独立前 日本軍 独立戦争 独立後 雑感
戦時下に日本に招かれたスカルノとハッタ

さて、戦時下の日本軍の悪政を書きましたが、
先に指揮官として今村均中将の人となりを書いたことと矛盾すると思いませんか。

実は、悪政を始めた頃、今村均はすでにジャワにいなかったのです。
大本営は、今村の温和な統治を由とせず彼を左遷させていたのです。

今村がジャワに来て8ヵ月後の早きに、左遷先はラバウルでした。
ラバウルに移った今村大将(左遷をカバーするため大将に昇進させた)ですが、
まずは、兵士に自給自足体制をとらせ、食料の確保を図りました。

生活のベースを安定させた上で、堅固な要塞を築きました。
その安定した堅固さを見て、連合軍はラバウル占領を諦めております。

次々と連合軍側に落ちる中、終戦までラバウルだけが無傷だったのは、
今村大将の指揮の元、最後まで統制が崩れなかったためと思われます。

脱線話が、長くなりましたが、
まあ、そんな訳で、今村を左遷させた大本営は、
インドネシア(ジャワ)の統治を思うが侭にしたのです。

で、今日は、「思うが侭にした」その中のひとつ、
スカルノとハッタを戦時中に日本に招いた話を書きます。
スカルノは、ご存知のインドネシア初代大統領(ハッタは、副大統領)です。


戦時下の1943115日の大東亜会議のことです。
東京で行われ、主宰は日本の東条英機首相です。

参加したのは、
満州国の張景恵総理、
中華民国南京政府の汪精衛院長、
フィリッピンのホセ・ペ・ラウレル大統領、
ビルマのウー・バー・モウ首相、
インドからは自由印度仮政府首班チャンドラ・ボース、
タイ国からはワンワイタヤコーン殿下、
あとでいろいろ批判されますが、
まずは、みな独立を承認されたグループの集まりです。

この中にインドネシアは入っていないのです。

なぜなら、大東亜戦争の目的がインドネシアの資源のゲットだからです。
インドネシアを独立させたくはないんです。

でも、そんな本当のこと、インドネシアには言えません。

で、どうしたかというと、
スカルノ、ハッタのインドネシアの指導者については、
日にちをずらしたのです。

大東亜会議が終了し、出席者が帰国した後の1113日に呼んだのです。
で、彼らが日本に滞在した17日間を接待漬けにしたのです。

で、独立の要求を言い出せないように仕向けました。
仮に、彼らが独立を要求してきても、
民族主義の盛んなジャワ島に限ることとし、
油田のあるスマトラやボルネオは、日本領土に留めておく、
というのが、大本営の思惑でした。

スカルノはジャワ島出身ですが、ハッタはスマトラ出身です。
一国の指導者にならんたる者、
そういう日本の思惑なんてすぐに感じ取れます。

本音を隠す「嘘」なんて、すぐにばれますよね。
それをばれないと思うのが、「おごり」なんです。

インドネシア独立の功績は、スカルノとハッタを同等としておりますが、
ハッタがスカルノの日本一辺倒に不協和音を感ずるようになったのは、
この大東亜会議の後なのだろう、と、私は思っております。



小磯声明を受けて独立養成塾が作られる

独立に向けて最初にインドネシアの要人が徴集したのは、
「独立養成塾」であった。

近いうちの独立...を約束した「小磯声明」が、
発表されたのが194497日。
その声明を受けてジャカルタに「独立養成塾」が作られた。

この「独立養成塾」のスポンサーは、海軍武官府の前田精少将であった。

陸軍の統治するジャワにおいて、
海軍武官府は言わば治外法権下にある。

比較的に自由な活動がとれた。

が、前田は陸軍の統治に逆らうつもりはなかった。
何かの時に役にたつという長期投資のつもりで、資金を投じたのである。

海軍武官府はまず調査部を設けた。
そこでインドネシアに熱い思いを持つ日本人を集めた。

その日本人を通してインドネシア民族主義者とパイプを持った。
そのパイプの先の集合体が「独立養成塾」であった。

この塾の運営は、一切がインドネシア人に任された。
軍事教育は行われずカリキュラムも文科系が重視された。

政治史はスカルノ、経済学はハッタが教え、
アジ史と社会主義はシャクリルが教えた。
塾長はスバルジョであった。

この四人は、以後のインドネシア独立宣言に、
大きな役割を果たすことになる。
ブログのクライマックスにも登場する(笑)。

是非に知っておいて欲しいので三人(シャクリルは省略)
の略歴を記しておく。


スカルノ;

ジャワ島東部の都市スラバヤ生まれ。
父はジャワの下級貴族の出身で小学校教師、
母はバリ人貴族の出身のヒンドゥー教徒。

大学卒業とともに、
本格的にオランダに対する反植民地運動を開始する。
1927
74日、オランダ留学から帰国した同志らとともに、
インドネシア国民党を結成。

インドネシアの独立と民族の統一を訴えるために、
各地で積極的に集会を開催し熱のこもった演説で聴衆を魅了し、
「民族の指導者」として認められるようになった。

オランダ植民地政府に逮捕され、
スマトラ島のベンクルに流刑となっていたが、
オランダを駆逐した今村均中将により解放される。
後にインドネシア初代大統領。


ハッタ:

西スマトラのブキティンギ生まれ。
生家は郵便輸送などを植民地政府から請け負う商家。
オランダ人子弟のための初等学校に通い、
オランダ語での教育を受ける。

1921
年、オランダに渡りロッテルダム商科大学に留学する。
オランダ滞在中に、先住民留学生による学生団体である、
「インドネシア協会」に加わり、政治運動に傾倒。

