ングラ・ライの独立戦争
歴史が作る
民衆心理
風土が作る
民衆心理
教育が作る
民衆心理
数々の戦い ププタン・マルガラナ
ププタン・マルガラナ
 まえがき

バリ島の玄関口である空港を
Ngurah Rai International Airport
と言う。

空港から州都、
のデンパサールに向ける幹線を
Ngurah Rai Bypass と言う。

さらに、バリ島のあちらこちら….. 
幹線道路の交差点、
各モニュメント、
その他いろいろなところに、
Ngurah Rai の銅像がある。

 
きわめつけはインドネシア紙幣である。
5万ルピア紙幣に印刷される人物は、Ngurah Rai である。
 

Ngurah Rai (以下、ングラライと書く)の名が氾濫している。
インドネシア独立戦争の英雄だからである。
バリ島だけではなく、国中が知る独立戦争の英雄なのである。

が、悲しいことに、こんなに著名なングラライを
「どんな風に活躍をした人」か、知らないバリの若者がいる。


彼は、気高い精神でオランダ軍に抗戦を挑んだ。
が、戦う武器が少なく山岳の道なき道を行進し、
隠れながら時々突くゲリラ活動を余儀なくされた。

そのゲリラ活動に参加する日本兵がいた。
終戦後も日本に帰らず、インドネシア独立戦争に、
加担するため残ったので、残留日本兵という。

歩けなくなったングラライを背負って歩いた残留日本兵がいた。
ングラライに不満を抱くバリ兵を説得し納得させる残留日本兵将校がいた。
なぜにこういうことができたのか。
バリ兵は、命を捨てて一緒に戦う日本兵を信頼したからだ。
戦闘経験者として教練してくれた日本兵を尊敬したからだ。
ングラライも同じく、残留日本兵を信頼した。

11
20日が、ングラライの命日である。
ングラライは、ププタン・マルガラナの戦いで命を落とした。
日本流で言えば玉砕であった。
バリ流で言えば、ププタン(終焉)ということになる。

ププタン・マルガラナの戦いでは96名が戦死した。
その中に5名の日本人がいた。
5
名のうち、4名は「pelda」という階級であった。
将校扱い、と訳されるが、96名の中で「Pelda」は、この4名だけである。
特別な存在としてングラライ軍に認められていたからである。

いずれにしても、
ングラライの戦いを忘れがちな、
当節の若いバリ人がいることが寂しい。
同時に、その戦いに、
日本人も参加したことを
当節日本人のほとんどが知らないことが寂しい。

バリ人も日本人も、ングラライの最後の戦いを知って欲しい。
そういう思いで、ププタン・マルガラナの戦いを書きたい。

1946
1118日から1120日までの、たった3日の記述である。
たった3日であるが、なんと濃密なことか………



タバナンの敵兵舎を襲うことを決める

ングラライはブレレンにおいて、
400
名いた兵の半数を田舎に帰し、軍を縮小した。
兵員数を絞り身軽になったングラライ軍は、
ブレレンの山を越え、タバナンの地に向かった。

1946
1114日、
ングラライ軍は、Kuwum村から3キロほど離れたOle村に移動した。 
マルガ村から西に1キロの処にある小さな村であった。

Ole
村に着いたングラライに、
オランダ軍の情報がもたらされた。
12
月に、デンパサールで車両部隊を編成することを
計画しているとの情報であった。

車両部隊が編成されれば、
大量の兵が俊敏に動けるようになる。
オランダ軍は一気に勢いを増すであろう。
徒歩で活動するングラライ軍にとっては不利である。
なんとか阻止しなければならない。

12
月ということは、残された時間も少ない。
その前にデンパサールのオランダ軍を叩いておく必要がある。

が、オランダ軍に攻撃をしかけるには、武器が必要である。
現在手持ちの銃器だけでは足りない。
攻撃に先だって、オランダ軍から銃器を奪う必要がある。

タバナンのオランダ軍兵舎は、ここから近い。
兵舎にそうした銃器類があるに違いない。
タバナンのオランダ軍兵舎を襲い武器を奪おう。

ングラライは、そのための作戦を練った。
その時のングラライ軍には、約250名の兵がいた。
兵員数は十分と思えた。
が、それだけの兵が使う銃器と銃弾の量が不足していた。

