ングラ・ライの独立戦争
歴史が作る
民衆心理
風土が作る
民衆心理
教育が作る
民衆心理
数々の戦い ププタン・マルガラナ
歴史が作る民衆心理


ングラライはじめ精鋭隊96名が玉砕したププタン・マルガラナ合戦。
あとで述べる機会が来ると思うが、
全員玉砕せざるを得なくなった原因のひとつに「民衆への遠慮」があった。
民衆を戦いに巻き込みたくないという遠慮である。
何故にそういう遠慮があったのか?
独立を願って戦うゲリラ(バリ軍)が、
完全に民衆に支持されていなかったからではなかろうか。
バリ人にとっては独立なんてどうでもよいことだったのかも知れない。
よしんば支持があったにしても、消極的な支持であったことは確かだ。
それらしき痕跡は、いろんなところから伺えられる。
そういう民衆心理に至るには何かの原因がある。
これから書くブログで、それを探りたい。
そして、その探求の順序だが、
1、歴史が人を作る。
2、風土が人を育てる。
3、教育が人を作る。
に沿って、思索を重ねてゆきたい。

で、まずは、歴史である。
オランダに植民地化されたインドネシアの昔、
インドネシアそのものが国としての一体があった訳ではなかった。
オランダの植民地施政350年と一言で言うが、
拠点拠点を掌握するだけで、全島を完全掌握していた訳ではなかった。
各島それぞれの事情に応じて自治権を与えながらの掌握であった。
バリ島もそうであった。
バリ島は王制であった。
その王の祖先は、ジュワからの渡来人であり根っからのバリ人ではなかった。
バリ人が権力に無関心になった最初の要因であろうと思う。
歴史が作る民衆真理への探索は、この「バリの王制」から始めたい。

写真は、今から120年前の1893年、
オランダの女王の誕生日を祝って、シンガラジャに集ったバリの王達。

左から、
バドゥン県の王:Cokorada Alit Ngurah
バンリ県の王:Anak Agung Ngurah
ブレレン県の王:Anak Agun putu Jelantik
カラガッサム県の王:Anak Agung Angurah Ketut Karangasem
ギャニヤール県の王:Anak Agung Ngurah Agung
ジンバラナ県の王:Anak Agung Bagus Negara
クルンクン県の王:Dewa Agung Oka Geg
タバナン県の王の代理:Gusti Ngurah Wayan
(この時期、次の王が決まっていなかったため)

この王の名前、タバナン県は代理であったので省くが、
5人が、Anak Agun であり、chokorada が1人いる。
この二つは王の名として、カースト制度の中で認知されている。
ただ、クルンクン県の王だけが、Dewa Agunを名乗っている。
王の本家であることの名残りである。
王の歴史は、この本家から始めたい。





ということで、予告したクルンクン王国についてですが、
先を急がないと目的まで遠すぎるので心変わりしました(笑)。
クルンクン王国の話しは止めて、
ここ1000年のバリ島の歴史を一気に書くことにしました。
大胆に端折ってぶっ飛ばし、
バリ人が「権力に無関心」な理由を探します。

1、西暦1000年頃、バリ島にバリヒンドゥー教が伝わった。
2、宗教行事を取り仕切るメンバーシップ(バンジャール)ができ、
  宗教を根にした民意の醸成が始まった。
3、1293年、ジャワ島中部にマヒャパヒト王国ができた。
  ジャワ島で最後のヒンドゥー教王国であった。
4、1342年、王国はバリ島にも侵攻し、影響力を持った。
5、王国はマレーシアにまで勢力を伸ばし、約200年隆盛を極めた。
6、が、1478年、台頭してきたイスラム王国に国政を奪われ、
  王、貴族、僧侶の多くがバリ島に亡命した。
7、亡命した王らは、バリ島にゲルゲル王国を作った。
8、1710年、ゲルゲル王国内の内乱で、8つの王国に分かれた。
9、1846年、8つの国のひとつブレレン王国とオランダとで戦争が勃発した。
  バリ戦争の幕開けであった。
10
、バリ戦争は60年続き、1908年のクルンクン王国滅亡で幕を閉じた。
11
1942年、バリ島に日本軍が侵攻し、以後、日本の統制下に入った。
12
1945年、日本敗戦と同時にオランダと間で独立戦争が始まった。
13
1949年、ハーグ円卓会議を経て独立戦争が終結し真の独立がなった。

