独立前 独立宣言 独立戦争 独立後 雑感
インドネシア独立に寄与した日本人3傑

インドネシア独立戦争に貢献のあった日本人を3人挙げろといえば、
私は、今村均、前田精、市来龍夫、の三人を挙げたい。

今村均は、オランダを追い出した日本軍の総司令官でした。

彼の偉かったのは、本音と建前を使い分ける大本営の指令に屈せず、
インドネシア独立(大本営の建前)を
天皇陛下の指令する日本の本音として譲らなかったことです。

そのために左遷されてしまいますが、
彼の貫いた施政が後々のインドネシアの民衆の自立につながりました。
今村均については、先のブログで書いております。


前田精は、海軍武官府の少将という立場から
早くに「独立養成塾」という私塾を作り、要人を結集させました。

後のインドネシア独立の英雄の多くが、この独立養成塾がらみです。

もし、インドネシア側の3傑である、スカルノ、ハッタ、スバルジョが生きていて、
インドネシア独立に寄与した日本人を一人あげろといわれれば、
3
人が声をそろえて、前田精少将を上げるに違いないでしょう。

前田精についても先の弊ブログで書いております。


さて、残るひとりの市来龍夫です。
市来龍夫は、日本の終戦直後すぐにインドネシア独立軍に加わり、
スカルノ、ハッタをはじめインドネシア国要人の間を奔走しました。

インドネシア独立軍総司令部がジョグジャに移転するや、
総司令官スディルマン大将の顧問として、
軍事と政治の両面に協力支援しました。

東京の青松寺にスカルノが建てた市来龍夫への顕彰碑があります。
スカルノは涙を流しながら書いたと伝えられています。



インドネシア独立後の残留日本兵は、
インドネシア国籍がとれず多くが苦労しました。

それを助けたのがスカルノ大統領でした。
申請があれば認めるようにとの大統領令を出したのです。

スカルノの心に、市来龍夫への感謝があったからだと思います。
彼の働きが戦後の残留日本兵の扱いにも影響したのです。
市来龍夫を3傑のひとりにあげた理由です。

市来については、残留日本兵の項で述べたく思います。


安部頌二(スマラン事件)

今回、集中的に書く、このブログの目的は、
インドネシア独立戦争に参加した日本兵を書きながら、
最終的には、バリ島での戦闘で戦死した、
松井、荒木の両氏のことを書いて、締めくくることです。

こうした記事を書く場合、求められることは客観性です。

日本側にもインドネシア側にも偏重してはならないし、
またオランダ側にも、偏った敵愾心を持って書いてはなりません。

さらに幾人もの伝達を経た、
ネット情報を鵜呑みにして書いてはならない、とも思っています。


私の手元には、次の3冊の本があります。


1、「日本占領下、バリ島からの報告」

   これは、日本占領時のバリにあって、鈴木政平(教育者)が
   日々の教育事情を書いた、いわば生々しい日記である。

2、「Penarungan

   これは、penarungan村(バリの田舎の小さな村)が
   記録したもので、日本占領以前からの民衆運動、
   及び独立戦争が村民の立場から書かれている。
   日本兵の松井、荒木のことも、この中に記述がある。
   但し、バリ語が混じったインドネシア語で書かれており
   判読に苦慮する。

3、「インドネシア独立戦争に参加した、
   帰らなかった日本兵、一千名の声」


   これは帰らなかった日本兵が、独立戦争を戦った、
   当時のことを本人自らが書いたものである。

これらは、全て経験談です。
余談のない資料としての、
この3点を中心に書いてゆきたいと思っています。

また、ネット情報にあっては、
現在なお真実性が認められているもののみの記載にとどめたい。

さはさりながら......
オレの好みもチョットは入れたいと思ってもいる(笑)

というのは、このブログでの特集を組むに当たって、
インドネシアの独立に影響があった日本人個人としては、
今村均、前田精、市来龍夫 の3人を書こうと決めていた。

が、もう一人、個人的好みとして、安部頌二のことも書きたいのだ。
彼については、エピソードとして語り継がれていることで、
真意を確かめる手段がないが、
それはそれとして読んでいただたければ幸いです。

