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日本の敗戦後、連合国からの指令に逆らって、
何故に多くの日本兵が、
インドネシア独立のために戦ったのか。
日本兵のそうした行動を
いろいろな角度から検証してみたい。
まず、日本兵のトップ、
いわゆる総大将、今村均(写真)の指導方針である。
いや、今村個人の指導方針ではない。
天皇陛下からの指導方針である。
というのは、インドネシアの施政を行った時、
それが甘すぎると、
大本営からお叱りを受けたことがある。
今村はその際、それを蹴って従わなかった。
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天皇陛下から下された「占有地への同化方針」が
変更されるのならば従うが、でなければ従わない。
との、理由からである。
本音と建前のふたつがない、今村,,,,。
建前がずべて本音である、今村,,,,,。
日本の世論を操り、暴走気味であった大本営とて、
正論を述べる今村を転身させることはできなかったのだ。
その同化方針だが、
今村はインドネシア進駐後すぐに次の指令を出している。
1.農業改良指導
2.小学校の建設と、児童教育の奨励
3.新聞の発刊
4.英・蘭語の廃止と、公用語としてのインドネシア語採用
5.5人以上の集会の自由
6.多方面でのインドネシア人登用
7.インドネシア民族運動の容認
8.インドネシア人の政治参与を容認
9.軍政府の下に「中央参議院」を設置
10.各州・特別市に「参議会」を設置
11.ジャワ島全域に、住民による青年団・警防団を組織
12.「インドネシア祖国義勇軍」(PETA)の前身を創設
これが、後々、インドネシア国民をして、
独立の精神を養っていくことになるのだ。
インドネシア国民ばかりではない、
今村指揮下の5万5千の日本軍兵士も同様であったと思うのだ。
今村均については、ネットで調べれば、
その人間としてのやさしさがいっぱい知ることができる。
で、ここには多くを書かないが、
オレがもっとも敬服していることを一つ紹介したい。
今村は、オランダ軍を9日間で降伏させたが、
その後のオランダ人の扱いである。
捕虜とした軍人の扱いを丁寧にし、民間のオランダ人には、
生活を楽しめるように全てに自由を与えた、とのことである。
これを経験したオランダ人は、これはかなわないと悟った、とのこと。
敵にも同じ愛情を注ぐことは言うにやさしくなかなかできないことである。
今村のこうした施政に、
部下の日本兵がどのように価値観を醸成していったかは、
だれもが想像できよう、というものである。
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