昭和天皇が敗戦を国民に告げた、
いわゆる玉音放送があったのは、1945年8月15日。
インドネシアの独立宣言は、その翌々日の1945年8月17日。
その独立宣言を認めない旧宗主国のオランダとの間で起ったのが、
インドネシア独立戦争である。
バリ島のギャニャールの士官学校を
優秀な成績で卒業したングラライだが、
インドネシアの独立宣言があった時は、
人民治安軍の本部があったジョグジャカルタにいて、
軍内部の派閥抗争に巻き込まれ、その調停に奔走していた。
それから3ヵ月後の1945年12月には、
バリ島に戻り、自らが独立戦争に身を挺し始めた。
ングラライが最初に行動したのは、戦うための武器の確保であった。
ングラライの率いるバリ軍は、全くと言ってよいほど武器を持たなかった。
日本軍が武装解除したのは、1946年3月である。
その3ヶ月前のことであるから、日本軍にはまだ沢山の武器があったのだ。
ングラライは、日本軍を襲って武器を奪うことを計画した。
しかも日本軍の本部を襲うことにしていた。
決行日は1945年12月13日、決行時間は24時であった。
しかし、ングラライの周辺には、
すでに日本軍のスパイがいて、事前にばれてしまった。
決行時間の前に、逆に日本軍に襲われたのである。
小銃は数えるほどしかなく殆どが竹槍だけのバリ兵は、
戦う術もなく沢山の犠牲者を出した。
ングラライは逃走し、
ギャニャールのクシマン城(puri Kesiman)まで逃げた。
が、日本軍がしつこくクシマン城にまで攻めてきたのである。
さんざんな敗北であったが、
ングラライは、戦争に負けた日本軍に屈する意味のププタン(玉砕)は、
できないとの判断であくまでも逃げて生き延びる道を選んだ。
クシマン城には、秘密の地下道があった。
ングラライは地下道を使ってクシマン城を脱出し、
故郷のチャランサリに隠れた。
日本軍は、このングラライの日本軍攻撃計画に怒り、
関係ありそうな村人を捕まえ、拷問にかけた。
この日本軍からの反発は、1946年3月まで続いた。
このように日本軍から武器を奪う計画は挫折したが、
そうした計画のうち、成功したのもあった。
ひとつは、ジンバラナのチャンデクスマでの作戦である。
日本兵を殺して若干ではあるが武器を奪うことに成功した。
また、同じくジンバラナのヌガラでは、
二人の日本人から武器を奪うことができた。
ただし、この時は、何人ものバリ人が殺され、完全な成功とは言えなかった。
又シンガラジャのトガルでは、
日本兵二人を襲い武器を奪うことができたが、
その直ぐ後に、日本兵の応援が来て、奪った武器が奪い返されてしまった。
ということで、
ングラライが企てた「日本軍から武器を奪い闘争」は、その多くが失敗に終った。
ングラライは、其の後一旦ジャワに渡るが、
1946年4月4日、再度バリ島に戻り、本格的なゲリラ活動を扇動することになる。
(註)
日本軍は、武装解除し連合軍に武器を渡したくないのが本音だった。
ただ、無条件降伏したのだから、
連合軍の言われるとおりに従わざるを得なかった。
ジャワ島では、連合軍の目を盗み、
秘密裏にインドネシア側に武器を渡した例があちこちに見られた。
バリでも、それはあったらしい。
バリの歴史愛好家から聞いた話だが、
バリ人に武器を渡そうと、バンドゥンの「バハ」では、
ある井戸に日本軍が沢山の武器を投げ入れ、
後ほどバリ人がそれを拾いあげるということがあって、
今でもその井戸は残っているんだそうな。
が、残念ながら、私はまだ探せていない。
ジャワからバリに戻ったングラライ(右)は、
1946年4月4日、ジンバラナに着いた。
その頃のバリは、
連合国側のオランダ軍が再上陸し、
既に一ヶ月過ぎていた。
で、バリ島全土が、
オランダ軍によりほぼ掌握されていた。
日本軍もすでに、
連合国により武装解除されていた。
そうした状況の中、ングラライは、
いくつかの戦闘を経て(後述)、
1946年4月16日、
タバナンのムンドゥックマランの地で、
組織的に戦うために指導者を集め協議会を立ち上げた。
それが「小スンダ人民闘争協議会」であった。
主なるメンバーは次のとおり。
役職名の日本語訳には、適当なものが見つからず、
私見を含めていることご承知の上お読みくださるい。 |
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ムンドゥクマランのモニュメント内にある銅像.....