特集が冗長になること、許して欲しい。
ということで、物語に入ります。


時は、日本の敗戦が決まって、2ヵ月後の1014日。
場所は、ジャワ島のスマラン市、のブルー刑務所。

スマラン市は、
昔から鉄道労務者が多く住む社会主義勢力の強い所であったが、
日本の敗戦により、当時のスマラン市は無秩序の中にあった。

そうした無秩序の中、
市民(インドネシア人)はオランダと戦う為に立ち上がった。

戦う為には、どうしても武器が欲しい。
で、インドネシア側は、日本軍に武器を差し出すことを要求した。

が、連合国側から武装解除の指令を受けている日本軍は、
その求めを拒否した。

交渉が決裂したため、インドネシア側は、
日本の軍人、軍属、民間人を捕らえて人質にした。

で、彼らを処刑すると脅かし、処刑にとりかかった(ブルー刑務所)。

民間人をも犠牲になりそうな気配を察した日本軍(城戸部隊)は、
それまで自重していた堪忍の緒が切れ、
刑務所を取り囲み、インドネシア民兵を打ち倒して刑務所に突入した。

刑務所内では、民間人も含め日本人はみな一方的に虐殺されていた。
この戦いでの犠牲者の数は、
日本側406名に対して、インドネシア側は2000名であった。

インドネシア側の方に多くの犠牲者が出たのである。

日本軍を怒らすと、とんでもないことになる、
との思いが起きたものと思う。

さらに、その思いを反省に替えることもあった。
刑務所内で虐殺された民間人(雪印乳業)の安部頌二が、
牢獄の壁に自分の血で、


「インドネシアの独立のために喜んで死す」と、
書き残していたことである。


これは日本語であったが、
インドネシア語で「インドネシア独立万歳」とも書かれていた。

これは、インドネシア側に大きな衝撃として伝えられ、
以後、日本人を見る眼が変わった。

それまで各所で頻繁に行われていた武器の引渡しに関する、
日本軍とインドネシア側との戦いが減少したと言い伝えられている。

実は、日本軍のジャワによる戦死者は、
ジャワからオランダ軍を追い出した、
本来の戦闘よりも日本敗戦後の、
武器の引渡しをめぐるインドネシア民兵との戦いの方が
多かったとされている。

そうした戦いを減少させ、
インドネシア側と日本軍側の双方が
少しでも理解しあうきっかけになった、安部頌二の牢獄での、
血書の存在を忘れてはならない、とオレは思うのだ。


今村均中将

日本の敗戦後、連合国からの指令に逆らって、
何故に多くの日本兵が、
インドネシア独立のために戦ったのか。
日本兵のそうした行動を
いろいろな角度から検証してみたい。

まず、日本兵のトップ、
いわゆる総大将、今村均(写真)の指導方針である。
いや、今村個人の指導方針ではない。
天皇陛下からの指導方針である。

というのは、インドネシアの施政を行った時、
それが甘すぎると、
大本営からお叱りを受けたことがある。

今村はその際、それを蹴って従わなかった。


天皇陛下から下された「占有地への同化方針」が
変更されるのならば従うが、でなければ従わない。
との、理由からである。

本音と建前のふたつがない、今村,,,,
建前がずべて本音である、今村,,,,,

日本の世論を操り、暴走気味であった大本営とて、
正論を述べる今村を転身させることはできなかったのだ。

その同化方針だが、
今村はインドネシア進駐後すぐに次の指令を出している。


1.
農業改良指導

2.
小学校の建設と、児童教育の奨励

3.
新聞の発刊

4.
英・蘭語の廃止と、公用語としてのインドネシア語採用

5.
5人以上の集会の自由

6.
多方面でのインドネシア人登用

7.
インドネシア民族運動の容認

8.
インドネシア人の政治参与を容認

9.
軍政府の下に「中央参議院」を設置

10.
各州・特別市に「参議会」を設置

11.
ジャワ島全域に、住民による青年団・警防団を組織

12.
「インドネシア祖国義勇軍」(PETA)の前身を創設


これが、後々、インドネシア国民をして、
独立の精神を養っていくことになるのだ。

インドネシア国民ばかりではない、
今村指揮下の5万5千の日本軍兵士も同様であったと思うのだ。

今村均については、ネットで調べれば、
その人間としてのやさしさがいっぱい知ることができる。
で、ここには多くを書かないが、
オレがもっとも敬服していることを一つ紹介したい。

