オランダ軍のバリ島総督は、J.B.T.Konig(コニッグ)であった。
コニッグは、すぐに理解できなかった。
タバナンのオランダ軍兵舎は、重装備され堅固なはずであった。
なのに、どうして簡単に武器を奪われたのか、
その理由が味方の隊長のワギミンが裏切ったためと判り、
コニッグは、怒りに怒った。
コニッグのその怒りは、ングラライにも伝えられてきた。
同時に、オランダ軍の動きが活発であることも伝わってきた。
ングラライは、Ole村近くで戦闘が起こることを覚悟した。
その頃のングラライ軍の強さを代表するものが、
ワヤン・スクラ(松井久年)とマデ・スクリ(荒木武友)が率いる、
機関銃隊であった。
11月19日、
ングラライは、ワヤン・スクラ(松井久年)に、
オランダ軍が攻めて来る道路の交差点で陣を張ることを指示した。
一旦、松井と荒木の機関銃隊で阻止する手配を済ませた、
ングラライは、すぐに作戦会議を行った。
作戦会議は、ングラライの他、次の4人が参画した。
I.Gusti Bagus Putu Wisnu
I.Gusti Wayan Debes
I.Gusti Ngurah Bagus Sugianyar
Wagimin(寝返った元オランダ軍兵舎の隊長)
この会議中、ングラライは兵士を休ませた。
小休止する兵士に村人は踊りを披露し慰問に努めた。
会議は2時間続いた。
会議を終えたングラライは軍を集めた。
全員で Dalem Basa Ole 寺院に行き、戦勝祈願をした。
同日(11月19日)の夜の10時、
偵察に出していた兵士(I.Nengah Metra)より
オランダ軍の動静が伝えられた。
オランダ軍の先頭がAden村に、
そして次の部隊がPengembungan村にまで来ているという。
ングラライのいるOle 村から
Aden 村は2キロ、Pengembungan村は、3キロという至近である。
いよいよ戦いが始まるということで、
ングラライは、武器を使える兵隊のみで軍を立て直した。
105名の精鋭(Ciung Wanara軍と呼ばれる)がそろった。
105名のCiung Wanara 軍は、平地のOle村から、
地の利を得るため、北東に500mほどの丘陵地Kelati村に移動した。
11月20日、Kelati村に移動したCiung Wanara軍であったが、
同時に周辺は全てオランダ軍に取り囲まれていることを知った。
味方軍の動きがオランダ軍に筒抜けだったのだろうか。
そんなはずがない。
が、敵の動きが早すぎる。
それに敵の数が多すぎる。
村人にはスパイもいる。
動向が筒ぬけなのは、ある程度覚悟していた。
が、短時間にどうして多勢の兵力を集めることができたのか。
それはこうであった。
11月18日にタバナン兵舎を襲われ武器を奪われたオランダ軍。
次は、マルガに近いオランダ軍兵舎が襲われると予測し、
その守備のため、11月19日中にマルガ近辺に軍を集結させていたのである。
ングラライの存在を知ってマルガに集結したのではなかった。
ングラライが襲ってくるかも知れないとの予測のための集結だったのだ。
その終結の地にングラライ軍がとどまったのが失敗だったのである。
18日に兵舎を襲ったあと、予定通りブレレンに向け、
軍を移動しておれば、多勢のオランダ軍と遭遇することがなかったのである。
まあ、ということで、マルガラナの戦いが始まるのである。
..........
1946年11月20日早朝。
南の方から武器を持った60人の敵軍、
北の方からも8人の武器を持った敵軍が行進して来る。
との情報がもたらされた。
ングラライは情報を確認するため偵察の兵を出した。
情報はその通りであった。
ングラライは、マルガの地はオランダ軍に取り囲まれていることを理解した。
10台ほどのトラックに乗ったオランダ軍も増強されていることも知らされた。
ただ、この時点でのオランダ軍は、
まだングラライがどこに潜んでいるか正確な場所を知らなかった。
オランダ軍は、マルガ付近の村人を捉まえ、
「ングラライ軍は、どこに隠れているのか」と問い詰めた。
村人たちは、知っていても、それを喋ることがなかった。
オランダ軍は、何としてもングラライの所在場所を聞き出そうと、
主たる村人を拷問にかけた。
村人がそうした拷問にかけられている情報がングラライの耳に入った。
ングラライは、村人を巻き添えにする訳にはいかないと考えた。
Kelati村から、村人に迷惑の及ばない場所へ軍を移動させることにした。
300m北の Uma Kaang (現在のマルガラナの地)を目指した。
Uma Kaangは、田園地帯であった。
田園の中央には、
田園のスバック(共同利水)を護る寺(Pura Ulun Suwi)があった。
ングラライは、その寺に身を隠した。
Ciung Wanara の多くの兵は、田園のあぜ道の草の陰に身を隠した。
こうした行動の途中、ングラライ軍は数を増やしていた。
24名の民兵ががングラライ軍に加わったのである。
1946年11月20日午前8時。
マルガ村の市場で民間人を集めて拷問にかけていたオランダ軍は、
マルガの地を離れ、北に移動した。
が、その時まだ、オランダ軍は、
Uma Kaang の地にングラライ軍が居ることを知らなかった。
オランダ軍は、それほど警戒せずにUma Kaangの地に入って来た。
あぜ道に身を伏せたングラライ軍は、
敵が警戒せずに近づいてくることを知っていた。
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ングラライは、敵を十分に引きつける迄、発砲を待った。
敵がUma Kaangの田園地帯の中央に入った時、
ングラライが銃砲を放った。
それが合図であった。
ングラライ軍はあぜ道に出て、一斉に攻撃した。
丁度午前9時であった。
ふいを突かれたオランダ軍はバタバタと倒れた。
逃げ出したオランダ軍には、木の陰に隠れていたングラライ軍が襲い掛かった。
オランダ軍からの反撃の銃砲が打たれたが、なかなか当たらなかった。
逃げるオランダ軍を追うもオランダ軍は多勢であった。
ある程度逃げると、逃げたところに隠れて、
追いかけてくるングラライ軍に反撃し、盛り返してきた。
ングラライ軍が後退すると、今度はオランダ軍が追い返してきた。
その追い返してきたオランダ軍をある程度ひきつけて、
ングラライ軍はもういちど一斉攻撃をかけた。
この2回目の攻撃は凄まじかった。
オランダ軍の死者は、2回目の一斉攻撃で一気に増えた。
オランダ軍は、Uma Kaangの地から逃げて帰った。
ングラライ軍は、勝鬨をあげた。
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