左から、Ketut Wijana 第一中隊長
Subtroto Aryo Mataram 副司令官・兼参謀・兼連絡将校
Gusti Bagus Putu Wisnu 渉外担当参謀長・兼戦略担当長・兼大隊長
Gusti Ngurah Bagus Sgianyar第二中隊長
Herauci (Horiuchi Hideo)参謀
(註)
1、階級が中佐のングラライを将軍と呼ぶのは、
少し違和感があるが、そのように記載しているものが多くそれに倣った。
2、日本軍の場合の人員編成は次のとおり。
班(班長=伍長):4~6名で編成
分隊(分隊長=軍曹):8~12名で編成
小隊(小隊長=軍曹~中尉):30~60名で編成
中隊(中隊長=中尉~少佐):60~250名で編成
大隊(大隊長=少佐~中佐):300~1000名で編成
連隊(連隊長=中佐~大佐):500~5000名で編成
上記表の役職は、これを勘案しながらの日本語訳とした。
1946年4月4日にバリに戻ったングラライ。
4月16日にムンドックマランで「小スンダ人民闘争協議会」を立ち上げるまでの
12日間にも、忙しく精力的にオランダ軍に戦いを挑んでいる。
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1、リングキットの戦い
最初の戦いは、4月6日のブレレンのリングキットの戦いであった。
トラックに乗ったオランダ軍を襲ったものだが、
ングラライの命を受け、この戦闘を指導したのは、
ブンアリ(日本人名:梶原)であった。
それを書いているのが次の記述である。
Pertempuran ini dipimpin oleh Bung Ali
(jepang yang terkenal ganas)dengan senapan mesinnya .
全体の意味は「機銃を持つブンアリがこの戦いを指導した」であるが、
( )の中の、jepang yang terkenal ganas が気にかかる。
( )の中は、(悪名高い日本人)としか読めない。
日本人が悪名高いのかブンアリが悪名高いのか。
また、強いという褒め言葉の意味で書いたのか、私には真意が掴めない。
ただ、ブン・アリについては、
戦友のバリ人は別の本で次のように書いている。
(曰く)
ブンアリは、政治的信念があってバリの若者に味方して戦闘に参加している。
彼は、ングラ・ライが総司令部を設立して以来、常時ングラ・ライと行動を共にしていた。
彼は日本陸軍の中尉であった。
顔の表情から判断される彼は、とても厳しく怖い印象があった。
しかし、笑った時の歯は真っ白で、歯とか髪からはまさに日本人であることが判った。
このように顔は怖かったが話が好きで性格は非常に良かった。
そういうことで、彼はみんなから「バパ・ブサール」と呼ばれて慕われていた。
彼はングラ・ライに非常に忠実に仕えた。
ハードな行進でングラ・ライが非常に疲れた時があった。
その時彼はングラ・ライを背負って行進した。
このような批評を受けるブンアリ....であるから、
私は、「悪名高き日本人を好意的な意味で受け止めている。
このブンアリの行動について、
同じく残留日本兵で彼と行動を共にした、
高木米治に関する次の記述からも知ることが出来る。
(曰く)
オランダ軍とバリ人闘志達の戦いが厳しくなってきた。
高木とブンアリは、バリ人青年闘士達を指導するため、アデン村に行った。
そのアデン村で青年闘志達を指導していた時、
突然に本部のングラ・ライから命令があった。
バリ人青年闘志達を支援している日本兵は、
ムンドゥック・マランに集るようにとの命令であった。
日本兵が全員集った後、その地のバリ人闘志達を含め、
ングラライ部隊を編成し、全員で東の方に向かった。
その道中、ボン村、ロンプ村、ムングニン村などで沢山の激戦があった。
という記述である。
2、パングンバンカの戦い
次の戦いは、4月8日、ブレレンのパンクンバンカであった。
