独立記念 社会情勢 歴史教育 教科書
高校の教科書(まえがき)

インドネシアの独立戦争に参加した残留日本兵のことを少しづつ書いている。
が、どうしても日本サイドに立ちすぎて調べたり書いたりしてしまうきらいがある。
私が日本人だからしようがないのかも知れないが、やはり避けたいものだ。
私自身が客観性を保てているのかの点検が必要である。
そのためには、日本ではなく、私でもなく、
インドネシアの国民がその頃の日本をどうみていたのだろうか、を知りたい。
で、私は今、インドネシアの教科書の中の日本を読んでいる。
SMAと呼ばれる大学進学を目指す日本で言えば普通高校の教科書である。
高校2年生の教科書には、日本のインドネシア侵入を書いている。
高校3年生の教科書では、もう少し詳しく、さらに独立戦争を書いている。
インドネシア語を正確に読み取る力はないが、なんとか努力して、
できるだけ書いてあることを正確にブログに掲載したいと思っている。


高校2年生の歴史教科書(目次)

右は普通高校2年生の歴史教科書である。
まず目次だけを見て書きたい。
教科書の中身は一部と二部に分かれている。
一部は、1〜5章に分けられ、仏教、イスラム、
ヒンドゥーの伝来が書かれている。
二部には、6〜10章あり、
6
章には、王国乱立時代
7
章には、大航海時代の外国からの影響
そして、第8章に、
「インドネシアにおける日本軍の占領」と題し、
日本のことを下に図示する項目別に書いている。
第二次世界大戦中の日本....が、
日本人のインドネシア侵入....に至る経緯を
私は赤字で「侵略」と訳して書いた。


インドネシア語の原文は、melakukan invasi
と書かれてあった。
melakukan
は英語のdoing であろうか、
残る invasi  であるが、
これは、あきらかに「侵略」でありそれ以外の訳はない。
ンドネシアを独立させるためにインドネシアに侵攻してきたと言い張るが、
インドネシアは、「侵略」と思っており、
学校ではそのように教えているということである。
次のブログでは、下図の四角枠で囲んだ各項目の中身を書く。


  

インドネシアにおける日本軍の占領(高2歴史教科書)

1
、インドネシア領土に日本が入ってくる


日本はファシズム国家であった。 
アジアにおける軍国主義国家である日本はとても強かった。
その日本が、インドネシアで国民運動を妨げた。
第二次世界大戦の勃発で、日本が戦争に突入した。
その戦争は太平洋で行われた。

インドネシアは、そうしたファシズムを断固反対する姿勢であった。
ジャワには、昔からジョヨボヨの予言があった。
黄色い肌の色の国の人が占領しても、
その占領はトウモロコシの生涯と同じですぐに終るという予言だ。
日本が占領してくることはわかっていたのだ。
そして、その占領もすぐに終ることは分かっていたのだ。
なにもかもが予言どおりだった。

1941
128日、太平洋戦争が勃発した。
アジアの情況が悪化した。
オランダは、日本の脅威に対しての対応を行った。
が、日本軍は強力だったので最終的には
オランダの砦は日本軍の手に落ちた。

この日本が行った東南アジアや太平洋での戦争は、
太平洋戦争とか大東亜戦争と呼ばれている。
非常に短い期間で日本はインドシナ、タイ、ビルマ(ミャンマー)、
マレーシア、フイリッピン、インドネシア
などの東南アジア地域を支配した。

シンガポールが日本の手に落ちたのは1941215日であった。
イギリスの戦艦、プリンスオブウエルズとレパルスが
日本軍によって沈没させられた。
その後インドネシアが日本の手になるまで、
連合国の指導者は少しづつ、
本国に帰ることになったが、カレルドアマン配下の一部が残り、
ジュワ海海戦を戦った。

日本軍がインドネシアに侵攻して来た年代について、
1942
110日のタラカン占有を皮切りに、
ミナハサ、スラウェシ、バリクパパン、アンボン、そしてその後、2月には、
ポンティアナック、マカッサル、バンジャルマシン、
パレンバン、バリを占領した。

その頃、英国にとって重要な土地はシンガポールであった。
またオランダにとって重要な土地はバタビアであった。

日本軍が最初に占有したのはパレンバンであったのは、
これら二つを分断するためであり、
それは戦略的にも重要であったからだ。

その後、日本軍はバンテン、インドラマユ、クラガンの地を経て
ジャワ島に入ってきた。
1942
35日には、バタビアのオランダ軍砦を攻め、
最終的には38日、オランダ軍は、
日本軍の山下中将に降伏を申し出た。
以後、インドネシアが日本の植民地支配を受けることと成った。