一部の兵は剣と竹槍で戦わざるを得ない。
剣と竹槍で戦うと、どうしても犠牲者が出る。
犠牲者はできるだけ出したくない。

敵を圧倒し、戦わずに勝てる方法はないだろうか。
敵を圧倒するには、一時的に兵員を増やす必要がある。

ングラライは、まず、
Ole
のバンジャールにいる民兵も総動員することにした。

その上で、更なる犠牲者を出さぬ戦いを模索した。
ングラライには、ある腹案があった。

1、その腹案を試してみること、
2、それが失敗すれば、全面的な戦闘を避け、火を放って兵舎を焼くこと。

こうした二つの作戦下で、
ングラライは敵兵舎を襲うことを決めた。
計画の実行日を、1118日とした。



ングラライは何故にマルガに転進したのか

タバナンの敵兵舎攻撃を決めたングラライ。
攻撃にあたり味方の兵を失わないングラライの腹案を書こうとしている。
結論を先に書くと、ングラライの腹案は成功する。
が、そのあとの結果として、
潜伏場所の存在を明るみにし、オランダ軍に取り囲まれてしまう。
攻撃の後、その地に留まり過ぎたからだ。
ゲリラ活動は、いつも素早く転進しなければならない。
とどまらざるを得なかった理由は、後で書く。

その前に、なぜにマルガという、
ゲリラ活動に不向きな土地にングラライは軍を進めたのか。
それが不可思議だ。

その不可思議の解明をしてみたい。
これは本によらない。
本に書いてあっても、私はそれを読む語学力がない。
あくまでも私の想像である。

ゲリラ戦では、潜伏地を隠れとおすことが大事である。
が、隠れているだけでは、敵に見向きがされなくなる。
時々、現れて敵に嫌がられることが必要だ。
そして、長く抵抗することにより、世論を味方につける。
それがゲリラ戦術だ。

世論と言っても、二つある。
地元民に認められる世論と世界に認められる世論である。

オランダは、
1846
年~1849年のバリ戦争(ジュンバラナ王国、ブレレン王国)、
1894
年のロンボク戦争(カランガッサム王国)を経て、
1906
年~1908年のバリ侵攻で、バリ島全土を掌握した。

が、3度目のバリ侵攻では、
デンパサール王国、プムチュタン王国、クルンクン王国において、
王家の自害、即ちププタンがあった。
戦わずして自害する王家の顛末に世界が驚愕し、
世界的(といっても白人世界)にオランダへの風当たりが強くなり、
結果、オランダはバリ島の直接支配をあきらめ、
王家を利用した間接的な支配にとどめた。
世論とはそういう力があるものなのだ。

ングラライのゲリラ活動も、
もちろん世論を味方にしようとする戦術に終始した。
兵の損失をできるだけ少なくし、長持ちさせることを考えた。

逃げまわるだけでも良いのである。
戦う場合には、地の利を得た処に敵をひきつけて戦うようにした。
タナアロンの地での大勝利は、そうであった。

それが何故に、
マルガという地の利を得ない場所に兵を進めたのか。

歴史に造詣が深い、あるバリ人が、
ングラライはマルガに行きたいから行ったのではない。

と言ったことが頭から離れない。
ありそうなことなのだ。

そのバリ人が言うには、
バドゥン王家より領地への侵入を直前に断られたので、
隣接のタバナン王国の領地であるマルガに行かざるを得なかった。
というのである。

そのことを地理的に検証したい。

オランダは、先に書いた経緯により王国による部分的統治を許した。
ングラライがゲリラ活動をした頃の王国は、
現在の県の所在と一致する。
次の図がそうである。


 