ギギットの上にある村にゲリラが隠れていたが、
スパイにより存在を通報されて、オランダ軍に襲われたのである。
この戦いでは、オランダ軍が30名戦死し、バリ人は次の9人が戦死した。
1 Ketut Subandra
2 Made Jiwa
3 Ketut Sekanadi
4 Ketu Mas
5 Gede Natih
6 Ketut Petra
7 Made Sukadana
8 Made Kenakdan
9 Nyoman Jima
オランダの方の戦死者が多かったのだが、
オランダ軍はひるまずに執拗に攻めてきたのでバリ兵は東の方向に逃げ、
最後はスカサダまで逃げ延びた。
逃げ延びた兵は、ここに隠れ、
ングラライがアグン山への遠征をした時に再度合流して長征に参加している。
3、ベベテンの戦い
1946年4月9日、同じくブレレンのベベティンでの戦いである。
バリ軍の中にスパイがあって、ベベティンの村にゲリラがあると、
オランダ軍に通報され、オランダ軍から先に襲ってきた。
バリ軍はオランダ軍に包囲されたが、
包囲網をうまく潜り抜け逃げ出すことができた。
オランダ軍が村の中に入ったときはバリ兵はひとりもおらずも抜けの殻であった。
その後、ベベティンの村人はオランダ軍から拷問を受けている。
4、デンパサールの戦い
デンパサールのオランダ軍の本部を襲う計画を立てた。
そのための作戦会議をデンパサールの西のパダンサンビアンの村で行った。
オランダ軍の本部を襲うか、支部を襲うかで意見が分かれたが、
最終的には、本部を襲うことに意見がまとまった。
そして、1946年4月11日、デンパサールのオランダ軍本部を襲った。
この戦いでバリ兵は6名戦死した。
オランダ軍の犠牲者数はわからぬが、相当の人数が戦死したのと思われる。
(註)
この戦いの戦闘指導は、松井、荒木の両残留日本兵であった。
当時デンパサールの別の場所で活動していた、
上官の堀内秀雄大尉が次のように書いている。
(曰く)
この戦闘指導を松井、荒木の両兵曹がやったらしいが、
あの銃声からすると義勇軍の兵力は300人はくだらないと思うし、
二時間ぐらい銃声が続いていたから、
単なる示威とか牽制ではなく本格的な夜襲だったと思う。
よくも300人という大部隊がデンパサールまで、
気取られずに集結できたものか驚かされるばかりだ。
と言う訳で、
ブンアリにしろ、松井、荒木にしろ、
この当時のングラライは、相当に残留日本兵と密着して過ごしていたようである。
こうした戦いをしながら、
12日間でバリの中央部を一周したングラライは、
4月16日、ムンドゥクマランにて、
「小スンダ人民闘争協議会」を立ち上げることになるが、
参謀に日本人(堀内秀雄)を加えているのも、そうしたことの表われであろう。
1946年4月16日、ムンドゥクマランで旗揚げをしたングラライ。
東のアグン山へ向けての長征への集合地、ブレレンに向かうが、
その間にも次の二つの戦いがあった。
バタンピーの戦い(Batutampih)
タバナン地区にオランダ軍が集結しているとの情報が入った。
オランダ軍支部はバタンピー村のカランギャニャール小学校にあった。
集結を阻止するため、1946年4月26日の夜、そこを襲った。
13名のオランダ兵を殺し、戦果はまずまずであった。
ムンドックマランの戦い
1946年5月11日、
ムンドゥクマランの本部から3キロと離れていないところで戦いがあった。
オランダ軍は飛行機からも攻撃をしかけてきた。
しかし、バリ兵の誰もがその犠牲にならなかった。
ただ、ムンドゥクマランの本部が壊滅的に破壊されたので、
以後、バトゥカル山の真下のベンケルアニャルに本部を移した。
この戦いの時、オランダ軍よりングラライ充てに、
降伏を迫る次の手紙が送られてきた。
が、ングラライは、それを拒否する手紙を送った。
有名なングラライの「独立さもなくば死ぬだけ」の手紙のことだ。
.....手紙文の意訳.....
