ングラ・ライの独立戦争
歴史が作る
民衆心理
風土が作る
民衆心理
教育が作る
民衆心理
数々の戦い ププタン・マルガラナ
教育が作る民衆心理


ングラライが兵を挙げた頃のバリの教育はどうだったのか。
それにより、ングラライはどんな影響を受けたのか。
の二つを関連付けて書きたく思うのだが…….
後の方の影響を受けた実態を書くことからアプローチしたい。

下の表を見て欲しい。
ププタン・マルガラナで戦死した96名の内の、
身元の分かっている93名の身分別、階級別の人数である。


バリヒンドゥーには、カースト制度がある。
カースト制度の中では、貴族と平民の名前が違う。
93
名の名前は、公表されている。
で、名前別に分ければ表のような分類ができるのだ。
表から次を読み取ることできる。

バリ兵には、貴族の割合が高い

バリ人の総人口の中で貴族(トリワンサ)の割合は、10%に満たない。
が、上記の貴族14名と言う数字は、バリ兵全体の17%にあたる。
ングラライ軍は、貴族が多かったのである。

階級の高いバリ兵には、貴族が多い

階級でも見てみよう。
少尉以上、要するに尉官以上の将校は、8名いるが、
平民からは1名だけで、残り7名が貴族出身である。
7
名の内訳は、Gusti (貴族)が6名、Ida Bagus(僧侶)が1名である。
曹長も見てみよう。 
曹長は、現場のたたきあげのトップであり、
分隊長として、10名程度の部下を持つ指導者である。
その曹長は、6人いるが、半分の3名がGusti(貴族)である。
指導者は貴族達、と言い切れる員数である。

以上に挙げた二つを大雑把にみると、
「バリ軍はカースト上位者主導」と言うことだ。

なぜにそうなったのか。
カースト上位者の方が、我を想い国を憂う心が強かったからだ。
カースト上位者の方が、ナショナリズムを持っていたということだ。

なぜにナショナリズムを持ったのか、
カースト上位者の方が、教育を受ける機会が多かったからだ。
教育システムが、平等ではなかったということだ。

ということで、
次は、平等ではなかった教育制度の実態を書くことにする。


(参考)

上の表にあるとおり、93名の内の5名が日本兵であった。
5
名の内の1名(名前:スラマット)は、階級が兵卒である。
元日本兵ではなく民間人であったからだ。
残りの4名(ワヤン・スクラ、マデ・スクリ、ブン・チャング、マデ・ジパン)は、
元日本兵であり、Pelda という階級でバリ軍に加わっている。
Pelda
とは、pembantu letnan dua と言う意味である。
「准尉」でもなく、日本軍の階級では置き換えられる階級がない。
で、勝手に「次准尉」という階級を当て込んで区分けした。
現在のインドネシア軍にも、Peldaの階級がある。
が、ングラライの頃は、現在のPelda とは少々違って、
「将校扱い」との意味で使われたように思える。




1596年にインドネシアに進出したオランダ。
以後350年、オランダのインドネシア支配が続く。
この350年の間にオランダがとった政策は、

1、分割統治主義
2、愚民政策
3、文盲政策
4、強制栽培制度
5、内紛扇動政策
6、弾圧政策……..であった。
これらは総花的ではあったが、過去に書いてきた。

が、今は、
「教育が作る民衆心理」という表題のもと検証を重ねている。
上記の、分割統治主義、愚民政策、文盲政策…..関連である。
この三点につき、より詳しく書きたい。

まずは、
オランダは何故にこうした政策をとったかであるが、

インドネシアを植民地化するに、
オランダが最も恐れたのは、住民の自覚とその団結であった。
原住民の教育をすすめ、文化や民度を向上させることは、
彼らの眠れる意識、即ち、民族的自覚をゆり起こすことになるからである。
できるだけ、長く彼らを安眠の中に静止しなければならない。
これが分割統治主義、愚民政策、文盲政策をとった理由である。

分割統治主義は、
一般にオランダ・華僑・原住民の3者の社会形成を明確化させ、
互いに没交渉となるように仕向けたことを言う。
が、もうひとつ加筆すべきことがある。
島々からなるインドネシアには、使われる地方語も島の数ほどにある。
オランダは、この地方語の勉強を奨励し、
標準語(マレー語)での修学を極力抑えた。
インドネシア人が同じ言葉で意思の疎通が図りやすくなることを阻止するためである。

次に愚民政策、文盲政策であるが、
日本軍の統治が始まった頃、読み書きができる者の数は人口の5〜6%であった。
たとえば、政府のお布令を達する場合、文字をもってすることは不可能であった。
そういう必要のある場合には、木鐘をついて村人を集め、
村長から口頭で伝える方法がとられていた。
原住民から学校の新設の要望があっても、
オランダ政府は「財政が許さない」との理由で学童数や学校数を極力抑えた。

その極力抑えた実状であるが、

オランダの植民地から、日本軍の統治に変わった直後、
バリ島に、原住民視学官が来て当時の教育の実情を調べ、
「管内教育状況報告書」を書いている。
次は、その報告書からの抜書きである。


(学童数)

1、バリ島とロンボック島と併せて人口は210万人である。
2、210万の人口であれば日本内地ならば33万人の就学児童数となる。
3、が、ここでは、41000余名の就学児童数である。
4、日本と比べると、実に80分の1の就学児童数しかいない。
5、特に目立つのが女児の就学の少ないことである。
6、シンガラジャ市内では男児の半数が女児である。
7、が、地方に行くと、男児の3分の1〜4分の1が女児である。
8、学校に遠い村では、読み書きのできる村の有志たちが子供達に教える。
9、この読み書きできる者は、住民の5〜6%にすぎない。