注目して欲しいのは、バドゥン県の形である。
南のバドゥン半島から北はブラタン湖の東に及ぶ縦に長い県である。
デンパサール市も昔はバドゥン王国の領地であったことを考えると、
バリ島の中央にあって、巨大且つ縦長の王国であったのだ。

何故に、このような細長い県(王国)になったのか。
その理由だが、次の図を見て考えたい。
バリ島を北から見た鳥瞰図である。

 

上の鳥瞰図の赤枠で囲んだところを引き延ばしてみるとこうなる。

 

大地が皺だらけである。
川で削られた渓谷がいっぱいあるということだ。
それらの渓谷は全てが深い。
人間の歩行を許さぬほどの深さである。
その渓谷の深さに守られた王国の領地だったのだ。

そうした目でバドゥン県(デンパサール市を含む)を見てみる。
東隣のギャニヤール県の間には、アユン川がある。
このアユン川、むちゃくちゃに深い渓谷である。
そして、北はングラライの生誕地であるチャナンサリの東から、
河口はサヌール北端のマタハリツルビットに流れる長大な大渓谷である。

バドゥン県の西を見てみる。
やはり大きな渓谷がある。
渓谷を流れる川は、場所によって違う呼び方があって一定ではない。
が、出所をひとつにした大きな渓谷がある。

そうなのだ。
バドゥン県は両側が深い渓谷に挟まれた台地なのだ。
隣の王国との通行が渓谷で遮断され敵の侵入から護られた、
細長い台地の形がそのまま王国(県)になったのだ。

そして、最初の図に戻って、マルガ付近を見て欲しい。
バドゥン県とタバナン県が微妙に相手側に入り込んでいる。
渓谷が浅くなり、平地が増え始めている場所ってことだ。
所在地が敵にあからさまになりやすい処なのだ。

もしも、ということで書きたい。
もし、ングラライがバドゥン県にあれば、である。

東と西の両側からオランダ軍に襲われることはない。
北と南だけの攻撃、あるいは逃亡を考えれば良い。
特にバドゥン県の北方のチャナンサリは、ングラライの生誕地である。
北方向は、地の利に明るい。
素早く、いろいろな行動がとれる。
ということは、南の敵、
即ちデンパサールの敵だけを監視すれば良いということだ。

多分、ングラライもそのことを考えて、
Sangeh (
サンゲ)辺りへの進軍を決めたのではないだろうか。
それが、バドゥン王国領地での目立った行動を王より拒否され、
やむなく、至近のタバナン王国の領地である、
「マルガ」に転進したのではないだろうか。

マルガという地は、
東に大きな渓谷があるが全面的な山岳地ではない。
攻められやすく逃げるに難しい地形である。

こういう土地への転進を余儀なくされたングラライ軍、
そうした不利を振り払って、どのように戦ったのだろうか。
冒頭に書いた、ングラライの腹案とは、どのようなものだったのか。



武器を奪うことに成功する

ングラライの犠牲者を出さずに武器を奪う作戦…..
それは、オランダ軍の兵舎を守る兵の中に内通者を作り、
その者の手を借り、兵舎を急襲するというものであった。

耳よりの情報があった。
兵舎を守る兵の隊長は、
オランダ人ではなくワギミンという名のジャワ人である。
という情報であった。
バリ人ではないが、同じインドネシア人である。
独立に命をかけるングラライ軍に味方してくれるかも知れない。

ングラライは、内密にワギミンに会い説得を試みることにした。
内密に会うには、村人の扮装をさせた女性の方が怪しまれない。
ングラライは、Wayan Ngedep という女性に、その役を命じた。
11
18日の夜、Wayan Ngedep は、ワギミンとの接触に成功し、
ワギミンからの返答を持ってきた。

ワギ民曰く、
ングラライの作戦を成功させることに協力する。
そのためには、ングラライ軍の一分隊を自分の裁量下に欲しい。
ということであった。

要するに、
自分と一緒に行動する一分隊があれば、作戦を完遂できる。
ということだ。

どのようにして、作戦を完遂するかは告げられなかった。
もし、一分隊を与えて騙されれば、その一分隊が全滅することになる。

そういう不安がよぎったが、即に不安を打ち消し、
ングラライは、その話を信ずることにした。
「了承」の言葉を伝えに、
Wayan Ngedep
を再度ワギミンの元に走らせた。