独立!
手紙を拝承いたしました。
簡単ですが、次のとおり返答致します。
昔のバリは平和でしたがオランダが来てからその平和はなくなりました。
それが証拠にこの地の民の苦しみを見てください。
民は、物価高により苦しい生活を余儀なくされております。
貴方たちは民を脅かし、掠奪し、民の平和と安全を阻害しております。
討論は、私たちの側のジャワの指導者として下さい。
ここバリ島は、討論をする場所ではありません。
私は討論の相手となる指導者でもありません。
この地にオランダが存在しないことが民のためなのです。
その望みが叶うまで、死ぬまで戦い抜くだけです。
この拒否した文面で興味深いところが3点ある。
1、 手紙を送る場合、通常は本人の所在地を書くが、
ングラライの手紙には所在地が書かれていない。
ゲリラ戦を行うとの意思表示である。
2、 ングラライに降伏を迫る手紙を送ってきた送り主は、
J.B.T,Koning (kapten Infanteri)と言う名が書かれていた。
ングラライは、この手紙は現場が独自の判断で出したものと見抜いた。
したがって、手紙の送り主には返事を書かず、
宛先をオランダ軍の総司令官にして、返答した。
3、 「独立」するか、さもなくば「死」か、
二つにひとつであることを明言して返答した。
今更問答なし、の強い意志を表している。
ングラライは、この戦いのあと、
かねてよりの待ち合わせ場所にバリ兵を集合させアグン山への長征が始める。
長征の目的は、戦闘の中心を東に移すことにより、
オランダ軍をバリ島の東に多く集めて、
バリ島の西の警備を緩めさせ、ジャワ島からのインドネシア援軍が、
バリに上陸しやすいようにするためであった。
この長征は、1946年6月~7月の2ヶ月続くが、その間に計7回の戦闘があった。
次は、その7回の戦闘を書く。
オランダ軍を東の地に引きつける目的の長征。
1946年6月~7月までの2ヶ月間に次の七つの戦いがあった。
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1、スクンプルの戦い
1946年6月6日、ブレレンのベベテン村に着いた。
ングラライは、この地でゲリラを分隊し、ある一隊に「ブレレン隊」と名づけた。
そのブレレン隊にスクンプル村(sekumpul)近辺の偵察を命じた。
が、ブレレン隊には、敵のスパイが混ざっていたので、
通報され、本隊から別れた途端に、オランダ軍に襲われてしまった。
それを聞きつけたングラライは、すぐに援軍を送った。
この戦いで、バリ軍はひとり戦死したがオランダ軍も何人かが戦死している。
バリ軍優勢のうちに、ングラライは余勢をかって、
3キロ南の高地にあるレムキー(lemkih)のオランダ軍の支部を襲った。
ングラライは、そこでも勝利を収めた。
ただ、この頃のングラライ軍は、兵隊が多く武器が少ない状態であった。
1946年6月10日、ングラライは効果的なゲリラ戦をするため、
武器を持つ者のみを同行させ、
その他の者には各自が自分の田舎で独自に独立戦争を
行うように指示し田舎に帰らせた。
2、パンクンバンカの戦い
1946年6月10日、武器を持つゲリラ兵だけのスリムになった、
ングラライ軍は、ブレレンのパンクンバンカに着いた。
2ヶ月前の4月8日に戦いのあった場所である。
その時は、不意にオランダ軍に襲われたが、
30人のオランダ軍を殺すという返り討ちにした地である。
未だ、オランダ軍の活動が目立つ地でもあった。
ングラライは、ジャワ人のアナンラムリーという兵に偵察を命じた。
先行したアナンラムリーは、偵察のついでにオランダ軍の通りそうな処に地雷を埋めた。
10数分後のことであった。 オランダ軍のトラックがその地雷を踏んで爆発した。
3、ランプの戦い
ランプ村(lampu)は、ボンから3キロ北にある村である。
ランプ村にいるオランダ軍の分隊を襲ったのは、6月12日であった。
が、襲う前にばれてしまい、成功しなかった。
さらに、バリ軍がランプ村の近くにいることがオランダ軍に
ばれてしまった。
スクンプルの戦い、パンクンバンカの戦い、ランプの戦い、
の三つを含め、これから書く、ボンの戦い~ランデー村に着く、
までは、2週間という短期間にあったことです。
書くほうも忙しいのですから、
読むみなさんも忙しいと思います(笑)。
読みやすいように(といながら自分の頭を整理するためなんだけど.....)