(学校数)

1、人口130万のバリ島内に、村(デサ)は、1030ヵ村ある。
2、この中で学校のある村は、193ヵ村である。
3、残りの837ヵ村には、学校の影もない。


ということで、今日は終わります。
次回は、どんな学校があったのか、そこに通う学生はどうだったのか、
などの学校の中身を述べることにする。




小学校には、次の3系統があった。

1、蘭人小学校: オランダ人子弟が入る。
2、原住民一般小学校: 原住民が入りマライ語を主として修める。
3、原住民特別小学校: 原住民(選ばれた優秀者のみ)が入りオランダ語を主として修める。

原住民一般小学校)

原住民一般小学校は、さらに二つに分けられていた。

1、下級初等学校:3年生で、Sekolah A(SA) と呼ばれる。
2、上級初等学校:2年制で、Sekolah B(SB) と呼ばれる。

就学する児童が少ない中、行ったとしても、
SA
で終って家業につくのが普通であった。
SB
にまで進むのは極めて少数である。
したがって、SBの学校数も少なく、
ロンボック島とバリ島を合わせて、41校、児童数4016人であった。

(原住民特別小学校)

原住民特別小学校は、7年制でSekolah C(SC)と呼ばれた。
SB
以上に学校数は少なく、ロンボク島とバリ島を合わせての
210
万の人口に対して、僅かに5校、児童数924名であった。
ただ、将来、出世しようと思えば、この特別小学校に行かねばならなかった。
で、富有者の子弟ないし秀才は、悉くここを目指したが、
授業料が目の飛び出るほど高かった。

中等学校にあたるものとして、「中学校」と「男子教員養成所」があったが、
ロンボック島とバリ島を併せて、
中学校は2校、男子教員養成所は3校の計、5校しかなかった。
(註)女子教員養成所は、後ほど日本軍によって作られたものである。


このように、多くのバリ人が満足に学べない環境にあって、
人々はどのようであったのだろうか.............

和歌山県師範学校付属小学校の主事(校長)で、
鈴木政平(明治32年生)という人がいる。
鈴木は、日本軍統治時代に文教課長として、
バリ島に赴任し、島民への教育制度改革に携わった。

彼は、赴任早々、バリ島の小学校を視察して廻った。
その時の印象を次のように語っている。

鈴木政平文教課長の証言

(中略)
目を転じて一年生の子供を眺めてみる。
内地の子供に見るあの緊張さ、溌剌さ、無邪気さというものが全然ない。
まるでお面のように無表情である。
身体も一般に大きいようで、それにしても何と大人を小さくしたような子供である。
勿論熱心に勉強していると言われないが、といって隣同士で話しをする訳でもなし、
自分の好むいたずらを楽しんでいるでもなし、うつろな目でただぼんやりとしている。
授業に対する子供らしい喜びや感激といった影が全く見えない。
しかし、子供の服装はそう悪くない。
みんなよく洗濯されてこざっぱりしたものである。
日本の子供とは違った体臭が通ってくる。
男児は半袖シャツに半パンツ、女の子は簡単服が大部分、まれにサロンを用いた者がいる。
しかし、ことごとくが裸足である。

(中略)
体操の授業を覗く。
体操といっても遊戯である。
十人が二組に分かれて20メートル先の石ころを拾って、
こちらの空き缶に入れるということをやっていた。
二人づつ走るだけで、リレーというものを知らない風であった。
あとでわかったことであるが、人民の団結を恐れたオランダの
分裂政策の教育方面における、ひとつの現われと知った。
が、そういうことを教師たちも気付いていない。
すっかり骨抜きにされてしまっている教師達……

(
中略)
朝、子供が登校する。
途中や校庭で先生にお目にかかっても、敬礼もしなければ挨拶もしない。
先生もまたこんなことには無頓着である。
鐘を合図に教室に入るが「おはようございます」もなければ「敬礼」もない。
いきなり授業が始まる。
子供の姿勢と見れば、腕組みをして一様に机の上にもたせかけ、
顎をつきだして先生を見ている。
指名されても「ハイ」でもなければ、立つでもなく、そのままの姿勢で答える。

(中略)
さればと言って、インドネシア人をつまらぬ奴らと判断してしまうのは早計なんです。
オランダの愚民政策、文盲政策の犠牲になって、
いやしくも政治に関連するような能力面は、徹底的に抑圧され、
根こそぎ打ちのめされてしまっているのですが、
従って気概、気骨、勇気、開拓、創造工夫といった能力は
ほとんど見るべきものがないといった状態ですが、
そういう方面に関係のない能力は、豊かな個性をもって、
脈々とその伝統を維持しながら、
彼等独自の領域を展開していることは見逃してはなりません。
彼らは十分に従順で、十分に素直です。
訓練すればものになる資質があるのです。

(中略)
オランダの教科方針をひとことでいえば「ねむれ、ねむれ」というところにあった。
日本の教科方針は「起きよ、起きよ」というところにすべきである。

……………………..

さて、この報告がなされた後、3年もしないうちに日本が敗戦になり、
ングラライの独立戦争が始まった。
オランダ時代に骨抜きにされたインドネシア民衆が
日本軍統治時代のたったの3年間で完全に意識が変ったとは思えない。
国政へ能動的に参加するまでに意識が変ったのは、
教育を受ける機会を享受できた一握りの者だけだったのであろう。
教育を受ける機会が多かったのは、貴族である。
ングラライ軍が貴族主導の軍隊であったのもわかろうというものだ。
逆から言えば、意識が変らなかった、即ち無関心な民衆が多い中で、
挙兵したングラライの苦労がわかろうというものである。

ということで、次は、
いよいよ本題のングラライの独立戦争記に入りたい。