そのワギミンが密かにングラライのところに来たのが、
11
1900時であった。
ワギミンは、2丁のカービン銃と、
オランダ軍兵士の服を数枚携行してきた。

ワギミンは、ングラライの部下のスエタという男を選び、
オランダ軍の服を着せた。
ワギミンとスエタは、それぞれカ-ビン銃を持ち、
オランダ軍の兵舎に向かった。

二人からは少し離れて、ングラライの分隊が続いた。
その分隊の先頭を歩く一部の兵に、
やはりオランダ軍兵士の服装をさせた。
もし、分隊がオランダ兵に見つかっても、
パトロール中の味方兵だと思わせるためであった。

ワギミンとスエタが、分隊に先導したのは、
兵舎の敷地全体が、棘のある生垣で囲まれており、
敷地に入れる場所が限られており、道案内が必要だったからだ。

ワギミンとスエタは、オランダ軍兵舎に着いた。
二人は、塀の入口から堂々と敷地内に侵入した。
守衛と逢ったが、入って来たのが隊長のワギミンなので、
全く怪しまれることがなかった。

兵舎に入ったワギミンとスエタは、頃合いを見て、
銃を構え、守衛隊員に「武器を渡せ」と怒鳴った。
その怒鳴り声が合図であった。
あとに続いたングラライの分隊が敷地内に一気に入って来た。

オランダ軍の守衛隊員は、ワギミンの変貌にも驚いたが、
突然のングラライ兵の出現に驚愕し、全員が手を挙げて降伏した。

ングラライの兵は、建物の中の武器を全て奪い、その場を去った。

その武器は、
機関銃2基、軽機関銃2機、カービン銃36丁、空気銃2丁、
それに銃弾8000個、であった。


 

ワギミンは、ングラライ軍の一兵として、
オランダ軍と戦いマルガで戦死した。
上は、マルガで戦死した兵の目録の抜粋である。
96
人の中の74番目にワギミンの名が残されている。
年齢46歳、出身地ジャワ(現在タバナン在住)と書かれている。

Ole
村に留まらざるを得なくなったングラライ

隊長のワギミンを味方にし、
オランダ軍兵舎の武器を奪うことに成功したングラライ。
その場から、ブレレンに引き返す予定であった。

が、手配していたはずの車と運転手が来なく、
すぐには引き返すことができなくなった。
一旦、Ole 村に帰らざる得なくなった。

それが、問題であった。
ングラライが思った以上に、オランダ軍の反撃が早かったのである。
ププタン・マルガラナの戦いが始まった。




一旦は勝利し、勝鬨をあげる

オランダ軍のバリ島総督は、J.B.T.Konig(コニッグ)であった。
コニッグは、すぐに理解できなかった。
タバナンのオランダ軍兵舎は、重装備され堅固なはずであった。
なのに、どうして簡単に武器を奪われたのか、

その理由が味方の隊長のワギミンが裏切ったためと判り、
コニッグは、怒りに怒った。

コニッグのその怒りは、ングラライにも伝えられてきた。
同時に、オランダ軍の動きが活発であることも伝わってきた。

ングラライは、Ole村近くで戦闘が起こることを覚悟した。

その頃のングラライ軍の強さを代表するものが、
ワヤン・スクラ(松井久年)とマデ・スクリ(荒木武友)が率いる、
機関銃隊であった。

11
19日、
ングラライは、ワヤン・スクラ(松井久年)に、
オランダ軍が攻めて来る道路の交差点で陣を張ることを指示した。

一旦、松井と荒木の機関銃隊で阻止する手配を済ませた、
ングラライは、すぐに作戦会議を行った。

作戦会議は、ングラライの他、次の4人が参画した。
I.Gusti Bagus Putu Wisnu
I.Gusti Wayan Debes
I.Gusti Ngurah Bagus Sugianyar
Wagimin(
寝返った元オランダ軍兵舎の隊長)

