日本軍 独立宣言 独立戦争 独立後
オランダのインドネシア支配政策

1596年にインドネシアにに進出したオランダ。
以後350年、オランダのインドネシア支配が続く。
この350年の間のオランダ支配史を政策ごとに述べながら辿りたい。

1、愚民政策

和歌山県師範学校付属小学校の主事(校長)で、
鈴木政平(明治32年生)という人がいる。
鈴木は、日本軍統治時代に文教課長として、バリ島に赴任し、
島民への教育制度改革に携わった。

その鈴木が任務地のバリに着いた時、
集団で行動できないバリ人を見て、
オランダによる愚民政策のゆえである、と評している。

オランダは、住民の自覚と団結を恐れた。
文化や民度を向上させると、
民族的自覚をゆり起こすことになるからだ。
自ら物を考え、自ら判断し、自ら実践に移す力を養わないように、
原住民は愚民のままでいるように仕向けたのである。

2、文盲政策

オランダは、原住民の教育の機会を極端に制限した。
即ち、原住民の通う小学校はマライ語だけを学ぶものとし、
さらに小学校を下級小学校(3年制)と、
上級小学校(2年制)の二つに分け、
ほとんどの場合、下級小学校だけで終えるよう仕向けた。

さらに、その下級小学校にしても数が少なく、教材も貧弱であった。
原住民の登竜門として、数を限って7年制の学校(S,C)を設けたが、
授業料を眼の飛び出るほど高くして、庶民が通えないようにした。

オランダ語を教える学校もあったが、
意図的に原住民の選ばれた人のみが入学できるように差別化した。

3、分割統治主義

支配地から収奪を第一とする政治機構にするため、
旧地方分権組織を利用し住民に対する封建権力を強化させた。

また、オランダ・華僑・原住民の3者の社会形成を明確化させ、
互いに没交渉となるように仕向けた。

4、強制栽培制度

本国(オランダ)が利益を得るために、
農民に農地の20%に指定した作物を植えさせ、
政府は指定した価格で作物を買上げるという、
強制栽培制度を実施した。

安い買い上げ価格、ジャワ人貴族のピンはね、に加え、
慣れない作物を強制的に作らされるということで、
農民は圧迫された。

米の栽培も自由にならず、18431848年には、
中部ジャワでは大多数の餓死者があった。

5、内紛扇動政策

オランダ人は小国であり、
インドネシアを完全に支配下におくには、人口が少なすぎる。
そのため、キリスト教徒である、アンボン人やミナハサ人を
最下級の兵士として優遇し、インドネシア人自らが、
インドネシア人を取り締まる、番人として利用した。

インドネシアがひとつにまとまらないようにするためでもあった。
争いがなければ、争いの火種を作るように扇動したのである。

    註)ミナハサとは、
    スラウェシ島のメナドから60キロの地区である。
    当然に、親蘭(オランダ軍に味方する)の人民の多い所。
    ここに降下したのが海軍の堀内(豊秋)落下傘部隊。
    その堀内の施政がこの地の民心を一度に日本びいきにした、
    話を、その後陸軍の軍医として当地に赴いた、福岡良男が
    「帰らなかった日本兵」の中で書いている。
    後ほど、このブログでも転載したい。

6、弾圧政策

被支配者である、虐げられた原住民のうち、
階級意識に目覚めた労働者層によって、あるいは、
不服従運動の農民によって、その不満がオランダ植民地体制を脅かした。

1926
年の共産党蜂起事件を契機に、
軟化しつつあった植民地政策を再び弾圧政策へと変更した。



民族意識が芽生えて根付くのに300年かかる



このようなオランダの支配政策に対して、
被支配者のインドネシア人は、どのように対処してきたか、
結果として、
日本の進出をどのようにどのような気持ちで迎えたかであるが、

16世紀の頃のヨーロッパ諸国のこと....
ちょっと油断すると、隣の国に乗っ取られた。

初期の頃、活躍したのは、ポルトガル、
そのポルトガルもスペインに併合され、
そのスペインからオランダが独立し、
独立したオランダは、イギリスと手を組む、

が、当のイギリスがスペインの無敵艦隊を破ると、
警戒して、今度はイギリスと敵対し...などなど、
隣国の関係から常なる国力維持が求められ、
争ってアジア、アフリカへ進出した。

結果、アジアで独立を守れたのは、日本とタイだけ。
よくもこう、自由に荒らされたものだ(笑)。

まあ、そんな中での、
オランダのインドネシアの植民地化であったが、
非植民地のインドネシアも黙ってはいなかった。
あちこちで抵抗した。

が、如何せんその頃のインドネシアは、
小王国の寄り合い所帯であって、
地域としてまとまった抵抗ができなかった。

本格的な抵抗は、それから200年、経過してからであった。
最初の反植民地闘争である、
ジャワ戦争(18251830年)である。

ジャワのディポヌゴロ王子がオランダに対して叛旗を翻した。
民衆もそれに加担し、5年間のゲリラ戦争となった。

オランダとジャワの双方の死者、
20
万人という大きな戦争であった。

この戦争は、オランダをして、
一方的強要だけでは植民地運営をやっていけないとの反省を生み、
植民地の民にも、それなりの益があるべきとの、

倫理主義政策を芽生えさせた。
で、この倫理主義政策が後々の優秀な原住民の学生に、
オランダへの留学の機会を与える政策へつながる。

そして、これらの留学生が西欧的思想を国に持ち帰り、
民族主義が広がり、ついには独立へと結びつくのである。

一言で書いたが、
オランダによる植民地支配が始まってから、
最初の反植民地運動であるジャワ戦争まで200年、
それから民族主義が芽生えるまで、さらに100年、
.....
の長きを経てのことである。