今村は、オランダ軍を9日間で降伏させたが、
その後のオランダ人の扱いである。

捕虜とした軍人の扱いを丁寧にし、民間のオランダ人には、
生活を楽しめるように全てに自由を与えた、とのことである。 

これを経験したオランダ人は、これはかなわないと悟った、とのこと。
敵にも同じ愛情を注ぐことは言うにやさしくなかなかできないことである。

今村のこうした施政に、
部下の日本兵がどのように価値観を醸成していったかは、
だれもが想像できよう、というものである。



善政を感謝された堀内落下傘部隊


日本軍が如何にインドネシアに迎えられたか、
例として、その一つを書きたい。

真珠湾攻撃から一ヵ月後の1942111日に、
日本軍のインドネシア侵攻が始まった。
最初は落下傘部隊によるものであった。

場所はスラウェシ島のミナハサ。
部隊長は堀内豊秋(写真)であった。

この話は、
軍医としてミナハサに任務していた、
福岡良男(後に東北大学名誉教授)が、
書き残しているものである。


福岡良男は、現地住民の巡回診療をする中、
対日感情が頗る良いことを経験した。
そして、その理由は、
堀内中佐(後に大佐)の善政がゆえと知り、
そのことを後々に伝えたいと書き残したものである。
書かれたそのままを転載する。

セレベス島北部のミナハサは、
オランダがもっともオランダ化に力を入れ、
植民地政府の下級役人、教師、雇兵を育成したところで、
インドネシアの他の地域の人びとから「オランダの犬」
と呼ばれていた地域であった。

このミナハサ地区に降下し、オランダ人を数日で駆逐したのは、
海軍の堀内落下傘部隊であった。

部隊長の堀内豊秋海軍中佐が、
原住民を非常に大切にし平等に取り扱い善政をひいたために、
住民の対日感情が非常によいということがあとでわかった。

また、オランダのインドネシア傭兵捕虜を、
直ちに釈放したことも現地住民の対日感情を一層良いものにした。

どこの部落に行っても「ニッポン、インドネシア、サマサマ(平等)」とか、
「ホリウチタイチョウ、ジョウトウ、ニッポン、ジョウトウ」と言って、
親指を上に向けて歓迎してくれた。

堀内豊秋海軍中佐におくれて現地の守備の任務に着いた陸軍は、
堀内海軍中佐の善政の恩恵に浴した。

堀内豊秋海軍中佐とその部隊がバリ島に移動するとき、
落下傘降下地区のカラビアンとラングアン地区の
住民数百人が、別れを惜しみ60キロの道を歩いて、
メナドまで堀内部隊を見送りに行った。


堀内豊秋海軍中佐は、終戦後、部下の責任をかばい、
その結果、戦犯としてオランダ軍に逮捕され、
現地住民の嘆願があったにもかかわらず、
戦犯としてメナドにて銃殺された。

報復裁判による銃殺と言われている。



福岡良男の記述は、ここで終わっているが、
その後の堀内豊秋のことを付記しておきたい。

終戦後、堀内は部下ら12人が戦犯として囚われていることを知り、
自分の証言で救えるならと考え、自ら巣鴨刑務所に出頭した。

その後インドネシアに送還された堀内は、
オランダ兵を公衆の面前で侮辱したという理由で処刑された。

享年47歳、刑場では目隠しを断って潔く散ったという。

この堀内の処刑に対し、
地元民はそういう事実は無いと嘆願したが叶わなかった。

このままでは堀内本人に申し訳ないとの運動が盛り上がり、
1994
年、インドネシア独立50周年を期に、
地元民の尽力でメナドの地に、堀内豊秋の慰霊碑が建てられた。
堀内がメナドにいたのは、たったの3ヶ月だけ。
その3ヶ月で、これほどまでに慕われる仁政を尽くした堀内豊秋、
日本人として、誇りに思う。