この会議中、ングラライは兵士を休ませた。
小休止する兵士に村人は踊りを披露し慰問に努めた。
会議は2時間続いた。

会議を終えたングラライは軍を集めた。
全員で Dalem Basa Ole 寺院に行き、戦勝祈願をした。

同日(1119日)の夜の10時、
偵察に出していた兵士(I.Nengah Metra)より
オランダ軍の動静が伝えられた。

オランダ軍の先頭がAden村に、
そして次の部隊がPengembungan村にまで来ているという。
ングラライのいるOle 村から 
Aden
村は2キロ、Pengembungan村は、3キロという至近である。

いよいよ戦いが始まるということで、
ングラライは、武器を使える兵隊のみで軍を立て直した。
105
名の精鋭(Ciung Wanara軍と呼ばれる)がそろった。

105
名のCiung Wanara 軍は、平地のOle村から、
地の利を得るため、北東に500mほどの丘陵地Kelati村に移動した。

11
20日、Kelati村に移動したCiung Wanara軍であったが、
同時に周辺は全てオランダ軍に取り囲まれていることを知った。

味方軍の動きがオランダ軍に筒抜けだったのだろうか。
そんなはずがない。
が、敵の動きが早すぎる。
それに敵の数が多すぎる。

村人にはスパイもいる。
動向が筒ぬけなのは、ある程度覚悟していた。
が、短時間にどうして多勢の兵力を集めることができたのか。

それはこうであった。

11
18日にタバナン兵舎を襲われ武器を奪われたオランダ軍。
次は、マルガに近いオランダ軍兵舎が襲われると予測し、
その守備のため、1119日中にマルガ近辺に軍を集結させていたのである。

ングラライの存在を知ってマルガに集結したのではなかった。
ングラライが襲ってくるかも知れないとの予測のための集結だったのだ。
その終結の地にングラライ軍がとどまったのが失敗だったのである。

18
日に兵舎を襲ったあと、予定通りブレレンに向け、
軍を移動しておれば、多勢のオランダ軍と遭遇することがなかったのである。

まあ、ということで、マルガラナの戦いが始まるのである。

..........


1946
1120日早朝。
南の方から武器を持った60人の敵軍、
北の方からも8人の武器を持った敵軍が行進して来る。
との情報がもたらされた。
ングラライは情報を確認するため偵察の兵を出した。
情報はその通りであった。

ングラライは、マルガの地はオランダ軍に取り囲まれていることを理解した。
10
台ほどのトラックに乗ったオランダ軍も増強されていることも知らされた。

ただ、この時点でのオランダ軍は、
まだングラライがどこに潜んでいるか正確な場所を知らなかった。

オランダ軍は、マルガ付近の村人を捉まえ、
「ングラライ軍は、どこに隠れているのか」と問い詰めた。
村人たちは、知っていても、それを喋ることがなかった。
オランダ軍は、何としてもングラライの所在場所を聞き出そうと、
主たる村人を拷問にかけた。

村人がそうした拷問にかけられている情報がングラライの耳に入った。
ングラライは、村人を巻き添えにする訳にはいかないと考えた。

Kelati
村から、村人に迷惑の及ばない場所へ軍を移動させることにした。
300m
北の Uma Kaang (現在のマルガラナの地)を目指した。

Uma Kaang
は、田園地帯であった。
田園の中央には、
田園のスバック(共同利水)を護る寺(Pura Ulun Suwi)があった。
ングラライは、その寺に身を隠した。

Ciung Wanara
の多くの兵は、田園のあぜ道の草の陰に身を隠した。
こうした行動の途中、ングラライ軍は数を増やしていた。
24
名の民兵ががングラライ軍に加わったのである。

1946
1120日午前8時。
マルガ村の市場で民間人を集めて拷問にかけていたオランダ軍は、
マルガの地を離れ、北に移動した。

が、その時まだ、オランダ軍は、
Uma Kaang
 の地にングラライ軍が居ることを知らなかった。
オランダ軍は、それほど警戒せずにUma Kaangの地に入って来た。