ヨーロッパの労働運動や協同組合運動について見聞を深め、
ヨーロッパの左派知識人や活動家らとも交流。

1932
年に経済学修士号を授与。
帰国するとすぐにインドネシア国民教育協会に参加し、
活発な評論活動や啓発活動などに励む。

この時期、民族主義運動の手法、独立国家構想などの点で、
インドネシア国民党を率いるスカルノと活発な論争を行う。

オランダにより流刑になっていたが、
スカルノ同様に、今村均中将により解放される。
後にインドネシア初代副大統領。


スバルジョ:

西ジャワの貴族の出身、ライデン大学に留学。
1935
36年にはマタハリ特派員として東京に駐在。

日本占領時は武官府で独立養成塾の指導。
その後、独立準備委員会の委員としても活躍。
後にインドネシア初代外務大臣。



以上であるが、スカルノとハッタのことで追記しておきたい。
独立時の大統領(スカルノ)と副大統領(ハッタ)は、
実質的に対等とされていた。

インドネシアでは、独立に活躍した勇士をもって、
地名や道路名にしている。

ジャカルタの空港を「スカルノハッタ国際空港」と言うが如し。

独立後の国家運営で、ハッタは、次第にスカルノと対立する。
で、1956年には副大統領を辞職するが、
その理由をハッタは語ろうとしなかった。
謹厳な人柄で、信仰心に篤かったといわれる。


日本敗戦までの4ヶ月半のインドネシア


独立養成塾は、海軍の前田精少将の言わば私塾でした。

独立に向けて陸軍に動きがあったのは、
小磯声明が出されてから8ヶ月経過した1945429日でした。
すでに戦況が悪化し、補給線が絶たれていました。
独立準備調査会という、
「調査」の名がつけられた会合の設立です。

何もかもが遅すぎたのですが、
この日(429日)から日本敗戦(815日)までの、
4ヶ月半のインドネシア独立に関する動きは次のとおりです。


1945
429


独立準備調査会を設立する。
70
名の委員が発表され、
この日からメラプティ旗(現インドネシア国旗)、
インドネシアラヤ(現インドネシア国家)の使用を許可される。
この調査会において、
スカルノは国体としてのパンチャシーラを提唱、
またインドネシア現行憲法の骨格もこの時期に決まる(6月)。

1945
87

インドネシア独立準備委員会が設立される。
独立がカウントダウンに入る。

1945
89


スカルノ、ハッタらは、サイゴンに発つ。
8
11日、サイゴンにて、
寺内寿一元帥(南方軍総司令官)による、
独立承認のセレモニーを受ける。
制空権、制海権も奪われ東京への交通が,
確保できない状況であったため、
日本は南方軍総司令部が代わって,
インドネシア独立承認を告げたのである。
独立は、小磯声明から一周年でもある,
1
カ月後の97日に予定された。
 
1945
814


スカルノ、ハッタらは、
サイゴンからジャカルタに戻る。


そうなんです。
スカルノ、ハッタがジャカルタに戻った次の日の
8
15日が、日本の敗戦日ですよね。
インドネシア独立を承認するはずの日本が、
突然にいなくなったのと同じです。
独立を約束した97日まで日本はもたなかったのです。

これじゃ、独立できません。
が、揺れにゆれて、その2日後の817日、
インドネシアは、独自の見解において独立を宣言します。
日本軍も連合軍もいない、
権力の空白を利用しての独立宣言でした。
独立宣言を決める816日、
たったの一日なれど分刻みで激動した24時間。
そこに登場するのが、海軍武官府の前田精少将。
でも、それはシークレット...
いよいよ、これを書けるところまで来ました(笑)。



8月16日未明、青年グループはスカルノとハッタを拉致する


8
15日、ジャカルタの街には、
日本が連合軍に降伏したとの噂が広がった。

が、サイゴンから戻ったばかりのスカルノとハッタにとっては、
余りにも突然で、信じがたいことであった。

日本軍政当局の最高責任者である軍政監と接触し、
真意を確かめようとするも
軍政監は事務所におらず、確認がとれなかった。

この日のスカルノ、ハッタは多忙を極めていた。
16
日に「独立準備委員会」を予定していたからである。

それに出席する為、
各地区の代表者がジャカルタに集合しつつあったのだ。
もし敗北が事実なら、
そうした代表者にどう説明すべきかの思いも交錯しての多忙であった。

15
日、午後2時半、
スカルノ、ハッタの二人は、スバルジョのところに向かった。

スバルジョを通じ、スバルジョと個人的に親しい前田海軍少将に会って、
真意を確かめようとしたのだ。

ジャカルタの軍政当局(陸軍)は、
上部にいくつかのセクションがあって、情報伝達が遅れる傾向にある。
に比べ、海軍武官府は東京と直結しており、
情報が正確で早いということを知っていたからである。

スカルノ、ハッタは、前田と会えたが、前田の返答は、
「正式に通知を受けていないが、通知を受ければすぐに知らせる」であった。

が、その時の前田の苦悩に満ちた表情から、スカルノ、ハッタは、
日本軍の敗北が真実であることを感じ取った。

敗北の知らせがはっきりと伝わらなかったのは、
日本政府によりは敗北のニュースは秘密とされたためであった。
ではあったが、この時すでに、ジャカルタの青年グループは、
別のルートで日本軍が敗北したことを事実としてつきとめていた。

この青年グループであるが
日本軍が創成した郷土防衛義勇軍を土台にして集まった青年達である。

日本軍からは、徹底的に戦うための精神力を教え込まれていた。
その精神力がゆえに、8月の当時、心はすでに日本から離れ、
独自でインドネシア独立を成し遂げんとする高揚感の中にあった。

日本の敗戦をほぼ正確に知ったスカルノとハッタは、
日本軍の敗戦はあっても、日本軍の軍事力は維持されており、
独自に動いて日本軍と衝突することは危険であるとの考えでいた。