囲み記事があり写真が掲載されている(編集子)



オランダは、
1942
38日、
日本に無条件降伏した。
日本軍のこうした急速な動きは、
日本が短期間で
オランダの植民地事情を
習得したからである。

日本はインドネシアに
「兄」としてやってきたと告げた。

その日本の存在は
350
年もの占領中に浸漬された、
インドネシアの人々に、
の新しい希望と楽観をもたらした。

写真は子供達が“兄”がきた、
と歓迎している様子。

(雑誌「Djawa Baroe」掲載)


2、インドネシアへの日本の侵略

Bala Tentara Nippon
という名が日本統治時代の軍事政権の名称である。
この政権下でオランダ統治時代は総督に帰属していた全ての権限が
いくつかの地域別に分けられた。

インドネシアを日本陸軍がふたつ、
日本海軍がひとつの、計三つの管轄権に分けたのである。
即ち、
A: バタビア陸軍の下での、ジャワ島とマドゥラ島
B: スマトラ陸軍の下での、マレー半島、シンガポール、スマトラ島
C: 海軍の下での、
   カリマンタン、スラウェシ、ヌサテンガラ、マルク、イリアン

3、日本の行った組織化運動

日本軍は常に、インドネシアの人々の心を獲得しようとしていた。
インドネシアの人々から支援されることを望む日本軍は、
次の三つの運動を行った。
三つの運動とは、3A呼応、PUTERA, 及び PETA の三つである。



1、3A呼応とは、

右のポスターで示すとおり、
日本はアジアの光であり@、
防御でありA、
リーダーであるB、
の三つの呼びかけである。

但し、呼びかけだけに留まり、
インドネシア人民の心が掴めず、
尻すぼみとなった。

2、PUTERAとは、

Pusat Tenaga Rakyat
の略で、
日本軍のために民衆の総力を結集しようというものであるが、
この運動の結果、インドネシア側のリーダー達のナショナリズムが醸成され、
最終的には反日運動に結びつくことになった。

3、PETAとは

郷土防衛自衛軍のことである。
日本は太平洋戦争の利益を得るため、
インドネシアの若者を郷土防衛を理由にして育てた。
しかし、自衛軍が力をつけるにつけ、
日本にとっては脅威であるようになった。
したがって、1944年、日本軍は郷土防衛自衛軍を解体し、
組織のリーダーシップを完全に日本軍が掌握する形の別の組織を作った。

5、抗日の気運起こる

人々は、いくつかの場所で日本軍に抵抗した。

1、1942年のアチェ:(西部スマトラ)

アブドゥル?ジャリルのリーダーシップの下で抗日の反乱があった。
この反乱は一旦鎮圧されたが、
2
年後の1944年、再びテウク・ハミッドのリーダーシップの下、
反乱が起きた。
但しこれも日本軍によって鎮圧された。

2、1943年のコーラルアンペル:(西部ジャワ及びバンテン)

ハジマイル・マドリヤンと彼の友人が主導した反乱であった。

3、1943年のタシクマラヤ:(バンドゥン近辺)

ムスタファが率いる日本軍への抵抗は、
日本に味方するものを殺すことであった。
日本は彼のこの抵抗には徹底的に報復し、大量の殺人を犯した。

4
1945214日のビルタル:(東部ジャワ)

スプリヤディ(ビルタルの摂政の息子)の下で蜂起された抵抗であった。
当初は彼1人の抵抗であったが、そのうちに彼の友人である、
イスマイルやムダリやスオンドゥが加勢した。 
その頃の日本は太平洋戦争において敗北を重ねつつあった。 
そうした情勢の中でのスプリヤディのこの勇気ある抗日は、
日本を驚かすものであった。 
日本軍は抵抗を指揮したスプリヤディを包囲した。
が、スプリヤディは屈しなかった。 
そのうち日本はスプリヤディの安全を保証すると共に
彼の要求を認めることになった。 
結果的にスプリヤディの抵抗は成功したが、
彼の友人のイスマルのように死刑を宣告される者もあった。 
ただ、日本軍も拷問により死亡する者があった。

これらの抗日運動は、
インドネシアの日本占領を許さないというものであった。
日本は西カリマンタンにおいて、
インドネシア人の知識人の大規模な殺害を行った。
この時は2000人以上が日本軍の犠牲になった。
こうしたことを経て最終的には,
1945
814日に日本が連合軍に降伏した。