この2週間だけのングラライの移動を図に描いてみました。
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この図を描きながら思いました。
ングラライの移動は、殆どが東西方向です。
バリ島は、南北方向には道があるのですが、
東西方向には道がほとんどありません。
東西方向の行進は深い谷を降りたり登ったりを繰り返すだけです。
そうした道なき道を400名もの兵隊が、
しかもゲリラですから極力秘密裏に行進しなければなりません。
しかも、何度も書いてきたように、
400名の中にもオランダ軍のスパイがいるかもしれないのです。
通報されても追いつかれないように常時移動し続けなければならないのです。
過酷な行進であったろうと思われます。
4、ボンの戦い
バリ軍がランプ村にいることが分かったボンのオランダ軍は、
プラガから援軍を呼び、ボンの地でングラライ軍との決戦を挑んだ。
ングラライもそれ以上逃げることができず、
ボンの地での決戦を受けることになった。
戦いを前にしてングラライ軍は「ボンのお寺(写真下)」で必勝を祈願した。
(註)お寺の奥は深い谷で、手前が小高い丘になっていますが、
この小高い丘を境に戦闘があったのです。
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ングラライは、オランダ軍よりも高台に陣地を構えることができた。
1946年6月13日の朝の9時に戦いが始まった。
戦いが始まると、オランダ軍はプラガの地からどんどんと援軍が来て、
ングラライ軍は、2キロ南のラワ村(lawak)まで逃げた。
さらに、翌日は東へと逃亡し山と谷を昇り降りし、
6月15日には、5キロ先のマニリュー村(manik liyu)に落ち着いた。
マニリュー村に入った頃のングラライ軍は食料が乏しくなっていた。
ングラライは、もう一度部隊を分けることにした。
武器を持っていない者は田舎に帰させ、武器を持つ者のみに部隊を絞った。
ングラライ軍として残った者は、約400名であった。
この400名を率いて、ングラライはアグン山に向かった。
(特別隊を作る)
1946年6月19日、バトル湖より南6キロのランデー村(landh)に着いた。
ランデー村で、ニョマンブレレン(平良定三)より、
キンタマニー付近のオランダ軍を襲うための特別隊を作るよう提案があり、
ングラライは、それを受け入れ、
マデプグッを隊長とするものと、アナンラムリーを隊長とするものの、
二つの特別隊を作った。
特別隊には、日本人が多くいた。
特別隊のうちのアナンラムリー隊は、
ブレレンのパキサン村に向かう途中でオランダ軍に見つかり、
一人の日本人が戦死した。
(註)戦死した日本人の名前は書かれていないが、美馬芳夫のことだと思う。
以上が本に書かれた原文どおりの意訳であるが、
この特別隊が作られた部分の記述が、
ニョマンブレレン(平良定三)自らが書いた内容と
少々違うところがあり、ブログにどのように書こうか迷っている。
両方を併記することにしたい。
(原文)
Menurut I Nyoman Buleleng(jepang),
atas bisikan dirinyalah sehingga akhirnya
Gusti Ngurah Rai membentuk pasukan tersebut.
Pasukan Istimewa ini sebagian besar
adalah bekas prajurit jepang
yang menggabungkan diri dengan pemuda pejuang.
……原文意訳…..