で、明日の独立準備委員会を予定通り行い、
日本との了解ですでに決められていた独立へのシナリオどおりに、
進めることにしていた。

が、事実はそのとおりにいかなかった。
独立準備委員会の当日、8 16日の未明、
スカルノとハッタが家族共々、青年グループに拉致されたのである。

青年グループからは、
暴動が起こる恐れがあり危険なため安全な場所に匿うため、
と説得されての、逃避であったが、スカルノ、ハッタは、拉致と察し、
その拉致の意味も感じ取っていた。



スバルジョはスカルノとハッタの救助に向かう

何故に青年グループは、スカルノとハッタを拉致したのか。

3月の独立準備調査会設立の頃から書いてみる。

独立準備調査会はそもそもが日本の指示で作られたものであった。
70
名の委員の内、7名の日本人がおり、副会長は日本人であった。

当然に日本人が意見を挟む場面もある。
青年グループはそれが面白くなかった。
彼らは、独立というものは、アメリカがそうだったように、
自らが武装蜂起し勝ち取るものであって、
他国の影響下でするものではない、と考えていたからだ。

8月7日に、独立準備委員会が設立された。
これには、日本の委員が入っていない。
会長がスカルノであり、副会長はハッタである。

以前の独立準備調査会よりもましである。
が、日本の指示があって設立された会であることには変わらない。
で、独立準備委員会をも否定する気分にあった。

そういう彼らにとって、
日本の敗戦は、日本がしゃしゃり出て来られなくなったということである。
そうなった今、今こそが自前で独立を勝ち取る天佑の時と思えたのである。

彼らは、まずジャカルタの郷土防衛義勇軍(ペダ)に行った。
で、カスマン大団長に武装蜂起を迫った。
が、カスマンからは、
「であるならば、スカルノの命を受けること」を要求された。

そう要求された青年達は、
その足でスカルノ邸に押しかけた。
で、武装蜂起の指示を出すことを迫った。

が、スカルノは、それを断固と拒否した。

日本軍は敗れたとはいえ武力を保持したまま現存している。
インドネシア側には武力はなく素手同然である。
刃向かえば壊滅されることがわかっている。
すでに寺内元帥から独立のシナリオが示されている。
あとしばらく待てないのか。

という言い分での断固とした拒否であった。
断固であったのは、他にも理由があった。
独立直前までこぎつけたこれまでの経緯を全く軽視する、
青年たちへの感情的反発もあったからだ。

内心、やるならやってみろ、と思いながらの拒否であった、
ハッタも同じ意見であった。

青年達は、強い拒否を受け一旦その場を辞したが、
到底に納得できなかった。

そして、その夜、詳しくは8 16日の未明。
青年グループは再びスカルノ邸に出向き、
就寝中のスカルノ一家を起こした。

日本軍が行動をおこしスカルノの身体に及ぶ危険が迫っている…..
対策会議に参加してほしい…..
として家族もろとも車で連れ去ったのである。

ハッタ一家も同様であった。
連れて行かれたのは、ジャカルタから東へ80キロの
レンガスデンクロックの街であった。

その頃のレンガスデンクロックは、
民族主義者の影響を受けたスチプト中団長が
ペダを指揮しており、急進派青年グループの巣窟となっていた。

青年達は、スカルノ、ハッタをアジトに閉じ込めて、
半ば強引に武装蜂起を迫ったのである。

さて、スカルノ、ハッタが突然にいなくなったジャカルタはどうか言うと、
拉致の事実を最初に知ったのは、前田海軍少将であった。

なぜに、前田のところに、それほど早く情報が入ったかを述べたい。
前にも書いたが、前田はインドネシアに熱意を持つ民間人を周囲に集めていた。
彼らを通じ、スバルジョ、スカルノ、ハッタらと交流を持ったのである。

彼らとは、市来龍夫 吉住留五郎 の民間人である。
簡単に彼らの経歴を書く。


市来龍夫

明治39年熊本に生まれる。
昭和3年、スマトラ島のパレンバンに渡り、写真技師として勤める。
以来、インドネシアとの関わりを持つ。

オランダ統治下のジャカルタで、日蘭商業新聞の記者として勤務する。
その時に生涯の友となる吉住留五郎と知り合う。
流暢なインドネシア語を使い、日本陸軍の通訳としても活躍する。

インドネシア独立戦争にあっては、
市来部隊を率いてオランダ軍と戦い、壮絶に戦死する。
市来については、インドネシア側から、日本側の双方からの記述が多く、
いずれ紙面をあらためて詳しく書く。


吉住留五郎

明治44年山形県に生まれる。
オランダ統治下、すでにジャカルタにあって新聞記者として活躍。
その活躍ぶりがオランダの植民地政府にとって、
目障りなため逮捕され投獄される。

その後、日本に送還される。
戦争中はインドネシアに帰ってきて、
陸軍の宣伝班員としてジャワ派遣軍に加わり、
日本の統治に入ってからは、前田海軍少将に請われ、海軍の通訳として、
また海軍武官府にあって民族主義運動を工作する。

戦後もインドネシアに留まり、
インドネシアの独立戦争にあっては、
独立軍の軍事参謀指揮官として活躍する。

結核で血を吐きながら一個師団を率いて山々を転々としオランダ軍と戦うが、
昭和237月、ゲデリ州セゴンの山中にて病没。


ということで、
上記の市来龍夫と吉住留五郎は、スカルノにとって、
日本軍が来る前のオランダ統治下時代からの民衆運動の「同志」であった。

国は違っていても心が通っていた。
そのことは、スカルノ宅に住む者も承知していた。

で、スカルノが拉致された時、スカルノ宅に居合わせた者が、
そのことをすぐに吉住、市来に連絡したのである。

で、海軍嘱託でもあった吉住は、
すぐに前田海軍少将にそのことを知らせた。
という訳で、日本側の大物としては、
前田が真っ先にそのことを知ったのである。

話を進める。
で、スカルノとハッタの拉致を知らされた前田は、
すぐに旧知のスバルジョに、そのことを連絡した。

連絡を受けたスバルジョは、すぐに拉致された先を調べ始めた。
間もなくそれが、レンガスデンクロックのペダ兵舎であることを知った。

スバルジョは、前田にそのことを告げ、
スカルノ、ハッタを取り戻すために、レンガスデンロックに向かった。

スカルノとハッタの救済に向かうスバルジョに、
前田は「自分を必要とするならば、協力する」と言い置いた。
自分の出番を予感しての言葉であった。


海軍武官府 前田精海軍少将

スバルジョは、レンガスデンクロックの青年グループのところに着いた時、
スカルノ・ハッタと青年グループは、激論の真最中であった……….