さて、こうした変遷の1000年間。
この中で、今も変遷してないものがあります。
最初にあげた宗教行事を取り仕切る共同体「バンジャール」です。

2014
年の今もバンジャールは絶大な統制力を発揮しています。
王国が変ろうが、
オランダが来ようが、
日本軍が来ようが、
びくともしなかった組織です。

何故にびくともしなかったのか。
トリヒタカラナ哲学で社会生活全てが宗教に密着するのがバリヒンドゥー教です。
バンジャールはその宗教行事をとりしきるために生まれた共同体です。
バンジャール活動が社会生活の全てだということです。
変りようがなかったのです。

王国が変った歴史の中でバンジャールのことがでてきません。
60
年続いたバリ戦争の中でもバンジャールのことがでてきません。
オランダ統治時代もバンジャールのことがでてきません。
日本統治時代もバンジャールのことがでてきません。
オランダとの独立戦争の時もバンジャールのことがでてきません。

歴史の中でバンジャールの記述を探すのですがでてこないのです。
周囲がどういう情況下になっても、
脈々とバンジャール活動が続けられ、
社会生活の根底が揺るがなかったということです。

インドネシア独立戦争を横目で見ながら、
バンジャール活動を続けた多くのバリ人……
第三者から見ると「権力に無関心」に見えますよね。




権力に無関心な民衆を書きました。
追加して書くことがあります。

1478
年、マヒャパヒト王国の王や僧侶や貴族が
ジャワからバリに亡命してきてゲルゲル王国を建国した時のことです。

バリ人にとってジャワ人は他島の人です。
そんなよそ者が来ても争いもなく直ぐに王国を作れております。
バリ人は王国の建国に抵抗しなかったのです。
抵抗しなかった理由は、次の3つがあったからと思うのです。

1、マジャパヒト王国はおなじヒンドゥー教であった。
2、1342年、すでにマジャパヒト王国の影響を受けていた。
3、ヒンドゥー教の教えの中にカースト制度があった。

この中のカースト制度について考えてみましょう。
カースト制度では、僧侶・王・貴族をトリワンサと称し別格視しています。

トリワンサでないスードラ(平民:人口の90%)は、
トリワンサを尊敬するように教えられるのがバリヒンドゥー教です。
で、ジャワ島からのトリワンサらの亡命を消極的ながらも迎え入れ、
新しい王国の建国を受け入れたのではないでしょうか。

このことを別の角度から表現すると......

トリワンサを別格視する平民(人口にして90%)が、
「あの人たちは別だから」と、王国周辺の人に無関心だった、
であったことも想像されるのです。
理由は違うものの、ここにも「無関心」の要因がありそうです。


さて、話題を変えます。

ングラライは、マルガの地でオランダ軍に囲まれ、
死を覚悟して全員突撃を命じた時、
「ププタン」「ププタン」と叫びながら敵の中に突入します。
で、マルガ合戦のことを「ププタン・マルガラナ」と呼ばれます。

ププタンとは何か。
「終焉」を意味するバリ語です。
日本語では、玉砕とか集団自決と約されます。

デンパサールには、ププタン広場があり、
クルンクンには、ププタン記念塔があります。
バリの歴史を語る時には、外してはならない言葉です。
ちょっと「ププタン」に寄り道したく思います。

とうことで、
バリの各王国がオランダ軍に抵抗して戦った「バリ戦争」です。
この中で王国のププタンが繰り返されました。
バリ戦争を駆け足で書きながら、ププタンを拾ってみます。

60
年続くバリ戦争の始まりは、1846年のブレレン王国からでした。
当時のブレレン国王は、グスティ・クトット・ジェランティでした。

その国王グスティ・クトット・ジェランティですが、
ちょっと、分からないところがあります。

ルノンのププタン写真展では、次の二人とも
ブレレン国王、グスティ・クトット・ジェランティと表示しております。



二つには、説明文がついており、
左は、ブレレン国王、グスティ・クトット・ジェランティとだけ書いております。
右は、ブレレン国王、グスティ・クトット・ジェランティと書き、
ブレレン県の王、Gesti Ketut Jelantik は、オランダ領東インド政府によって、
1872
年西スマトラのパダンに追放された、と添え書きがしてあります。
が、これから書くブレレン王は、カランガッサムで戦死するのです。
二人は、同一人物なのか別人物なのか。
それとも記述にミスがあるのか。
よくわかりません。
が、いずれにしても二人とも精悍な風貌をしております。
そして、風貌どおりの戦いをするのです。
長くなるので、またまた箇条書きで飛ばします。