ニョーマンブレレンの提案により、ングラライは特殊部隊を作ることを了承した。
その特殊部隊には、元日本兵が多くいた。
(平良定三氏証言)
オランダ軍がキンタマニー地区に集結する様子がありました。
それに抗するため、私は隊長に
特別遊撃隊をつくってくれ、と具申しました。
又、その遊撃隊は日本人を主としてやらせて下さい。
とも付け加えました。
それに対してオナガイ隊長は、
それは出来ない。
私が貴方がたに銃を持って戦ってくれとは思っていない。
日本人が居るということだけで士気があがり、
敵の襲撃をおさえることが出来ます。
貴方がたが前線に出てしまったら、ここがからっぽになります。
敵の密偵がこちらに入っていることは確実です。
今、貴方がたが出撃すれば、敵に直ぐその情報が入ります。
それだけはひかえてもらいたい。
といいました。
しかし、私は食い下がりました。
オランダ軍が終結してしまうと、わが本隊が危険です。
敵を混乱させる行動が必要で急を要します。
オナガイ隊長は、
よし、そうであるなら貴方の言うことを受けましょう。
しかし、その遊撃隊の隊長は、
必ずインドネシアの青年でなければいけない。
独立はインドネシアのためだから、民族精神として、
インドネシアの青年を隊長に選んでくれなければならない。
というのです。
オナガイ隊長もしっかりした考えをもった立派な軍人でした。
結局は、隊長にプラプティという青年を選びました。
日本が作ったベタの小団長をしていた男でした。
このプラプティの元、我々の推薦した若者を加え、
約18名の特別遊撃隊を作りました。
主としてキンタマニー高原近くでゲリラ戦を行いました。
……. 平良定三氏証言終わる…..
なお、
アナンラムリー隊はブレレンのパキサン村に向かうが、
途中でオランダ軍に見つかり、一人の日本人が戦死した。
との記述があり、私は(註)として、その戦死した日本人が
美馬芳夫だと思われると書いた。
その根拠だが、美馬芳夫が戦死したクランディス村(Kelandis)は、
パキサン村(Pakisan)より3キロ南西の間近の村だからだ。
平良定三の次の証言とも一致する。
(曰く)
部隊の転進中、
シンガラジャのクランディスの民家で仮営している時、
オランダ軍に包囲されました。
我が軍の十倍の兵力で寝込みを集中攻撃されたのですから、
小銃の応戦だけでは、ジリ貧のままで、
手榴弾を投げ込まれれば全滅というところでした。
ところが、その時、美馬芳夫海軍二曹(徳島県支渋野町出身)が
小銃を乱射しながら、戸口から飛び出したのです。
つまり、陽動作戦というのでしょうか。
オランダ軍の銃火が美馬兵曹に集中した隙に、
我々は九死に一生を得て脱出しました。
美馬兵曹は、そのまま斜面を転がるように谷川に姿を消しました。
オランダ軍は、美馬兵曹を追って
谷底の川面に自動小銃を満遍なく打ち込んだ後、
止めを刺したものと引揚げようとした瞬間、
谷底からの銃声一発でオランダ軍の将校は谷底に転落しました。
それを見て、オランダの夜襲部隊は散を乱して撤収しました。
5、プムトゥランの戦い
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ランディー村で二つの特別部隊を作り、それらと分かれたングラライは、
翌日の6月20日、5キロ東方のプムテラン村(pemuteran)に着いた。
この頃のオランダ軍は、
バリ島の全ての村に分隊を配置するほどに拡大していた。
プムトゥランはアグン山の西方の裾野にある小さな村であったが、
この村にもオランダ軍の分隊があった。
ここでの戦いは、オランダ軍が少数であったことで、
ングラライ軍は勝利を収めた。
しかし、長居が出来る状態ではなく、
ングラライは、軍を東に2キロ転進させ、サム村(samuh)に着いた。
サム村の村人は、オランダ軍に通じておらず、
ングラライは、サム村でケガ人を治療させることした。
サム村では、9日間の休養をとり、軍を再編成し、
6月29日、タナアロンの地に向かった。
ングラライがサム村を離れた翌日の6月30日、
300名からなるオランダ軍はサム村に攻めて来た。
サム村はもぬけの殻であったが、
怒ったオランダ軍はサム村の住民を拷問にかけ、村の家々を焼き払った。
(註)400名に近いゲリラ隊が、サム村に長居をした。
味方の中にもスパイがいるかも知れない状況のなかで、