で、今、それがどんな風な「激論」だったかを書こうとしている。
が、筆が止まった。
前に進まないのだ。

実は、先のブログで、スカルノとハッタを誰が何処に拉致したかを….
スバルジョは簡単に探し出したように、はしょって書いたが、少々後悔している。

実際には、そう簡単ではなかった。
そのことをもう少し書き加えた方が、この先の展開が理解しやすい風に思うのだ。
登場する人々も、もうすこし掘り下げて書いた方が良さそうだ。

そうでないと、これから起こる複雑で微妙なかけひきの中で、
それぞれがどのような立場で、どのように発言したかの説明が難しくなる。

もうひとつある。
後日、この時のことを証言する、いろいろな記述が発表される。
が、それらの証言が微妙に食い違っているのだ。
それぞれの立場から、ある部分は省略し、
ある部分は大げさに脚色したりして語られたようだ。
それをどのように一本化して書きまとめたらいいのだろうか。
で、筆が止まり、話が進まないでいる。

で、思い直してみると、
これからのクライマックス(独立宣言)に登場する人物は、
みなが前田精海軍少将の私塾である
「独立養成塾」に関係のあることに気づいた。

であれば、独立養成塾の周辺を書くことから筆を進めれば、
とも思いついたのである。

それぞれの経歴ではなく、
8
16日当日のそれぞれの心境を探れば良いのである。
私なりに分析して、次に書いてみたい。


まず、ご本人の前田精海軍少将(写真)



この説明は、後日ハッタが、その回想録の中で語っていることで代用したい。
インドネシア独立準備委員会の会合のために前田邸を借りることになった時、
スカルノがその行為に感謝すると述べると、

前田少将は即座に答えた。

「それはインドネシア・ムルデカ(独立)を愛する私の義務です」


次に、養成塾の塾長、スバルジョ:

日本にいたこともあり、弁護士でもあるスバルジョは、
前田にその調整力を請われて塾長を任されていたが、
インドネシアが火の海にならないこと、
16
日当日、インドネシアの各地からはせ参じている代表者のこと、
を常に念頭におき、もめごとの落としどころを探っていた。


養成塾で政治史を教えた、スカルノ:

独立するためには、日本軍を徹底的に利用する。
利用されるふりをして利用する。
日本から少々の無理難題を吹っかけられても全て腹に収めて服従する。
独立を成し遂げる為には、それくらいの忍耐が必要である。
との考えで行動していた。


養成塾で経済学を教えた、ハッタ:

オランダ留学時の活動において、オランダ政府に逮捕されたことがあるが、
法廷闘争を通して無罪を勝ち取った話しに代表される、
経済学者らしく、理路整然、且つ現実主義を尊ぶ方であった。

スカルノの日本一辺倒の考え方とも一線を引いていた。
それがゆえに日本統治下の活動において、
憲兵隊から要注意人物として睨まれた。
それが、東京に行き大東亜会議のあとで天皇から言葉を頂いてから、
そのことを知った憲兵隊からは、いっさい睨まれなくなった。

が、逆にその組織的整然さから、日本軍の怖さを認知していた。
で、日本軍を刺激せず、且つ熱情だけで進む無鉄砲さも嫌っていた。


養成塾でアジ史と社会主義を教えた、シャクリル:

彼の社会主義思想は、時にはスカルノと合わなかった。
ゆえに地下に潜っての行動が多くなったが、
それを暗黙に支えていたのが、ハッタであった。
過激な青年グループを理解する隠れたオピニンリーダーであった。


養成塾の塾頭(寮長)であった、ウィカナ:

スバルジョが連れてきて、塾頭として置いた。
但し、スバルジョの知らない間に、
青年グループに賛同して活動するようになっていた。
シャクリルの影響も受けていたのであろう。


養成塾の世話役であった、西嶋重忠:

前田少将の意を受けて、海軍武官府の嘱託として、
現場での実務遂行の役を担っていた。

戦後、オランダの取調べでは、
徹底的に前田を庇った証言をする(後日の本人弁)。
養成塾の世話をする中で、塾頭であるウィカナは、
青年グループに属していることなども、うすうす気づいていた。

スカルノ、ハッタの拉致についても、彼がウィカナを責めて、
拉致の場所や、その目的などを聞き出したのが、
真相のようである((スバルジョは、そう証言していない)。

独立宣言文の草案作りに同席した日本人の中の調整役を担っていた。

あとひとつ、
いずれ登場する人物として、塾長スバルジョの知人達を書いておく。


スカルニ; 

養成塾の塾頭のウィカナの友人で過激派のグループリーダーのひとり。


スブノ; 

スバルジョの大学法科時代の同窓のシンギ弁護士の女婿で、
青年グループを牛耳る義勇軍の中団長。


三好俊吉郎:

スバルジョの甥のスジョノの友人で陸軍大佐(軍政監部司政官)。
自由主義的思想の人。
日本憲兵隊がハッタを事故死に見せかけて抹殺することを計画していたが、
その計画を阻止し、ハッタの命を守った。

独立宣言文草案の際の同席は、陸軍から指示があったのか、
前田が独自で依頼したのかは定かではなく、
個人の責任で同席したことになっている。


さて、最初に戻る……
スバルジョは、レンガスデンクロックの青年グループのところに着いた時、
スカルノ・ハッタと青年グループは、激論の真最中であった。(以下次号)


8月16日夜、スカルノとハッタはジャカルタに戻る

スバルジョは、レンガスデンクロックの青年グループのところに着いた時、
スカルノ・ハッタと青年グループは、激論の真最中であった……….