1、18466月、オランダ軍がブレレン国に上陸した。
2、その時のオランダ軍の戦力は、フリゲート2艦、蒸気艦4艦、スクーナー12隻、
  小型船40、兵力は1700人、うちヨーロッパ人兵士は400人であった。
3、オランダ軍は、上陸後、シガラジャ宮殿を破壊すると威嚇し、ブレレン国はそれを受け入れ、
  オランダの駐屯を認めた。
4、が、オランダ軍の主力がジャワに戻ると、ブレレン王は約束を反故し、駐屯許可を拒絶した。
5、18485月、怒ったオランダ軍がオランダ人、ジャワ島人、マドゥラ族、
  アフリカのガーナ人の構成の、兵力2400人で再上陸を試みた。
6、が、準備をしていたブレレン王は、兵力16000人、1500丁の銃を準備し迎え討った。
7、オランダ軍は200人の人的損害を蒙り軍艦に避難した。
8、1849年、オランダ軍は兵力を増強し、軍艦100隻、8000人の兵力で再度攻めた。
9、ブレレン国は兵力33000人でこれを迎え討ったが、叶わず、
  1000人の人的被害を蒙り、敗退した。
10、ブレレン王とブレレン軍は同盟国であったカランガッサム王国に逃亡を試みた。
   その時、ブレレン王妃と多くの貴族がププタンで集団自決した。
   バリ戦争における、
最初のププタンであった。

11、オランダ軍は、逃げたブレレン王を海路を使って追った。
12、オランダ軍はパダンバイに上陸し、クルンクン王国を攻めた。
13、オランダ軍は同時にロンボク軍と軍事同盟を結んだ。
   ロンボク国とカランガッサム国は敵対関係にあったからだ。
14、オランダとロンボクの連合軍はカランがサム国を攻めた。
15、逃亡中のブレレン王は、この戦いで戦死した。

16、強気だったブレレン王が戦死し、バリ軍の戦意が落ちた。
17、といってもオランダ軍は、クルンクン国への攻撃に難渋した。
18、バドン国、タバナン国、ギャニヤール国がクルンクン国に味方したからだ。
19、一進一退の攻防の末、両軍の和解話が進められた。
20、ブレレン国とジュンブラナ国がオランダの支配下に入ることで和解した。

21、1894年にロンボク戦争が起き、オランダはかって同盟国であったロンボクを攻めた。
22、オランダは勝利し、ロンボクを支配下においた。
23、と同時に、それまでロンボク国が支配していたカランガッサム国も支配下においた。
24、その頃のバリ島は、タバナン国とバドゥン国が独立国の様にふるまっていた。

25、オランダは、なんとか口実をつけて、この2国を攻め入ろうと画策した。
26、オランダは難癖をつけて、
   1906914日、サヌールに上陸し、デンパサールに攻め入った。

(サヌールに上陸するオランダ軍)


(サヌール村を行進するオランダ軍)


919日、バドゥンの守備を突破する)


kesiman村を攻撃する)


27、バドゥン国内では、戦い方を巡って内部分裂がおきていた。
28、その内部分裂により、
   オランダ軍が来る前に、宮廷は放火され、町は廃墟となった。。
29、バドゥン国王は、戦わずしてププタンでの集団自決を決めた。

30、オランダ軍が侵攻してきたときは、ドレス・パレードのようであった。

920日、デンパサールに向けて行進するオランダ軍)


(大砲で破壊された宮殿の入り口)


31、宮殿に到着すると、そこでは香が焚かれて、太鼓を打つ音が聞こえた。
   国王が担ぎ手4人の神輿に担がれ、進行してきた。
   国王は、白い伝統衣装、大量の宝石、儀式的な剣を着用していた。
   王の臣下たち、僧侶、護衛隊、王妃や皇太子らも同様の衣装を着用していた。
   死のための儀式であった。
32、オランダ軍より100歩ほど進んだところで、列は停止した。
   国王は神輿から降りて、僧侶に促すと、僧侶は剣を国王の胸に突き刺した。
   同時に参列者たちもみな自殺したり、互いに刺しあって自決した。
   女性たちは身につけていた宝石や金のアクセサリーを外すと、
   からかうようにオランダ軍に投げつけた。

33、オランダ軍は小銃と大砲による攻撃を開始した。
   集団自決には1,000人以上が参列していたが、
   全員がオランダ軍の砲撃で殺害された。

(ププタン)


34、オランダ軍兵士は、遺体から宝石など価値のあるものを剥ぎ取った。
35、同日午後、同様の事件がペメクテン宮殿の近くでも発生した。
36、宮殿の支配層が集団自決をした。
   自決を見届けたオランダ軍は、財宝などの略奪を行った。
   