あぜ道に身を伏せたングラライ軍は、
敵が警戒せずに近づいてくることを知っていた。


 

ングラライは、敵を十分に引きつける迄、発砲を待った。
敵がUma Kaangの田園地帯の中央に入った時、
ングラライが銃砲を放った。

 

それが合図であった。 
ングラライ軍はあぜ道に出て、一斉に攻撃した。
丁度午前9時であった。 

ふいを突かれたオランダ軍はバタバタと倒れた。

逃げ出したオランダ軍には、木の陰に隠れていたングラライ軍が襲い掛かった。
オランダ軍からの反撃の銃砲が打たれたが、なかなか当たらなかった。

逃げるオランダ軍を追うもオランダ軍は多勢であった。
ある程度逃げると、逃げたところに隠れて、
追いかけてくるングラライ軍に反撃し、盛り返してきた。

ングラライ軍が後退すると、今度はオランダ軍が追い返してきた。

その追い返してきたオランダ軍をある程度ひきつけて、
ングラライ軍はもういちど一斉攻撃をかけた。 

この2回目の攻撃は凄まじかった。
オランダ軍の死者は、2回目の一斉攻撃で一気に増えた。

オランダ軍は、Uma Kaangの地から逃げて帰った。
ングラライ軍は、勝鬨をあげた。



「ププタン」と叫びながら敵陣に突入する

一旦、勝鬨をあげたングラライ軍であったが、
それは、オランダ軍の一部隊との戦いでの勝利であった。

ングラライ軍がマルガ付近に居ることを知ったオランダ軍は、
前日の1119日、デンパサール、タバナン、ジンバラナ、
シンガラジャの各支部に援軍派遣を要請していた。

さらにスラウェシのマカッサル基地から
飛行機の出動を要請していたのである。

マカッサル基地からバリ島へは、300マイルの距離である。
朝に基地を発てば、昼頃にはマルガの上空に来る。

1946
1120日お昼、
その飛行機がマルガの上空に現れた。

田園地帯であったUma Kaang には、
飛行機の機銃攻撃から身を隠す場所が少なかった。

飛行機からは催涙弾も落とされた。
この催涙弾でングラライがもっとも信頼する、
I.Gusti Ngurah Bagus Sugianyar
が命を落とした。

ングラライは彼の仇を討つことを決めた。

その頃のングラライ軍の周辺は、
図のとおり、5面からオランダ軍に取り囲まれていた。

 

ングラライは最後の指示を出した。
「死ぬまで戦おう」と、

そして直後「ププタン」と叫びながら、迫るオランダ軍に突入した。
オランダ軍からは、激しい銃撃が浴びせられた。
ングラライ軍は銃を放ちながら、さらに突撃した。
激しい銃撃戦であった。

Uma Kaang
 の地から銃撃音がしなくなったのは、夕方であった。
バリ兵が折り重なって死んでいる中で、オランダ軍はワギミンを見つけた。
ワギミンは虫の息であったが、まだ生きていた。
オランダ軍はワギミンの裏切りを問い詰めた。
が、ワギミンはオランダ兵を睨み返すだけで、何も言わなかった。
オランダ軍は、そんなワギミンをその場で撃ち殺した。

銃撃音が聞こえなくなったが、オランダ軍は、
まだングラライ軍が隠れているように思えて、
田園地帯に入ることができなかった。
それで、新しく飛行機を投入し盲打ちであったが、
空からの機銃攻撃を続けた。

夜になって小雨が降り出した。
オランダ軍の飛行機からの機銃攻撃も止んだ。

この戦いで戦死したングラライ軍は96名であった。
そのうちの5名が日本人であった。
一方、オランダ軍の戦死者は300名であった。

オランダは、マルガの戦いで勝利した。
しかし、その後もバリ島の全てを掌握するまでには至らなかった。

ングラライ所縁のゲリラが散らばって戦いを継続していたからである。
そのゲリラ像をアップして、ププタン・マルガラナ物語を終える。