このスバルジョがレンガスデンクロックに着いた時間であるが、
この日のことを調べだした当初、私は16日の午前11時ごろと予測していた。

が、いろいろと資料を読み進むうち、
午前ではなく夕方であることがわかった。
それだけ、拉致された場所の特定に時間がかかったということである。

先のブログでは、「調査して、間もなく場所が特定できた」、と書いている。
「間もなく」ではなく、「苦労した末」に変更しておきたい。
細かなことだが、できるだけ事実に近い記述にしたいのでこだわらせてください。

さて、激論の中身であるが、青年グループの主張は、ただひとつ。
今夜中にインドネシア人の手で独立宣言をすること、の一点張りであった。

それに対して、
そのような行為は、日本軍との争いに発展するため危険であってできない。
と反対する、スカルノ、ハッタとの平行線の激論であった。

スバルジョは、スカルノ、ハッタを一旦その場から外し、
単独にて青年グループの主張を聞いた。

青年グループは、今夜12時に放送局の襲撃を決めていることも確認できた。
青年グループに歩み寄らない限り、武装蜂起につながると思えた。

で、スバルジョは、明日(817日)の12時前に独立宣言を行う。
この約束には、自分の命を投げ出す、として収拾を図った。

青年グループは納得して、スバルジョに任せることにした。

この結果を告げた時のスカルノとハッタであるが、
スカルノはやむを得ないと受け入れ、
ハッタは無謀であるとなおも不服をもらしながら、しぶしぶ受け入れたという。

さらに、スバルジョは、青年グループに
独立宣言の文言を練る協議場所として、前田海軍少将宅を提案した。
日本陸軍からの横槍を凌ぐ場所として適当であること、と
前田からの了承を事前に受けていたから、できた提案であった。

少し注釈を入れる。
この前田邸使用に関し、戦後、オランダの調べに対し、
前田本人は、スカルノがハッタを伴って、
我が家に来て家の借用を申し出てきた。
と述べているが、事実ではない。

前田より西嶋重忠を介し、
スバルジョに事前に知らせておいたのが真相である。

そうした経緯があってのスバルジョの前田邸使用の提案であったが、
青年グループは、日本人宅ということで一旦は難色を示すが、
それしかなかろうとの結論から、その提案を受け入れた。

スカルノ、ハッタも異存はなかった。

この後、スカルノ、ハッタは、義勇軍の車に護衛されながら、ジャカルタに戻る。
が、その戻った時間が、正確ではない。

午後10時〜11時ごろの記述が多いので、ここでは午後10時としておく。

その午後10(から、翌日の午前10時までの12時間。
分刻みで語られる、この時間が、インドネシアのクライマックス(独立宣言)である。

次号から詳しく書きたい。
5回ほどの記述を予定している。 ご期待を(笑)。



陸軍からは協力が得られなかった


夜の10時、ジャカルタに着いた、
スバルジョ、スカルノ、ハッタは、
ハッタ宅で少々の休憩をとった後、
前田邸(写真右)に入った。

最初に彼らを迎えたのは、西嶋であった。

スバルジョは、西嶋に
遅くとも明日の正午までに
独立宣言を発するという条件で
スカルノ、ハッタを連れ戻して来た。



もし、それが失敗すれば、郷土防衛義勇軍から、
射殺されることになっていることを告げた。

西嶋は黙ってうなずいた。
その時、前田が二階の寝室から降りて来た。

前田は少々疲れているようであったが、
いつもながらの威厳に満ちた態度を失ってはいなかった。

前田は、人間が大勢いるフロントルームをチラッと見た。
制服を着た青年たちが、スカルノとハッタの背後に立っていた。
青年たちは、疑い深くあたりを見まわしていた。
青年たちは、スバルジョらが来る前から前田邸に来ていたのだが、
もし、スバルジョらが現われなかったなら、
予定どおり深夜に革命を開始することになっていた。

それが、スバルジョ達が実際に現れたので、
この先どのようになるのか、戸惑っていたのである。

スカルノは、全てを迎えいれてくれた前田の好意に、
手短な言葉で感謝し、邸内での夜の会合の意図を説明した。

前田は、邸内にいるかぎり、身の安全には責任を持つと応えた。

西嶋は、スバルジョから聞かされていた、
「明日の独立宣言が必須であること」を前田に告げた。

前田は状況の全てを即座に了解した。

早速に会談が始まった。
前田、西嶋、スカルノ、ハッタ、スバルジョ、スカルニによる会談だ。

スカルニは事前に行われた義勇軍内の協議によって、
代表者として選出されており、
この場の青年グループのリーダーであった。

そのスカルニが、あらためて独立宣言の今夜中の実現を迫った。

前田は、青年たちの情熱は高く評価するが、
重大な折りだから軽卒なふるまいは、破滅に導くだろうと説得した。

議論は白熱するも、なかなか進展しなかった。

夜の12時少し前、西嶋から、
このままだと青年たちは決起の計画をそのまま実行するかも知れない。
もう時間がない、まず青年の暴発をまず阻止しなければならない。
と会談の一時中止を求め、スカルニも同意した。

急ぎ、西嶋とスカルニは、その確認のため深夜の市内に繰り出した。

二人が出かけたあと、
前田は陸軍軍政監の山本茂一郎少将に電話で来邸を要請した。
が、山本少将からは、面会は明日の17日にしてほしい。
一切の問題は、総務部長の西村少将と話し合ってほしい。
との返事であった。