西嶋重忠

ここまで、書いてきて、
西嶋とか「西嶋メモ」とかを
多用しすぎている割に
先のブログ「海軍武官府 前田精少将」
での彼の紹介が希薄すぎることが、
気になってきた。
出演機会の多い(笑)彼の経歴を番外として
追記する。

西嶋重忠(右の写真は戦後のもの):
2006
129日死亡、享年95歳。


戦前、左翼思想のために一高を退学させられる。
インドネシアに渡り、オランダ語、インドネシア語に長けたことから、
戦前は、バンドンのトコトヨダの支配人として勤務。
戦中は、前田精少将の部下として海軍武官府に勤務。
戦後、戦犯容疑で逮捕されたときの「西嶋重忠陳述書」が西嶋メモの由来。
戦後は、北スマトラ石油の常務として勤務。
長い間、インドネシア独立革命の生き証人であった。



たった9日間でオランダを追い出した日本軍

日本軍のインドネシア侵攻......
1942年3月1日、ジャワに侵攻した日本軍4万人に対し、
連合軍は、オランダ軍に加えて豪州、英国、米国の10万人。

多勢であるのに、3月9日、オランダは無条件降伏。
何故に、たったの9日間で日本軍が勝利することができたのか....


1、本国(オランダ)がドイツに占領され国力が疲弊していた。
2、ジャワ沖海戦での日本軍勝利で制海権は日本にあった。
3、オランダは、4万人の日本軍を20万人と過大に見ていた。
4、連合軍総司令官(イギリス人)は、既にインドに逃亡していた。
5、ジャワの人民が、日本軍を歓迎するのを目の当たりにした。

からである。

5、のジャワの人民が日本軍を歓迎した理由であるが、
日露戦争でロシアに勝利した日本に対し、
アジア人が白人に勝利したとして畏敬の念を持っていた、
からであるが、それだけではない、もうひとつ面白い話もある。


ジョヨボヨ王の予言....である。
「予言」....オレの好みではないが、
日本軍のインドネシア侵攻の逸話として必ず出てくるので、
ここでも取り上げておきたい。


クディリ王国を再統一したジョヨボヨ王の次の予言(12世紀):

わが王国はどこからか現れる、白い人に乗っ取られるであろう。
彼らは魔法の杖を持ち、離れた距離から人を殺すことができる。
白い人の支配は長く続くが、やがて北からの黄色の人が、
白い人を追い出し、この地を支配する。
が、この支配はとうもろこしの寿命の間しかなく、
その後、正義の神の支配する祝福される治世がくる。

この予言....
鉄砲を持ってきたオランダ人に支配されるが、
そのオランダ人は、日本人に追い出される....
その支配は短い期間であり、その後平和な国になる。

と、読み取れる。
まさに予言どおりであった。

ジャワ人は、
予言が実現としたものとして、
日本軍の侵攻を受け入れたというのである。
この予言、全てぴったりであるが、ひとつだけ違うことがある。

日本軍政下におかれる期間のことである。
とうもろこしは、一年草であるのに、
日本軍は、3年もインドネシアを支配した。
予言を超えて居座ったのだ。
いずれ、その無理がたたることになる。


日本軍政下のバリ人

 


バリには、日本軍の軍政下の「置き土産」が、未だあちこちにある。
日本軍が掘った防空壕があり、
愛国行進曲を最後まで間違えずに歌いきる老人がいたりする。

軍政下といっても、70年前のたった3年間だけのできごとである。
戦争は、なんと短期間にいろいろのことなしとげるものなのだろう。

今、読んでいる本「日本占領下・バリ島からの報告」で、
著者の鈴木政平も次のように書いている。

曰く:戦争を礼賛しようとは思わないが、戦争よ、
汝は最大の教育者なり。


開戦時、鈴木氏は、
和歌山県の師範学校の付属小学校の校長先生であった。

それが請われて、軍政下のバリ島で文教課長として、
バリ人の教育改革にあたった。
そして、教育現場(バリ島)から、その都度、日本に現状を報告している。

日本に帰ってから書かれたものでなく、
その日のことを日記のように書いたものだ。
今、オレはそれを繰り返し読んでいる。 もう3度目になる。
特に、鈴木氏が書いたもので、現在まで影響しているものが興味を引く。