一箇所に9日間も安住できたのは、どうしてだろうか。
村人の中にスパイがいなかったことは、勿論であるが、
「軍が動き出すとすぐにオランダ軍にばれた」という事実から、
サム村にいた間、ゲリラ隊の全員をお互いに見張り、
スパイを含め一兵をも村より出さない、
との策をとったのではなかろうか。
6、プサギの戦い
サム村を出たングラライは、
アグン山々麓の深い谷と峰を15キロ縦横し、
5日後の7月4日には、アグン山の南の山麓に達した。
着いたのがカランガッサムのプサギ村(pesagi)であった。
そのプサギ村で休養をとっていた時、誰かが叫んだ。
「オランダ軍がやってくる!!」
その頃のングラライ軍は、分隊を繰り返していたが、
新たに加わったものもいて、未だ400名ほどの兵がいた。
一瞬パニックになりかけたが、
ングラライ軍はオランダ軍より高い位置を確保しており、
さらに、プサギ村に入る前に各所にワナをしかけて来ており、
パニックはすぐに収まり平静さを取り戻してオランダ軍と戦えた。
この戦いでは、オランダ軍兵士は12名戦死し、
バリ軍兵士はけが人が一人出ただけで戦死者はなかった。
ングラライは、タナアロンに向け兵を進めた。
7、タナアロン戦い
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1946年7月5日、タナアロンに着いた。
タナアロンについて直ぐ、ングラライ軍がタナアロンにいることを
オランダ軍が知ったことの情報が入った。
同時にアバビ村(ababi)、ピドゥピドゥ村(pidpid),
アバン村(aban),チュリク村(culik)のオランダ軍が一同に集って、
タナアロンに攻めてくるとの情報も入った。
もっとも近いピドゥピドゥ村は、タナアロンの東方5キロの至近である。
ングラライはすぐにオランダ軍(多分、大軍になるであろう)を
迎え撃つ為の会議を開き、軍を次の三つに分けることにした。
1、第一中隊(隊長=Ketut wijana)は、オランダ軍の後に廻り、
背後からオランダ軍に襲い掛かる。
武器はカービン銃、ステン銃と手榴弾とする。….
2,、第二中隊(隊長=Gusti Ngurah Bagus Sugianyar)は、
逃亡する道に待ち伏せ、逃亡するオランダ兵を逃がすことなく襲う。
武器はブレン銃、ステン銃、迫撃砲、小銃とする。
2、正面から迎えるのは、マルカディ(海軍出身)を隊長とする。
少人数だが、高いところから見下ろす位置に陣取ることとする。
1946年7月7日、朝の7時には、ングラライ軍の各部隊は、
所定の位置に着いた。
その30分後、南西の方向から200名ほどのオランダ軍が攻めてきた。
正面のマルカディ隊は、戦いを始めた。
20分後、オランダ軍の後に廻った第一中隊は、
オランダ軍をはさみつける形で加勢した。
南東の方向から新手のオランダ軍が攻めてきた。
ングラライ軍は、高台の上にあって新手を上から撃ち下ろした。
40分ほど撃ち続け、さらに後の高台に後退した。
オランダ軍は少しだけ追ってきたが、深追いをして来なかった。
ただ、オランダ軍が来たところは、
別働隊が待機しているところから、250mの至近であった。
が、別働隊がいることに気付かない。
別働隊から知らせを受けたングラライがその地に着くと、
オランダ軍は休息をとっているところであった。
その地の後方が崖になっていることも知らないようであった。
ングラライは一気に正面から攻めて、崖に追い詰めた。
オランダ兵の多くは、崖から転落して死亡した。
時間は、午後3時になっていた。
霧がかかりはじめ、視界が悪くなってきた。
午後5時、ングラライは撃ち方を止めさせ軍を集合した。
ングラライの攻撃が止まったすきにオランダ軍は敗走した。
この時の戦闘で82名のオランダ兵が戦死し、
ングラライ軍はひとりの戦死者もでなかった。
このあと、ングラライはアグン山の北側を回り、ブレレンに向かった。
その頃のングラライの本部は、ブレレンにあったからだ。
ブレレンでは、ングラライの数々の勝利を喜んで迎えた。
1946年7月23日、ムンドゥク・プグオレンガン村(Munduk Pengorengan)
に着いたングラライは、400人近くいた軍を縮小することにし、
兵の多くを田舎に帰し、精鋭だけでマルガラナに向かった。
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