前田は、陸海合同での協議は難しいだろうと予測したが、
あとひとつ努力するつもりで、
スカルノ、ハッタ、吉住を伴い、西村少将邸を訪ねた。

が、西村少将からも要請を拒否され、同意を得ることはできなかった。
これらの経緯を傍で見ていた、スカルノ、ハッタは、
今や、非常手段によって独立を宣言する以外に方法はない、と決断した。
その思いは、前田も同じであった。

この時の前田について、後年、スバルジョは次のように書いている。


日本軍は、厳格な軍規にしばられており、
連合軍最高司令部の命令を待たねばならなかった。
また、日本軍は、いかなる緊急事態にも対処する義務があり、
一斉蜂起の突発に対してすら、武力で鎮圧する義務を負っていたのである。
こうした事情から、私は、前田の立場が、公的にも私的にも、
非常に難しい者であることを理解した。
前田が精神的な偉大さを発揮したのは、この危機的な瞬間においてだった。
前田は、「国の独立」ということが、一民族にとって自然な、
そして必然的な願望であるという確信から、
ためらうことなく、われわれの大義のために支援を与えてくれた。
かくして、彼は、自分の経歴と、
さらには生命さえをもかけることになったのだった。
というのは、連合軍は、彼を、現状維持の命令に反抗したかどで、
軍法会議に告発するかもしれなかったからである。
前田は、自分の邸宅で会合する機会を与えたことによって、
まったく重大な責任を背負うことになったのだった。


さて、西嶋、スカルニは、暴動の決起を抑えて、前田邸に戻ってきた。
陸軍の要請に出かけていた、前田、スカルノ、ハッタ、吉住も戻ってきた。
同時に、独立準備委員会出席のためにジャカルタに集まっていた、
地方の各代表者も次々と前田邸に集合していた。

前田は、ここで、
陸軍の斉藤鎮男(軍政監部の政務班長)と、
三好俊吉郎(陸軍大佐)両氏の来邸を求めた。

ここでちょっと注釈。
スバルジョは後の証言の中で、三好の出現時期について、
前田が帰宅してきたとき、帯同していたと書いている。

が、西嶋メモでは、前田が帰宅してから来邸依頼したとなっている。
ここでは、西嶋メモに沿って書くことにした。

やがて三好のみが来邸し、会談のテーブルについた。
この時のことも、西嶋は後々の「西嶋メモ」で、
三好が来たが「実際には海軍だけの承知であった」と証言している。
三好は陸軍大佐の軍服を着ていたものの個人の資格で来邸した、
ということを意味している。

三好の参加は、陸軍の関係者を同席させることで、
スバルジョらインドネシアの要人を安心させようと、
前田がしくんだ周到な思いやりだった(と、私は思っている)。

この三好が同席することに至る経緯であるが、
もしかしたら、来邸依頼は、伝令を走らせたのではなかろうか。
その際、前田は三好に軍服を着てくるように依頼したのではなかろうか。
前田と三好は、海軍、陸軍と所属は違えど、自由主義思想は同じであった。
普段より、そういうことを頼める間柄であったのではなかろうか。
と、私は思っている。


独立宣言文の草案が完成する


さて、円テーブル(写真:現展示中)に、
前田、西嶋、吉住、三好、
スカルノ、ハッタ、スバルジョが座った。
スバルジョの背後には、
スカルニ及び数人の青年たちが立った。
他の青年たちや
独立準備委員会の代表たちは、
広間や応接間を占領していた。
こうして50名ほどが揃ったのは、
8
17日の午前2時を
少しまわっていた頃であった。


会議に先立ちスカルノは、陸軍の了解が得られなかったことを報告した。
つづいて、今こそ自前で独立宣言を行うべき趣旨と決意を表明した。

1、独立は円滑に解決されるべきで流血は回避されるべきである。
2、日本の敗戦は日本の問題であり、わが国の独立宣言の必然性とは別問題である。
3、日本はオランダと交戦状態にあったのであり、
  インドネシアは傍観者であったにすぎない。
4、日本の戦争遂行のため、物資、人力を提供し、可能なかぎり援助してきた。
5、アジア人のためのアジアというスローガンがあったからである。
6、今、日本が敗戦したことで、突然にインドネシアとインドネシア人は、
   戦勝した連合国の“財産目録”として、無生物のように扱われようとしている。
7、こうした状態を黙って見ているのは、日本のサムライ精神に合致するのか。

この表明を、前田、吉住、西嶋、三好は沈黙して聞いていた。
が、スバルジョは後に述べている。
前田が時々理解したしるしとして、うなずくのを目にとめた…….と。
このあとも話が続き、結論として、

日本陸軍が同意しようがしまいが、
とにかく独立宣言をおこなうことが決められた。

で、いよいよ、独立宣言の文面の作成作業に入った。

スバルジョの証言によれば、文面の作成作業に入るや、
日本側は身を引いて二階に行き話に加わることはなかった、としている。

が、西嶋によれば、作業の始めは日本側も意見を述べたことになっている。
が、どちらでも良い(話が混乱するので番外で書く)。
ここでは、スバルジョの証言に基づいて話を進める。

独立宣言の文面について、インドネシア人だけで検討されたのである。
すでに時間は3時をまわっていた。

できるなら夜明けまでに仕上げたいとの重苦しい圧力の中での検討であった。

スカルノは、まず、
「われわれインドネシア人民は、ここに独立宣言をする」とのみ書き出した。
この短い単純な文章は、
憲法の基本原理を明らかにした前文全体の骨子であった。

この簡潔な言葉だけですでに十分と思えた(スバルジョ弁)。
スカルノは、書いたものを大きな声で読み上げた。

すると、ハッタが異を唱えた。
これでは不十分である。
われわれは独立を具体的に実現しなければならない。
権力をわれわれの手に握らなければそれはできない。
その意見を受けて、
権力移譲の考えについて正確な言葉使いが討議された。
その結果、次のような前段と後段がある構成で完成した。