5、インドネシア国家が受けた日本の占領の影響

日本軍がインドネシアに侵入してきたことにより、
インドネシアの国は次のように変った。

1、政治面

日本における権力政治の流入以来、
インドネシアの政治団体の活動は一切抑圧された。 
一部の政治団体はこれに反対する闘争を続けたが、
これも排除され、
完全に日本政府が設定した政治体制に置き換えられた。

2、経済面

日本は、それまでインドネシアを占領していた帝国主義国と変わらず、
やはり帝国主義国であった。
インドネシアの資源を日本が取得すべきとして行動を起こし、
それを日本の経済に有益になるように画策した。

3、教育面

教育面においては、オランダ時代に比べて大きな改善があった。
日本はインドネシアの人々が教育を受けられるように多くの学校を建てた。
ただ日本の教育の目的は、
インドネシア人が日本の行為に対して共感を覚えるようにしむけることであり、
教育のカリキュラムもその種のものが多かった。
そうした教育は、
オランダ時代には許されなかったインドネシア語を使って行われた。
また、日本は、教育の一部に「体操」が盛り込んだ。
農業の方法、漁業の方法なども教育されたが、
オランダ時代はそういう教育はなかった。

4、文化面

ファシスト国家としての日本は、
日本文化をインドネシア人に植え付けようと画策した。 
たとえば、日本では朝日に挨拶するのが通例である、としてそれを教えた。
これはそうした敬礼は太陽神の子孫である皇帝に敬意を表するという、
日本の伝統の一つであることを意味して教えた。

.....

(註)メッカに向かってお祈りをするイスラム教徒にとっては、
この行為は苦痛であったことがよく語られることであるが、
ここでは、その苦痛には触れていない。


......

その他にも歌や映画やドラマを利用して日本文化を理解させようとした。
今インドネシアには、特定の祝祭日には国旗をあげる習慣があるが、
これは日本でもそうであり、この時期に日本から植え付けられた文化である。

5、社会面

日本の占領時代には、社会面では非常に悪いことが実施された。
日本の戦争の必要性のためにインドネシア人が使われたことである。
そのもっとも大きなものは、ロウムシャと呼ばれる強制労働の徴発であった。
強制労働により過酷な生活を余儀なくされ、生きて戻れぬ人もいた。


(註)
最大の屈辱であったロウムシャの記述が意外に少ない。 
村の若者の全てをロウムシャに狩り出したため村では米が作れなくなって、
残されたお年よりは餓死した。
などのよく語られる話はここでは記述されていない。
また、婦女子への暴行事件も少なからずあったことも語られているが、
ここではそうした記述がない。
その理由をこの本を勉強してきた人に聞くと、
「他のところですでに習った」とのことであった。
「他のところとはどこか」は、今の時点では追求しないこととする。


6、官僚の人事面

オランダ時代は、上級官僚にインドネシア人が採用されることはなかった。
しかし、日本の占領時代には、こうした上級にもインドネシア人がつけるようになった。 
ただしそうは言っても名ばかりで、実際には日本軍が権力を握っていた。 
いってみれば、日本が人気取りのために上級者にもインドネシア人を採用したに過ぎない。

7、軍の人事面

オランダ時代は、軍に関与した人事にインドネシアの意向が認められることはありえなかった。
日本の占領時代には、郷土防衛自衛という名目で日本軍の指導下のもと、
インドネシア人による軍事組織である、PETA が組織された。
インドネシアの若者は、このPETAで軍事訓練を受けることができるようになった。
この時訓練を受けた若者が中心になって後のインドネシア独立を策動した。

8、言語面

日本の占領が後のインドネシアにもっとも貢献したのは言語面であった。
オランダ時代には禁止されていたインドネシア語は、
日本の占領時代には使用が許された。 
同時にオランダ語の使用が禁止された。
文学もインドネシア語で書かれる様になった。
それにより、オランダ時代は「愛」とか「王国」をテーマにした文学が多かったものが、
日本占領下では、「オランダとの闘い」をテーマにした文学が多く発表された。
また、オランダ時代はバタビアと呼ばれていた市をジャカルタという名に替えられた。

6、インドネシア独立の準備

1944
7月、サイパン島が米国の手に落ちた。
太平洋戦争における日本の立場は絶望的になってきた。

1944
99日、日本の小磯首相は、
インドネシアを独立させるとの声明を出した。
その時点では、インドネシア国旗を掲げることができるが、
日本の国旗と並べて掲げるとの指示がなされていた。