冒頭の「置き土産」である。
鈴木氏が任地についた頃、バリ人は集団で行動することができなかった。
オランダによる、愚民政策、文盲政策、分割統治主義の故であった。
このことについては、いずれ書くこともあろうが、今日は省く。

いずれにしても、それらを短い期間に教育しなおした、鈴木氏曰く、
「教室の出入りも2列の隊伍で気持ちよく行われている」......
のことであるが、今もそれが守られているのである。

写真は、わがバンジャールの大方の者が通う「サヌールNO.8小学校」の生徒。



まさに教室に入る時、
隊伍を整える為に手を伸ばして前との距離を確認している。

我々も小学校でこのように教えられてきたが、
今の日本では教えているだろうか。

家の隣の広場で独立記念日の行進の練習をしている。
手を上げているのは、行進のための手の振りではない。

まさに歩き出そうとする今、隊伍の間隔を測るための上げ手である。
意志の統一を育む団体行動として、鈴木氏達が教えた名残であろう。


バリ人の日本人を見る目

バリ人の日本人を見る目・・・・
なんて、オレが解るわけない。
が、その思考土台にあると思われるものを書きたい。
参考は、右の本。
日本に在住した元インドネシア大使が書いたもの。

この本では、まとめともいう最終項で、
「インドネシアの独立のため」という日本の言分は全くウソ。
資源の多いインドネシアを属国とするために侵攻してきた。
と厳しく結論付けている。

当時の日本の意識から見て、全くそのとおりであったろう。
インドネシアは350年、オランダに統治されていた。
そのオランダを追い出し、代わりに統治したのが日本。


その期間、第二次世界大戦中の約3年。
が、負け戦が濃厚になってきた最後の一年。

ジャワ島にいた日本軍は、
何かにつけ「ばかやろう!ばかやろう!」と、
インドネシア人を虐待した。

これが、現在のインドネシア人が日本人を見る目に、
影響を与えない訳がない。

バリもインドネシアの一部であり、当然にバリ人の思いも同じであろう。
が、バリに住む我々日本人にも、少しの救いがある。

ひとつは、バリは海軍の統治下にあったということ。
陸軍統治下(ジャワ島)で多かった虐待も
海軍統治下では少なかったと聞く。

虐待するのではなく、バリ人に尽くして、バリ人に感謝される日本人もいた。
戦時中バリ人に慕われた、「三浦襄」と言う者がそうだ。

住民による彼の墓は、現在デンパサールにある。

救いのもうひとつは、マルガ英雄墓地(下の写真:昨年訪れた時のもの)
の英霊だ。


世界大戦で敗退した日本に代わり、
オランダ軍がインドネシアを再度統治しようと攻めてきた。

オランダとインドネシアの戦いの中、
ここバリで最も激戦地であったのがマルガ。

インドネシア独立運動の英雄とされるングラライもここで死亡している。
全滅したングラライ隊の中には、13名の日本人がいた。
他のインドネシア兵に混じり、ここに葬られている。

前述のインドネシア元大使曰く、
国としては独善的な日本であったが、
個人的には真にインドネシアの独立を願って行動する者もいた。
と、注釈を入れている。

バリ人が日本人を見る目の中に、住民に溶け込もうとした海軍、
インドネシアのために戦った日本兵、の過去の行為が、
少しは残っていて欲しい、と、思うのだが、甘いだろうか。


日本軍政下のインドネシア(豹変した日本)

たった9日間でインドネシアからオランダを追いだした日本、
こんなにも短期間に駆逐できたのは、
独立を求めるインドネシアから、日本軍が歓迎されたからでした。

が、それもつかの間、日本はすぐに牙をむき出しました。
インドネシアは歴史教科書(中学三年)の中で、
こうした日本の豹変ぶりを次のように書いております。

民衆の心をひくため、日本は占領初期、

1、日本の国旗と並んで紅白旗(インドネシア国旗)の掲揚を許した。
2、オランダ語を禁止した。
3、日常生活でのインドネシア語使用を許可した。
4、インドネシア・ラヤ(インドネシア国歌)の歌唱を許可した。

