡吹かして去ることを策略する。


1949年1月9日、兵隊の部署・役割を命じた。
攻撃と同時に外灯を撃ち、兵舎内を暗闇にすること。
その暗闇の中を私以下6名が兵舎に突入することを決めた。

同日、22時に出発。
田や畑を通り抜け、敵兵舎30メートルの所に、
40名ばかりの兵が取り付く。

丁度窪地になっている。 
皆に兵舎付近の状況をよく見るように言う。

20
名ばかりの別行動の擲弾筒射撃音を合図に、
私は一番先頭に敵兵舎壁に取りつく。

目前にオランダ軍の歩哨が2名みえる。
さっと飛び出して歩哨の小銃の銃身を掴む。
敵歩哨は驚怖のためなすことを知らない。

銃を手放せと言っても放さず、
我が兵に銃を奪う様に言っても、
その行動に出ぬため、
敵歩哨の睾丸を蹴り上げて銃を奪い、
兵に投げ与えて、敵兵舎に入る。


現場(サモシール島)中隊長P・ナインゴランが
私の後から入って来た。
敵兵の看守していた電話機を取り、床に叩きつける。

第2室に入ると、先に入っていたナインゴラン中隊長が、
ピストルでオランダ兵を威圧、釘付にしていた。
敵兵は2メートル近い奴ばかりで7名が身動き出来ないでいる。

私も小銃(元陸戦隊使用のもの)で敵を嚇し、
「俺は日本人だが、今晩はお前達を殺しに来たのではない」
「兵器を貰いに来たのだ」
「抵抗する者は射つぞ」と叫ぶ。

実はこの所持銃の弾丸が、うまく射てるかどうか、私は半信半疑だった。
壁に立て掛けてあった小銃2挺を掴み、表へ飛び立つ。


勿論、私とナインゴラン中隊長が敵兵舎内に居る時には、
敵味方の射撃は開始されていた。

窓を通してシネトガ小隊長の倒れたのが見えた。
兵舎裏に周り、壁より3メートルの処に伏せる。


グルトンと言う軍曹を残して他の兵は皆逃げてしまった。
だらしがない。、
ナインゴラン中隊長はステンガンを奪い、
兵舎の前面に逃げるのが見える。


敵兵がこれを追い討ちしている弾丸の飛ぶ光が見えるが、
中隊長は無事であった。

グルトン軍曹に「1発射ったらすぐ位置を変えろ」と命じ、
ナインゴラン中隊長を射撃した機関銃の位置らしいところへ板塀越しに射つ。
何処かに当たったらしく唸り声が聞こえる。


射って位置を変えている内に、
敵兵が2人裏戸を開けて出てくるのが見え、
2人揃ったところを下から射ち殺す。
2人共、もんどりうって倒れた。

敵より奪取した小銃弾は10発。
これを撃ちつくし弾丸がなくなり、後退を止むなくなった。


松林を越し、田圃の傍にある小川の岸まで来た時、
前面に2名の兵がうずくまっているのが見えた。

弾丸が一発もないので、銃床で殴り殺す心算で更に近寄り、
「誰だ」と叫ぶと、「弾丸に当たった」との答が返ってきた。

見れば、シネトガ小隊長と兵一名であった。
止む無く小銃を兵に渡し、小隊長を背負い、段々畑の中を強行する


村に帰り、シネトガ小隊長の傷を見ると、右下腹であった。
膀胱が危ないと思い、小便するのを要求すると、幸い出る。

全く運の良い男であるが、弾丸は毛管銃創である。
とにかく、治療をしなければならない。

ヨーチンと赤チンがやっと入手できたが、包帯はない。
やむを得ず、小隊長使用のサロン(腰巻)をさき、煮沸消毒をする。
同時に4分の1インチ位の鉄棒を真っ赤に焼いた。


兵8名に手足を抑えさせ、「痛くとも我慢しろ」と、
赤く焼けた鉄棒を傷口に瞬間的に差し入れ、すぐ抜く。
小隊長の叫びを耳にしたが、一番怖いのはガスエソだ。
ヨジュームを注ぎ、
すぐに赤チンを投入して代用包帯ですっかり腰部をしばる。


その時は、もう暁である。
これで小隊長の体も大事に至らないであろう。


今回の戦闘で、行動を興さなかった兵が50名ほどいた。
その50名を庭に集め、
「誰の命令で後退したか」
「今からお前らを処罰する」
「ナインゴランとグルトンは、俺がなぐる兵の後から看守しろ」
「もし、反抗する者は撃ち殺せ」
と命じ、銃床尾で横隊に並んだ兵全部を突く。


誰も反抗しなかった。
其の後、村の後方にある高さ200メートルくらいの山の中に避難した。


1984年4月  照山日出男