日本の敗戦が濃厚になった、194531日、
日本軍16軍司令官である原田熊吉は、
独立を具体化させるための「独立準備調査会」の設立を公表した。
その準備委員会は、60名のインドネシア人と、
7
人の日本人がメンバーとして構成されていたが、
日本人7名は名ばかりで権限は与えられていなかった。
この時期から、インドネシア国旗である、
メラプティ旗の掲揚とインドネシア国歌の使用が許された。

スカルノは、この調査会においてインドネシアの政体としての
パンチャシーラ提唱し、インドネシア憲法の骨格を決めた。

しかし、日本人が加わる準備調査会の評判は良くなく、
その後すぐに日本人を交えぬ独立準備委員会が作られた。
この委員会の設立にあたっては、
日本側から合法ではないとの反対があったが、
7名の新たなインドネシア人が加わり、
合計87名のメンバーで独立準備委員会が発足した。

1945
89日、スカルノとハッタとラジマンはジャカルタを発ち、
サイゴンの寺内元帥に逢いに行った。
8
11日、寺内元帥より独立承認が告げられた。


(註)

飛ばし飛ばしで書いたので補足しておきたい。
教科書では、独立準備調査会が出来る頃の
インドネシア内のイデオロギー別派閥を囲み記事で紹介している。
本ブログの掲載目的とは直接に関係ないので、ここでは割愛した。
また調査会設置当時、スカルノなどが描き始めた「憲法」についても、
その思考経緯を含め記述している。
しかし、これらについては、
高校3年生の歴史教科書の最初にさらに詳しく書いているので
ここでは割愛した。
高3の教科書の紹介で、
その部分をどの程度書くかは、まだ決めていない。
が、いずれにしても日本とは直接に関係のないことなので、
その部分も教科書を飛ばし飛ばし結論のみを書くことになると思う。

以上、これにて、
インドネシアの高校2年生の歴史教科書の中の日本部分の紹介をオワリます。


高校3年生の歴史教科書


さて、以前約束した、
インドネシアの高校3年生の
歴史教科書の紹介である。
高校3年生の教科書(左)には、
インドネシアの独立宣言のことが
詳しく書かれている。
その独立宣言に、
日本がどのようにかかわったのかを
日本の援助を受けず、
独自で独立宣言した事に
重点を置いて書いている。

その通りであり、私のブログも、
インドネシアが自前で独立宣言した経緯に、
焦点を当てて書いている。
独立準備調査会の設立、
独立準備委員会への切り替え、
なども淡々と事実を書いている。


本来なら日本の押し付けを嫌った若者達の抵抗を
もっと強調してしかるべきであるが、そういうこともあったと、これも淡々と書き述べている。
こうした点では、インドネシアの教科書の歴史認識に誇張はない。

したがって、ここでもう一度、独立宣言を詳しく取り上げることはしない。
ただ、一点だけ食い違うことがあった。
たいした点ではないが、ちょっと書いておきたい。




食い違うのは、
1945
816日の深夜の話である。
前田邸に集った諸氏が西村陸軍少将宅に、
翌日の独立宣言への了承を
とりに行く場面である。

私のブログでは、
前田精海軍少将がスカルノ、ハッタ、吉住を
伴い、西村少将邸を訪ねた......と書いた。

これに対して、教科書では、
前田精、西嶋、吉住、三好、スカルノ、ハッタで
西村少将邸を訪ねた......としている。
西嶋、三好も加わっていると書いているのだ.

しかも、教科書では、
西村少将は、単に断ってきたのではなく、
「独立準備委員会の決議を認めない」
とまで発言したことが書かれており、
スカルノとハッタは怒ったことを記述している。


その西村の発言が事実であれば、怒る前にあきれる話だ。
独立準備委員会を発足させたのは、当の陸軍であるからだ。

私が思うには、
西村少将宅に行ったのは、私のブログの方が正確なのではなかろうか。
そして、西村少将が独立準備委員会を否定する発言をしたとの教科書の記述も
これはこれで正確なのであろうと思う。

まあ、いずれにしてもたいした違いではない。
日本に関係するインドネシアの歴史認識は正確であると結論付けたい。

右上は、教科書に載っている前田海軍少将の写真である。
独立宣言の歴史を教える中で唯一の外国人の写真である。
インドネシア人ならば誰もが知っている前田精少将.....なのに、
日本人の多くが前田少将を知らないのは、情けない話である。



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