を宣伝していたが、
このような人民へのソフト策が功を奏し

1942
38日のオランダ軍降伏すると、
その12日後の320日にはもうインドネシアの国旗掲揚は禁止され、
日本の国旗のみ掲揚することの政令が出された。

インドネシアの独立の為だなんて、
見え見えの真っ赤な嘘。
余りにも早い変わり身の早さです。

インドネシアは、日本のこうした豹変振りに戸惑います。
で、その後、強制労働、食料などの強制供出、
捕虜や市民の虐待、が行われるようになるにつれ、
オランダ統治時代のオランダに対する以上の、
日本軍への憎しみに変わっていきます。

残念ながら、これも眼を背けてはならない事実です。



日本がついてきた嘘(本音と建前)

インドネシア独立に集中して語る....このブログ。
一回一回の読み物であり、
また書きたいことから書くので、時系列にはならない。 
許していただきたい。

で、今日は、物語が進む上で是非に知っておきたいことを書く。
それは、日本がインドネシアについてきた嘘(本音)である。

最初からついてきた嘘か、
状況の変化によってつかざるを得なかった嘘であるかは、わからない。

どちらの側面もあったように思うが、そういうことはどうでもよい。
要するに、日本はインドネシアに嘘をついたことは確かなのだ。

で、オレが書きたいのは、
この日本の嘘により翻弄された現場のことである。
即ち、

1、現場(インドネシア)にいる日本人の翻弄。
2、一端、日本を受け入れたあとのインドネシアの翻弄。

のふたつの翻弄ぶりである。
これが解らないと、今後の物語が理解できないと思うので、紙面を割きたい。

さて、その嘘だが......
侵攻の目的をインドネシアの独立を助けるためと言っておきながら、
途中から、西欧と同じ、あるいはそれ以上の覇権主義に転じたことを言う。

当初の....同情、正義、やさしさ....から
戦時下は....偏見、搾取、こわもて.....に、変わっていったのだ。


嘘に翻弄されるインドネシアの教育現場

日本のついてきた嘘に翻弄される現場(インドネシア)の日本人。
その最たるものが、現場で戦ってきた日本兵であった。

国の嘘の責任をとらんとして、
インドネシアの独立のために、自分の命を投げ出した。
まさに日本男児である。
これは、いずれ書く。

民間人の間にも、同じことがあった。
バリ人から「バリ島の父」と慕われていた、三浦襄。

三浦は「日本人は嘘は言わない」と、バリ人を諭し、
日本軍に協力させてきた。
日本の敗戦が決まり今までの言動が嘘に終わることが決定した時、
三浦は、謝罪にバリ中の村々を行脚し、
行脚を終えたあと、事前に予告し、
嘘をついたことの責任をとって自害する。
これはブログで既に書いた:カテゴリー「インドネシア独立と日本」。

で、今日、ここに書くのは、
鈴木政平の日記からの抜粋である。

鈴木は、和歌山県の小学校の校長であったが、
海軍占領地の司政長官から請われて、
文教課長としてバリ島で学校教育の改善推進にあたっていた。

鈴木の日記の前半は、
オランダ時代の教育方針の拙さと、
その改善のための苦労が書かれている。

中ほどには、
具体的な数字をあげて、
島中に教育方針が浸透がしてきたことの喜びが書かれている。

そして、戦況が悪化してきた終盤には、
理想や建前論だけでは済まされなくなってきた教育の現場、
その苦悩の記述が目立つようになってきている。

その記述の一つを本人の書いたままで紹介したい。
血気盛んな青年教育家とのやりとりである。


青年: 私はこのごろつくづく考えるのですが、
    我々がやっている仕事は、この苛烈な戦局から見て、
    またバリの政治的現実から見て、
    手ぬるいのではないか、ということを感ずる。

