この合意に達した原文は、
フロントルームの独立準備委員会のメンバーに、
提出する前に、まずタイプしなければならなかった。
が、邸内にタイプライターがなく、その準備に手間取った。
(註)このタイプライターの準備についての秘話がある(番外で書く)。
原文がタイプされ、それを持って、スカルノらは全員の待つ広間に移った。
広間には椅子がなかったので、みな立ったままであった。
スカルノは、まず開会(独立準備委員会)の宣言をした。
開会宣言につづき、
事態が切迫し、迅速に独立宣言を行わなければならなくなったとした、
深夜の会合になった理由を説明した。
スカルノは言葉を続けた。
われわれの手元に、今、原案がある。
次の段階に歩を進め、
夜明け前にわれわれの作業を仕上げることができるように、
諸君がこの案に同意してくれることを望む。
そして、スカルノは、タイプした独立宣言の草案を読み上げた。
彼は、全員に聞こえるように、また一語一語が聞き取りやすいように、
ゆっくりと最後まで読み上げた。
と、その言葉が終わるやいなや、
前もって言葉使いを知っていた、スカルニが発言を求めて次のように言った。
この原案は、革命精神に欠け弱弱しくおとなしすぎる。
日本の支配を駆逐するという、われわれの固い決意が表明されていない。
独立宣言に対するわれわれの決意は、
日本の同意いかんに左右されるものではない。
それは、われわれ自身の遺志であり人民の意志である。
我々はどのような障害もはねのけ、独立を宣言するのである。
二段目の文章には同意できない。
なぜなら、日本軍が自発的にわれわれに権力を移譲するとは
信じられないからだ。
われわれは、彼らの手から権力を奪い取らなければならない。
こう発言したスカルニは、
数世紀来のオランダの支配と、
3年半の日本の支配に反抗しつづけてきた怒りの精神、
ふみにじられた人民の精神が乗り移ったかのように、確信をもって演説した。
彼の演説は、出席者の心を打ったようで、しばらくシーンとした。
が、それも長く続かなかった。
こうした険しい感情に支配された議論に屈することは、
余りにも危険だったからだ。
スバルジョらは、すでに重要なことをやり遂げていた。
前田少将の行動にみるよう、日本軍の暗黙の承認を得ていたことだった。
今、せっかく沈黙している日本軍を挑発し、
態度を変化させかねない表現を用いて、もとの木阿弥になってもいいのか。
このように考えるのはスカルノ、ハッタ、スバルジョだけではなかった。
年長者の委員の多くも同じような考えであった。
年長者は、オランダ支配に対する闘争の中でのつらい経験を重ねてきていた。
できるだけ闘争は避けるべきである。
その経験から、原案はそのままで修正されない方が良いことを主張した。
で、白熱した議論のあと、年長者の意見が通り.......
われわれインドネシア人民は、ここに独立宣言をする。
権力の移譲、その他に関する事項は、
適切な方法によって可能なかぎり短時間に解決されるものである。
という原案通りの宣言文が決定された。
先のブログで書いたように、
スバルジョの証言では、
日本人がいなくなった後、
スカルノ、ハッタ、スバルジョで、
独立宣言文の原案が作られ、
その後、独立準備委員会で、
その原案を発表した時、
スカルニからの反論があったとしている。
が、西嶋は、次のように
証言している。
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日本人も居合わせた時、
最初に原案を出したのは、スカルニである。
次のような案であった。
ここにインドネシア人民は独立を宣言する。
現在のあらゆる政府機関は、
これを保持している外国より奪取しなければならない。
が、このスカルニ案に対し、
スカルノやハッタは訂正を求めた。
日本人列席者もスカルノやハッタの主張を支持した。
次のような理由からである。
日本軍は連合国より、現状を維持する義務を課せられている。
日本軍は敗戦直後で意気消沈しているが、まったく無傷である。
もしインドネシア人が武力で日本軍から権力を奪取するとなれば、
そうした日本軍との間で、武力抗争が起きる可能性がある。
しかるに「奪取」との過激な言葉を使うのはふさわしくない。
「移譲」との穏やかな表現にすべきである。
として訂正を求めたのである。
こうした白熱した議論の結果「移譲」の言葉を使うことで決着した。
と、西嶋は、草案には日本人の発言も影響していると述べている。
西嶋のこの証言が正しいのか、
スバルジョの証言の方が正しいのか。
今更どうでも良いことである。
であるならば、インドネシア人の方を採りたいと、ブログを仕上げた。
(上の写真説明)
何度か書き直された、スカルノ手書きの原案である。
原案が検討される段階で、相当の議論が戦わされたことが解る。
スバルジョ曰く、スカルノとハッタとの討論の中で書き直されたものか。
西嶋曰く、スカルノらとスカルニらとの討論で書き直されたものか定かではない。
さて、もう一度手書きの宣言文を見ていただきたい。
日付が17. 8, '05 と書かれている。
05 は、皇紀2605年の意味である。
本格的に連合軍が上陸して来る8月いっぱいまでは、
日本の暦を使用していたとする証である。
宣言文にまで日本統治の傷跡が残るという、
インドネシアにとっては、いまいましいことであろうが、
今となっては書き直すことができない。
インドネシアの学校教育では、'05 の意味を教えていない。
歴史の傷跡である。
(右の写真説明)
スカルノの走り書きの宣言文を
タイプしたタイプライターである。
後ろの銅像は、
宣言文をタイプしたSayuti Melik.氏。
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アルファベット文字のあるタイプが
前田少将邸にないため、
前田邸の家政婦、三島サツキが
自動車を使って、
当時ジャカルタにまだ存在していた、
ドイツ海軍事務所から借りて来たもの。
現在、独立宣言文起草博物館となっている旧前田邸の展示品である。
いずれにしても、真夜中に急ぎ家政婦が自動車で向かっている。
前田が起きていて事態を見守っていたということだ。
だからこそ、即座にタイプライターを借りる指示を出せたのであろう。
ドイツ海軍事務所にしてもそうである。
夜中の訪問にもかかわらず、即座に対応してくれている。
それはそうであろう。
50人以上の人が前田邸につめかけているのである。
前田邸の周りは、夜中といえども誰も眠ることなく、
全ての人が固唾をのんで、ことの成り行きを見守っていたと思う。
想像するだけで、熱き状況が思い浮かぶ。
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