   これが
第二のププタンで、「バドゥン・ププタン」とよばれている。

37、つづいて、オランダ軍はタバナン国に進軍した。
38、タバナン国は降伏した。
39、降伏したタバナン国に対し、オランダは国外追放を言い渡した。
40、タバナン国はそれに従わず、
集団自決(第3のププタン)した。
   宮廷の財宝はオランダ軍によって略奪され、宮殿は崩壊した。
41、オランダは、バドゥン国、タバナン国が落ちて、
   弱体化したクルンクン国に再度攻め入った。
42
、クルンクン国は抗戦をあきらめ、要塞を破壊し、武器を引き渡した。
43、オランダはその時は、攻撃を止めたが、
   結局は、1908年に再侵攻し、クルンクン国を滅亡させた。

さて、このバリ戦争での各王国の戦い......
ングラライの独立戦争にどのような影響があったのでしょうか。


写真は、マルガラナ英雄墓地です。


マルガラナ英雄墓地にある慰霊碑は1372基あります。

先日、私はその1372基の全てを見て廻りました。
慰霊碑に書かれた出身地と名前を見るだけでしたが、
全部見終わるのに2時間ほどかかりました。
入り口のボードには、氏名と出身地が書かれた一覧表があるのですが、
そこには、氏名も出身地もおおまかにしか書いておりません。
各慰霊碑の方が詳しく書いてあるのです。

ひとつひとつ見て廻ると、違う発見がありました。
例えば、サヌール出身が3名だとかは、ひとつひとつ見ないと判りません。

特に気付いたことは、
タバナン出身者が多いってこと、次に多いのがブレレン出身ってことでした。
この2地区でほとんど8割を占めるのです。
逆にカランガッサム出身者の少ない(ほんの数名)のが目立ちました。

この出身地別の人数の差が、バリ戦争に重なって見えるのです。
バリ戦争が終焉したのは1908年、独立戦争開始は1946年でした。
この間、40年しかないのですから、
そういうことがあってもおかしくはないと思うのです。

日本の明治維新は、薩長同盟軍が中心でした。
バリ島のインドネシア独立戦争は、タバナン・ブレレンが中心です。
徳川幕府への反抗は長州から始まりました。
オランダへの反抗はブレレンから始まりました。
薩摩は幕府から遠く、抵抗勢力として力を蓄えておりました。
タバナンは、最後まで残ったオランダの抵抗勢力でした。
何故か似ているように見えてしまうのです。



明治維新では、薩長にもつかず徳川幕府につかず、
のらりくらりの藩もありました。
インドネシア独立戦争のバリでも、そうした王国がありました。
バリ島におけるインドネシア独立戦争への意気込み具合は、
地域に温度差があったようです。
バリの王国が一枚岩ではなかったことだけは、確かです。

先日、独立戦争を調べることが好きなバリ人と話す機会がありました。
彼が言うには、ングラライがマルガの地に行ったのは、
バドゥン地での兵隊の集結を国王がよく思わなかったからと言うのです。
止む無くマルガ(タバナン地区)への集結に変更したと言うのです。
どこにもそうした記述がなく、真意のほどはわかりません。
ですが、考えられなくもないことです。

ングラライが苦労したのは、別にもあります。
バリ独立義勇軍は武器の少なさから「ゲリラ活動」でした。
拠点を転々としなければなりません。
もっとも困るのが兵員の食料確保です。
住民が全て味方なら、食糧確保はそれほど難しくないかも知れません。
ですが、どちらかといえば、オランダ軍側の地方もあったのです。
簡単ではなかったはずです。
事実、そういう記述が残っております。

同じ民族で、同じ言語ですから、スパイ活動も簡単でした。
どこにスパイがいるかわからない状況でのゲリラ活動でした。
ングラライも苦労したことでしょう。

私が書く「ングラライの独立戦争」…..
こうした背景を理解しながら読んでいただけたらと思います。


ングラライ軍の兵士を出身地別で見る際に、ことわっておくことがあります。
次の表についてです。

ングラライと一緒にマルガラナで
玉砕したのは96名でした。
3
名が身元不明で身元が
分かっているのは93名です。
右の表は93名の出身地別の
人数を表したものです。
圧倒的にタバナンが多いのです。
ただ、この表では、
ブレレン出身者が少ないですよね。
薩長の長州がいないのです。

ングラライ軍は、
マルガへの行く前に、ブレレンを通ります。
その時、ングラライは軍を分けているのです。
400名いた兵士を100余名にしてマルガに向かうのです。
ングラライと別れ分隊になった300名には、
ブレレン出身者が多かったのではないでしょうか。
だから表値のような人員割合になっているのだと思います。