鈴木: 生ぬるいというのは、結局どういう点なのか。

青年: それは勝つ為の教育に徹するということになるのですが、
    勝つ為には教育においても一時すべてを犠牲にすることも
    あえて忍ばねばならないのではないか。

鈴木: それは、具体的に言えば、なんだろうか。

青年: 手っ取り早く言えば、算数、読方、唱歌、
    などといった教科、つまり座学的教科は内地と同様に一時中止して、
    勤労一本の教育に徹底するということです。

鈴木: 現在、勝つ為にという一点に結集されており、
    そのためには我々はもとより原住民も
    堪えがたきを堪え忍ばなければならない。
    極端に言えば、原住民の生活を考えれる、
    最低生活に切り下げても勝たねばならぬ。 
    勝ちさえすれば、あとからなんとでもしてやれる。
    しかし多面、勝つ為には原住民の心を失ってはならない。 
    これも動かせない事実です。

青年: 課長の議論は分かりますが、
    それでは現実として座学教科をどうしようというのですか。

鈴木: 座学教科を犠牲にしてよいとは思わない。
    それを止めては政治的にかえって
    赤字になるだろうというのが私の見方です。
    勤労一本は、日本ならそれでやっていける。 
    が、ここでそれを実践することには無理がある。
    日本で行われている学校の工場化なり、工場への進出なりは、
    あくまで一般教科の存立を認めてのことで、
    教科停止の上に立っているのではない。

青年: まだ納得できない。 
    なぜ教科を捨てて、勇敢に全面的に工場化まで徹底しないのですか、 
    今までの説明では、まだ教科教育存立の根拠がはっきり飲み込めない。
鈴木: 政治には、与える面と取る面の2面があると思う。 
    戦時下のこうした占領地域の政治は、
    特にその傾向を映し出している。 
    経済関係面の政治は、取るという面が強く働き、
    政務方面の仕事は、与える方がより強く働いてしかるべきである。 
    我々の現在担当する文教面は、後者の方であり、
    与える一方で取るものはなにもないといってよい。
    諸君が見ておられるように、僅か2年の間に、
    ここの学童はおどろくべく増加を示してきている。 
    これは疑いもなく、
    原住民が日本の文教施策を喜んでいる表徴であり、
    彼らの信頼を無言の事実をもってあらわしていると見なければならない。 
    文教の仕事が民心をにぎる上に、
    すなわち軍政全体の黒字化の上に貢献している力を
    我々は自信をもって、認識してよいと私は思っている。

青年: 他のものが聞けば、自画自賛にすぎるというかもしれませんが、
    我々文教課として、
    それくらいの自負をもってかかった方がよいということですね。 
    我々はいまだ青年的理想論の域をでていなかったようです。 
    よくわかりました。

鈴木: 重ねていいます。 
    住民の信頼と支持は何といっても、
    高次な意味において戦力の根源でなければならない。 
    人心が離れることは戦力の根源が緩むことです。 
    これを思うて、我々は、
    原住民に対する親切と誠実と熱情とをもって、
    当たるべきであります。


インドネシアの独立を大道に教育の改善に取り組んできたのに、
自国の戦争の勝利へのために、
その大道を外れることの苦悩が現れた会話と思います。

軍からの要求がわがまま化するにつれ、
独立させるというのは嘘だったのかと、鈴木の苦悩はこのあとも続きます。
が、戦況がどんどんと悪化するにつれ、
日本も、嘘ではなく本当に、
インドネシア人の民心の把握が必要になってきます。

で、194497日、いわゆる小磯声明:

    東インド民族永遠の福祉を確保するため、
    将来その独立を認める。

を発表するに至ります。
口伝ではなく、国として正式にインドネシアの独立を謳った訳です。
この声明が出された時の鈴木、
    
    今まで心の片隅に澱んでいたおりがすっかり洗い流されたような、
    さばさばとした心安さを味わいました。

と、書いて素直な喜びを表している。

鈴木は、その後、命を受け日本に帰国している。
終戦は日本で迎えたことになる。

その時の鈴木、
三浦襄同様に「結果としての嘘」に再度悩んだのではなかろうか。