われわれインドネシア人民は、ここに独立宣言をする。
権力の移譲、その他に関する事項は、
適切な方法によって可能なかぎり短時間に解決されるものである。


宣言文の原案、委員会にて承認される


この合意に達した原文は、
フロントルームの独立準備委員会のメンバーに、
提出する前に、まずタイプしなければならなかった。

が、邸内にタイプライターがなく、その準備に手間取った。
(註)このタイプライターの準備についての秘話がある(番外で書く)。
原文がタイプされ、それを持って、スカルノらは全員の待つ広間に移った。
広間には椅子がなかったので、みな立ったままであった。

スカルノは、まず開会(独立準備委員会)の宣言をした。
開会宣言につづき、
事態が切迫し、迅速に独立宣言を行わなければならなくなったとした、
深夜の会合になった理由を説明した。

スカルノは言葉を続けた。

われわれの手元に、今、原案がある。
次の段階に歩を進め、
夜明け前にわれわれの作業を仕上げることができるように、
諸君がこの案に同意してくれることを望む。

そして、スカルノは、タイプした独立宣言の草案を読み上げた。
彼は、全員に聞こえるように、また一語一語が聞き取りやすいように、
ゆっくりと最後まで読み上げた。

と、その言葉が終わるやいなや、

前もって言葉使いを知っていた、スカルニが発言を求めて次のように言った。
この原案は、革命精神に欠け弱弱しくおとなしすぎる。
日本の支配を駆逐するという、われわれの固い決意が表明されていない。
独立宣言に対するわれわれの決意は、
日本の同意いかんに左右されるものではない。
それは、われわれ自身の遺志であり人民の意志である。
我々はどのような障害もはねのけ、独立を宣言するのである。
二段目の文章には同意できない。
なぜなら、日本軍が自発的にわれわれに権力を移譲するとは
信じられないからだ。
われわれは、彼らの手から権力を奪い取らなければならない。
こう発言したスカルニは、
数世紀来のオランダの支配と、
3年半の日本の支配に反抗しつづけてきた怒りの精神、
ふみにじられた人民の精神が乗り移ったかのように、確信をもって演説した。

彼の演説は、出席者の心を打ったようで、しばらくシーンとした。

が、それも長く続かなかった。

こうした険しい感情に支配された議論に屈することは、
余りにも危険だったからだ。

スバルジョらは、すでに重要なことをやり遂げていた。
前田少将の行動にみるよう、日本軍の暗黙の承認を得ていたことだった。

今、せっかく沈黙している日本軍を挑発し、
態度を変化させかねない表現を用いて、もとの木阿弥になってもいいのか。

このように考えるのはスカルノ、ハッタ、スバルジョだけではなかった。
年長者の委員の多くも同じような考えであった。

年長者は、オランダ支配に対する闘争の中でのつらい経験を重ねてきていた。
できるだけ闘争は避けるべきである。
その経験から、原案はそのままで修正されない方が良いことを主張した。

で、白熱した議論のあと、年長者の意見が通り.......

われわれインドネシア人民は、ここに独立宣言をする。
権力の移譲、その他に関する事項は、
適切な方法によって可能なかぎり短時間に解決されるものである。

という原案通りの宣言文が決定された。


先のブログで書いたように、
スバルジョの証言では、
日本人がいなくなった後、
スカルノ、ハッタ、スバルジョで、
独立宣言文の原案が作られ、
その後、独立準備委員会で、
その原案を発表した時、
スカルニからの反論があったとしている。
が、西嶋は、次のように
証言している。


日本人も居合わせた時、
最初に原案を出したのは、スカルニである。
次のような案であった。


ここにインドネシア人民は独立を宣言する。
現在のあらゆる政府機関は、
これを保持している外国より奪取しなければならない。

が、このスカルニ案に対し、
スカルノやハッタは訂正を求めた。

日本人列席者もスカルノやハッタの主張を支持した。

次のような理由からである。
日本軍は連合国より、現状を維持する義務を課せられている。
日本軍は敗戦直後で意気消沈しているが、まったく無傷である。
もしインドネシア人が武力で日本軍から権力を奪取するとなれば、
そうした日本軍との間で、武力抗争が起きる可能性がある。
しかるに「奪取」との過激な言葉を使うのはふさわしくない。
「移譲」との穏やかな表現にすべきである。
として訂正を求めたのである。

こうした白熱した議論の結果「移譲」の言葉を使うことで決着した。

と、西嶋は、草案には日本人の発言も影響していると述べている。
西嶋のこの証言が正しいのか、
スバルジョの証言の方が正しいのか。
今更どうでも良いことである。
であるならば、インドネシア人の方を採りたいと、ブログを仕上げた。

(上の写真説明)
何度か書き直された、スカルノ手書きの原案である。
原案が検討される段階で、相当の議論が戦わされたことが解る。
スバルジョ曰く、スカルノとハッタとの討論の中で書き直されたものか。
西嶋曰く、スカルノらとスカルニらとの討論で書き直されたものか定かではない。

さて、もう一度手書きの宣言文を見ていただきたい。
日付が17. 8, '05  と書かれている。
05
は、皇紀2605年の意味である。
本格的に連合軍が上陸して来る8月いっぱいまでは、
日本の暦を使用していたとする証である。

宣言文にまで日本統治の傷跡が残るという、
インドネシアにとっては、いまいましいことであろうが、
今となっては書き直すことができない。

インドネシアの学校教育では、'05 の意味を教えていない。
歴史の傷跡である。


(右の写真説明)

スカルノの走り書きの宣言文を
タイプしたタイプライターである。

後ろの銅像は、
宣言文をタイプしたSayuti Melik.氏。


アルファベット文字のあるタイプが
前田少将邸にないため、
前田邸の家政婦、三島サツキが
自動車を使って、
当時ジャカルタにまだ存在していた、
ドイツ海軍事務所から借りて来たもの。

現在、独立宣言文起草博物館となっている旧前田邸の展示品である。
いずれにしても、真夜中に急ぎ家政婦が自動車で向かっている。
前田が起きていて事態を見守っていたということだ。
だからこそ、即座にタイプライターを借りる指示を出せたのであろう。
ドイツ海軍事務所にしてもそうである。
夜中の訪問にもかかわらず、即座に対応してくれている。

それはそうであろう。
50
人以上の人が前田邸につめかけているのである。
前田邸の周りは、夜中といえども誰も眠ることなく、
全ての人が固唾をのんで、ことの成り行きを見守っていたと思う。
想像するだけで、熱き状況が思い浮かぶ。


独立宣言はスカルノ邸で行うことが決まる

つづいて、独立宣言文の署名についての討議に入った。
出席している全員で署名されるべきとの話も出たが、
となると、独立準備委員会の名のもとの署名ともなる。

独立準備委員会は、委員の全員がインドネシア人といえども、
設立の経緯には、日本が絡んでいる。
青年達は、全員の署名が望ましいとしながらも
独立準備委員会の名を使うことも由としなかった。

そうした結果、
インドネシア人民を代表して….
の名のもと、署名はスカルノとハッタの両名がすることで決着した。
独立宣言文ができた。

つづいて、この宣言をいかにして全インドネシア人民、
さらには、世界全体に知らせるかの方法についての討議に入った。

青年グループを代表して、スカルニは次のように発言した。
ジャカルタ市内と近郊の人達は、
独立宣言を聞くために、イカダ広場(今のムルデカ広場)に、
大挙してやってくるように、すでに伝えられている。
従ってわれわれがそこに行って、宣言を読み上げるのが適当である。

これに対してスカルノは言った。
イカダ広場は公共の広場である。
前もって、陸軍当局と打ち合わせせずに大衆集会をすれば、
日本陸軍が集会を追い散らそうと動くかも知れない。
となると、民衆との間に暴力的な衝突が起こるかも知れない。
そのような事件が起こってはならない。

宣言文を読み上げるのは、プガンサアンティムールの私の家の方が良い。
私の家の前の芝生には、数百人の人が集まれるほど広い。
私は、諸君に午前10時ごろ、
プガサアンティムール通り56号に来るよう要請する。

結局、スカルノの要請に全員が同意し委員会を閉会した。



インドネシア独立宣言

1945817日、1000分丁度、
スカルノ邸においてインドネシア独立宣言式典が開始された。
スカルノがマイクの前に立った(右はハッタ)。


諸君!
我々の歴史上偉大且つ重要な出来事の目撃者となってもらうべく、
諸君らがここに集まるよう、私はお願いした。
我ら祖国の独立闘争のため、我らインドネシア民族は数十年、
それどころか既に数百年を耐えてきた。
独立達成のための我々の運動の様相は、
ある時はその希望を高揚させ、またある時は消沈させた。
しかし、我々の魂は常に理想へ向けられていた。
日本時代においても、独立達成の為の我々の努力は絶えることがなかった。
日本時代において、我々は彼らに依存していただけのように見えたかもしれない。
しかし、実際には、我ら自身の力を常に蓄積させていたのであり、
我ら自身の強さを常に信じていた。
そして、今やまさに我ら民族と祖国を我ら自身の手におさめる時が到来した。
自らの手の内に運命を掴み取る勇気のある民族だけが、
しっかりと立ち上がることができるだろう。
そして、昨夜我々はインドネシア全土から集まった人民の指導者達で会議を行った。
その会議では我々の独立を宣言する時が今や到来したと、全員が同意した。
諸君! 
これにより、我らの独立を確固たる信念を持って表明する:

独立宣言

我らインドネシア人民はここにインドネシアの独立を宣言する。
権力及びその他の委譲に関する事柄は、完全且つ出来るだけ迅速に行われる。
ジャカルタ、1945817
インドネシア人民の名において
スカルノ - ハッタ

諸君! 
これで我々は今独立した。
我々の祖国・民族を縛り付ける組織は存在しない。
我々は今から我らの国家!独立国家をつくり上げる。
インドネシア共和国、未来永劫の独立、インシャ・アラー、
神がこの独立を我々に恵んでくだされたのだ。


独立宣言につづいて国旗掲揚

式典は独立宣言に続いて、国旗掲揚となった。

写真を見て、アレッと思いませんか。
左からスカルノ、ハッタがいて、
その次の今まさに国旗を揚げようとしている男のことです。
日本兵に見えますよね。
実は、多分、この写真を見てのことだと思います。
一時期、このときの国旗掲揚には、
日本人も参加したとのデマが流れたのです。
私もそれを信じた時期がありました。
違いました。
真相は次のとおりです。
この国旗掲揚の場には、Trimurti が居ました。
彼女は、独立宣言文をタイプした、Sayuti Melik の妻です。
国旗掲揚の役として、男女二人はすでに決まっていました。
もうひとり補助者が必要として、そのTrimurti に依頼したのです。
ですが、彼女は兵士の方がよろしかろうと辞退したのです。
で、その場にいた、PETA(祖国防衛義勇軍)の兵士が役を務めたのです。
その兵士は、ラティフ隊長でした。
ラティフ隊長は、前のブログでスカルノが演説する写真にも写っております。
左端に立っている人物です。
同一人物です。
スカルノが著した自伝にも、
国旗掲揚はペダのラティフ隊長も参加した。
と書いております。

日本兵に見えたのは、ペダの兵士は、
当初は日本軍の指導を受けており、
服装も日本軍と同じだったのです。
従って、国旗掲揚は日本兵士も参加したとのネット情報は、
秘話でもなんでもありません(笑)。
それよりも、このときの国旗は、
突然の式典に間に合わす為、
スカルノ夫人が急遽作ったものらしく、

こちらの方がほんものの秘話です。